人には心がある。それは絵で描くようなハートの形はしていなく,綺麗な丸い形をしていて朝を迎えたばかりの空のように薄い青色をしていた。しかしそれは生まれたばかりの赤子の心であり,思春期を迎えた中学生の心は違う色を持っている。
 2−3と書かれた木の看板がつけられた扉を横へと開く。そこには同じ服装の学生達が各々好きな様に過ごしている。私はいつも通り色とりどりに浮かんでいる丸いそれを見ないよう,下を向きながら入って行った。

 「(すい)やっほー」

 「昨日ぶりー」

 私が席に着くと高く可愛らしい声をした女子が一人話しかけてくる。
 村宮陽鞠(むらみやひまり)このクラスになり,始めて出来た友達だった。挨拶をするため私は反射的に彼女の顔を見る。
 顔を上げてからしまったと思ったが,陽鞠の横に位置するシャボン玉のような球体が赤の多い暖色のグラデーションとなっているのを見てほっと息をつく。

 「昨日の宿題やってきた?」

 「勿論」

 「勿論?」

 「やってないに決まってるでしょー」

 「よーし,今すぐやろう。まだ間に合う」

 「えー」

 駄々をこねる子供のような友達へノートとワークを持ってくるよう言うと渋々自分の席へと戻っていった。その姿を見送ると私はいつもの癖で一度,クラスを見渡してしまう。辞めようと毎朝心に決めてもこればかりは直らなかった。教室では笑う者,静かに本を読んでいる者,何処を見つめているのか無表情な者など人によって好きな様に過ごしている。そしてその全員の近くには丸いシャボン玉の様な物が浮かんでいた。
 それは人間の心だ。私の目は人の心を具現化し,見ることが出来るという,何とも不思議な目だった。しかし心と言っても相手が何を考え,何を思っているかなんてものは分からない。
 私が分かるのは――

 「お前のそういうところ本当馬鹿だよな」

 「それなー」

 私の席の右斜め前の机を囲み,朝から耳に響く声を撒き散らすのは,とある男子の三人組。大柄な男子と四角い眼鏡をかけたヒョロガリ男子,そして頭を全てバリカンで剃った坊主頭男子の三人組だ。彼等の騒がしい声は五月になりクラスが馴染んできたこの時期には,聞き流されるものとなっている。しかし私は毎朝彼等の声に耳を傾けてしまうし,見てしまう。そんな私の視線に気が付きもせず男子達は会話を続ける。

 「この間もな,裏路地から飛び出してきた猫に腰抜かして驚いてたんだぜ。こいつ」

 「やっば,女子かよ」

 「ちげーし」

 バリカン男子が他二人に色々と言われている声が聞こえてくる。バリカン男子は特段気にした様子もなく笑って済ませている。ただのじゃれ合いだ。そんな事くらい分かっている。しかし私の目に映る輪ゴムの矢がそんな考えを否定してくる。輪ゴム鉄砲とでも言うのだろう。それが大柄な男子と眼鏡の男子の横に位置し二人がバリカン男子へと言葉をぶつけるのを掛け声とし,輪ゴムの矢を飛ばしている。それはバリカン男子へと―――ではなくその横に浮かぶ黄色い球体へと容赦なくぶつかっていく。
 (黄色いから…別に大丈夫かな)
 私は人の心が見れる。それは人の感情が分かるわけではなく,人の心の傷がわかるというものだった。そして言葉には魂が宿っているとは良く言ったもので,確かに武器という魂が宿っていた。悪口,陰口何の気なしに放った言葉,敵意を持った視線。それら全てが武器となり人の柔らかい部分。つまりは心へと牙を向ける。私はそれを言葉の武器と呼ぶことにしていた。人の心はわかりやすく,暖色系の色をしているものの心は明るく,あまり弱っていない。反対に寒色系の暗い色をしている心は弱っていることが多い。本来見えるはずが無い,言葉の武器,そしてそれに傷つけられた心の傷が私には見えていた。

 「翠先生!お願いしまーす」

 「……はーい!」

 いつの間にか戻ってきていた陽鞠が首を傾げて笑顔でそう言う。ノートとワークを手にした彼女が私の机へと宿題を広げた。それを理由に私は男子三人組から目を離す。しかし無意識のうちに意識があちらに向いているのか会話が頭の中でスラスラと流れ出す。

 「馬鹿でドジで,どうしようもねーな」

 「ほんとなー」

 「そんなんだから後輩に舐められるんだよ」

 「一年言ってたぞ,あの先輩ならちょろそうだって」

 (……)

