抱きしめてもいいよって言ったんだ。抱きしめてほしかったから。
あいつは小さな体にありったけの力を込めて、一生けん命抱きついてきた。その温かさが嬉しくて――でもその思い出は、今ではすっかり俺の黒歴史になっている。
*
四月初め。この時期の居酒屋は連日賑やかで、来る方はいいだろうが働く方はたまったもんじゃない。煌々と輝く照明の下で、俺はポンキュウリと生ビールを持って右往左往だ。
ガチャガチャという耳障りな食器の音や、ガハハハという下品なサラリーマンの笑い声。そんな中でも目立つのは、近くの大学から流れてきた新入生歓迎コンパの連中。
いや待て、十八やそこらの新入生に酒は飲めないだろうとツッコミを入れたって意味がない。大学生というのはとにかく飲み会が好きで、なにかと理由をこじつけて飲みたがるというのが、同じ大学生としての俺の見解である。
「光希ー、七卓お会計ー」
「あーい、あざーっす」
目的の卓にポンキュウリと生ビールを置き、ついでに空いたグラスを下げて厨房に置いてからレジへ向かう。
七卓ってそれこそ、一時間前から飲み放題で馬鹿騒ぎしてる大学生連中だ。
早めに会計にくる心がけはいいが、学生ってことは多分現金だ。面倒だなと思いながら、俺は差し出された伝票を受け取る。受け取りながら「ん?」と首を傾げる。
頭上に落ちた影が大きい。
目の前の客の背が高くて、レジ上の照明がいつも以上に遮られているのだ。
ちょっと気になって顔を上げると、グレーのカーディガンからベージュのシャツが覗いた。男だ。広い肩幅と長い首、しゅっとした顎。茶色っぽいタレ目が印象的で、同じ色のふわふわの髪は襟足だけが長く、後ろで尻尾のように束ねられている。
ぱちりと目が合ってしまった。俺はすぐにまぶたを伏せて、伝票下のバーコードをスキャナーで読み取る。
「二時間飲み放題つきのコースが十二名様分で、合計――」
「……みっちゃん?」
「え?」
俺は手を止めて、もう一度顔を上げた。男はすぐに瞳を輝かせて、再び嬉しそうに口を開いた。
「やっぱりみっちゃんだ。俺、江国京だよ。覚えてる? 小学生の時に公園でよく遊んだでしょ」
えくにきょう?
心の中でつぶやいて記憶を探る。小学生の時。公園。みっちゃん、と俺を呼ぶ男。
はっと気づいて、俺は動揺した。茶色っぽいふわふわの髪と、同じ色のタレ目。
確かに見覚えがある。見覚えがあるどころかはっきり覚えている。
覚えては、いるけれど。
「どしたん、光希」
俺が固まっていると、後ろから阿智先輩が身を乗り出してきた。俺の肩に肘を乗せて、「厨房のオカさんが『早くしろや』って目で超睨んでる」と耳打ちしてくる。
「すんません。なんでもないです……お客様、合計で三九六〇〇円になります」
阿智先輩の腕を払いのけて、俺は会計を再開した。京は一瞬なにか言いたげに口を開いたが、俺がキャッシュトレイを差し出しながらじっと見つめると、諦めて手元の封筒を渡してくる。
「ええっと、これで足りると思うんですけど」
「数えますね」
受け取った封筒の中身を取り出し、五千円札、千円札、小銭の三種類に整理して数えていく。
一度全て数え終わってから顔をしかめ、もう一度数え直した。しかしやっぱり、千円足りない。
「すみません、千円足りないです」
「ほんとですか。やだなあ、酔っぱらってるから、誰か間違えたのかな」
京はぶつぶつ言いながらジーンズのポケットをあさり、当たり前のように自分の財布から千円札を取り出した。
……あ、お前が出すの。
俺はちょっと拍子抜けしながらそれを受け取って、レジを操作する。
キーを打っている間もレシートを渡す間も、頭上からは並々ならぬ視線が降ってきていた。会計が終わって席に戻る間も、京は名残惜しそうに何度もこちらを振り返ってくる。
その目から逃れたい一心で、俺は一度厨房に引っ込んだ。
「あれー光希、退勤まであと二十分あるよー」
「どうしたー? セクハラジジイなら俺が退治してやるぞー」
「さぼんないでください光希先輩ー」
「うるせー。水飲むだけだっつーの」
小うるさいバイト仲間たちをシッシとあしらい、シンク横に置きっぱなしになっていたピッチャーを手に取る。
食洗器をかけたきり放置されていたグラスに水を注いで、一気にあおってからため息をついた。頭の中には、久しぶりに見た京の顔がしっかり焼きついていた。
記憶の中の京は、もっと小さかった。最後に会ったのは俺が小三の時だし、そもそも京は、俺より二つ年下なのだ。
それがあんなに大きくなって――申告されなければ絶対に気づかなかった。
そして京の変化以上に、俺は声をかけられたことそのものに驚いていた。
――光希って女みたいな格好でキモイよな。
嫌な記憶を思い出してしまって、俺は小さく顔をしかめる。右の指先で太もものあたりをトントンと叩く。
タッピングといって、黒歴史を思い出してしまった時に有効な手段らしい。
最近はあまり考えることもなかったのにと思えば、自然ともう一度ため息が出た。
「光希ー、マジでほんと、早く戻ってきてくんねー? 生十丁オーダーきてんだわ」
阿智先輩に急かされて、俺はいそいそとホールに戻った。
