涼しかった店内とは違い外は蒸し暑かった。全身に嫌な空気がまとわつく。
「…疲れた」
海斗の手を引き逃げてきた先はいつもの古びた公園だった。一度も休まずに走ってきたせいか,いくら息をしても酸素が足りていないようだった。
「翠,ベンチ行って休んどけ。水買ってくる」
「…うん」
そんな私の様子を見てか海斗はそう言うと水を買うため私の手から離れた。流石と言うべきか海斗の息は切れていなかった。私はおとなしくいつものベンチへと腰を下ろす。
どっと疲れが襲ってきた。
さっきの海斗と海斗の母親の会話。海斗の母親の狂気じみた顔が脳裏に浮かぶ。そしてそれを見る海斗の酷く冷たい目と言葉の武器。
海斗から言葉の武器が現れたのは私が見た限り,あれが初めてだった。心臓の音がうるさい。
「ほら,飲めるか?」
頭上から声が聞こえ,私はゆっくりと上の見上げる。いつの間にか戻ってきていた海斗が水の入ったペットボトルの蓋を開け私に差し出してきていた。
飲めるとだけ言い私はペットボトルを受け取った。それより先に言うべきことはいくつも浮かんだが,それを聞くために声を発せるような状態ではなかった。受け取ったペットボトルは冷たく,上がっていた体温が少し下がったように感じる。
私が水を飲み始めると海斗は無言で隣に座った。
「……」
「……」
どちらも話さなかった。ただ風に揺られて葉がぶつかり合う音,鳥が鳴く音,どこか遠くから聞こえるサイレンの音だけが鳴る。人気のないこの公園らしい静けさだった。
体感で数分が経った頃沈黙に耐えきれなくなったのは私だった。
「…何であそこにいたの?海斗,カフェなんか行かないでしょ」
聞きたいことはたくさんあったが,私はそんなひねくれたような話しか言えなかった。地面をボーと見ながら海斗の返事を待つ。
「……父親に買い物頼まれた帰りだったんだよ…」
「……そー」
災難だったね。そう言おうとしたが,寸前の所で止めた。事情を知っているわけでない,ただの妄想で話そうとした自分に少し腹が立った。そして,少し前に海斗が家族と良好な関係を築いているなんて決めつけた事を思い出し胸が締め付けられるように感じた。
再び沈黙の時間が訪れることはなかった。
「何か言われたか?」
「誰に?」
「さっきお前と一緒にいた人に」
「……特には」
元気にしているかなど,どうでもいいような事ならたくさん聞かれたが。とは口にしなかった。
「しいて言えば……」
「何?」
「やっぱ何でもない」
「…何言われたんだよ」
海斗がサッカーを辞めた事を知らなかった。そう言おうとしたが,口にしようとしたところで止めた。これを今言ってしまえば海斗を,何か良くない方向へ落としてしまうような気がしたから。けれど遅かった。
「あいつに…何言われたんだよ?」
微妙な所で止めた私の話を海斗は聞き出そうとしてくる。どう話せばいいかわからず私は何も言わない。空を見上げていた海斗の視線は,いつの間にか私の方を向いていた。その顔には普段見せない焦りが浮かんでいた。
「頼むから…教えてくれ」
「……何もなかったよ」
「じゃあさっきのは何だよ!」
「間違えただけ!」
「嘘つけ!」
海斗は今日一番の声量でそう言った。全てを投げ出すかのように下を向いて。
私はまた何も言えなかった。ただ海斗の心の周りに小さな刃が浮かび上がるのを見るだけだった。
いつも綺麗に輝いていた夜明けの空のような,その心は黒い靄がかかっている。それはまるで日が完全に沈んでしまい光のない夜へと変わってしまったようだった。
「……海斗」
私がそう名前を呼ぶと彼は顔を上げ私を見た。口を結び,手を震わせ,目は太陽の光によって光って見えた。
私がその顔を見たときには海斗は立ち上がっていた。
「まって!」
