「ただいま!」
海斗との勉強会が終わり,私が家に帰ったのは6時を過ぎた頃だった。玄関に置いてある靴の数は二足。今日も父親は居ない。この間いた方がおかしかったんだ。
「おかえり」
私がリビンクまで行くと母さんがソファーで寝っ転がっていた。いつも座っているはずの花梨は何処にもいない。
「花梨は?」
「部屋」
私の問いに短く返された言葉に,私はまたかと心の中で思った。
母さんと花梨は定期的に喧嘩をする。喧嘩は大抵昼間,私が学校に行っている間に起こるため喧嘩のようすは見たことがなかった。けれど母さんが毎回私に文句を垂れるため,何となく想像することは出来る。
荷物を自分の部屋に置き,手を洗って戻ると母さんがやっぱり文句を言ってきた。
「今日も花梨が暴れてさ,学校に行かないのにゲー
ムばっかりしてるから少し口出しただけなのに」
「そっか,大変だね」
「ほんとだよ」
きっと母さんのいう少しは全然少しじゃないんだろうなと私は思った。けどそれを口に出すことなんてしない。あくまで私は母さんの味方なんだから。
「翠も花梨に何か言ったらどう?妹でしょ」
「……母さんの話も聞かないのに私の話を聞くかな」
そんな私の小さな本心は,母さんの耳には届かなかったようだった。苛ついた気持ちを前面に表し,母さんは私と同じ長い髪を掻きむしる。
「あー,本当に面倒くさい。翠,悪いんだけど私寝るから夜は適当に食べておいて」
「うん!わかった」
ゆっくり休んでと私は声をかけ,寝室へ向かった母さんの後ろ姿を眺める。寝室のドアが閉まったことを確認すると口からほっと息が漏れた。
母さんの心はぐるぐると黒く靄が渦巻いていて色々な感情が溢れているのがわかった。あそこで下手に刺激するよりも寝てもらった方が安全だと思ったから私は素直に寝ていいと言った。本音を言うなら簡単な物でいいから何か作って欲しかった。けど,そんな事は言えない。言ったら母さんの心がまた,壊れて暴れてしまいそうだったから。まだ時間は六時三十分。夕飯を食べるにはまだ早い。
「どうしようかな…」
気が立っている母さんがいるのに,変な事をしたら怒られるのは目に見えている。私は素直におとなしく勉強をする事にした。自室に戻っても花梨の部屋,母さんの寝室が近くにある。ならリビンクのテーブルで勉強した方が変に刺激することもない。私は今日勉強しようと思い,公園に持っていったが結局出来なかった社会のワークをテーブルに置く。シャープペンを動かす音だけが家に響く。時折どちらかの部屋から何かを投げる音が聞こえる。けれどもう,これも慣れっこだった。ただの音と聞き流す。
三時間ほど勉強をすると流石に集中力が切れた。時計を見ると既に九時をまわっていた。明日は学校がない。どうにも寝付ける自信が無かったため今日は遅くまで起きる事にする。
「お腹すいたな」
そうつぶやき,今日は夕飯を自分で作らないといけない事を思い出す。カップラーメンでいいかなと思い私は一番シンプルなカップラーメンを取り出す。キッチンに行き,お湯を沸かす。
(何してるんだろう)
ふとそう思った。家族がいるはずなのに,私以外誰もいないように静かな家。時折聞こえる衝突音は幽霊がやっているのではないかと思う。いや,幽霊の方が可愛いかもしれない。ただプカプカと浮いているだけで特に何も話さない。そんな幽霊だったらいいな。きっと幽霊は人間よりも綺麗な心を持っているだろう。あんな傷ついて壊れて,ボロボロなんかにはなっていないんだろうな。
それとも人間も私の想像する幽霊みたいに綺麗な心を持っているのだろうか。私の家の隣の家では温かい夕食を家族で囲み食べているのかもしれない。傷を負っても家族で時間を掛けて治していくのかもしれない。家族同士で傷つけ合いなんかせずに。
きっと海斗の家はそんな感じ何だろうなと思う。だからあんなにのびのびと明るく笑って夜明けの空のように綺麗な心を持てるんだろう。
気が付いたらお湯が沸いていた。私はカップラーメンの蓋を開けお湯を注ぐ。
「何…食べてるの?」
「ふわっ!?」
突然掛けられた声に私はお湯をこぼしそうになった。横を向くとそこには部屋に籠もっているはずの花梨がいた。その目は赤く腫れている。
「カップラーメンだけど」
「へー」
私は特に隠す必要もないので,素直に答える。
