一時間ほど残業をして、二十三時五分にタイムカードを切った。
 帰り支度を済ませて裏口を出た俺は、路地の先に立つ人影を見て思わず立ち止まった。
「なにしてるんだ、京」
 声をかけると、京は手元のスマートフォンから顔を上げて近寄ってきた。
 その光景に強いデジャビュを感じつつ、俺はわりと真面目なトーンで「ストーカー?」と尋ねてしまう。
 京たちのグループは、一時間前に会計を済ませて店を出ていったはずだ。
「ごめん。今日に関してはそうかも。どうしても聞きたいことがあって」
 京はそう言って、どことなく気まずそうな視線を寄こしてきた。京と俺の身長差は二十センチあるのに、上目遣いで覗き込まれているような気分になるのだから不思議だ。
「話があるならさっさと言え。俺今日機嫌悪いし、疲れてるんだよ」
 俺はそう答えて、とりあえず路地を抜けて表通りに出る。
 もちろん京はついてきた。これはもう、家まで一緒に帰る流れだ。
「みっちゃん、あの人となに話してたの?」
「あの人?」
「黒髪で三白眼っぽい、ちょっとチャラそうな人」
「ああ、阿智先輩?」
「多分。ねえ、なに話してたの?」
「なにって、飲み会誘われた」
 京は「えっ」と声を上げて、しばらく黙り込んでしまった。日付を尋ねられたので「六月四日」と答えると、すぐにスマートフォンの画面をつけてスケージュールを確認し始める。
「……水曜日だ」
「そう。だからその日は」
「俺も行く」
「は?」
 俺は自分の耳を疑った。今こいつ、俺も行くって言った?
「え、なんで? 俺のバイト仲間の飲み会なんだけど。ってかお前酒飲めないじゃん」
「でも行く」
「いやどういうこと。マジで意味わからん」
「心配なの」
 いつになく強い口調で言って、京は立ち止まった。
 歩道のど真ん中で、俺たちは見つめ合う。切羽詰まった感じの瞳に気圧されて、俺はなにも言えなかった。
 沈黙の中、京が一歩二歩と近づいてくる。大きな手のひらが伸びてきて、それはいつの間にか、俺の背中に回される。
 気がつけば、ぎゅうと力強く抱きしめられていた。
 ……え? は?
 どういうこと?
 混乱しすぎて、ただ茫然と身を委ねてしまう。自分を包んだ体の熱や重みを、ひっそりと息を詰めて感じることしかできない。
「ほんと、もっとちゃんと気をつけてほしい。みっちゃんは可愛いんだから」
 ――みっちゃんは可愛いんだから。
 思考停止状態に陥っていた頭に、その言葉がじわりと染みる。直後、全身が信じられないくらいに熱くなった。
 やばい。やばいやばいやばい。
 なにがやばいのか、自分でもよくわからない。でもこれはなんだか多分絶対にやばい。
 自分の熱と京の体温で、背中に汗がにじみ出す。赤くなっているのが自分でもわかるほど顔に血が集まって、飛び出して逃げ出していってしまいそうなくらいに、胸の中で心臓が暴れ始める。
「は、離せよ」
「俺も連れてってくれる?」
「わかった。わかったから離せ」
 京はゆっくりと身を離した。名残惜しそうに両肩に残った手を、俺はなけなしの力を振り絞って払いのける。
「……急になにすんだ。驚くだろ」
 驚くとか驚かないとか、そういう問題じゃなくね?
 内心自分でツッコミを入れつつ、今はこの場を誤魔化すのに精一杯だ。
 京がどんな表情をしているかはわからない。動揺しすぎて、顔を上げられないから。
「そうだね。ごめんね」
 くすっと笑う気配がしてから、どこか柔らかい声で京が言う。とりあえず「おう」と応えて、俺はいつもよりだいぶ大股で歩みを再開する。
 なんでもない顔で風を切りながら、胸のうちは驚きと疑問でいっぱいだった。いくら犬っぽいやつだからって、あんな風に抱きつかれるなんて思わなかった。
 心配ってどういう意味だ。なんで俺は今、こんなにドキドキしてるんだ。
 少しでも気を抜くと、脳みそが勝手に先ほどの感覚を反芻してしまう。そのたびに首を左右に振って、阿智先輩の卒業が危うい件だとか、井出先生のぎっくり腰対策とか、そういうこの世で最もどうでもいい類の話を思い出して気を紛らわす。
 抱きしめられて嬉しかったかもなんて――だってそんなの、絶対に認められないだろ。