あいつは小さな体にありったけの力を込めて、一生けん命抱きついてきた。その温かさが嬉しくて――でもその思い出は、今ではすっかり俺の黒歴史になっている。
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四月初め。この時期の居酒屋は連日賑やかで、来る方はいいだろうが働く方はたまったもんじゃない。煌々と輝く照明の下で、俺はポンキュウリと生ビールを持って右往左往だ。
ガチャガチャという耳障りな食器の音や、ガハハハという下品なサラリーマンの笑い声。そんな中でも目立つのは、近くの大学から流れてきた新入生歓迎コンパの連中。
いや待て、十八やそこらの新入生に酒は飲めないだろうとツッコミを入れたって意味がない。大学生というのはとにかく飲み会が好きで、なにかと理由をこじつけて飲みたがるというのが、同じ大学生としての俺の見解である。
「光希ー、七卓お会計ー」
「あーい、あざーっす」
目的の卓にポンキュウリと生ビールを置き、ついでに空いたグラスを下げて厨房に置いてからレジへ向かう。
七卓ってそれこそ、一時間前から飲み放題で馬鹿騒ぎしてる大学生連中だ。
早めに会計にくる心がけはいいが、学生ってことは多分現金だ。面倒だなと思いながら、俺は差し出された伝票を受け取る。受け取りながら「ん?」と首を傾げる。
頭上に落ちた影が大きい。
目の前の客の背が高くて、レジ上の照明がいつも以上に遮られているのだ。
ちょっと気になって顔を上げると、グレーのカーディガンからベージュのシャツが覗いた。男だ。広い肩幅と長い首、しゅっとした顎。茶色っぽいタレ目が印象的で、同じ色のふわふわの髪は襟足だけが長く、後ろで尻尾のように束ねられている。
ぱちりと目が合ってしまった。俺はすぐにまぶたを伏せて、伝票下のバーコードをスキャナーで読み取る。
「二時間飲み放題つきのコースが十二名様分で、合計――」
「……みっちゃん?」
「え?」
俺は手を止めて、もう一度顔を上げた。男はすぐに瞳を輝かせて、再び嬉しそうに口を開いた。
「やっぱりみっちゃんだ。俺、江国京だよ。覚えてる? 小学生の時に公園でよく遊んだでしょ」
えくにきょう?
心の中でつぶやいて記憶を探る。小学生の時。公園。みっちゃん、と俺を呼ぶ男。
はっと気づいて、俺は動揺した。茶色っぽいふわふわの髪と、同じ色のタレ目。
確かに見覚えがある。見覚えがあるどころかはっきり覚えている。
覚えては、いるけれど。
「どしたん、光希」
俺が固まっていると、後ろから阿智先輩が身を乗り出してきた。俺の肩に肘を乗せて、「厨房のオカさんが『早くしろや』って目で超睨んでる」と耳打ちしてくる。
「すんません。なんでもないです……お客様、合計で三九六〇〇円になります」
阿智先輩の腕を払いのけて、俺は会計を再開した。京は一瞬なにか言いたげに口を開いたが、俺がキャッシュトレイを差し出しながらじっと見つめると、諦めて手元の封筒を渡してくる。
「ええっと、これで足りると思うんですけど」
「数えますね」
受け取った封筒の中身を取り出し、五千円札、千円札、小銭の三種類に整理して数えていく。
一度全て数え終わってから顔をしかめ、もう一度数え直した。しかしやっぱり、千円足りない。
「すみません、千円足りないです」
「ほんとですか。やだなあ、酔っぱらってるから、誰か間違えたのかな」
京はぶつぶつ言いながらジーンズのポケットをあさり、当たり前のように自分の財布から千円札を取り出した。
……あ、お前が出すの。
俺はちょっと拍子抜けしながらそれを受け取って、レジを操作する。
キーを打っている間もレシートを渡す間も、頭上からは並々ならぬ視線が降ってきていた。会計が終わって席に戻る間も、京は名残惜しそうに何度もこちらを振り返ってくる。
その目から逃れたい一心で、俺は一度厨房に引っ込んだ。
「あれー光希、退勤まであと二十分あるよー」
「どうしたー? セクハラジジイなら俺が退治してやるぞー」
「さぼんないでください光希先輩ー」
「うるせー。水飲むだけだっつーの」
小うるさいバイト仲間たちをシッシとあしらい、シンク横に置きっぱなしになっていたピッチャーを手に取る。
食洗器をかけたきり放置されていたグラスに水を注いで、一気にあおってからため息をついた。頭の中には、久しぶりに見た京の顔がしっかり焼きついていた。
記憶の中の京は、もっと小さかった。最後に会ったのは俺が小三の時だし、そもそも京は、俺より二つ年下なのだ。
それがあんなに大きくなって――申告されなければ絶対に気づかなかった。
そして京の変化以上に、俺は声をかけられたことそのものに驚いていた。
――光希って女みたいな格好でキモイよな。
嫌な記憶を思い出してしまって、俺は小さく顔をしかめる。右の指先で太もものあたりをトントンと叩く。
タッピングといって、黒歴史を思い出してしまった時に有効な手段らしい。
最近はあまり考えることもなかったのにと思えば、自然ともう一度ため息が出た。
「光希ー、マジでほんと、早く戻ってきてくんねー? 生十丁オーダーきてんだわ」
阿智先輩に急かされて、俺はいそいそとホールに戻った。


