冬休みは、手塚が事前に手配してくれていたビジネスホテルで、一人寂しく過ごした。年越しや正月が一人で寂しいなんて贅沢な愚痴だ。帰る家もない俺は、過ごす場所を提供してもらえただけ、ありがたいと思わなくてはいけない。
元旦の朝には、ユウにもらったマフラーを巻いて、ホテルの近くにあった小さな神社に初詣に行った。チョコレート色のマフラーはふわふわで手触りがよく、とても暖かい。
ユウにこのマフラーの手配を頼まれた手塚は、誰へのプレゼントなのか気にしていた。定期報告の電話で、誰宛てなのか探るように指示されたけれど、俺宛てだと分かって、安堵しているように見えた。
けれどいつ、「運命の出会いの相手がカイなのでは」という思考に辿り着くか分からない。そう思うと先日の駐車場では、手塚と目を合わせるのが怖かった。
明日には新学期に合わせ学園に戻るという日、手塚から電話がきた。新年の挨拶もそこそこに、「カイ、実は」と辛そうな声を出す。
「謝らなけばならないことがあります」
手塚が言いにくそうに話してくれたのは、ユウの父が俺の任務について、ユウにバラしてしまったということだった。
「学園にお目付け役まで付けてやっているのに、オマエは「出会い」を避けるための自覚が足りない」
話の流れで、そう怒ったそうだ。当然ユウは「お目付け役って何のこと?」と問い返した。
「同室にしてやっただろ。カイとかいう男だ。手塚がオマエのために金で雇って任務につかせているのを、知らなかったのか?」
「え?」
「カイは、オマエの「出会い」を阻止するために手塚の指示で動いている。カイの報告により、転校させられた男もいただろ」
「サッカー部のマオのこと?そんな……」
俺に詳細を話してくれた手塚は、再び謝ってくる。
「こんな形でぼっちゃんにバレるとは。カイが築いてきた友情を壊すような事態に陥り、本当に申し訳ない」
こうなってしまったことは、少しも手塚のせいではないはずだ。
俺は大切なことを確認する。
「それで、もう運命の相手に出会ってしまっている、という占い師の言葉もユウの耳にも入ったのですか?」
「いや、それは大丈夫だ。城伊様も、それはぼっちゃんに伝えないおつもりだから」
明日からどうユウに接したらいいかを考え、俺はその晩、一睡もできずに朝を迎えた。
全校生徒が帰省から戻ってくる日。俺は最寄り駅からの送迎のマイクロバスを使って、早い時間に学園に戻った。そして、手塚の黒い車で戻ってくるユウを、駐車場で出迎えた。
ユウは車から降りるなり、俺に詰め寄ってくる。全身に怒っているんだぞ、という気を纏って。
「カイは、カイは、手塚の指示でこの学園に来たって本当?任務で僕のお目付け役をしてるってどういうこと?僕と話を合わせるために、僕の部屋の本を読んだりしたって本当?ねぇ、嘘だよね?カイは僕の友達じゃないの?」
俺はユウの目を見て、声が震えないよう拳を強く握りしめる。そして一晩考えて決めた言葉を返す。
「そうだよ、仕事だよ。全て任務でやっていることだ。ユウが誰かと出会ってしまうのを阻止するためだけに、俺はこの学園にいる」
色々考えたが、そう開き直ることしか俺にはできない。
「体育祭のリレーも?七夕の夜も?バンドも?クリスマスリースも?」
「あぁ」
「夜、手を繋いでくれたことも?」
「……あぁ、そうだ」
ユウは立ち尽くしたままポロポロと涙をこぼした。他の生徒が何事かとこちらを見ている。車の脇に立っていた手塚が、深くため息をついたのが聞こえた。
「信じてたのに。楽しかったのに。カイがいてくれれば、こんな山の中の学園生活も幸せだと思っていたのに。全て任務としてやっていたなんて……。こんなの、裏切りだよ」
涙を流すユウのことを抱きしめられたら、どんなによかっただろう。
その日から俺たちは口を聞かなくなった。眠るのも、二段ベッドの上と下で、もちろん、手なんか繋がなくて。毎晩、毎晩眠れずに寝返りを繰り返すユウのベッドの軋みを感じて、夜がふけていき、二人して寝不足の朝を迎える。
この学園に来てから過ごした数か月は、夢か幻だったのではないか。沈んだユウの横顔を盗み見るたびに、そう思う。常に重苦しい空気が、俺とユウの周りには立ち込めている。