公園の出入り口へと海斗は駆け出す。
海斗の心の周りを舞っていた刃が小さな傷を彼の心へとつけていくのが見えた。
「海斗!まって」
海斗を止めるため追いかけるが,足の速さが違うため距離はどんどん離される。
古びた住宅街を右へ左へと曲がっていく海斗の背中はついに見えなくなった。
「……何で」
私の口から出てきたのはそんな言葉だけだった。
どこかもわからない住宅街の真ん中でただ立ち尽くすだけで,見失った海斗を探す気力すらわかなかった。
そんな私を責め立てるかのように夏の暑さは襲ってくる。
(何も出来なかった)
いつもそうだ。周りで苦しんでいる人はたくさんいるのに私は何も出来ない。
花梨がいじめで悩んでいる事なんて知りもしなかった。数年経っても過去から逃れられない花梨にそれっぽい言葉を掛けてあげるだけで引っ張り出すことは出来ない。
花梨が悩んでいる時助けられなかった後悔をなくしたくて陽鞠を助けようとしたけど結局助けたのは私じゃなくて違う人だった。
海斗だってそうだ。昔から一緒だったのに私は,あいつはいつも元気だからって大丈夫だと決めつけていた。
人の心の傷が見えるのに,本人よりも早くに気がつけるのに私はいつも助けられない。
「……何で神様は私なんかにこの目を渡したの?」
もっといい人がいたはずだ。私よりも気が利いて,何気なく話を聞いてあげれる人間がこの世には居たはずなのに何で私がこれを持っているんだろう。
何も出来ない。家族も,友達も誰の助けにもなれていない。
「何で……」
そんな私の問いに誰も答えてくれる人はいない。
いつまでもここで立ち尽くすわけにもいかず私は誰もいない公園へと足を運んだ。
ベンチには海斗の渡してくれたペットボトルが寂しそうに座っていた。それが今の自分のようで虚しくなる。
ベンチへと腰を下ろす。
さっきの海斗のように空を見上げると,そこには眩しいほどの空があった。雲一つない,悩みのないような澄み切った青空だ。
「こんなに綺麗な心を持ってる人間何かいないのになー…」
私はそう自虐気味に笑った。
私は今まで勘違いしてきたのだろう。綺麗で彩り取りな,空には悩みがないなんて馬鹿な勘違いをしていた。本当に悩みがないのは,今私の上に浮かんでいる青空だ。どの色にも染まらない一色だけで作られた青空。赤と黄色を混ぜて作ったオレンジでもなく赤と青を混ぜて作った紫でもない。自分の意思を突き通す,そんな心を持った人間は一体世界で何人いるのだろうか。少なくとも私は,見たことがなかった。そうだ,そんな人間はいないんだ。なのに私は勘違いしてきた。勝手に綺麗な心だと,悩みなんてないと決めつけてきた。むしろ逆だったのに。色々な思いが混ざりあって出来たのが,あの夜明けの空のような心だったのだ。
(あぁ。そうか)
私はそこまで知ってやっと思い出す。
今では黒くくすんだ心をしている花梨の心は,本来なら海斗のように綺麗な朝焼け色をしていた。見えるくせに,私が一番分かっていなかった。みんな明るい仮面を被っていただけだったんだ。いろんな思いを胸に抱いて自分を奮い立たせて立っていただけだったんだ。
この目を持ってそろそろ十年になる。遅かった。言葉の武器ばかりを見て,怯えて。その心をしっかりと見ていなかった。だから手を差し出すなんてこと出来るわけがなかったんだ。
ほとんど言い訳だ。今まで見てこなかった事実が変わることはない。けれど私は,今からでも見なければいけない。ほとんど自己満のこの気持ちを,少しでも他人のために出来るのなら。
「…行かないと」
私はベンチから立ち上がる。隣に座っていたペットボトルに光が当たりキラキラと輝く。それはまるで私の背中を押してくれるようだった。
「親切な空だったな…」
