学園を抜け出したら、俺の居場所はどこにもないと分かっていた。だとしたら、あまりにも無鉄砲な行動だと、冷静に考えれば判断できたはずだ。自己犠牲など美しくもないのに、それでもユウの側を黙って離れるという選択しか、考えられなかった。
 結局あれから一カ月以上、手を差し伸べてくれた庭師のマンションに、お世話になっている。
 あの夜更け、庭師はピックアップしてくれた軽トラの中で、俺に言った。
「こんな雪の中で待っていた俺の身になれ。寒いんだよ、まったく。オマエ、俺にも手塚にも、いかにも「出ていきます、今までありがとうございました、さようなら」って、雰囲気を匂わせまくりやがって。大人を舐めるな。腹立たしい。あからさまな匂わせに気が付かないのは、あの鈍いぼっちゃんくらいだ」
「匂わせたつもりなんてなかったんですけど、すみません……」
「とにかく、身の振り方が決まるまで、ここにいろ。そうしないと、手塚にも迷惑が掛けると思え」
 これ以上世話になるのは心苦しいが、勝手に姿をくらます訳にも、いかなくなった。

 庭師の住むマンションは、学園の最寄り駅近くにあった。彼は日中は学園にいるから、ほとんどの時間マンションには不在だ。さらに最近栽培を始めた夜咲き熱帯睡蓮の開花を確認したいと、帰りが遅かったり、夜中に再び出かけたりもする。
 きっと職業としてだけでなく、睡蓮に魅せられているのだろう。けれどあの人も、手塚のコマとして働いているのだ。ユウを見守るために俺より一年早く学園に潜り込んだらしい。それまでは植物の世話などしたこともなかった、と笑って話してくれた。
「オマエ、手塚との雇用契約が三月末まで継続中だからバイトはできないぞ。まぁ、時間はたっぷりある。よく考えろ」
 庭師からはそう言われた以外、行動を制限されたりはしていない。「オマエの好きにしたらいい」というスタンスでいてくれる。
 今後、俺が一人で生きていくためにはアパートを借りたり、就職したりする必要がある。だが現状、スマホの契約すら、未成年一人では出来ずにいる。
 どうするべきか考え抜いたあげく、ばあちゃんの葬儀にも現れなかった母を探すことにした。
 探すといっても簡単ではない。役所に行って戸籍を調べ、記載されていた住所を訪ねたりした。ばあちゃんと住んでいた平屋があった場所に行き、近所の人に聞いて回ったりもした。
 けれど母の行方の手掛かりは掴めないままだ。
 そもそもどこかで、のたれ死んでいる可能性だってある。それでも今は、他にできることがないので、探し続けるつもりでいる。

 一人マンションの部屋で過ごす孤独な時間に、ユウのことは考えないよう心掛けていた。しかし、未熟な俺にそんな気持ちのコントロールは難しい。心の中に住みついてしまったユウを、思考から切り離すことができない。
 それでも、努力はした。少しでも忘れられるように、思い出のミサンガとマフラーを手放そうともした。ただ、捨てるという暴挙には踏み込むことができない。
 結局ミサンガはユウに返そうと、郵便で学園宛てに送ることを思いつく。ユウの名前を一文字一文字、下手くそな字でも丁寧に書く。この名前を記すのも、きっとこれが最後だと思いながら。
 茶封筒に入れ、コトリとポストに投函した途端、それこそ俺の存在を忘れないで欲しいと言ってる盛大な匂わせなのでは?と気づいた。
 自分の愚かさに後悔したが、一度ポストに入れてしまった封筒は、取り戻すことができなかった。
 ポストからマンションへ戻る途中、また雪がチラつき始める。首元が寒く、チョコレート色のマフラーをきつく巻き直す。寒さを理由に、マフラーは肌身離さず使っていた。
 自分の矛盾が情けない。

 春を感じるほど暖かく気温が上がった日。
 庭師は学園の仕事が休みらしく、洒落た服装に身を包んでいる。髪型もいつもより格好つけてセットしていた。
「でかけてくる」
 玄関で靴を履いている後ろ姿を見送ったが、見るからに機嫌が良さそうで、鼻歌まで歌っていた。無意識だろうが、その曲は俺たちが文化祭で二曲目に演奏した曲で、庭師の機嫌のよさに反比例し、俺の心は掻き乱され沈んでいった。
 夜遅くに帰宅した庭師は、俺にクリアファイルに入った書類を渡してきた。
「手塚から、オマエにだ」
 どうやら手塚には俺の居場所がバレていたようだ。まぁ当たり前か……。
「占い師「マドモアゼル茉莉」が現在日本に来ているので会ってみませんか」
 その場で目を通した書類には、予想外のことが書かれていた。
「予約をしておきました。占いの代金は必要ありませんので、直接訪ねてください」
 明日の日付と時間、都内ホテルの部屋番号とアクセスが記載されている。
 突然の提案に行くかどうか迷ったが、翌朝には、占い師の顔を見て文句の一つもぶつけてやろうという気分になっていた。

