そして六月四日の水曜日、京は本当に飲み会に来た。
 二十時五十分、バイト先近くのお好み焼き屋で、俺は自分のレモンサワーを執拗にかき混ぜる。眉をひそめて眼前の光景を見つめる俺を、隣の阿智先輩が覗き込んでくる。
「なに怖い顔してんの」
「いやなんか……全員ムカつくなあって」
 俺の返答に、阿智先輩は愉快そうに肩を震わせた。「わかるぜ。これじゃ合コンだわな」と手元のビールを飲み干し、一緒になって向かいの席の惨状を眺め始める。
「光希先輩と同じ大学なんでしょ。あったまいいんだねえ」
「お肌すべすべー。若いっていいなあ」
「ありがとうございます。カナさんも綺麗だと思います」
「きゃーもうヤダー!」
「え、ねえねえ京くん。あたしは?」
「ミキさんもお綺麗ですよ」
 ……なーにが「お綺麗ですよ」だ。酒も飲めないちんちくりんのくせに。
 女子大四年生のカナ先輩と専門学校二年生のミキに両脇を囲まれた京は、少し困った感じを出しつつも笑顔だ。
 俺はその顔がどうにも気に入らないのに加えて、女子二人の甘ったるい声にも閉口する。二人とも、普段はもっとドスのきいた声で「五卓生十丁」とか「あのハゲふざけんなよ」とか言ってるくせに。
「光希、加減しないとグラス割れるよ」
「割れればいいんだ。こんなウサギ」
「やーめろって。はい没収」
 阿智先輩はそう言って、節の目立つ手を伸ばしてきた。無意識のうちに力んでいた俺の指先をほどき、中にあったグラスを自分の方に回収してしまう。
 途中、グラス上部に描かれたウサギのゆるキャラと目が合い、俺は思い切り顔をしかめた。この店のマスコットキャラクターなのだが、ぎょろっと見開かれた目といい、不自然なほど口角の上がった口といい、普通にキモいというか、イラつくというか、とにかくカンにさわる顔なのである。
「あーなんかムカつく。むしゃくしゃする。蹴っていいですか阿智先輩」
「理不尽だなおい。さては酔ってんな?」
「酔ってませんよ」
「酔っ払いは皆そう言うんだぜ」
 ちゃんと水も飲めよ、と渡されたお冷をとりあえず受け取り、半分ほど飲んで息をつく。体の中が心地よく冷えていくのを感じて、まあ確かにいつもより飲んでるかもとぼんやり思う。
 女子に囲まれてデレデレしている京にもムカつくし、ムカついてしまう自分にもムカつく。なんでムカつくのかもわからなくてさらにムカつく。意味わからん。せっかくの飲み会、しかも誕生日なのに、なんで京なんかのせいで俺がイライラしなけきゃいけないんだ。
「京くん手おっきいねー」
「ほんとだ。比べてもいい?」
 あーほら、またそんなにひっつかれて。
 俺に気をつけろって言ったのはどこのどいつ……。
 そこまで考えたところで、ふいにあの時の熱が肩口に蘇る。
 背を抱いた手のひらの意外なほどの力強さだとか、あいつがなにか言うたびに頬に伝わってきた振動だとか。
 ……………………くそ。
「阿智先輩、タブレットください」
「ん? またなんか追加?」
「ハイボールとビール飲みたいです」
「俺やってやるよ。そっちはなんか飲む?」
「あたしもう酔っちゃったからいいや」
「カシオレ!」
「うっし、焼酎のお湯割と日本酒のストレートっと」
「ちょっと阿智」
「だってカナはザルだし、ミキちゃんもまだいけるっしょ? 京くん狙ってるからって可愛子ぶんな」
 阿智先輩は女子二人にそう言ってから、あははと苦笑いする京に「なに飲む?」と問いかけた。
「えっと、じゃあオレンジジュースお願いします」
 京は少し緊張した面持ちで答えた後、ちらりと俺に視線を向ける。そわそわとまばたきを繰り返し、やがて意を決した様子で、小さく息を吸って口を開く。
「ねえ、みっちゃんはなに頼ん――」
「あ、京くん! デザートのアイス、味選べるみたい!」
 店内の表示を指差しながらおもむろに言って、ミキが京の腕に抱きついた。京はそちらに気を取られて言葉を切り、その様子を見た瞬間、俺の中でもなにかがぷちんと切れた。
 あーそうですか。そういうことですか。
 俺のことが心配とかなんとか言って、居酒屋で見かけた可愛い女の子とお近づきになりたかっただけですか。
「あ、おい光希」
 阿智先輩に連れ去られたレモンサワーを取り返して飲み干し、京に関する全てを頭から閉め出そうと決意する。もうラストオーダー間近だが、密かに楽しみにしていたデザートはこれからだ。
 それに俺には、まだ本日最大の楽しみが残っている。
「先輩、俺ちゃんと飲み会来ましたよ」
 じっと見つめると、阿智先輩は一瞬目を見開いた。その後少しだけ間があって、それから「ああ、あれね」と思い出したように言い、自分のボディバッグから手のひらサイズの黒い箱を取り出す。
 箱には白いリボンがきちんとかけられていて、受け取るのに少し緊張した。「開けてもいいですか」と断りを入れ、阿智先輩がうなずいたのを見て開封すると、中にはロールオンタイプの香水が入っていた。
「えっ……! これ、本当にもらっていいんですか」
「いいよ。あげるために買ったんだから」
「うわーマジか。普通に嬉しい。ありがとうございます」
 ネットの投稿で見かけて気になりつつ、女性向けブランドのメンズライン商品なので、ショップに行く勇気がなく買えずにいたものだ。
 通販もなくはないのだが、香水は初めて買うし、下手に甘い香りだと使いづらいなと迷っていた。
「よくわかりましたね。俺が気になってたやつ」
「時々スマホで通販見てただろ」
「ってことは覗いたってことですか?」
「あ、バレた?」
 阿智先輩はべっと舌を出して肩をすくめた。蹴ってやりたい衝動に駆られるも、そこそこ値の張るプレゼントをもらった直後なので控えておく。
「ありがとうございます」
「いいよ。おめでと、光希」
 阿智先輩にしては非常に珍しい、なんの皮肉っぽさもない笑顔で笑いかけられて嬉しくなる。色々見直した。普通にいい先輩じゃないか。
「お待たせいたしましたー。ハイボールのお客様ー?」
 先ほど注文したドリンクが届いたので、俺は「はいっ」と機嫌よく手を挙げた。生ビールも受け取って交互に飲みつつ、テーブル中央に残っていたポテトをつまむ。
「どっちも半分くらいにしとけよ。残ったら俺飲むから」
「大丈夫です。あ、でもトイレ行きたいんでちょっと通してください」
 阿智先輩が身を引いて避けてくれたので、グラスを置いてテーブルに片手をつく。
 しかし腰を浮かせた途端、視界がぐわんと揺れた。
「っと、危ねえな」
 よろけた俺の体を、阿智先輩が支えてくれる。
「待て光希。一緒に行く」
「いいですいいです。急に立って、ちょっと眩んだだけなんで」
 まだなにか言いたげな阿智先輩にへらりと手を振って、俺は店内に目を走らせた。
 酒はうまいし、いいものもらったし、デザートはアイス。まあ、悪くない誕生日なんじゃないだろうか。