ユウの笑った顔が見たい。楽しそうな声で「カイ」と俺の名を呼んでほしい。
こんな状況になったからこそ、はっきりと気がついたことがある。俺はユウが好きだ。任務など関係なく、ユウのことを大切に思っている。ようやく分かったけれど、これは恋心だ。
ユウが笑えば、俺も笑っていた。ユウが楽しそうなら、俺も楽しかった。今は、俺の存在がユウを苦しめている。今までの出来事は、黒く塗りつぶされてしまったのだから。
好きだからこそ、ユウのために、この状況を脱しなければならない。
その日も、ユウが夕食を食べ終わるだろう時間を見計らって、俺は食堂へ行った。予想に反し、ユウはまだテーブルに居たから、俺はできるだけ離れた席に座る。
美味しいはずのポトフの味は、よく分からない。食事を楽しむ気分にはなれず、ただ器を見つめて、機械的にスプーンを口に運ぶ。
「カイ」
聞きなれた声が、半月ぶりに俺の名を呼ぶ。驚いて顔を上げると、ユウと、カズと、ゲンと、ナツがいた。
「あのね、カイ。カズから話があるんだって」
声色はいつもどおり。でも、ユウとは微妙に目が合わない。一年生三人に心配をかけないよう、普通に振る舞おうとしているのだろう。さすがの優等生だ。
「どうした?カズ」
それなら俺も、できるだけ今までのように話をしよう。
「俺たち、バンドが楽しかったことが忘れられなくて。学園に四月から軽音楽部を作ってもらうように、申請しようと思うんです」
「へー、それはいいな」
「で、先輩たちは三年生になっちゃうから一緒にやれないでしょ。一年生何人かに声掛けたら、文化祭見て羨ましかったって何人も入部してくれることになって」
「よかったらじゃないか」
「学園の申請に推薦状がいるんですけど、ユウ先輩には生徒会長として、カイ先輩にはバンドリーダーとして、一筆お願いしたいんです」
「僕はもう書いたよ。だからカイも」
ユウは俺のポトフの器を見ながら話している。
「もちろんだよ、カズ。俺にできることは協力する」
一年生三人が、俺とユウに向かって「ありがとうございます」と頭を下げた。自分の我が儘で始めたバンドが、こんな形で継続されるのは素直にうれしい。
ナツが、まだ何か言いたそうにモジモジとしている。
「なに?」と促せば、三人は目配せしナツが話し始める。
「バンド名の「アルタイル」、俺たちが引き継いでもいいですか?いや、先輩二人がいたからこそのアルタイルだとは思ってるんですけど……」
心の狭い俺は、咄嗟にそれは嫌だなと思ってしまった。アレは俺とユウの七夕の夜の思い出だから。けれどユウは、後輩たちを慮って了承するだろう。それならそれで、俺も構わない……。
「ごめんね、ナツ。アルタイルという名は使わないでほしいな。僕にとって思い出深いものなんだ。君たちは君たちのバンド名をつけるのがいいと思うよ」
思いもよらずユウがそう答えれば、ナツは納得したようで「はい。僕らに相応しい名前をゆっくり考えます」と返事した。
「お食事中にお邪魔しました」
三人は食堂から出て行った。ユウもそのタイミングで居なくなった。
俺はユウがアルタイルの名を守ってくれたことが、とてもうれしかった。すこしポトフの美味しさも、感じられるようになった。
ユウは俺のことを心底嫌いになった、というわけではないのかもしれない。だからこそ、理解できないし、許せないのだろう。
とにかくもう一度、ユウに「カイ」と呼んでもらえただけでも、よかった。
この冬何度目かの雪の予報が出た日。
俺はユウにも手塚にも黙って、学園を去ろうと決めた。
ユウも手塚も、俺が占い師のいう「運命を変えてしまう出会いの相手」だとは、思い至っていない今のうちに、彼らの前から姿を消すべきだ。それが、任務としても、ユウに恋心を寄せる一人の高校生としても、正しい選択だと思えた。
せめてもの礼儀だと、放課後、部屋の掃除をしているとドアが開いて、ユウが入ってこようとした。けれど部屋の中に俺の姿があることに気が付くと、回れ右をして出ていってしまった。
