夜明けの空と君への言葉の武器



 「川浪(かわなみ)さん,家庭科の先生には連絡したからこの一時間はここにいるといいわ」

 「すみません,いつもありがとうございます」

 白衣姿の三十代前後の保健室の先生は優しげな声でそう言う。確か宮城(みやぎ)先生と言った気がする。何度も転びながら私は授業開始から約十分後,ようやく保健室へとたどり着いた。私を見た宮城先生は驚いたようすをしながらも,氷水で痣を冷やし湿布を貼ってくれた。なぜこうなったのかなど色々と聞かれたが,曖昧に答えなんとか誤魔化した。けれど無理して歩いて来たせいで痣の腫れが酷くなった事についてはこっ酷く怒られた。
 校長室にありそうな,ふかふかな長椅子に腰を深く下ろし私は安心し息を吐く。中学校へと上がってからの一番の危機は何とか終わったようだった。

 「川浪さん,ごめんなさい私少し呼ばれちゃってて」

 「あ,はい。私は大丈夫なので行っちゃってください」

 怪我した生徒を置いていくことを躊躇ったのか申し訳ない顔で言ってきた宮城先生へそう言う。
 「すぐに戻るから」そう言い残し先生は廊下を全力疾走で走っていった。あれを生徒に見られたら先生なら走っていいのかとグチグチ言われてしまいそうだなと少し心配になる。
 私以外誰も居なくなり静かになった保健室。体育の授業などで怪我をした生徒がすぐに来れるよう,校庭に面したこの場所では教室では絶対に聞くことがない体育の授業を受けている生徒や先生達の声が聞こえる。その声を聞いているとさっき消したはずの槍が頭の中で浮かんできた。それ以外にも今朝見たBB弾の銃。廊下で見た弓矢達。話し声の全てに,武器が付いている錯覚を感じる。校庭から響く声。
 あれの中にも言葉の武器は紛れているのだろうか。

 「疲れる」

 人の心の傷が見れるようになってからずっとこれだ。学校という場所が息苦しくてしょうがない。声が聞こえるとそこから武器が現れているんじゃないかと想像し,人の顔の横に位置するそれを見たくなく,人の顔を見るのが怖くなった。
 大きな武器が浮いていたら無意識のうちに触れてしまい,こうして怪我をする。小学校の頃は武器が浮いていたら必ずと言ってもいいほど触れてしまっていたため年中怪我をしている状態だった。私は保健室の常連客だった。中学に上がってからはそんな事にならないように気をつけているが,他の生徒よりもここに来ることが多い事には変わらない。友達は少ないとは思っていないし,いい人ばっかりだと思っているがいつ手の平を返し武器を持つか。変な思考に取り憑かれているような気分だ。私は目を瞑り忘れるように努力する。しかし,それらが離れることは無い。
 水でも飲もう。気分を変えないと。確か保健室にはウォーターサーバーがあるはず。飲んではいけないなんて言われていないしいいだろう。そう思い私は目を開ける。

 「あ,起きた」

 「ギャッ!?」

 女っ気のないそんな悲鳴を上げる。
 誰も居ないはずだった保健室にはいつの間にか人がいた。しかしそれは宮城先生ではない。そこに居たのは,ふわふわとした髪をしていて,私達の学年カラーである赤色の線が入ったジャージを着る男子だった。しかも,もの凄く見覚えがある顔だ。

 「海斗(かいと)。何でいんの」

 「こっちのセリフ」

 杉山海斗(すぎやまかいと)。幼なじみだった。そりゃあ見覚えのある顔だろうよ。私はいつの間にか現れた幼なじみに驚きを隠せないでいた。

 「いつからいたの」

 「少し前?何か体育で転けて保健室来たら先生じゃなくて翠が居るし,寝てるからどうしようか迷ってたところ」

 「はぁ」

 別に寝ていたわけじゃなかったとは言わず私は彼の膝へと目線向ける。

 「うわぁ。派手にやったね」

 「まあな」

 彼の膝は赤い血で塗られており,派手に転んだことがわかった。丁度今は百メートル,二百メートル走をやっているためその時に転けたのだろう。

 「それで先生は?」

 「あー。なんか呼ばれたとかでどっか行った」

 「まじか!どうしよっかなー。早く戻りたいのに」

 先生が居ないと聞くと彼は拗ねたような顔を見せる。中学二年生となった今でも海斗はそういう子供っぽい仕草をする。そこがいいんだよと友達が話していたのを聞いたことがあった。何がいいのかは私にはさっぱりだったが。

 「まぁ,いいや。戻る」

 「いや待て待て待て」

 酷い怪我をしているのにも関わらず,海斗は体育の授業へと戻ろうと靴を履こうとする。流石にその傷で戻らせるのは不味いので私は慌てて引き留めた。

 「先生いないし,別にもういいよ」

 「よくない。取り敢えずそこで傷口ゆすいで」

 「へーい」

 先生がいないのは,しょうが無いので私がどうにかすることにした。外にある蛇口で傷口を洗うように指示すると海斗は素直に従う。小学生の頃から保健室常連客である私なら手当てが出来ると思ったからだろう。
 その間私はタオルと絆創膏を取るためゆっくり立ち上がる。

