体育祭が終わって、ほっとして、俺は束の間のゆっくりした時間を過ごしていた。
今日も誠の弁当は、美味しい。
けど……。
「……」
弁当を食べ終わった誠は、こくこくと船を漕ぎ始めた。きっと、疲れているんだ……。
俺は遠慮がちに誠に声を掛ける。
「誠……」
「はっ!」
誠はぴんと背を正す。
「すみません! 少し、うとうとと……」
「いや、良いよ……」
俺は誠に言った。
「眠いなら、寝たら良いよ。昼休みはまだ三十分もあるんだから」
「葉一様……」
「授業中に居眠りするよりは、今寝た方が良いんじゃないかな」
「……では、お言葉に甘えて」
そう言うと、誠はごろんとその場に横になった……俺の膝を、枕にして。
俺は驚く。
「ま、誠!?」
「失礼します……ああ、よく眠れそうです」
「……」
俺はてっきり、教室に戻って自分の席で寝るんだと思ったから、誠の行動には驚きだった。しかも、膝枕なんて……どきどきする。
さっきだって、朝の登校の時だって、ずっとこっちはどきどきしているんだからな!
これって、本当に……何?
誰かに相談したいけど、恥ずかしくて出来ない。ああ、もう……。
俺はちらりと誠を見る。もう寝ていた。
すうすうと寝息を立てる誠の寝顔を見ながら、眠っているとちょっと幼い顔になるんだな、なんてことを思った。
昼休みが終わる五分前に誠を起こして、俺たちはそれぞれの教室に戻った。
次は古典か……寝ちゃいそう。
そう思いながら、授業で使うテキストやら辞書やらを用意する。そういえば、学校では「恋」だの「愛」だのは教えてくれないな。なんて不親切なんだろう。俺は頬杖をついた。
***
眠たい中、古典、続く数学の授業をなんとか乗り切った俺は、続くホームルームが終わった後で帰り支度を進めた。疲れた……早く帰って、仮眠を取りたいな。
「ボンボンくん」
佐々木がぽんと俺の肩を叩く。
「今日は忠犬先輩のお迎え無いの?」
「え?」
俺は時計を見る。ホームルームが終わって、もう十分以上経過していた。いつもなら、とっくに誠はこの教室に来ているのに……変だな。
「忠犬先輩といえば、大胆だよな」
佐々木が両手を組みながら言う。
「体育祭の時の抱擁は熱かったな! まぁ、俺は忠犬先輩に負けたから、そこは悔しいけど……面白いものが見れたから、まぁ、良いかなって」
「……そう」
「なぁ、あのあと……した?」
「え?」
俺は首を傾げる。
「何を?」
「そりゃ……ちゅーとか?」
「は、はぁ!?」
なんでそんな話になるんだよ!
俺は思わず立ち上がった。
「そんなこと、してない!」
「えー? おめでとうのキスあげてないのかよ? 忠犬先輩、かわいそう」
「かわいそうって……」
「だって、お前ら付き合ってんだろ?」
「付き合う!?」
俺は裏返った声を出す。
「いやいや! 付き合ってないし!」
「はぁ? 嘘吐くなってば」
にやにやと佐々木は笑う。
「あの抱きしめ方は、カップルのそれ、そのものだった」
「……詳しいんだね。佐々木も、そういうことしたことあるんだ?」
「えっ?」
佐々木は自分に話の矛先を向けられると、少し狼狽えたように視線を泳がす。
「ま、まぁ? オレは恋愛マスターだし、そういった経験が無いことも無いような……」
前に、初彼女は女子大生にするって言ってなかったっけ。ということは、まだ誰とも付き合ったこと無いんじゃないの?
まぁ、良いや……俺は佐々木に言う。
「恋愛マスターの佐々木くん、恋ってどんな感じなの?」
「は? え? 恋?」
佐々木は目を丸くする。
「そんなん、好きー、大好きーって感じだろ?」
「どきどき、したり?」
「そりゃ、するだろ……何? ボンボンくんは初恋未経験なの?」
「う……」
確かに、そうだ。
俺は今まで、これが「恋」って意識したことが無い。
誠のことだって、意識し始めたのは最近のことだし……。
「ボンボンくん、顔真っ赤。可愛いー」
「な……赤くない!」
俺は荷物をまとめて、逃げるように教室から出た。
佐々木に「可愛い」と言われても、どきどきしないのに、誠に「可愛い」と言われたら、どきどきした……。
これ……こういうのが、恋なの……?
熱い頬に手を当てながら、俺は誠を迎えに三年生の教室に向かった。
自分と他の学年の聖域に入るのは、けっこう勇気が必要だ。俺は緊張気味に、そこに足を踏み入れた。
誠の教室をそっと覗く。誠は、クラスメイトとおぼしき男子生徒と、何やら話し込んでいた。
……なんか、廊下からもぴりぴりした空気を感じる。
皆、もうすぐ受験なんだもんなぁ……ちょっと怖い。俺は早くこの場から立ち去りたくて、思い切って「誠!」と廊下から声を掛けた。誠がこちらを見る。彼は一瞬で笑顔になった。
しばらくして、誠は荷物を持って俺のところまで来た。
「すみません。つい話し込んでしまって」
「良いよ。なんなら俺ひとりで帰るし……」
「いけません!」
誠が俺の肩を掴んで叫ぶ。
「ひとりで歩いていて、誘拐でもされたらどうするんですか!?」
「誘拐って……」
俺は息を吐く。
「もう、そんな歳じゃないよ」
「いえ、駄目です。良いですか、美味しいお菓子をあげると言われても、知らない人について行っては……」
「ついて行かないよ! 俺のことを何歳だと思ってるの!?」
「葉一様は、いつまでも可愛らしい天使でございます」
「な……」
なんて、恥ずかしい台詞を……!