私は空に向かって小さく礼をした。
「…疲れた」
海斗の手を引き逃げてきた先はいつもの古びた公園だった。一度も休まずに走ってきたせいか,いくら息をしても酸素が足りていないようだった。
「翠,ベンチ行って休んどけ。水買ってくる」
「…うん」
そんな私の様子を見てか海斗はそう言うと水を買うため私の手から離れた。流石と言うべきか海斗の息は切れていなかった。私はおとなしくいつものベンチへと腰を下ろす。
どっと疲れが襲ってきた。
さっきの海斗と海斗の母親の会話。海斗の母親の狂気じみた顔が脳裏に浮かぶ。そしてそれを見る海斗の酷く冷たい目と言葉の武器。
海斗から言葉の武器が現れたのは私が見た限り,あれが初めてだった。心臓の音がうるさい。
「ほら,飲めるか?」
頭上から声が聞こえ,私はゆっくりと上の見上げる。いつの間にか戻ってきていた海斗が水の入ったペットボトルの蓋を開け私に差し出してきていた。
飲めるとだけ言い私はペットボトルを受け取った。それより先に言うべきことはいくつも浮かんだが,それを聞くために声を発せるような状態ではなかった。受け取ったペットボトルは冷たく,上がっていた体温が少し下がったように感じる。
私が水を飲み始めると海斗は無言で隣に座った。
「……」
「……」
どちらも話さなかった。ただ風に揺られて葉がぶつかり合う音,鳥が鳴く音,どこか遠くから聞こえるサイレンの音だけが鳴る。人気のないこの公園らしい静けさだった。
体感で数分が経った頃沈黙に耐えきれなくなったのは私だった。
「…何であそこにいたの?海斗,カフェなんか行かないでしょ」
聞きたいことはたくさんあったが,私はそんなひねくれたような話しか言えなかった。地面をボーと見ながら海斗の返事を待つ。
「……父親に買い物頼まれた帰りだったんだよ…」
「……そー」
災難だったね。そう言おうとしたが,寸前の所で止めた。事情を知っているわけでない,ただの妄想で話そうとした自分に少し腹が立った。そして,少し前に海斗が家族と良好な関係を築いているなんて決めつけた事を思い出し胸が締め付けられるように感じた。
再び沈黙の時間が訪れることはなかった。
「何か言われたか?」
「誰に?」
「さっきお前と一緒にいた人に」
「……特には」
元気にしているかなど,どうでもいいような事ならたくさん聞かれたが。とは口にしなかった。
「しいて言えば……」
「何?」
「やっぱ何でもない」
「…何言われたんだよ」
海斗がサッカーを辞めた事を知らなかった。そう言おうとしたが,口にしようとしたところで止めた。これを今言ってしまえば海斗を,何か良くない方向へ落としてしまうような気がしたから。けれど遅かった。
「あいつに…何言われたんだよ?」
微妙な所で止めた私の話を海斗は聞き出そうとしてくる。どう話せばいいかわからず私は何も言わない。空を見上げていた海斗の視線は,いつの間にか私の方を向いていた。その顔には普段見せない焦りが浮かんでいた。
「頼むから…教えてくれ」
「……何もなかったよ」
「じゃあさっきのは何だよ!」
「間違えただけ!」
「嘘つけ!」
海斗は今日一番の声量でそう言った。全てを投げ出すかのように下を向いて。
私はまた何も言えなかった。ただ海斗の心の周りに小さな刃が浮かび上がるのを見るだけだった。
いつも綺麗に輝いていた夜明けの空のような,その心は黒い靄がかかっている。それはまるで日が完全に沈んでしまい光のない夜へと変わってしまったようだった。
「……海斗」
私がそう名前を呼ぶと彼は顔を上げ私を見た。口を結び,手を震わせ,目は太陽の光によって光って見えた。
私がその顔を見たときには海斗は立ち上がっていた。
「まって!」
公園の出入り口へと海斗は駆け出す。