そんなユウに書き置きでも残そうかと少し迷ったが、マオの手紙を焼却した俺にそんな資格はないだろう。
夕方になり温室へ行き、手塚に定期報告の電話をした。恩人と言える人の声を聞くのもこれが最後かもしれないと思うと、感傷的になって声が少し震える。
「どうかしましたか?」
「いえ、寒くて。さっき雪が降り始めました」
「温室から電話してるんでしょう?そこは温かいはずですが……。まぁいいです。そちらに降っている雪、積もりそうですね。風邪をひかないように」
「ユウはちゃんと暖かくしていると思います」
「ぼっちゃんだけじゃない、貴方もですよ、カイ」
睡蓮も今日が見納めだ。温室を出るとき、庭師を見かけたので、後ろ姿に向かって深々とお辞儀をした。顔をあげると、ちょうど庭師が振り向いて目が合ったけれど、作り笑いでごまかした。
消灯時間もとっくに過ぎた部屋の中。ようやく少し前にユウの寝息が聞こえ始めた。
カーテンの向こうが少しだけ明るく感じるのは、真っ白な雪が積もり始めたからだろう。
俺は音を立てないように制服に着替え、支度をする。荷物は夕食の前にまとめておいたが、この部屋から持ち出す必要のあるものは、とても少ない。制服の着替えも、教科書も、手塚に持たされているスマホも、もう俺には必要がないのだから。
文化祭でユウにもらった紫のミサンガをブレザーのポケットに入れ、チョコレート色のマフラーを首に巻く。
「よし」
自分の決意を実行する為、己を奮い立たせる。音を立てないようにゆっくりと二段ベッドの梯子を降りた。下のベッドを覗き込めば、ユウの背中が見え、呼吸に合わせ、ゆっくりと肩が上下しているのが分かる。
「……ユウ」
聴こえないように小さな小さな声で名前を呼んでみる。気配を感じたのか、寝返りを打ち、顔がこちらを向いた。ドキッとしたが目は閉じられたままで、スースーと寝息が聞こえる。気づかれてはいない。
そっと手を伸ばし、一瞬だけふわっとした前髪に触れた。それだけで我慢するつもりが、衝動が抑えられず、その指でユウの柔らかい頬を撫でる。ユウはくすぐったかったのか、微かに口角があがり笑ったかのように見えた。
目の奥がジンと熱くなり、涙が込み上げてくるのを、必死に耐えた。
俺は、いつ、どのタイミングでユウのことを好きになったのだろう。任務なんて関係なく、離れたくない。ずっと一緒にいたい。また俺に笑いかけてほしい。
そんな気持ちを抱いてしまうからこそ、もうこの学園を出ていかなければいけない。
結局流れてしまった涙を、手のひらでぬぐって、「バイバイ、ユウ」と呟いて、部屋を出た。
廊下の先の非常階段から外に出る。七夕の夜に寄宿舎を抜け出したルートと同じ道を一人で辿り、裏庭に出る。雪は静かに降り続けて、止む気配はない。音はすべて雪に吸収されてしまったかのようで、シンとしていて無音だった。
滑らないように慎重に歩きながら、正門までの長い道を行く。
閉ざされた正門を乗り越えるため、雪を払って、よじ登る。金属があまりにも冷たくて、手のひらが痛かった。途中で指の感覚が麻痺してきたが、もう引き返すことはできない。俺の短い青春は、この門の内側にあって、ここへ置いて行くのだ。
なんとか正門を乗り越え、数歩進んで振り返る。学園を仰ぎ見て、これでよかったのだと唇を噛んだ。
俺がユウの有望な運命を変えてしまわないためには、これしか方法がなかったのだから。
「任務完了。さて、どうしようか」
声に出して、自分の無謀さを呪う。
学園から逃げ出したのはいいけれど、どこへ行けばいいのだろう。ばあちゃんと住んでいた平屋はもう残っていない。恩人である手塚との縁も切れてしまった。もうスマホもない。通う学校もない。金もない。
トボトボと、まだしばらくは夜も明けぬ雪の中を歩く。靴の中が湿ってきて、マフラーだけでは寒さが防げなくて。本当にどうしたらいいのだろう……。いっそ、笑えてきた。
とにかく学園から離れよう。ここで凍え死んだりしたら、ユウにも手塚にも迷惑がかかるから。
数十メートル歩いた先に、見慣れた軽トラがエンジンをかけた状態で止まっていた。