俺はどきどきする胸を押さえながら、早足で廊下を抜けた。
靴を履き替えて、いつものように歩き出す。昼休みに仮眠を取ったからなのか、誠の瞳はもう眠そうではなかった。
「……さっき、邪魔した?」
「はい?」
俺の言葉に、誠は首を傾げた。
「さっきと、言いますと?」
「俺が、誠の教室に行った時……友達と話してたじゃん。邪魔したなら、ごめん……」
「とんでもない!」
誠は慌てたように首を横に振る。
「少し、話をしていただけです! ただの世間話ですので、そんな、邪魔だなんておっしゃらないで下さい!」
「そっか……」
俺は息を吐く。
「どんな話をしていたの?」
「はい。次の模試のスケジュールの確認を少々……」
模試かぁ……誠、本当に大変なんだな。きっと疲労が溜まっているんだ。だから、眠くもなるよな……。
「……無理はしないでね」
「はい! ありがとうございます!」
誠は元気な声でそう言った。けど、心配だ……。
出来るだけ、誠には迷惑をかけないようにしよう。
俺は、心の中でそう誓った。
***
スマートフォンが鳴る音で目が覚めた。
俺はぼんやりと、その画面を見る。
着信だ。
しかも、誠から。
俺は急いで通話ボタンをタップした。
「も、もしもし!?」
時計を見たら、まだ朝の五時半だ。何かあったのかと、俺は慌てた。
「どうしたの!?」
『……朝早くに申し訳ございません』
誠は小さな声でそう言った。
『実は、風邪を引いてしまいまして……』
「え? 風邪?」
『申し訳ございません……』
電話越しの誠の声は、掠れていた。
「大丈夫なの? 熱は?」
『……少しあります。ですので、葉一様、今日は一緒に登校は出来そうもなく……お弁当も作れなくて……申し訳ございません』
「そんな! 俺のことはいいから……お大事にね……」
『ありがとうございます……』
電話を切って、俺は息を吐いた。誠が、風邪……。そんなこと、今までに一度も無かった。だから、すごく心配になる。胸の真ん中がぞわぞわして、落ち着かない……。
「誠……」
昨日は、元気だったのに……。
いや、元気なふりをしていただけかもしれない。俺に、心配をさせないように……。
だとしたら、とても苦しい。
俺は……どうしたら良いんだろう……。
枕元の青い猫のぬいぐるみを抱きしめる。こいつみたいに、誠にぎゅっと抱きつきたい。そう思った。
「恋……」
友達が風邪を引いた、と聞いただけなら、こんな気持ちにはならない。
そうだ。俺も誠のことをもう「友達」とは思えないんだ……。
どきどきと心臓が鳴る。
ああ、俺はどうしようもなく、誠のことが好きなんだ——。
***
誠の居ない学校は、とても孤独に感じた。いつもそばに居た太陽が、雲に覆われて見えないみたい。ひとりで食べた、コンビニのパンは、味もしなかった。
——やっぱり、俺は誠には無理をしてほしくない……。
誠が俺を「大切」にしてくれるのは嬉しいけど、それが疲労の原因になっていたら、嫌だ……だから。
言わないと、俺の気持ちを……。
放課後に、俺はコンビニでシュークリームをふたつ買って、誠の家に向かった。
インターフォンを鳴らしてから、少し後悔した。おばさん、パートに行っているって言っていたから、家には誠がひとりのはずだ。起こしてしまったら悪いな、と思った。
『はい……え? 葉一様!?』
ばたばたと音がして、部屋着姿の誠が出て来た。顔色は……そんなに悪くない。ゆっくりと休めたのかな? なら良いんだけど……。
「どうされましたか!?」
「あ、いや……」
「何か、ありましたか!?」
心配そうに俺の顔を覗き込む誠に、俺はシュークリームの入ったビニール袋をずいっと差し出した。
「……これ、お見舞い……」
「え……」
驚いたように誠は目を見開いた。
「あ、ありがとうございます……!」
「いや、コンビニで買ったやつだから……安くてごめん」
「そんな! こうして来ていただけただけでも嬉しいのに、お見舞いまでいただいて……これは食べずに一生取っておきます!」
「ば、馬鹿っ! 腐るだろ!」
俺は照れ臭くて、頬を掻きながら誠に言った。
「……熱は? 下がった?」
「はい! お薬を飲んで眠っていたら治りました! 軽い風邪だったようです!」
「そう……良かった」
「立ち話もなんですし、どうぞお上がり下さい……あ、いけませんね」
誠は首を横に振る。
「気安くそのようなことを言うべきではないですね……」
「え?」
「あ、いえ……」
言葉に困っているような誠をすり抜けて、かすかにコーヒーの匂いが漂う。俺は思わず「良い匂い」と呟いた。
「コーヒー、飲んでたの?」
「あ、はい。インスタントですが……飲んで行かれますか?」
「え? 良いの?」
ちょうど喉が渇いていた俺は頷いた。
「飲みたい。誠が淹れてくれたコーヒー」
「ふふ。では、どうぞ」
誠の部屋は二階だ。俺は先に入っているように言われたので、その言葉に従う。
「え……?」
俺は誠の机の上に、受験用の参考書が広げられていたので驚いた。もしかして誠、今まで勉強していたの……?
