「行ってきまーす」

 返事のしない家に声を掛け私は外へと出る。いつも通り私は家で明るく振る舞えた。私はちゃんと明るい子を演じれた。そんな証拠も無い事を私はそうだと思い込み,またため息をつく。何日も外に出てこれなかった気分だ。家の空気よりも冷たい空気が頬を撫でる。この空気の差が私の家と外が違う世界だと言う事を教えてくる。

 「行くか」

 誰かに向かって言ったわけでもないそんな言葉を口にし歩き出す。昨日同様,エレベーターを使い一階まで降りていく。家を出た時間は七時三十分。朝読書が始まるのが八時二十分からなので,そこまでに学校に着けばいい。そして私の家から学校までは十分もかからない距離なためこんな早くに出なくてもいい。でも一分一秒でも早く,外の空気が吸いたくて。出来るだけ人が少ないうちに学校に着いていたくて私はいつもこの時間には家を出ていた。ほとんどの生徒は八時頃,通学路を通り学校へと向かっている。つまり人が多いのだ。その分心はあるし,武器も現れる。そんな中,学校へ行くくらいなら睡眠時間を延ばすことよりも出来るだけ人の心と言葉の武器を見ないよう早い時間に行く選択肢を取った方が自分のためになると私は遠い昔に判断した。

 「あれ。翠じゃん」

 地面に転がる石を見ながら歩いていた私の耳に聞き慣れた声が聞こえた。

 「早いね,海斗」

 「まあな」

 そこにはいつもの癖っ毛がより増した。とかしてすらいないであろう髪をした海斗の姿があった。彼がここまで早くに学校に来ていたとは思いもしなかったので少し驚く。

 「なんか今日は目が覚めたから,早く来てみることにした」

 「へー」

 聞かれてもいない答えを話す海斗。私はいつも通り適当に返しておく。流れ的に私達は学校まで一緒に行く事になった。

 「翠はいつもこんな時間なのか?」

 「まあねー」

 「眠くね?」

 「動いてれば目も覚めるよ」

 「それもそうかー。俺は昼休みとかに遊ぶので忙しいから,出来るだけ体力は温存しておきたいんだよな」

 「だからと言って朝読書中に寝るのはどうかと思うよ」

 「ギクリ」

 海斗は,わざとらしく肩を上げ,悪戯がバレた子供のような反応をする。言動と行動といいやっぱり彼の心は小学生から変わっていないのかもしれない。
 しかし私は今,そんな事よりも優先して考えなければならない事があった。
 昨日怪我してしまった足。昔から追い抜けなかった背の高い彼の歩く歩幅は大きく私はいつもよりも多く足を動かさなければいけなかった。勿論,負傷している私の足ではそれに追いつけるはずもなく,距離は短くも確実に開いていった。追いつけない。そう思うほどには私の足は動かなかった。
 海斗は私には気がついていないようで当たり障りもない事を話し続ける。

 「それでさ,英語の宿題やってなくて神谷先生にめっちゃ怒られて」

 「……ふーん」

 「あんなに怒らなくても良くねって思ったんだけどなー。翠もそう思わね?―――翠?」

 返事のない私にやっと気が向いたのか海斗が足を止めた。

 「……ごめん,ちょっと待って」

 私達の差は見てわかるほど開いていた。足の痛みが少し引いたとはいえ,まだズキズキ痛む。やっぱり追いつくことはできなかった。海斗は私が怪我をしていた事を思い出したのか駆け寄ってくる。

 「悪い。怪我してたよな」

 「別に平気」

 「平気じゃないからこんなに距離が開いてんだろ」

 「海斗の歩幅が大きいんだよ」

 疲れた事への八つ当たりか,海斗へそう,嫌味たっぷりに言ってやる。すると善意の心で出来たような彼はひたすら謝ってきた。

 「まじでごめん。本当ごめん」

 「……別にいいよ。早く行こ」

 こうやって逆上することもなく謝れると許さないという選択肢は浮かび上がってこない。これはきっと私以外の人間もそうだろう。今回に関しては海斗は何も悪くないのでこれ以上は特に何も言わない。私達は再び歩き始めた。変わったところと言えば海斗の歩幅が小さくなったこと。こういう気遣いが出来るから,昔からモテるんだと私は海斗へ惚れた全女子達に共感しておく。それからまた,当たり障りのない内容を話しながら歩いていくと学校へと着いた。