ブブッと二回、軽いクラクションが鳴ったあと、モスグリーンのつなぎ服の上にダウンコートを羽織った男が降りてくる。白い息を吐きながら、不機嫌そうに「乗れよ」と俺に言ってくれた。
元旦の朝には、ユウにもらったマフラーを巻いて、ホテルの近くにあった小さな神社に初詣に行った。チョコレート色のマフラーはふわふわで手触りがよく、とても暖かい。
ユウにこのマフラーの手配を頼まれた手塚は、誰へのプレゼントなのか気にしていた。定期報告の電話で、誰宛てなのか探るように指示されたけれど、俺宛てだと分かって、安堵しているように見えた。
けれどいつ、「運命の出会いの相手がカイなのでは」という思考に辿り着くか分からない。そう思うと先日の駐車場では、手塚と目を合わせるのが怖かった。
明日には新学期に合わせ学園に戻るという日、手塚から電話がきた。新年の挨拶もそこそこに、「カイ、実は」と辛そうな声を出す。
「謝らなけばならないことがあります」
手塚が言いにくそうに話してくれたのは、ユウの父が俺の任務について、ユウにバラしてしまったということだった。
「学園にお目付け役まで付けてやっているのに、オマエは「出会い」を避けるための自覚が足りない」
話の流れで、そう怒ったそうだ。当然ユウは「お目付け役って何のこと?」と問い返した。
「同室にしてやっただろ。カイとかいう男だ。手塚がオマエのために金で雇って任務につかせているのを、知らなかったのか?」
「え?」
「カイは、オマエの「出会い」を阻止するために手塚の指示で動いている。カイの報告により、転校させられた男もいただろ」
「サッカー部のマオのこと?そんな……」
俺に詳細を話してくれた手塚は、再び謝ってくる。
「こんな形でぼっちゃんにバレるとは。カイが築いてきた友情を壊すような事態に陥り、本当に申し訳ない」
こうなってしまったことは、少しも手塚のせいではないはずだ。
俺は大切なことを確認する。
「それで、もう運命の相手に出会ってしまっている、という占い師の言葉もユウの耳にも入ったのですか?」
「いや、それは大丈夫だ。城伊様も、それはぼっちゃんに伝えないおつもりだから」
明日からどうユウに接したらいいかを考え、俺はその晩、一睡もできずに朝を迎えた。
全校生徒が帰省から戻ってくる日。俺は最寄り駅からの送迎のマイクロバスを使って、早い時間に学園に戻った。そして、手塚の黒い車で戻ってくるユウを、駐車場で出迎えた。
ユウは車から降りるなり、俺に詰め寄ってくる。全身に怒っているんだぞ、という気を纏って。
「カイは、カイは、手塚の指示でこの学園に来たって本当?任務で僕のお目付け役をしてるってどういうこと?僕と話を合わせるために、僕の部屋の本を読んだりしたって本当?ねぇ、嘘だよね?カイは僕の友達じゃないの?」
俺はユウの目を見て、声が震えないよう拳を強く握りしめる。そして一晩考えて決めた言葉を返す。
「そうだよ、仕事だよ。全て任務でやっていることだ。ユウが誰かと出会ってしまうのを阻止するためだけに、俺はこの学園にいる」
色々考えたが、そう開き直ることしか俺にはできない。
「体育祭のリレーも?七夕の夜も?バンドも?クリスマスリースも?」
「あぁ」
「夜、手を繋いでくれたことも?」
「……あぁ、そうだ」
ユウは立ち尽くしたままポロポロと涙をこぼした。他の生徒が何事かとこちらを見ている。車の脇に立っていた手塚が、深くため息をついたのが聞こえた。
「信じてたのに。楽しかったのに。カイがいてくれれば、こんな山の中の学園生活も幸せだと思っていたのに。全て任務としてやっていたなんて……。こんなの、裏切りだよ」
涙を流すユウのことを抱きしめられたら、どんなによかっただろう。
その日から俺たちは口を聞かなくなった。眠るのも、二段ベッドの上と下で、もちろん、手なんか繋がなくて。毎晩、毎晩眠れずに寝返りを繰り返すユウのベッドの軋みを感じて、夜がふけていき、二人して寝不足の朝を迎える。
この学園に来てから過ごした数か月は、夢か幻だったのではないか。沈んだユウの横顔を盗み見るたびに、そう思う。常に重苦しい空気が、俺とユウの周りには立ち込めている。
ユウの笑った顔が見たい。楽しそうな声で「カイ」と俺の名を呼んでほしい。