「お待たせしました」
少ししてから、誠がマグカップとビニール袋を手に部屋に入って来た。俺は訊く。
「勉強、してたの?」
「あ、はい」
カップをローテーブルに置きながら、誠は頷いた。
「体調も良くなってきたので、少しだけ」
「……コーヒーは眠気覚まし?」
「そうです」
「……無理はしないでね」
「ありがとうございます」
言いながら、誠はシュークリームをひとつ俺に渡してきた。
「一緒に食べましょう」
「あ、いや……ふたつとも誠のだよ。俺は良いから……」
「いえ、一緒に食べたようが美味しいです」
「そう……」
「では、いただきます」
「……いただきます」
俺たちはローテーブルに向かい合って座り、シュークリームを食べた。甘くて、美味しい。誠と食べているから、美味しさも倍なのかなって思った。
「葉一様、クリームが」
「え?」
誠が俺の口元を親指で拭う。そして、そのまま指についたクリームを、食べた。
俺は赤面する。
「……言ってくれれば、自分で拭けるから」
「それは、失礼しました」
「もう……」
恥ずかしすぎる!
俺はかき込むようにシュークリームを平らげた。
「ふう、ごちそうさまでした」
誠は静かに手を合わせて、自分のカップに口をつけた。
「甘いものと、苦いものは合いますね」
「そう?」
俺は淹れてもらったコーヒーをひとくち飲んだ。苦い。でも、嫌な苦味じゃない。ちゃんと、美味しいと思った。
「あのさ、誠……」
俺はカップを置いて、誠を見る。
そして、誠の居ない一日で、ぐるぐると考えていたことを口にした。
「俺はさ、誠に甘えすぎていると思う」
「葉一様?」
「あ、いや、つまり……」
俺は、頭の中を整理しながら誠に言った。
「これからは、俺は誠の負担を減らしたい」
「負担、ですか?」
「そう……まず、昼食。次からは俺は自分で弁当を作るから」
「ええっ!?」
誠が悲鳴を上げる。
「そんな! 私の楽しみを奪うようなことをおっしゃらないで下さい!」
……うん。
この反応は想定内だ。
俺は首を横に振る。
「そういうつもりで言ったんじゃないよ。ただ、俺は俺のやり方で、誠を支えたいって思ったんだ」
「私を、支える……?」
「そう。誠はさ……俺の作った弁当を食べるのは、嫌?」
「え……?」
きょとんとする誠に、俺は素早く続ける。
「俺、冷凍食品をレンジでチンするくらいは、出来るよ? だから……その、最初のうちは母さんに手伝ってもらうこともあると思うけど、俺が作った弁当を受験勉強で疲れた誠に食べてもらいたいな、って……そういうのは、嫌?」
「い、嫌だなんて……ですが、葉一様の手を煩わせてしまうのでは……」
「誠は、そう思いながら作ってくれていたの?」
「そんな、とんでもない! 私はただ、葉一様に喜んでいただきたくて……!」
「……俺も同じ気持ちだよ。誠に喜んで欲しいから、作りたいと思った。だから、俺の気持ちを受け取って欲しい……」
「葉一様……」
誠は目元を手の甲で拭った。
「……分かりました。お弁当は、葉一様にお任せします」
「ありがとう。それから……」
俺は、少しだけ俯いて言う。
「朝とか、放課後とか、俺に合わせて動かなくて良いよ。誠がやりやすいように、受験勉強を優先して動いてよ」
「な……!」
「そりゃ、俺だって誠と一緒に居たい!」
俺は誠の肩を掴んだ。
「今日一日、誠の居ない世界で過ごして寂しくて……強くそう思った! けど……いつまでも、一緒に行動するのは無理だと思う。誠は器用だからなんでも出来るかもしれないけど……身体は疲れてるんだよ。だから、今日みたいに体調を崩したんだ。ね、お願い。俺の頼みだから、聞いてよ……」
「葉一様……」
誠の瞳に、俺が映る。
綺麗な目だ。そこに、俺だけが映し出されている。
「……私は、不安です」
「何が不安? 一緒に居られないこと?」
「それも、ですが……」
今度は誠が俯いた。
「……葉一様が、他の人に取られるのではないかと、不安です……」
「え……」
俺は思ってもみない言葉に驚く。取られるって……俺は、誰のものでもないよ。
けど……誰かのものになるのなら、誠のものが良いんだよ——。
「俺は、他の人のものにはならないよ」
俺は力強く言った。誠の肩が、揺れる。
「……でしたら、その……」
誠が、本当に小さな声で言う。
「わ、私のものになって欲しいと言ったら、どうされますか……」
顔をゆっくりと上げて、誠は俺を見た。
俺は——。
「……良いよ。誠のものにしてよ」
ああ、きっと俺の顔は赤い。
目の前の誠の顔も赤いから、お揃いだ。
「……え? な、なんと……今……」
狼狽え出した誠を見て、俺はローテーブルを退けて誠に抱きついた。
「な、よ、葉一様!?」
「……言ってよ」
「え……?」
「誠の気持ち、ぜんぶ言ってよ……」
「っ……」
誠は忙しなく視線をさ迷わせたが、やがて覚悟を決めたのか、俺の目を見て、言った。
「……お慕いしています。葉一様……」
「もっと分かりやすく言って」
「……好き、です。ずっと……好きでした」
「ありがとう……俺も、好きだよ」
「っ……葉一様」
