夜明けの空と君への言葉の武器


 「翠。本当に大丈夫なの?私,今日暇だし送っていくよ」

 「大丈夫。軽く捻っただけだし家すぐそこだから」

 「でも…」

 全ての授業,そして掃除を終え私は陽鞠と通学路を歩いていた。家庭科の授業に出なかった私を心配した陽鞠に事の事情を話すと,こうして最後まで気を使ってくれた。
 しかし家まで付き添ってもらうのは申し訳ないので何とか大丈夫だと言う事を伝える。

 「大丈夫だから。本当,ありがとう」

 「そこまで言うなら…」

 納得していない様子だったが何とか諦めさせることに成功した。

 「それじゃあ,翠またね」

 「うん,また明日。宿題ちゃんとやってきなよ?」

 「はーい!翠先生」

 いつもの十字路で陽鞠と別れる。
 警察官の敬礼のポーズをしながら帰っていく彼女は今日も朝から帰りまで元気だった。
 陽鞠の明るさを少しでも家に持ち帰るように私は彼女が曲がり角を曲がるまで見送る。

 「……帰るか」

 そう言葉にすると,体全体が何かが憑いた様に重く感じられた。内側から感じられるどうしようもない痛みが足から悲鳴を上げる。身体全身が熱くなり,その熱さが外へ抜け出すと今度は逆に寒気を感じた。目の前が一瞬白くなるが瞬きを数度すると元の景色に戻る。
 痛む足を庇いながら私はすぐ目の前まで来ていたマンションのエントランスをくぐっていった。家に帰るのにここまで身体に変化が出るようになったのはいつからだろうか。いつもは乗らないエレベーターに乗り込み,六階と彫られたボタンを押す。地面には捨てられたガムのゴミが落ちていた。
 エレベーターが六階へ着いたことを知らす。エレベーターから出て左手にある扉の前で足を止める。雨や風,砂ぼこりに晒され,汚れた換気扇が目に映る。私は体内にある,気持ちも,空気もすべて吐き出すように意識し,大きく深呼吸をしてから,勢い良く扉を開けた。

 「ただいまー!」

 「おかえり」

 私が大声で言うとそれに反応する,女性の声がリビングからした。靴を脱ぎ捨て家へ入る。

 「母さんただいま」

 「おかえり」

 荷物を全て持ったままリビングまで向かうとそこには髪を無造作に結った女性。私の母親が立っていた。私に顔を向けることはせず,キャベツを一枚一枚丁寧に洗っている。

 「おかえりー,翠」

 そしてもう一人私の帰宅に声を掛ける者がいた。

 「ただいま,…花梨(かりん)寝ながらゲームしないで」

 「んー」

 柔らかな長い髪を無造作にソファーの上へと投げ出し,袖のよれたオーバーサイズのTシャツ着るのは小学五年生となる妹だった。一丁前に足を組み,胸から下は寝転して,胸から上はソファーの背にもたれかかっている。遊んでいるゲーム機には充電器を差しっ放しにし,その目は,時折ゲーム画面から離されテレビへと移動する。きっと今日一日ずっとこの状態で過ごしていたんだろう。部屋の隅でほこりをかぶったレンガ色のランドセルが目に映る。

 「花梨」

 「わかったよー」

 私の強く,要件を言わない発言に苛立った声を上げながら花梨は体操座りをするようにソファーへ座り直した。

 「翠,早く着替えてきな」

 「…はーい」

 自身の部屋へ戻り一枚で着られるワンピースへと着替え,リビングへと戻る。母さんは,料理が一段落終わったようでいつもの定位置であるダイニングテーブルの右端に座ってスマホをいじっていた。
 私は部屋に置いておいたスマホを持ち花梨の座るソファーの左側へと腰を下ろした。