こんな状況になったからこそ、はっきりと気がついたことがある。俺はユウが好きだ。任務など関係なく、ユウのことを大切に思っている。ようやく分かったけれど、これは恋心だ。
ユウが笑えば、俺も笑っていた。ユウが楽しそうなら、俺も楽しかった。今は、俺の存在がユウを苦しめている。今までの出来事は、黒く塗りつぶされてしまったのだから。
好きだからこそ、ユウのために、この状況を脱しなければならない。
その日も、ユウが夕食を食べ終わるだろう時間を見計らって、俺は食堂へ行った。予想に反し、ユウはまだテーブルに居たから、俺はできるだけ離れた席に座る。
美味しいはずのポトフの味は、よく分からない。食事を楽しむ気分にはなれず、ただ器を見つめて、機械的にスプーンを口に運ぶ。
「カイ」
聞きなれた声が、半月ぶりに俺の名を呼ぶ。驚いて顔を上げると、ユウと、カズと、ゲンと、ナツがいた。
「あのね、カイ。カズから話があるんだって」
声色はいつもどおり。でも、ユウとは微妙に目が合わない。一年生三人に心配をかけないよう、普通に振る舞おうとしているのだろう。さすがの優等生だ。
「どうした?カズ」
それなら俺も、できるだけ今までのように話をしよう。
「俺たち、バンドが楽しかったことが忘れられなくて。学園に四月から軽音楽部を作ってもらうように、申請しようと思うんです」
「へー、それはいいな」
「で、先輩たちは三年生になっちゃうから一緒にやれないでしょ。一年生何人かに声掛けたら、文化祭見て羨ましかったって何人も入部してくれることになって」
「よかったらじゃないか」
「学園の申請に推薦状がいるんですけど、ユウ先輩には生徒会長として、カイ先輩にはバンドリーダーとして、一筆お願いしたいんです」
「僕はもう書いたよ。だからカイも」
ユウは俺のポトフの器を見ながら話している。
「もちろんだよ、カズ。俺にできることは協力する」
一年生三人が、俺とユウに向かって「ありがとうございます」と頭を下げた。自分の我が儘で始めたバンドが、こんな形で継続されるのは素直にうれしい。
ナツが、まだ何か言いたそうにモジモジとしている。
「なに?」と促せば、三人は目配せしナツが話し始める。
「バンド名の「アルタイル」、俺たちが引き継いでもいいですか?いや、先輩二人がいたからこそのアルタイルだとは思ってるんですけど……」
心の狭い俺は、咄嗟にそれは嫌だなと思ってしまった。アレは俺とユウの七夕の夜の思い出だから。けれどユウは、後輩たちを慮って了承するだろう。それならそれで、俺も構わない……。
「ごめんね、ナツ。アルタイルという名は使わないでほしいな。僕にとって思い出深いものなんだ。君たちは君たちのバンド名をつけるのがいいと思うよ」
思いもよらずユウがそう答えれば、ナツは納得したようで「はい。僕らに相応しい名前をゆっくり考えます」と返事した。
「お食事中にお邪魔しました」
三人は食堂から出て行った。ユウもそのタイミングで居なくなった。
俺はユウがアルタイルの名を守ってくれたことが、とてもうれしかった。すこしポトフの美味しさも、感じられるようになった。
ユウは俺のことを心底嫌いになった、というわけではないのかもしれない。だからこそ、理解できないし、許せないのだろう。
とにかくもう一度、ユウに「カイ」と呼んでもらえただけでも、よかった。
この冬何度目かの雪の予報が出た日。
俺はユウにも手塚にも黙って、学園を去ろうと決めた。
ユウも手塚も、俺が占い師のいう「運命を変えてしまう出会いの相手」だとは、思い至っていない今のうちに、彼らの前から姿を消すべきだ。それが、任務としても、ユウに恋心を寄せる一人の高校生としても、正しい選択だと思えた。
せめてもの礼儀だと、放課後、部屋の掃除をしているとドアが開いて、ユウが入ってこようとした。けれど部屋の中に俺の姿があることに気が付くと、回れ右をして出ていってしまった。
そんなユウに書き置きでも残そうかと少し迷ったが、マオの手紙を焼却した俺にそんな資格はないだろう。