俺の背中に、遠慮がちに腕を回しながら誠が言う。
「本当に、ですか?」
「嘘で、こんなこと言わないよ」
「……ああ、嬉しい……」
誠が息を吐く。
伝わる鼓動が、熱い。
「……この気持ちは、一生お伝えしないと決めていたのに……」
「ど、どうして?」
「主人に仕える者が、このような感情を抱くことはいけないことです。ですが、葉一様がもっと欲張りになれとおっしゃるから……私は悩んだのですよ? どこまでの線を越えても良いものかと」
「もう、主人じゃなくて良いじゃん……」
俺は呟く。
「これからは、恋人、じゃないの?」
「え、あ、そうですが……」
「敬語もいらないよ……前から思ってたけど、誠の方が年上なんだから」
「い、いや……急に言われましても」
誠は、おどおどと困ったように眉を下げる。可愛い、と思った。
「誠……キスしてよ」
「き……」
さらに誠の顔が赤くなる。そして、俺はべりっと剥がされた。
「駄目です! そんな、早い……」
「早くないよ。ね、してよ。主人命令」
「駄目です! 命令は聞けません! 主人ではなくて良いとおっしゃったのは葉一様ですよ!?」
「えー。けち」
「けちではありません」
「……」
「……」
見つめ合って、同時に吹き出した。
そして、ぎゅっと抱きしめ合う。
熱い。あったかい。熱い……安心する。
誠の心臓の音を聞きながら、俺は目を閉じた。このまま時間が止まったら良いのに、なんて馬鹿なことを思ってしまう。それくらい、心地良いんだ。
「ああ、本当にキスをしてしまいそうです」
「……したら、良いじゃん」
「私、初めてなんですよ? きっと上手に出来ません」
「俺だって、初めてだよ」
「……笑いませんか? 下手くそでも」
「笑わないよ……」
「……」
「……」
お互いのくちびるが近付く。そっと、一瞬だけ触れた。
初めてのキス。
コーヒーの匂いが、交ざる。
「……」
「……もっと、して良いよ」
「こっ! これ以上は駄目です!」
誠が前にしたように、俺のつむじにそっとくちびるで触れながら言う。
「これ以上は、お互いが卒業してからです」
「え、ええっ!?」
俺は不満を隠さずに誠に言った。
「恋人って、もっとすごいキスをするんじゃないの?」
「し、知りません!」
「嘘だー」
「知りません!」
誠の決心は強いらしい。本当にこれ以上は何もしないようなので、俺は誠の胸に体重を預けた。
「……お互いが卒業って、だいぶあるじゃん……」
「あっという間ですよ、きっと」
誠の声は柔らかい。
「お互いに、今は勉強を頑張りましょう」
「うん……でも、さっきみたいなキスは、いつでもしてね?」
「ふふ、そうですね」
見つめ合って、もう一度キスをした。
二回目のキスは、さっきよりも感触を味わう余裕が出来た、気がした。
***
「では、また明日」
「うん」
「気を付けて帰って下さいね?」
「すぐそこじゃん……でも、ありがと」
俺は靴を履く。そして、振り返って誠を見た。
「本当に、無理したら駄目だよ」
「はい。ありがとうございます」
「……」
「……」
なんだか、名残惜しい。
けど、帰らなきゃ。俺だって、勉強が待ってる。
「葉一様、簡単に男の家に上がってはいけませんよ?」
「え?」
突然、誠がそんなことを言い出すものだから、俺は驚いた。
「なんで?」
「男は狼なんですよ? 気を付けて下さいね?」
「だ、だったら、俺だって狼だし!」
がおーと、狼の仕草をしたら、誠はふっと笑った。
「可愛らしい狼さん、今日はありがとうございました」
「こっちこそ、ありがと」
「お気を付けて」
「うん……」
今度こそ、俺は誠の家の外に出た。
そして、振り返らずに歩き出す。振り返ってしまったら、また誠の胸に飛び込んでしまいそうだったから……。
「……誠」
もう俺は、誠の主人じゃないよ。
恋人、だよ。
「あとは、敬語を止めてくれたらなぁ……」
そう呟いた俺の言葉は、風に乗って消えていった。すぐには無理だと思うけど、いつかはきっと——。
主従から恋人に変わった俺たちに、気付く人は居るのだろうか。なんてことをひとり思う。
これから、誠を支える日が始まるのだと思うと、気が引き締まった。
今日も誠の弁当は、美味しい。
けど……。
「……」
弁当を食べ終わった誠は、こくこくと船を漕ぎ始めた。きっと、疲れているんだ……。
俺は遠慮がちに誠に声を掛ける。
「誠……」
「はっ!」
誠はぴんと背を正す。
「すみません! 少し、うとうとと……」
「いや、良いよ……」
俺は誠に言った。
「眠いなら、寝たら良いよ。昼休みはまだ三十分もあるんだから」
「葉一様……」
「授業中に居眠りするよりは、今寝た方が良いんじゃないかな」
「……では、お言葉に甘えて」
そう言うと、誠はごろんとその場に横になった……俺の膝を、枕にして。
俺は驚く。
「ま、誠!?」
「失礼します……ああ、よく眠れそうです」
「……」
俺はてっきり、教室に戻って自分の席で寝るんだと思ったから、誠の行動には驚きだった。しかも、膝枕なんて……どきどきする。
さっきだって、朝の登校の時だって、ずっとこっちはどきどきしているんだからな!
