「ごちそうさまでした」
「……ごちそうさまでした」
 背筋をぴんと伸ばす誠に続き、俺も箸を置いて手を合わす。
 母さんが「チャーハンの素」を使って作ってくれた昼食は、少ししょっぱくて美味しかった。おふくろの味……いや、チャーハンの素を作ったメーカーの味?
 まぁ……いろいろあって疲れていた脳を回復させるのには十分な塩分だった。ここで甘いデザートでも出てきたら完璧なんだけど、そんな注文は怖くて出来ない。
「誠ちゃんがうちに来るなんて珍しいわね」
 食器を片付けながら母さんが言う。
 確かに、そうだ。勉強を見てもらう時、だいたいは俺の方から誠の家に行く。それか、学校の図書室。だから、誠が我が家に居るってことは、けっこうレアだ。
「いつもそっちにお邪魔して悪いって、ずっと思っていたの」
「いえ、いつも美味しいお菓子をいただいて、嬉しいです」
 手ぶらで人様の家に行くな、と言われている俺は、好物のスナック菓子を持って誠の家に行く。たいてい、ポテチだ。
 誠の言葉に、母さんは「恥ずかしいわ」と笑う。
「誠ちゃんこそ、いつも葉一のお昼の面倒を見てくれてありがとう!」
「いえ、ひとつ作るのもふたつ作るのも同じですから……冷凍食品もいつもいただけて助かります。ありがとうございます」
「え? そうなの?」
 俺は驚く。冷凍食品を母さんが誠に渡しているなんて初耳だった。
 母さんは俺を睨む。
「当たり前でしょう!? あんたの食費を誠ちゃんに負担させるなんて出来ないわ!」
「あ、それは……いつもありがとうございマス」
 俺はふたりに頭を下げた。
「お勉強は進んだ? もうすぐ中間テストでしょう? この子、目を離すとすぐにサボるから……」
「ええ、とても進みました」
 誠は笑顔で頷く。
「やはり、ひとりより、ふたりの方が集中出来ますね」
「そう言ってくれると助かるわ。葉一、誠ちゃんに迷惑かけるんじゃないよ?」
「……ハイ」
 少し休んでから、俺と誠はまた部屋に戻った。
 そして、現実に引き戻される。
 誠は、さっき何を言おうとしたのだろう?
「あのさ、誠……」
「さあ、午前中の続きをしましょう」
 誠はそう言うと、ローテーブルに向かう。俺は慌てて誠の横に座った。
「待ってよ。さっきの続きは?」
「さっき? 続き?」
 誠は誤魔化すように首を傾げる。
 俺は負けじと、誠の肩を掴んだ。
「さっき、ご飯を食べる前に言ったことだってば!」
「……」
 誠は困ったように眉を下げた。けど、俺は続ける。
「俺のこと、友達とは見てないって言っただろ? じゃあ、どういう感じで見てるって言うの!?」
「……大切な人、です」
 誠は微笑む。その瞳は澄んでいて、くもりなど見えない。
「さっきも申しました。葉一様は大切な存在です」
「……ずっと、そうなの?」
「ええ、そうです。助けていただいた、あの日から」
 誠はすっと手を伸ばし、俺の頬に触れた。その体温は、熱い。
「私の心は、葉一様でいっぱいなのです」
「っ……」
 俺は何も言えなかった。
 大切に思われている。それは、嬉しい。けど……。
「……誠は、これからどう俺にしてほしいの?」
「どう、とは?」
 俺はずっと「友達」として誠と過ごしてきた。だけど、誠は俺のことを「友達」よりもレベルが高い思いで見ている。
 なら、俺はそれにどう応えれば良いのかが分からなくなった。
「俺には難しくて、分からないよ……」
「葉一様? 葉一様は、今までと同じように私に接して下さって良いのですよ」
 誠が柔らかい声で言う。
「私は、多くを望みません。ただ、葉一様にお仕え出来ることが幸せなのです」
 どこまでも誠は俺を優先するんだ……。
 なら……。
「……俺が、多くを望めって言ったら、どうするの?」
「はい?」
「もっと欲張りに生きろって命令したら、それを聞くの?」
「……そうですね。それが、葉一様の望みなら」
 誠は目を細める。
 分からない。誠の本当の心が分からない。
「誠……」
 俺が口を開いて全部を言う前に、誠は俺を引っ張って、自分の腕の中に俺を閉じ込めた。
 ぎゅっと、抱きしめられている。
 ばくばくと、どちらかの心臓の音が聞こえる。もしかしたら、ふたり分。それくらい、俺たちの距離は、近い。
「ま、誠!?」
 突然の事態に驚く俺に、誠は冷静な声で言った。
「……葉一様が、私に欲張りになっても良いとおっしゃるなら、私はそうしますよ……」
 誠はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ずっと、触れたかったと言ったら、どうされますか? 引きますか?」
「え……?」
「こうやって、私の腕の中に閉じ込めて、ずっと守りたい。そう思っていたと言ったら、葉一様はどう思われますか?」
「え……?」
 俺は誠を見上げる。誠と目が合う。穏やかな瞳。けど、なんだかいつもと雰囲気が違う。もしかしたら、これが本当の誠なのかもしれないと思った。
「……誠は、俺のことが……」
 好きなの?
 そう思った。けど、聞けなかった。だって、抱きしめるって、そういうことでしょ?