 (少し歩くくらいなら大丈夫)

 まだ足首は痛むがさっきよりは大分ましだった。丁寧に畳まれたタオルと透明な棚の一つを開け,大きめの絆創膏を二枚手に取る。

 「翠ー。洗ったぞ」

 外で傷口を洗った海斗が声を掛けてくる。

 「ちょっと待って」

 出来るだけバレないようゆっくりと歩いて行く。
 海斗の場所まで後少しのところだった。

 「待て翠」

 「…何?」

 「お前足怪我してんだろ」

 「……」

 バレた。出来るだけバレないよう注意したはずだったが昔からの付き合いである彼にはいつもすぐに看破される。

 「俺のよりお前がしっかりとしろよ,ほら座った座った」

 「いいよ,もう痛くないし」

 「嘘つけ,お前が髪いじってる時は嘘ついてる時だ」

 「…何でそういう事わかるのか,……まさかストーカー」

 「人の親切は素直に受け取っとけよ」

 私は無意識のうちにいじっていた手を下に下ろし有無を言わさず海斗へタオルを押し付ける。

 「傷口,これで拭いて。擦らないでよ?」

 「だから座っとけって」

 「もう座るよ!」

 私は絆創膏を海斗の近くに置くと,さっきまで座っていたソファーまで,おとなしく戻る。海斗は私が戻った事を確認すると傷口へタオルを乗っけるようにし水滴を取り始めた。

 「にしても翠。次は何やったんだ」

 「……廊下で足捻った」

 宮城先生同様,嘘を付いた。海斗はその応えに苦笑する。

 「この間は階段から滑り落ちただっけ。お前昔からよく怪我するよな」

 「小学生の頃よりはましでしょ」

 「それもそうだな」

 海斗へ背を向け,彼が手当てし終わるまで話をする。私達はクラスが違うため久しぶりに話す。そのため話題が尽きるといった事は起きなかった。体感で五分たった頃。

 「よし終わった」

 海斗がそう言い立ち上がる音がした。後ろを振り向くと海斗の膝には私の渡した大きな絆創膏が貼られている。

 「悪い。翠ありがとな」

 「いーよ,また転ばないようにね」

 「おう!お前もまた怪我しないようにな」

 海斗は満面の笑みを見せ,校庭へと戻って行った。

 (うるさいほど元気だよな…)

 私は校庭へと続く入り口から海斗の姿を見る。彼はクラスの集団へと戻るとすぐ,男友達に囲まれて笑っている。その笑顔は幼稚園の頃から変わっていない。
 彼にもやっぱり心はある。けれど彼の心を見る事は不思議と怖くなかった。海斗の心は夜明けの空のようなグラデーションのかかった心で,赤,オレンジ,水色といった色をしている。夕日が一秒でも長くこの世界に光を灯すように,人よりも明るく輝く彼の心が,傷ついているのを私は見たことが無かった。そのせいか海斗の心が傷つくなんて事は昔から想像がつかない。
 それもあるからか,今ではしっかりと顔を見て話せる人はいつの間にか彼だけとなっていた。

 「暇…」

 海斗も居なくなり先生も戻って来る気配がない。行き場を見失った私の目は真っ白な湿布が貼られた足首へと行く。
 私があの時あの武器に触れていなかったらこの傷は理解Ⅱの先生へと出来ていただろう。しかし私がここまでして庇う必要は果たしてあったのだろうか。運動部の子が言った通り,あの先生の声は小さく私自身,少し不満が募っていた。一回,生徒達の不満の声を耳に入れされた方が良かったんじゃないのか。

 (……違う)

 しかしすぐにその考えは頭で打ち消された。
 これじゃあ,言葉の武器を作り相手を傷つけたほうがいいと言っているようなもの。それは違う,絶対に。
 人の心を軽く扱ってはいけない。それが誰の心だとしても。これだけはしっかりとさせておかなければ,これは私の唯一と言える自分の芯なのだから。
 これが揺らいでしまったら,いったいそこには何が残る?
 私は深く息を吐き湿布から目を離す。それと同時に廊下側に面する扉が音を立て開く。

 「川浪さん,大丈夫でした?」

 「…あ,はい!」

 用事で出ていっていた宮城先生だった。彼女は心配そうな,気遣うような声でそう言う。怪我を良くする私の事を危なっかしい子とでも思っているのだろうか。

 「そろそろ授業が終わるけど,歩いていける?」

 「はい,痛みもかなり引いたので。それに次の授業は国語で,座っているだけでいいので」

 「そう,それならよかった」

 先生に容体についての紙だけ書いてもらい,最後にもう一度お礼をして教室へと戻る。正直言って足の痛みも完全には引いていないし,色々と考えたせいで頭痛も加わったため,出来ることなら保健室でもう少し休みたかった。でも,あまりに保健室にいる子だと認識されてしまえば余計な心配を周りがする。
 この最悪な目を持った事以外はせめて普通の何ともない子でいたい。その一心だけで私は痛む足を引きずり教室へと目指した。