これって、本当に……何?
誰かに相談したいけど、恥ずかしくて出来ない。ああ、もう……。
俺はちらりと誠を見る。もう寝ていた。
すうすうと寝息を立てる誠の寝顔を見ながら、眠っているとちょっと幼い顔になるんだな、なんてことを思った。
昼休みが終わる五分前に誠を起こして、俺たちはそれぞれの教室に戻った。
次は古典か……寝ちゃいそう。
そう思いながら、授業で使うテキストやら辞書やらを用意する。そういえば、学校では「恋」だの「愛」だのは教えてくれないな。なんて不親切なんだろう。俺は頬杖をついた。
***
眠たい中、古典、続く数学の授業をなんとか乗り切った俺は、続くホームルームが終わった後で帰り支度を進めた。疲れた……早く帰って、仮眠を取りたいな。
「ボンボンくん」
佐々木がぽんと俺の肩を叩く。
「今日は忠犬先輩のお迎え無いの?」
「え?」
俺は時計を見る。ホームルームが終わって、もう十分以上経過していた。いつもなら、とっくに誠はこの教室に来ているのに……変だな。
「忠犬先輩といえば、大胆だよな」
佐々木が両手を組みながら言う。
「体育祭の時の抱擁は熱かったな! まぁ、俺は忠犬先輩に負けたから、そこは悔しいけど……面白いものが見れたから、まぁ、良いかなって」
「……そう」
「なぁ、あのあと……した?」
「え?」
俺は首を傾げる。
「何を?」
「そりゃ……ちゅーとか?」
「は、はぁ!?」
なんでそんな話になるんだよ!
俺は思わず立ち上がった。
「そんなこと、してない!」
「えー? おめでとうのキスあげてないのかよ? 忠犬先輩、かわいそう」
「かわいそうって……」
「だって、お前ら付き合ってんだろ?」
「付き合う!?」
俺は裏返った声を出す。
「いやいや! 付き合ってないし!」
「はぁ? 嘘吐くなってば」
にやにやと佐々木は笑う。
「あの抱きしめ方は、カップルのそれ、そのものだった」
「……詳しいんだね。佐々木も、そういうことしたことあるんだ?」
「えっ?」
佐々木は自分に話の矛先を向けられると、少し狼狽えたように視線を泳がす。
「ま、まぁ? オレは恋愛マスターだし、そういった経験が無いことも無いような……」
前に、初彼女は女子大生にするって言ってなかったっけ。ということは、まだ誰とも付き合ったこと無いんじゃないの?
まぁ、良いや……俺は佐々木に言う。
「恋愛マスターの佐々木くん、恋ってどんな感じなの?」
「は? え? 恋?」
佐々木は目を丸くする。
「そんなん、好きー、大好きーって感じだろ?」
「どきどき、したり?」
「そりゃ、するだろ……何? ボンボンくんは初恋未経験なの?」
「う……」
確かに、そうだ。
俺は今まで、これが「恋」って意識したことが無い。
誠のことだって、意識し始めたのは最近のことだし……。
「ボンボンくん、顔真っ赤。可愛いー」
「な……赤くない!」
俺は荷物をまとめて、逃げるように教室から出た。
佐々木に「可愛い」と言われても、どきどきしないのに、誠に「可愛い」と言われたら、どきどきした……。
これ……こういうのが、恋なの……?
熱い頬に手を当てながら、俺は誠を迎えに三年生の教室に向かった。
自分と他の学年の聖域に入るのは、けっこう勇気が必要だ。俺は緊張気味に、そこに足を踏み入れた。
誠の教室をそっと覗く。誠は、クラスメイトとおぼしき男子生徒と、何やら話し込んでいた。
……なんか、廊下からもぴりぴりした空気を感じる。
皆、もうすぐ受験なんだもんなぁ……ちょっと怖い。俺は早くこの場から立ち去りたくて、思い切って「誠!」と廊下から声を掛けた。誠がこちらを見る。彼は一瞬で笑顔になった。
しばらくして、誠は荷物を持って俺のところまで来た。
「すみません。つい話し込んでしまって」
「良いよ。なんなら俺ひとりで帰るし……」
「いけません!」
誠が俺の肩を掴んで叫ぶ。
「ひとりで歩いていて、誘拐でもされたらどうするんですか!?」
「誘拐って……」
俺は息を吐く。
「もう、そんな歳じゃないよ」
「いえ、駄目です。良いですか、美味しいお菓子をあげると言われても、知らない人について行っては……」
「ついて行かないよ! 俺のことを何歳だと思ってるの!?」
「葉一様は、いつまでも可愛らしい天使でございます」
「な……」
なんて、恥ずかしい台詞を……!