 「母さん,そう言えばさ」

 「何ー」

 「今日学校で足捻っちゃって,何か小さな痣?みたいのが出来ちゃったから体育の授業がある時生徒手帳にそう書いてもらえる?」

 「痣?またやったの」

 「いやー,余所見してたらぐねっちゃって」

 痣について話した瞬間母さんの声が低くなったのを感じたため,出来るだけ明るく,そして笑うような,申し訳ないような声を急いで作る。

 「気をつけなよ……体育ある日は言って」

 「はーい」

 別に怒ったわけではなかったのか母さんはそれだけ言い会話は終わった。
 スマホを弄る音,テレビの音,ゲームのコントローラを押す音。そんな機械の音しかしない部屋。外はまだ明るいはずだが,カーテンがしっかり開けられていないため電気が付いている。この家は夏でも冬でも外の空気よりも暖かい。しかしその暖かさは決して家族同士による愛のような物によるものではなく,ただ現代武器である機械を使い,そして窓すら開けずに空気がこもっているからだろう。
 外よりもずっと息のしにくい家で私は意味も無くスマホゲームを始める。ゲームを起動させる間で私は横に座る妹の心を見る。
 見なければいいのにと心の中で誰かが言う。でも仕方がないのだ,そうしないと妹のSOSには気がつけない。花梨の心は破けた人形を縫ったような継ぎ接ぎが至る所に存在し,黒い靄がかかっていた。
 私の妹は世間で言うところの不登校の小学生だ。しかし引きこもりではない。小学三年生から花梨は学校へは行かない選択を取った。
 理由は――当事者ではない私が客観的には言えない。毎回私は妹について考える時,問われた時こう話しているが,これは本当に妹についてなのか。言えないのは私が何も知らないからなのか,ふと心配になる。右足の湿布が目に入る。人は弱ると弱気になると言うが,今の私は弱気になっているのか。

 「あーもう!何でこうなるの!」

 花梨が突然叫び出す。どうやらゲームで負けたらしい。声にならない拗ねた声を出す花梨。ゲーム機をソファーへ放り出す。

 「花梨うるさい!」

 「だってー!」

 母さんが花梨に負けない程の不機嫌な声で注意という名の怒りをぶつける。私はそんな二人の会話を右から左へと聞き流し,聞いていないふりをする。二人の言い合いは大きくも小さくもならず続く。私は息を潜め,まるでそこに存在しないように意識する。
 母さんと花梨の言い合いはいつの間にか終わっていた。しかし,それはただでさえ重い空気を更に重くしていた。機械音しかしない状況が数時間続く。夜の七時頃になると母さんが動き出し,ここは人間のいる空間へと変わった。下準備だけしていた料理を作り上げると母さんは私を呼ぶ。

 「翠。運ぶの手伝って」

 「はーい!」

 私は明るく声を出す。ゲームはきりが悪かったが,ここで少し待ってなんて口が裂けても言えなかった。料理を見てみるとそれはロールキャベツだった。

 「おー!ロールキャベツ,美味しそう」

 「いいから運んで」

 「はーい」

 主食となるロールキャベツの他,みそ汁,白米,ほうれん草のおひたし。しかしそれは二人分しかない。この空間にいるのは三人なはずなのに。

 「花梨。食べないの?」

 「いらない,お菓子でお腹いっぱい」

 「そう」

 私の方を見向きもしない妹の姿に少し素っ気ない返しになってしまう。ここ最近の花梨は一日二食へと食べるの事を減らしていた。それはダイエットなどという女子が一生のうちに一度はやろうと決心するものではなく,ただ単に面倒くさいかららしい。ゲームをし続ける花梨を放っておき,母さんと私はご飯を食べ始める。機械音がカチャカチャとした箸を動かす音へと変わっただけで会話という会話はない。そのため学校で食べるよりも早く食べ終わる。

 「ごちそうさまでした」

 「水につけておいてね」

 「うん!」

 お盆を取り出しお茶碗達を流しへ入れる。その時ふと目線を上げると丁度母さんの心が目に映ってしまった。それは,花梨と同じく継ぎ接ぎだらけのくすんだ心だった。花梨と違うところと言えば継ぎ接ぎの中に大小異なる切り傷があること。そこからは心の色と同じ,くすんだ赤色の液体が,締まりきっていない蛇口から出てくる水のように垂れている。