 「うわ,すげ。俺この時間に学校来たことなんてなかったからなんか新鮮」

 「海斗の事だし,いつもならまだ寝てるんじゃないの?」

 「良くわかったな。そうだよ」

 「……もう少し早く起きたらどう?」

 私達は下駄履へと行く。足を怪我していると不便なもので靴を履き替えるのにいちいち座らないといけない。下駄箱は二クラスずつで分かれているので海斗の姿は見えなかった。あまり心配はさせたくなかったからこれは良かったなと思う。何とか履き替え,海斗と合流する。

 「そう言えばお前,階段登るのどうすんだ?」

 「あー。…確かエレベーター使ってとかだった気がする」

 「まじ!?」

 「うん」

 昨日足のことを先生に話した際,階段を登るのは不便だろうということで普段なら絶対に乗ることの出来ないエレベーターに乗ってもいいと許可をもらった。海斗に話すと,彼は今日一番の笑顔を見せる。

 「……海斗は乗っちゃだめじゃない?」

 「いやいや!怪我してる幼なじみの付き添いのためなら乗っても大丈夫だろ」

 「付き添いが必要ないようにするためにエレベーターを使うんだけど」

 「頼む!乗ってみたい!」

 ついに本心を出した海斗は両手を合わせそう言う。
 別に乗る人数が一人から二人に変わったところでバレはしないだろうし,今は朝早いためチクるような生徒もいない。

 「バレた時は全責任海斗にあげるね」

 「それは嫌だけど,乗っていいってことだよな?」

 「好きにすればー」

 下駄箱から近い位置にあるエレベーターのボタンを押す。マンションでいつも見ているはずのエレベーター。しかし学校で,しかも乗るとなると少し特別な事をしている気分になる。エレベーターが一階に到着した。

 「おー。なんか少し大きいな」

 「本来は給食のワゴンを運ぶ時に使うからね。そりゃあ大きいよ」

 率先してエレベーターに入った海斗は興味津々に観察し始める。私はそれを放っておいて三階のボタンを押す。

 「慣れてんな」

 「初めてじゃないからね」

 「本当,怪我気をつけろよ」

 「わかってるよ」

 「なんかあったら誰かに言えよな」

 「うーん」

 「そこは迷うなよ!?」

 エレベーターが三階へと到着する。生徒は勿論,先生すらも居ない廊下が見える。

 「誰も居ない!」

 「だからって走り回らないで!?」

 「別にいいだろ」

 校庭で走り回るように海斗は廊下を走り出した。先生にバレたら一発でアウト。しかし朝早いこの時間に生徒が来るなんて思っていないであろう先生達は誰も居ない。

 (まあ,いいか)

 深夜テンションならぬ早朝テンションで騒ぐ海斗を放っておいて私は自分のクラスへと入る。

 「翠ー。暇だからもう少し話し相手になってくれね?」

 「本読んでたいから無理ー」

 「いつも読んでるだろ」

 「そう言えば今日,全クラスで数学の抜き打ちテストあるらしいよ」

 「嘘だろ!?てか何で知ってるんだよ」

 「友達情報」

 どうよと笑ってやると,海斗はなぜか悔しそうな顔をする。

 「そういうわけで勉強してきなー」

 「……いややんなくても0点なんて事にはならないだろうし」

 「今回のテストかなり点数に入るらしいよ」

 「……やればいいんだろやれば!」

 海斗はそう言い残し,廊下に響く声で文句を言いながら自身のクラスへと帰っていった。
 思いがけず騒がしい朝になったな。いつもは眠くても,家にいたくないという理由で,早くに来る学校にうんざりしていたが今日ばかりは少し違うと思えた。
 私は何度読んだか忘れた一冊の小説を閉じ空を見上げた。今日も海斗の心は,夜明けの空のように綺麗だった。