俺はどきどきする胸を押さえながら、早足で廊下を抜けた。
靴を履き替えて、いつものように歩き出す。昼休みに仮眠を取ったからなのか、誠の瞳はもう眠そうではなかった。
「……さっき、邪魔した?」
「はい?」
俺の言葉に、誠は首を傾げた。
「さっきと、言いますと?」
「俺が、誠の教室に行った時……友達と話してたじゃん。邪魔したなら、ごめん……」
「とんでもない!」
誠は慌てたように首を横に振る。
「少し、話をしていただけです! ただの世間話ですので、そんな、邪魔だなんておっしゃらないで下さい!」
「そっか……」
俺は息を吐く。
「どんな話をしていたの?」
「はい。次の模試のスケジュールの確認を少々……」
模試かぁ……誠、本当に大変なんだな。きっと疲労が溜まっているんだ。だから、眠くもなるよな……。
「……無理はしないでね」
「はい! ありがとうございます!」
誠は元気な声でそう言った。けど、心配だ……。
出来るだけ、誠には迷惑をかけないようにしよう。
俺は、心の中でそう誓った。
***
スマートフォンが鳴る音で目が覚めた。
俺はぼんやりと、その画面を見る。
着信だ。
しかも、誠から。
俺は急いで通話ボタンをタップした。
「も、もしもし!?」
時計を見たら、まだ朝の五時半だ。何かあったのかと、俺は慌てた。
「どうしたの!?」
『……朝早くに申し訳ございません』
誠は小さな声でそう言った。
『実は、風邪を引いてしまいまして……』
「え? 風邪?」
『申し訳ございません……』
電話越しの誠の声は、掠れていた。
「大丈夫なの? 熱は?」
『……少しあります。ですので、葉一様、今日は一緒に登校は出来そうもなく……お弁当も作れなくて……申し訳ございません』
「そんな! 俺のことはいいから……お大事にね……」
『ありがとうございます……』
電話を切って、俺は息を吐いた。誠が、風邪……。そんなこと、今までに一度も無かった。だから、すごく心配になる。胸の真ん中がぞわぞわして、落ち着かない……。
「誠……」
昨日は、元気だったのに……。
いや、元気なふりをしていただけかもしれない。俺に、心配をさせないように……。
だとしたら、とても苦しい。
俺は……どうしたら良いんだろう……。
枕元の青い猫のぬいぐるみを抱きしめる。こいつみたいに、誠にぎゅっと抱きつきたい。そう思った。
「恋……」
友達が風邪を引いた、と聞いただけなら、こんな気持ちにはならない。
そうだ。俺も誠のことをもう「友達」とは思えないんだ……。
どきどきと心臓が鳴る。
ああ、俺はどうしようもなく、誠のことが好きなんだ——。
***
誠の居ない学校は、とても孤独に感じた。いつもそばに居た太陽が、雲に覆われて見えないみたい。ひとりで食べた、コンビニのパンは、味もしなかった。
——やっぱり、俺は誠には無理をしてほしくない……。
誠が俺を「大切」にしてくれるのは嬉しいけど、それが疲労の原因になっていたら、嫌だ……だから。
言わないと、俺の気持ちを……。
放課後に、俺はコンビニでシュークリームをふたつ買って、誠の家に向かった。
インターフォンを鳴らしてから、少し後悔した。おばさん、パートに行っているって言っていたから、家には誠がひとりのはずだ。起こしてしまったら悪いな、と思った。
『はい……え? 葉一様!?』
ばたばたと音がして、部屋着姿の誠が出て来た。顔色は……そんなに悪くない。ゆっくりと休めたのかな? なら良いんだけど……。
「どうされましたか!?」
「あ、いや……」
「何か、ありましたか!?」
心配そうに俺の顔を覗き込む誠に、俺はシュークリームの入ったビニール袋をずいっと差し出した。
「……これ、お見舞い……」
「え……」
驚いたように誠は目を見開いた。
「あ、ありがとうございます……!」
「いや、コンビニで買ったやつだから……安くてごめん」
「そんな! こうして来ていただけただけでも嬉しいのに、お見舞いまでいただいて……これは食べずに一生取っておきます!」
「ば、馬鹿っ! 腐るだろ!」
俺は照れ臭くて、頬を掻きながら誠に言った。
「……熱は? 下がった?」
「はい! お薬を飲んで眠っていたら治りました! 軽い風邪だったようです!」
「そう……良かった」
「立ち話もなんですし、どうぞお上がり下さい……あ、いけませんね」
誠は首を横に振る。
「気安くそのようなことを言うべきではないですね……」
「え?」
「あ、いえ……」
言葉に困っているような誠をすり抜けて、かすかにコーヒーの匂いが漂う。俺は思わず「良い匂い」と呟いた。
「コーヒー、飲んでたの?」
「あ、はい。インスタントですが……飲んで行かれますか?」
「え? 良いの?」
ちょうど喉が渇いていた俺は頷いた。
「飲みたい。誠が淹れてくれたコーヒー」
「ふふ。では、どうぞ」
誠の部屋は二階だ。俺は先に入っているように言われたので、その言葉に従う。
「え……?」
俺は誠の机の上に、受験用の参考書が広げられていたので驚いた。もしかして誠、今まで勉強していたの……?