花梨の視線はお湯を注いだカップラーメンへと向いている。
確か,私が帰ってきた時には花梨は既に部屋に籠もっていた。そうなると夕飯はまだ食べていないんだろう。私はお湯を注いだカップラーメンの中に花梨の好きな韓国海苔を数枚入れてやる。
「花梨。もう一つカップラーメン持ってきて」
「……わかった」
花梨が持ってきたカップラーメンに残りのお湯を注ぐ。テーブルにお箸とカップラーメンを持っていき花梨に座るように言う。
「食べていいの…?」
「夕飯は自分でやれって言ってたしね」
「そっか…」
三分が経ち私達はカップラーメンを食べ始める。どちらも,何も話さない。喋るのが好きだったはずの花梨はいつの間にかあまり話さなくなっていた。
「今日ね……お母さんに学校に行かないのに,何でゲームなんかしてるのって言われた」
半分を食べた頃,花梨が唐突にそう言った。
「ゲームしてる暇があるんだったら勉強しなさい。学校に行きなさい。将来自分が後悔するって,何回聞かされたかわからない事ばっかり言われた。………私が……本当に欲しいのはそんな事じゃなくて……彼奴等がいなくたって友達がいたって,怖いものは怖いのに」
花梨の言葉に私は何も言わない。ただ,静かに聞いている。
「あの時お母さんが私の為に学校に行って怒ってくれた時……私,凄く嬉しかった。だけどお母さんはそこからは学校に行けとしか言わなくて」
うん,知ってるよ。あの人は,あの日学校に乗り込んだ時にしか,花梨の事を見ていなかった。そこからは,ただ呪文のように学校に行けとしか花梨に言っていない。だからきっと――
「お母さんが好きだったのは,あの頃のしっかり者で明るい私何だろうな……」
花梨は私が思っていた事と全く同じ言葉を口にした。
私は「そんな事無い」なんて慰めの言葉は言えなかった。だってきっとそうなんだから。母さんが好きだったのはあの頃の花梨で,あの頃の姿に戻って欲しいから学校に行けと毎日口にするんだ。
いつの間にか花梨の手は止まっていた。隣に浮く心の傷は,せっかく縫われて塞がってきていた部分からブチブチ音を立て,またほどけていく。
「もう……過去に戻る事なんて出来ないって何でわからないかな」
「…本当ね」
私はそこで初めて口を開いた。
過去には戻れない。私はずっと当たり前のそれを思っている。昔,私が顔も名前もわからない人間の心を傷つけてしまった事を自覚したあの日から。
陽鞠と花梨は似ていた。明るくてしっかり者で,だけど自分の中で溜め込むところ。一つ違うとすれば手を出してくれる人がいたか,まだいないか。私がその手を出せればいいが,私には出来なかった。この数年ずっと。そしてきっとこれから先も私は手を差し出すことは出来ない。
「母さんには,今の私達はどう見えているんだろうね」
気が付いたら私の口からはそんな言葉が出ていた。その声は自分でも驚くほど冷たい声だった。
「翠は……きっといい子に写ってるよ」
花梨の言葉に私は首を振る。
違う。私はそんなんじゃない。たった一人の妹にすら何も出来ないただの臆病な人間。家族が壊れていくのを黙ってみていることしか出来なかった。今だって花梨の心が傷ついているのにそれらしい言葉を何一つとしてかけられない。ただ,お腹をすかせた妹にお湯を注いだだけのご飯をあげることしかしてない。私は花梨に何かそれらしき事を言ってあげたくて,必死で言葉を探す。
「…花梨は,今のままでいい……なんて事は言わない」
「……」
「ずっと今のままはやっぱりつまらない。ずっとこの狭くて息苦しい,母親からぐちぐち言われるだけの世界なんて苦しいだけ。だから,何処かで一歩踏み出さないといけない。その何処かはいつでもいい。中学生?高校生?それとも学生生活が終わった後かもしれない。その何処かで花梨が一歩踏み出したいと思うんなら………私はそれを精一杯手助けする」
結局私はこの,いつかも分からない約束しか出来なかった。本当に手を差し出すのか。ずっと出さなかったのに。
だけどそんな私の裏側とは別に花梨は何処か嬉しそうに頷き,カップラーメンの続きを食べ始めた。
その心は壊れていくのを止めていた。
私も残り少ない夕飯を食べ始める。私の今の言葉は妹のためになったのだろうか。ただの自分の自己満な気がしてたまらない。壊れていく心を止めたいだけの自分の自己満にしか。