 占い師は都心を一望できる眺めのいい部屋にいた。黒いロングのワンピースを着ていて、年齢不詳で髪の長い綺麗な人だった。でもどことなく、懐かしさを感じるのはなぜだろう。
 俺が応接のソファに着席すると、向かいに座った占い師は、こちらが何も言わないうちに喋り始める。
「数年前の私の占い結果によって、皆が自分の思惑に沿った行動を起こしました。一人息子にどうしても自分の地盤を継がせたいが為にイレギュラーを排除しようとする政治家、政治家の思いを汲む仕事のできる有能な秘書、秘書の力になりたい頼もしい恋人。その人たちの動きがあったからこそ、貴方は十七歳になった少年と出会い親しくなりました。結果二人は互いに惹かれ合い、運命に関与しあうことになった。どう、面白いと思わない?」
 面白くないだろう。占いなんてもので、人を惑わせて楽しいのだろうか?そう苦々しく思って、俺は占い師を真っすぐに睨みつける。
「わかっているの?カイ。ユウだけではない、貴方自身も運命を変えてしまう人に出会ったのよ。もう出会う前には戻れないと、貴方が一番分かっているはず。逃げても、目をつぶっても無駄よ。これは私が貴方に用意してあげた運命なのだから。私はね、誰よりも貴方に幸せになってほしいのよ、カイ」
 ジッと俺を見つめる目で、この人が誰なのか分かった。その目がばあちゃんのヘーゼル色の目にそっくりだったから。ばあちゃんと目が似ていると言われる俺とも、おそらく似ているのだろう。
 俺を捨てた母の言葉を、素直に受け入れられる訳がない。人の人生をなんだと思っているのか。ユウがこの占い師に翻弄されてきたと思えば尚更、許せない。そもそも俺は、運命など信じない。
 俺は一言も口を開かずに席を立ち、占い師のいる部屋から退出した。

 母と会ったことで、更にどうしていいか分からなくなった。
 何が自分の意思で、何が運命と呼ばれるものなのか。どうしたらそんなものに、翻弄されずに済むのか。俺は、どこにも立ち寄らずに庭師のマンションに帰って、ソファの上で丸くなり無為な時間を過ごす。
 いつの間にか仕事から帰った庭師が、そんな俺を見かねたのか、コーヒーを淹れてくれた。
「どうした?占い師に会ってきたんだろ?信じるに値するものだったか?」
 俺は、ただ「分からない、信じたくない」と首を振る。すると庭師は俺の隣に腰を下ろし、突然自分のことを話し始めた。
「高校のとき、同じクラスになった手塚と俺は、互いに惹かれあって付き合い始めた。毎日が楽しくて、幸せで満たされて、身体も重ねるようになった。けれどある日、手塚の親にベッドに二人でいるところを見られて、大問題になったんだ。俺の親にも「恥ずかしい」と罵られ、結局俺たちは別れた」
「そんな」
「俺は自暴自棄になって、行きたくもない遠くの大学に進学し、何年も手塚とは会わなかった。だけど、結局僕の心を満たしてくれる人は、手塚しかいなかった。すっかり大人になってから、俺たちはまたコソコソと会うようになった。そしたら幸せが戻ってきたよ。こんなことなら高校のとき、反対した奴らと正面からぶつかって、別れなど選ばなければよかったって、今は思ってる」
「二人は運命の出会いだったってこと?」
「俺は占いとか、運命とか信じていない。ただ大切な相手だと思ったなら、その出会いを手放すなって、話だ。俺は一度は手塚を忘れようとしたし、手塚も俺を忘れようとしたけれど、無理だったんだ。俺は行きたかった大学を諦めて、わざわざ知らない町へ越したのにさ。あの時間、本当にもったいなかったよ」
 庭師と手塚がコソコソ会っていることは気が付いていたが、そんなに長い付き合いだったのか。
「まぁ、俺のこんな話を聞かせたところで、オマエからしたら、だからナニって話だろうけどな」
 いやそんなことはない。占い師の話よりも、ずっとずっと指針となる二人だった。