「お待たせしました」
少ししてから、誠がマグカップとビニール袋を手に部屋に入って来た。俺は訊く。
「勉強、してたの?」
「あ、はい」
カップをローテーブルに置きながら、誠は頷いた。
「体調も良くなってきたので、少しだけ」
「……コーヒーは眠気覚まし?」
「そうです」
「……無理はしないでね」
「ありがとうございます」
言いながら、誠はシュークリームをひとつ俺に渡してきた。
「一緒に食べましょう」
「あ、いや……ふたつとも誠のだよ。俺は良いから……」
「いえ、一緒に食べたようが美味しいです」
「そう……」
「では、いただきます」
「……いただきます」
俺たちはローテーブルに向かい合って座り、シュークリームを食べた。甘くて、美味しい。誠と食べているから、美味しさも倍なのかなって思った。
「葉一様、クリームが」
「え?」
誠が俺の口元を親指で拭う。そして、そのまま指についたクリームを、食べた。
俺は赤面する。
「……言ってくれれば、自分で拭けるから」
「それは、失礼しました」
「もう……」
恥ずかしすぎる!
俺はかき込むようにシュークリームを平らげた。
「ふう、ごちそうさまでした」
誠は静かに手を合わせて、自分のカップに口をつけた。
「甘いものと、苦いものは合いますね」
「そう?」
俺は淹れてもらったコーヒーをひとくち飲んだ。苦い。でも、嫌な苦味じゃない。ちゃんと、美味しいと思った。
「あのさ、誠……」
俺はカップを置いて、誠を見る。
そして、誠の居ない一日で、ぐるぐると考えていたことを口にした。
「俺はさ、誠に甘えすぎていると思う」
「葉一様?」
「あ、いや、つまり……」
俺は、頭の中を整理しながら誠に言った。
「これからは、俺は誠の負担を減らしたい」
「負担、ですか?」
「そう……まず、昼食。次からは俺は自分で弁当を作るから」
「ええっ!?」
誠が悲鳴を上げる。
「そんな! 私の楽しみを奪うようなことをおっしゃらないで下さい!」
……うん。
この反応は想定内だ。
俺は首を横に振る。
「そういうつもりで言ったんじゃないよ。ただ、俺は俺のやり方で、誠を支えたいって思ったんだ」
「私を、支える……?」
「そう。誠はさ……俺の作った弁当を食べるのは、嫌?」
「え……?」
きょとんとする誠に、俺は素早く続ける。
「俺、冷凍食品をレンジでチンするくらいは、出来るよ? だから……その、最初のうちは母さんに手伝ってもらうこともあると思うけど、俺が作った弁当を受験勉強で疲れた誠に食べてもらいたいな、って……そういうのは、嫌?」
「い、嫌だなんて……ですが、葉一様の手を煩わせてしまうのでは……」
「誠は、そう思いながら作ってくれていたの?」
「そんな、とんでもない! 私はただ、葉一様に喜んでいただきたくて……!」
「……俺も同じ気持ちだよ。誠に喜んで欲しいから、作りたいと思った。だから、俺の気持ちを受け取って欲しい……」
「葉一様……」
誠は目元を手の甲で拭った。
「……分かりました。お弁当は、葉一様にお任せします」
「ありがとう。それから……」
俺は、少しだけ俯いて言う。
「朝とか、放課後とか、俺に合わせて動かなくて良いよ。誠がやりやすいように、受験勉強を優先して動いてよ」
「な……!」
「そりゃ、俺だって誠と一緒に居たい!」
俺は誠の肩を掴んだ。
「今日一日、誠の居ない世界で過ごして寂しくて……強くそう思った! けど……いつまでも、一緒に行動するのは無理だと思う。誠は器用だからなんでも出来るかもしれないけど……身体は疲れてるんだよ。だから、今日みたいに体調を崩したんだ。ね、お願い。俺の頼みだから、聞いてよ……」
「葉一様……」
誠の瞳に、俺が映る。
綺麗な目だ。そこに、俺だけが映し出されている。
「……私は、不安です」
「何が不安? 一緒に居られないこと?」
「それも、ですが……」
今度は誠が俯いた。
「……葉一様が、他の人に取られるのではないかと、不安です……」
「え……」
俺は思ってもみない言葉に驚く。取られるって……俺は、誰のものでもないよ。
けど……誰かのものになるのなら、誠のものが良いんだよ——。
「俺は、他の人のものにはならないよ」
俺は力強く言った。誠の肩が、揺れる。
「……でしたら、その……」
誠が、本当に小さな声で言う。
「わ、私のものになって欲しいと言ったら、どうされますか……」
顔をゆっくりと上げて、誠は俺を見た。
俺は——。
「……良いよ。誠のものにしてよ」
ああ、きっと俺の顔は赤い。
目の前の誠の顔も赤いから、お揃いだ。
「……え? な、なんと……今……」