夕方になり温室へ行き、手塚に定期報告の電話をした。恩人と言える人の声を聞くのもこれが最後かもしれないと思うと、感傷的になって声が少し震える。
「どうかしましたか?」
「いえ、寒くて。さっき雪が降り始めました」
「温室から電話してるんでしょう?そこは温かいはずですが……。まぁいいです。そちらに降っている雪、積もりそうですね。風邪をひかないように」
「ユウはちゃんと暖かくしていると思います」
「ぼっちゃんだけじゃない、貴方もですよ、カイ」
睡蓮も今日が見納めだ。温室を出るとき、庭師を見かけたので、後ろ姿に向かって深々とお辞儀をした。顔をあげると、ちょうど庭師が振り向いて目が合ったけれど、作り笑いでごまかした。
消灯時間もとっくに過ぎた部屋の中。ようやく少し前にユウの寝息が聞こえ始めた。
カーテンの向こうが少しだけ明るく感じるのは、真っ白な雪が積もり始めたからだろう。
俺は音を立てないように制服に着替え、支度をする。荷物は夕食の前にまとめておいたが、この部屋から持ち出す必要のあるものは、とても少ない。制服の着替えも、教科書も、手塚に持たされているスマホも、もう俺には必要がないのだから。
文化祭でユウにもらった紫のミサンガをブレザーのポケットに入れ、チョコレート色のマフラーを首に巻く。
「よし」
自分の決意を実行する為、己を奮い立たせる。音を立てないようにゆっくりと二段ベッドの梯子を降りた。下のベッドを覗き込めば、ユウの背中が見え、呼吸に合わせ、ゆっくりと肩が上下しているのが分かる。
「……ユウ」
聴こえないように小さな小さな声で名前を呼んでみる。気配を感じたのか、寝返りを打ち、顔がこちらを向いた。ドキッとしたが目は閉じられたままで、スースーと寝息が聞こえる。気づかれてはいない。
そっと手を伸ばし、一瞬だけふわっとした前髪に触れた。それだけで我慢するつもりが、衝動が抑えられず、その指でユウの柔らかい頬を撫でる。ユウはくすぐったかったのか、微かに口角があがり笑ったかのように見えた。
目の奥がジンと熱くなり、涙が込み上げてくるのを、必死に耐えた。
俺は、いつ、どのタイミングでユウのことを好きになったのだろう。任務なんて関係なく、離れたくない。ずっと一緒にいたい。また俺に笑いかけてほしい。
そんな気持ちを抱いてしまうからこそ、もうこの学園を出ていかなければいけない。
結局流れてしまった涙を、手のひらでぬぐって、「バイバイ、ユウ」と呟いて、部屋を出た。
廊下の先の非常階段から外に出る。七夕の夜に寄宿舎を抜け出したルートと同じ道を一人で辿り、裏庭に出る。雪は静かに降り続けて、止む気配はない。音はすべて雪に吸収されてしまったかのようで、シンとしていて無音だった。
滑らないように慎重に歩きながら、正門までの長い道を行く。
閉ざされた正門を乗り越えるため、雪を払って、よじ登る。金属があまりにも冷たくて、手のひらが痛かった。途中で指の感覚が麻痺してきたが、もう引き返すことはできない。俺の短い青春は、この門の内側にあって、ここへ置いて行くのだ。
なんとか正門を乗り越え、数歩進んで振り返る。学園を仰ぎ見て、これでよかったのだと唇を噛んだ。
俺がユウの有望な運命を変えてしまわないためには、これしか方法がなかったのだから。
「任務完了。さて、どうしようか」
声に出して、自分の無謀さを呪う。
学園から逃げ出したのはいいけれど、どこへ行けばいいのだろう。ばあちゃんと住んでいた平屋はもう残っていない。恩人である手塚との縁も切れてしまった。もうスマホもない。通う学校もない。金もない。
トボトボと、まだしばらくは夜も明けぬ雪の中を歩く。靴の中が湿ってきて、マフラーだけでは寒さが防げなくて。本当にどうしたらいいのだろう……。いっそ、笑えてきた。
とにかく学園から離れよう。ここで凍え死んだりしたら、ユウにも手塚にも迷惑がかかるから。
数十メートル歩いた先に、見慣れた軽トラがエンジンをかけた状態で止まっていた。
ブブッと二回、軽いクラクションが鳴ったあと、モスグリーンのつなぎ服の上にダウンコートを羽織った男が降りてくる。白い息を吐きながら、不機嫌そうに「乗れよ」と俺に言ってくれた。