 俺は庭師に、話を聞かせてくれた礼をいい、スマホを借りる。夜分に申し訳ないと思いながら手塚に電話をかけた。
「そもそも、俺が占い師の息子だと分かって接触してきたんですか?」
 まずそう確認すると「そうです」と答えが返ってきた。占い師の出自を調べていたところ、俺の存在が浮かび上がり、以降定期的に動向をチェックしていたという。俺が高校進学を諦めた時点で、任務を遂行する人員として最適だと判断したらしい。
「手塚さん、お願いがあるんです。あの占い師に俺が高校と大学に行く学費を出して欲しいと、頼んでくれませんか。俺、ユウに相応しい男になるために、もっと学んで、占いや運命に惑わされない賢い男になりたい。だから力を貸してください」
 声しか聞こえない手塚に向かって深々と頭を下げる。
 隣で庭師が「ブラボー」と声を上げ、ふざけた拍手をした。

 翌朝、久しぶりに制服を身にまとった。寒さが和らぎ防寒の必要はなかったけれど、チョコレート色のマフラーをしっかりと首に巻いた。
 俺は庭師の軽トラの助手席に乗せてもらい、学園へ向かう。敷地に近づくにつれ、霧が出て小雨が降っている。この辺りは相変わらずの天気で、懐かしいくらいだ。
 駐車場で庭師に「いってきます」と挨拶をすると「行ってこい」と背中を強く叩いてくれた。
 走り出した俺は、まず寄宿舎の俺らの部屋に駆け込んだ。けれど、ユウの姿はない。二段ベッドの下は使った形跡がなかったが、俺の場所だった上のベッドにユウの脱いだジャージが畳んで置かれている。
 俺はチョコレート色のマフラーを外し、狭いクローゼットの中にかけた。ここがこのマフラーの定位置だから。
 再び廊下に出て、食堂やトイレ、洗面所を探すが見つけられない。
 途中ですれ違ったクラスメイト達から「カイ!体調は良くなったのか?」「よかった元気そうで」「心配したんだぞ」と声がかかる。どうやら病欠扱いにしてもらえているようだ。きっと手塚が手を回してくれたのだろう。それに皆が自分を心配してくれたことにも驚いた。任務のつもりで在学していたけれど、ちゃんとクラスメイトとして認識してくれていたのだと、うれしくなる。
 談話室にも、校舎のロビーにも、裏庭にもユウはいない。
 ようやく温室のガラスの向こうにその姿を見つけたときには、大きな声で叫んでしまった。
「ユウ!」
 ガラス越しでは声が届かず、ユウには聞こえていない。それでも二カ月ぶりに好きな人の姿を目にした俺の身体は、全身の血液が沸騰したかのように熱くなる。心臓がドキドキと高鳴って、指先が震える程だ。俺はこんなにもユウに会いたかったのかと再確認しながら、温室の扉へ向かって走り出した。

 足音を聞いて振り返ったユウが、目を見開き驚いた顔になる。
「カイ」
 俺の名を呼んだ目は、クシャっと細まり、うるうると涙が浮かんでくる。
「ユウ」
 俺はユウとの距離を縮め、両手で包むようにぎゅっと抱きしめた。密着したまま、肩越しに思いを伝える。
「ユウ、聞いて。ユウに色々と話したいことがあるんだ。俺、ユウが好きだから、ちゃんと話をしないといけないって気がついて、戻ってきた」
「おかえり、待ってたよ。僕もカイのことが好きだって、ようやく気がついたところだから」
「え?今なんて……」
 ユウは俺のハグから自分の身を剥がし、俺の顔を見つめてきた。目に溜まっていた涙が一筋こぼれてから、ニコっと笑って、俺の頬にチュッと音を立ててキスしてくれた。
 なんだよ、もう。俺、我慢してたのに。
 ユウの後頭部を左手でガッチリと押さえ、唇を合わせた。柔らかく暖かい感触に、帰ってきてよかった、と心が満たされていく。
 ユウの強張っていた身体もだんだんと力が抜けていき、しまいには背中から池に落ちそうになるから、ぎゅっと支え直す。
「ユウ、俺、もう離れてやらないから。ずっと一緒にだから」
「うん」
 ユウが頷いてくれ心底安堵したとき、二人の時間に邪魔が入る。
「人の仕事場でなにしたんだ。他でやれ、他で。ていうか、もう授業始まるぞ」
 庭師が運搬用一輪車で、こっちに向かって突進してくるから、俺たちは声を上げて笑い、手を取り合って校舎へと逃げた。
 ここからは任務ではなく、クラスメイトとして、ルームメイトとして、バンドメンバーとして、いや恋人同士としてユウと向き合っていきたい。