 (…嫌なものを見た)

 私は慌てて目線を下へと戻す。花梨のは自分から見るくせして母親の心は見過ごす。それどころか嫌なものとまで思った。そんな自分へ嫌悪感が増す。この家…いやこの家族の一人として暮らすのであればやっぱりこの目は嫌な目となる。

 「私,部屋にいるね」

 食器を片付け終わると,誰も反応しないリビングへ声をかけ,私は逃げるように自分の部屋へ入る。扉を閉めると安心したのか身体から,吸ってしまった嫌な空気が少し抜けた気分になる。この家の住民は全員心に傷を負っている。学校で見る同級生達が負う心の傷はかすり傷などが多い。けれどその中にはやっぱり,何食わない顔をして大怪我を負っている者たちもいる。ハンマーで殴られたように心が凹んでしまっている図書委員の女子。刃が刺さったままになっているクラスの中心にいるような男子。数え始めればきりがないのではないか。それと同じだ。妹は不登校になる前に負った傷が直らない。二年かけてやっと塞がるところまでいったが今でも時折その結び目が解けそうになる。母親は父親との喧嘩が続き,日に日にその傷を増やしていった。性格上,少し被害妄想も入っているため,たまに自分で武器を生み出しそれを自身の心に当てている。やっている本人は自覚が無いだろうが,やってしまっていることには変わりない。そして父親。家に帰って来るのは真夜中で朝は早くに出ていくため顔を合わせることは殆どない。父親は母親とは真反対で人の悪意などにひどく鈍感だった。そのため傷も家族の中だと圧倒的に少ないけれど最近は長く続く残業により睡眠時間が削られているのか,酷く機嫌が悪い。そこへ夫婦喧嘩が入るともう最悪だった。母親は言いたいことだけ言うと自身の部屋へ逃げ,その後自分で被害者面。父親も母親から一方的に浴びせられた暴言の嵐に傷つく。そんな環境にいるせいか花梨の傷は中々塞ぎきらず開いたり閉じたりを繰り返していた。まさに負の連鎖だった。きっとこの目が無くとも分かるほどの心の傷つけ合い。
 ああ,今日は駄目だ。いつもは諦めろと,これが現実だと抑え込む気持ちが溢れて仕方がない。何で?何で私の家はこうなんだろう。神様が居るのなら教えて欲しい。そう,大勢の人の前で叫び散らかしてやりたかった。でも家庭環境で悩む人なんかそれこそ星の数ほどいるだろうし,私の家なんかよりも酷い家は多い。そう断言できるのはこの目で見てきたからだろう。

 「寝てしまえ,忘れろ」

 薄茶色のワンピースに顔を埋め自分の心へ落とすように言う。寝れば,多少はスッキリする。こうして起きていて色々考えるよりは百倍いい。別に睡眠障害ごあるわけでもない,悪夢を見るわけでもない,手が震えるわけでもない,頭が痛くなるわけでもない。本当に何でもない。心の傷が深い人は身体に変化が起きる。花梨だってそうだった。二年前の学校へ行けなくなる前は寝れていないのかその目にくまをつくっていた。母親の手は定期的に細かく震えている。そりゃあそうだろう,あんだけ心にある傷が深いのだから。
 私はまるで肉食獣がいる檻から抜け出した草食動物のように小さく縮こまり布団を被った。

 「大丈夫,これは普通。普通なんだ……」

 そう唱えながら目を瞑る。私はこの黒い空間が好きだった。こうしていれば,何も見なくて済むのだから。人の心の傷なんかを見なくて済むのだから。大丈夫こうしていれば大丈夫。これは―――きっと普通なんだ。家族関係で悩むのもきっと誰しもが経験することなんだ。心の傷が見えてしまうから大ごとに見えるだけで,見なければ大丈夫なんだ。
 私は今日も暗闇へと意識を手渡した。