狼狽え出した誠を見て、俺はローテーブルを退けて誠に抱きついた。
「な、よ、葉一様!?」
「……言ってよ」
「え……?」
「誠の気持ち、ぜんぶ言ってよ……」
「っ……」
誠は忙しなく視線をさ迷わせたが、やがて覚悟を決めたのか、俺の目を見て、言った。
「……お慕いしています。葉一様……」
「もっと分かりやすく言って」
「……好き、です。ずっと……好きでした」
「ありがとう……俺も、好きだよ」
「っ……葉一様」
俺の背中に、遠慮がちに腕を回しながら誠が言う。
「本当に、ですか?」
「嘘で、こんなこと言わないよ」
「……ああ、嬉しい……」
誠が息を吐く。
伝わる鼓動が、熱い。
「……この気持ちは、一生お伝えしないと決めていたのに……」
「ど、どうして?」
「主人に仕える者が、このような感情を抱くことはいけないことです。ですが、葉一様がもっと欲張りになれとおっしゃるから……私は悩んだのですよ? どこまでの線を越えても良いものかと」
「もう、主人じゃなくて良いじゃん……」
俺は呟く。
「これからは、恋人、じゃないの?」
「え、あ、そうですが……」
「敬語もいらないよ……前から思ってたけど、誠の方が年上なんだから」
「い、いや……急に言われましても」
誠は、おどおどと困ったように眉を下げる。可愛い、と思った。
「誠……キスしてよ」
「き……」
さらに誠の顔が赤くなる。そして、俺はべりっと剥がされた。
「駄目です! そんな、早い……」
「早くないよ。ね、してよ。主人命令」
「駄目です! 命令は聞けません! 主人ではなくて良いとおっしゃったのは葉一様ですよ!?」
「えー。けち」
「けちではありません」
「……」
「……」
見つめ合って、同時に吹き出した。
そして、ぎゅっと抱きしめ合う。
熱い。あったかい。熱い……安心する。
誠の心臓の音を聞きながら、俺は目を閉じた。このまま時間が止まったら良いのに、なんて馬鹿なことを思ってしまう。それくらい、心地良いんだ。
「ああ、本当にキスをしてしまいそうです」
「……したら、良いじゃん」
「私、初めてなんですよ? きっと上手に出来ません」
「俺だって、初めてだよ」
「……笑いませんか? 下手くそでも」
「笑わないよ……」
「……」
「……」
お互いのくちびるが近付く。そっと、一瞬だけ触れた。
初めてのキス。
コーヒーの匂いが、交ざる。
「……」
「……もっと、して良いよ」
「こっ! これ以上は駄目です!」
誠が前にしたように、俺のつむじにそっとくちびるで触れながら言う。
「これ以上は、お互いが卒業してからです」
「え、ええっ!?」
俺は不満を隠さずに誠に言った。
「恋人って、もっとすごいキスをするんじゃないの?」
「し、知りません!」
「嘘だー」
「知りません!」
誠の決心は強いらしい。本当にこれ以上は何もしないようなので、俺は誠の胸に体重を預けた。
「……お互いが卒業って、だいぶあるじゃん……」
「あっという間ですよ、きっと」
誠の声は柔らかい。
「お互いに、今は勉強を頑張りましょう」
「うん……でも、さっきみたいなキスは、いつでもしてね?」
「ふふ、そうですね」
見つめ合って、もう一度キスをした。
二回目のキスは、さっきよりも感触を味わう余裕が出来た、気がした。
***
「では、また明日」
「うん」
「気を付けて帰って下さいね?」
「すぐそこじゃん……でも、ありがと」
俺は靴を履く。そして、振り返って誠を見た。
「本当に、無理したら駄目だよ」
「はい。ありがとうございます」
「……」
「……」
なんだか、名残惜しい。
けど、帰らなきゃ。俺だって、勉強が待ってる。
「葉一様、簡単に男の家に上がってはいけませんよ?」
「え?」
突然、誠がそんなことを言い出すものだから、俺は驚いた。
「なんで?」
「男は狼なんですよ? 気を付けて下さいね?」
「だ、だったら、俺だって狼だし!」
がおーと、狼の仕草をしたら、誠はふっと笑った。
「可愛らしい狼さん、今日はありがとうございました」
「こっちこそ、ありがと」
「お気を付けて」
「うん……」
今度こそ、俺は誠の家の外に出た。
そして、振り返らずに歩き出す。振り返ってしまったら、また誠の胸に飛び込んでしまいそうだったから……。
「……誠」
もう俺は、誠の主人じゃないよ。
恋人、だよ。
「あとは、敬語を止めてくれたらなぁ……」
そう呟いた俺の言葉は、風に乗って消えていった。すぐには無理だと思うけど、いつかはきっと——。
主従から恋人に変わった俺たちに、気付く人は居るのだろうか。なんてことをひとり思う。
これから、誠を支える日が始まるのだと思うと、気が引き締まった。



