「それで,水素の化学式は?」
「あー……H?」
「H₂ね。それはただの元素記号」
「混じらわしいのが悪い」
来希は投げ出すようにシャープペンをベンチへ置く。私は思っていた以上に問題が解けない海斗に少し驚いていた。海斗に勉強を教え始めてから二日目。取り敢えず数学を除く四教科の問題を軽く出してみて一番正答率が低かった理科をやっているが,これがなかなかに手強かった。
「海斗,今回のテストは元素記号,化学式らへんはしっかり覚えとかないと本当に点数取れないよ」
「わかってるって。でもなこんなに量ある記号を全部覚えられるわけがないだろ」
物質名,そしてそれらに付けられた記号達が書かれたプリントを私の前に突き出し唸る海斗。暗記系が苦手な海斗にとっては苦痛で仕方がないだろうなと他人事のように考える。
「はい,次は酸素の化学式」
「あーー。……何だっけ」
ベンチに顔を置く海斗の集中力は既に切れていた。このまま続けると頭がパンクして,煙が出てきそうだったので少し休憩を取ることにする。
私は持ってきていた個包装のチョコを一つ海斗へ渡す。
「お,くれんの?」
「うん,それあげるから次はもう少し集中力を保ってよね」
「えー」
不満そうな声をしながらも海斗は私の渡したチョコを食べる。食べたからにはしっかりと集中してもらわないと。
海斗の勉強が再開するまでの間,私は持ってきていた英単語帳を開く。
「英単語?」
「そう。誰かさんのせいで自分の点数が下がったりなんかしたくないからね」
「いつもありがとうございまーす」
そんな海斗の感謝の籠もっていないお礼を聞きながら私はページをめくっていく。私の家は特別勉強にうるさい訳では無いが,あまり点数が下がるとぐちぐち言われるため人並みには勉強をしなければいけない。
「翠の親ってそこまで勉強にうるさかったっけ?」
勉強している人の隣で返答を求める話をし続ける海斗。しかし「親」というキーワードを言われたからには答えたほうがいいと私は思った。きっと海斗は花梨が不登校になっているのも知らない。私の親のイメージも小さい頃のままだ。だったらずっと昔のままのイメージでいてほしい。今の親より昔の方が優しかったのだから。
「別に親に言われなくても,真面目な子は勉強をち
ゃんとするんだよ」
「そーいうもんか」
「そうだよ。海斗こそこんなに勉強出来なくて親に何か言われたりしないの?」
嫌味を含み私は海斗に言ってやった。海斗が私の親へのイメージが昔で止まっているように,私の海斗の親へのイメージも昔で止まってしまっている。確か,綺麗なショートヘアのお母さんと背の高いお父さんだった気がする。どちらも一人っ子の海斗を大切にしているようすが幼いながらにわかった。あんなに大切にされていたんだ,今でもきっと大切に,幸せに暮らしているんだろう。
「………別に何も言われないな」
海斗が言った言葉は予想通りのものだったが,その声は予想外のもので,素っ気ないというか酷く淡々としているように感じた。いつも明るく話す彼とどこか違っていて私は違和感を感じる。
「ま!別に親が何も言わなくても友達からからかわれるのも嫌だから今回はちゃんと勉強するつもり」
しかし違和感があったのは始めだけで次に言った言葉にはいつも通りの明るさがあった。
(考えすぎかな…)
普段通りの海斗を見て私は,さっきの言葉は嘘だったんじゃないかと思う。
「よしと,それじゃあ勉強再開といくか」
海斗が再びワークを開いたのを見て私は,無駄に考える事を辞めた。きっと気の所為だったんだ。変に深く考えすぎてしまった。それが何だか馬鹿らしく思え私も英単語帳に向かう。
「それじゃあ,また覚えたと思ったら教えてね。テストするから」
「次は変に難しい問題だすなよ?」
「さっきの問題。一番簡単なやつなんだけど」
私が真面目なトーンで答えると,海斗は何故か笑い出す。それにつられて私も口元が少し緩む。勉強は捗らないけど,こうしている時間は楽しく思えた。