海斗の心の周りを舞っていた刃が小さな傷を彼の心へとつけていくのが見えた。
「海斗!まって」
海斗を止めるため追いかけるが,足の速さが違うため距離はどんどん離される。
古びた住宅街を右へ左へと曲がっていく海斗の背中はついに見えなくなった。
「……何で」
私の口から出てきたのはそんな言葉だけだった。
どこかもわからない住宅街の真ん中でただ立ち尽くすだけで,見失った海斗を探す気力すらわかなかった。
そんな私を責め立てるかのように夏の暑さは襲ってくる。
(何も出来なかった)
いつもそうだ。周りで苦しんでいる人はたくさんいるのに私は何も出来ない。
花梨がいじめで悩んでいる事なんて知りもしなかった。数年経っても過去から逃れられない花梨にそれっぽい言葉を掛けてあげるだけで引っ張り出すことは出来ない。
花梨が悩んでいる時助けられなかった後悔をなくしたくて陽鞠を助けようとしたけど結局助けたのは私じゃなくて違う人だった。
海斗だってそうだ。昔から一緒だったのに私は,あいつはいつも元気だからって大丈夫だと決めつけていた。
人の心の傷が見えるのに,本人よりも早くに気がつけるのに私はいつも助けられない。
「……何で神様は私なんかにこの目を渡したの?」
もっといい人がいたはずだ。私よりも気が利いて,何気なく話を聞いてあげれる人間がこの世には居たはずなのに何で私がこれを持っているんだろう。
何も出来ない。家族も,友達も誰の助けにもなれていない。
「何で……」
そんな私の問いに誰も答えてくれる人はいない。
いつまでもここで立ち尽くすわけにもいかず私は誰もいない公園へと足を運んだ。
ベンチには海斗の渡してくれたペットボトルが寂しそうに座っていた。それが今の自分のようで虚しくなる。
ベンチへと腰を下ろす。
さっきの海斗のように空を見上げると,そこには眩しいほどの空があった。雲一つない,悩みのないような澄み切った青空だ。
「こんなに綺麗な心を持ってる人間何かいないのになー…」
私はそう自虐気味に笑った。
私は今まで勘違いしてきたのだろう。綺麗で彩り取りな,空には悩みがないなんて馬鹿な勘違いをしていた。本当に悩みがないのは,今私の上に浮かんでいる青空だ。どの色にも染まらない一色だけで作られた青空。赤と黄色を混ぜて作ったオレンジでもなく赤と青を混ぜて作った紫でもない。自分の意思を突き通す,そんな心を持った人間は一体世界で何人いるのだろうか。少なくとも私は,見たことがなかった。そうだ,そんな人間はいないんだ。なのに私は勘違いしてきた。勝手に綺麗な心だと,悩みなんてないと決めつけてきた。むしろ逆だったのに。色々な思いが混ざりあって出来たのが,あの夜明けの空のような心だったのだ。
(あぁ。そうか)
私はそこまで知ってやっと思い出す。
今では黒くくすんだ心をしている花梨の心は,本来なら海斗のように綺麗な朝焼け色をしていた。見えるくせに,私が一番分かっていなかった。みんな明るい仮面を被っていただけだったんだ。いろんな思いを胸に抱いて自分を奮い立たせて立っていただけだったんだ。
この目を持ってそろそろ十年になる。遅かった。言葉の武器ばかりを見て,怯えて。その心をしっかりと見ていなかった。だから手を差し出すなんてこと出来るわけがなかったんだ。
ほとんど言い訳だ。今まで見てこなかった事実が変わることはない。けれど私は,今からでも見なければいけない。ほとんど自己満のこの気持ちを,少しでも他人のために出来るのなら。
「…行かないと」
私はベンチから立ち上がる。隣に座っていたペットボトルに光が当たりキラキラと輝く。それはまるで私の背中を押してくれるようだった。
「親切な空だったな…」
私は空に向かって小さく礼をした。