 いつもなら少し喋って飽きたように違う話題に移るが,今日はバリカン男子を弄る時間が長い。話しているうちに段々と言葉の威力は増していく。見るな,放っておけ,下を向け。そんな言葉が頭を埋め尽くすが,私は彼等の心を見てしまう。そこで撃たれ続ける輪ゴム鉄砲がBB弾へと変わるのが見えた。

 「翠ー。ここはどうすんの?」

 「……ああ,えっとここはこの方式を使って」

 男子の会話が気になり陽鞠からの質問へ答えるのが遅れる。陽鞠は特に気にした様子を見せないが両方を聞き取ろうとする私の耳はとても疲れる。ほっとけ,他の陣地に足を突っ込んだら巻き込まれる。そんな言葉が頭に浮かんでいくが,それに反発するように耳へは男子達の会話が流れ込む。

 「あーあ。何かお前今日のり悪くね」

 「それな」

 「…そうか?」

 そしてついに,パンッという軽い音が響く。たまらず,私はバリカン男子へと目を向ける。彼の心には小さな小さなかすり傷が出来ていた。機嫌が悪かったのであろう,大柄な男子と腰巾着的存在の眼鏡男子のネチネチとした攻撃が,小さくともバリカン男子の心へ傷をつけた証拠だった。心の中で何かが煮えたぎる熱さを感じた。それと同時に私はバリカン男子の名前を呼んでいた。

 「灰川(はいかわ)

 私がバリカン男子,灰川の名を呼ぶと他二人も私へと顔を振り向けた。彼等との距離は近かったため,私の声は三人共に届いた。勿論陽鞠にも。私はリュックサックから無色透明のファイルを一枚取り出すと中から紙を一枚取り出す。それをそのまま,不思議そうにしている灰川へと渡す。

 「これ,この間先生に渡してって言われていたやつ」

 「……あ,あぁ」

 灰川は何とか目の前に差し出された紙を手に取る。それを確認すると私は自身の席に座り直し,何事も無かったかのようにペンを握る。そうするとバリカン男子へと浴びせられていた言葉はピタリと止む。どうやら男子三人組の,正確に言えばバリカン男子以外の二人の興味は完全に私へと移ったようだ。ひそひそと顔を寄せ合わせ,私の方を見てくる。内容を聞いていなければ,仲良し三人組の会話を突然遮り,今渡す必要性がないプリントを渡してきたクラスメイト。移す話題としては十分だった。

 「翠ー。灰川に何のプリント渡したの?」

 「んー?学級新聞,この間あいつ休んでたでしょ」

 「何で翠が灰川の分持ってたのよ」

 「何か日直だったから。今度渡しておけーって」

 「なるほどね。いやー彼奴等何が話してる中,翠がいきなり話しかけに行ったんだもん。何かあったんじゃないかとヒヤヒヤした」

 「んなわけ無いじゃん。折角思い出したからまた忘れないうちに渡しておこうと思って」

 かなり無理がある言い訳だと思ったが,理由なんてはなから興味が無かったのか,それとも今の説明で納得したのか陽鞠はそれ以上は何も聞いてこなかった。

 「全員席に着けー。朝学活を始めるぞ」

 「あ,やっば高先生もう来たの」

 「ほんとだ」

 タイミングを見計らったかのように担任が教室へと入ってくる。それを見ると上半分だけ埋まったワーク達を抱え陽鞠は自身の席へと戻っていった。他のクラスメイト達も蜘蛛の子を散らすように,くぼみの空いた坂道へ,ビー玉を転がしたように席へと着く。

 「起立,礼」

 生活委員の号令と共に朝学活が始まる。今日の日程の確認,各委員会からの連絡。いつも通りの内容を先生が読み上げる。特に委員会などに所属していなかった私は朝学活の内容など聞き流しても,ダメージは無かったため,右斜め前に座る灰川の心を見る。BB弾に当てられ,傷がついていた彼の黄色い心は,朝の光に反射し輝いていた。出来ていた傷は何処にもない。人の心とは繊細な者で傷がついたと思えば,すぐに消えていたりする。しかしそれは小さな傷に限り,大きな傷が消えるのは肉体に負う傷と同じく,長い時間をかけるか一生消えないものになるかだ。彼がさっき負ったように小さな傷一つなら話を逸らしたり違う事へ意識を向けさせる事で殆ど消える。だから私があの時無理に話を逸らさなくとも朝学活が終わる頃には彼の傷は消えていただろう。無駄で,余計なお世話で,ただの自己満だということは嫌と言うほど理解している。でも目の前で,ああして映ってしまうとやっぱり口を出さずには居られなかった。朝学活が終わるようでもう一人の生活委員が号令をかける。

 (あーあ,本当に)

 嫌な目。
 私は今日もできる限り人の顔を見ないよう,顔の近くに浮く,心を見ないように下を向く。