 分からない。だって、分からない。
 分かるのは、服越しに伝わる誠の体温だけ。
 熱い。溶けちゃう。熱い。心地が良い。
 ああ、誠って、やっぱり身体が大きいな、ってぼんやりと思った。
「……引かないよ」
 俺は小さな声で、そう言った。
「別に、引かない。だって、それくらい俺のことを思ってくれているってことでしょ?」
「……はい」
「誠のこと、全部はまだ分かんないけど、誠が本当の誠で居られるなら、良いよ。欲張りになりなよ……」
「葉一様、良いのですか? 本当に、私はそのようにしますよ?」
 誠が俺に訊く。
 俺は頷いた。
 だって、誠にはいろいろ……お世話になっているし。たぶん、これからもお世話になるし。
 なにより、誠が少しでも自由に生きられるならそれで良いと思った。
「あ、けど……」
 俺は少し俯いて、ぼそぼそと言う。
「……こういうことをする時は、事前に告知をしてくれると嬉しい」
「告知、ですか?」
「そう。だって、急に……ハグってびっくりするから」
 俺の言葉に、誠は苦笑した。
「分かりました。告知をします」
 そう言って、誠は俺を腕の中から解放した。そして、ふうと息を吐いてから俺に言う。
「……では、今度こそお勉強をしましょう」
「あ、うん」
 俺は頷いてから自分の机に向かう。次は、どの教科にしようかな。
 数学でも、世界史でも、何をやってもその内容は頭には入りそうもない。それくらい、俺の心臓はまだどきどきと忙しなく鳴っていた。
 
 ***
 
 夕方の五時になって、俺たちはテキストを閉じた。
 そろそろ帰って夕飯の支度をしないと、と誠が言ったので、今日の勉強会はここまでだ。
「ふたりで勉強合宿、というのも良いかもしれませんね」
 ふふっと楽しそうに誠が笑う。
 俺は「ええー!」と悲鳴を上げる。
「嫌だよ。勉強合宿なんて!」
「ふふ。良いではないですか。夜は楽しい枕投げが出来ますよ?」
「ふたりで枕投げって楽しい?」
「きっと楽しいです」
 俺は想像する。高校生男子が深夜に枕投げ大会。参戦者は俺と誠。どっちかが降参するまでゲームは続く。
「……ふは、確かに面白いかも」
「では、いつか私の家で」
「……駄目だよ。誠の家だと迷惑だろ?」 
「なら、どこでします?」
「どこって、そりゃ……」
 枕投げなら、ホテルじゃなくって旅館かな……。
 畳の上に布団を並べて……。
 ま、待って! 旅館!?
 そんな……並んだ布団の上で、さっきみたいに抱きしめられでもしたら……。
「葉一様、お顔が赤いですよ?」
「っ……! 赤くない!」
「赤いです。鏡をお渡ししましょうか?」
 ズボンのポケットを探る誠に、俺は「いらない!」と声を張った。
「ほら、早く帰んないと駄目なんだろ? 早く帰ってご飯を作りなよ!」
「え、ええ?」
 誠の背中を押して、ふたりで玄関に向かう。母さんは、夕方のタイムセールに出掛けていて居なかった。
「では、失礼します。葉一様、お留守番の時に知らない人が来ても簡単に出てはいけませんよ?」
「はいはい。分かっています」
 子供扱いする誠に、俺は頬を膨らませて返す。誠はふっと笑って俺に向かい合った。
「葉一様」
「何?」
「キスがしたいです」
「ああそう……え? 何? き、キス!?」
 俺は裏返った声を上げた。
 いきなりなんてことを言い出すんだ!
 俺は目を見開いて誠を見る。誠はどこまでも冷静な瞳で俺を見つめていた。
「キスです。あ、ご存知ありませんか?」
「ご存知あるわ!」
 俺は思わず大きな声になる。
「いきなり変なことを言うから、びっくりしたの!」
「ですが……告知をしろとおっしゃったのは葉一様です」
「そう、だけど……」
「欲張りになれとおっしゃったのも、葉一様です」
「……そう、だけど!」
 キスって、こ、恋人同士がするんじゃないの!?
 俺と誠は、付き合ってないから……!
「ま、誠っ!?」
 俺が「それは無し!」と言う前に、ちゅ、と誠がキスをしてきた。
 俺の、つむじに。
「な……」
 ぱくぱくと口を動かすだけで、何も言えない俺に、誠は軽く一礼して言う。
「おやすみなさいのキスです」
「おやすみなさいのキス?」
「ふふ、口にされると思いましたか?」
 俺の反応を楽しむかのように言う誠に、俺は強気で返した。
「思ってないし!」
「ふふ、分かりました。では……」
 失礼します、と玄関のドアを開けて外に出ようとする誠の背中に、俺は声を掛けた。
「誠!」
「はい?」
「その……昨日もだけど、今日も……ありがと……」
 いろいろあったけど、勉強が捗ったのは事実だ。誠が今日、来なかったら、俺はだらだらと時間を潰していたに違いない。
 俺の言葉に、誠は穏やかに笑った。
「私の方こそ、ありがとうございます。テスト勉強も受験勉強も、たくさん進みました」
「う、うん……」
「それに……」
 誠は自分の胸にそっと手を当てた。
「欲張りに生きろ、というお言葉も嬉しかったです」
「そ、そう……」
「これからは、そういたします。葉一様、今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」
「あ、こちらこそ……」
「では」
 そう言って、誠は今度こそドアを開けて自分の家に帰って行った。
 俺は、その場にへなへなと腰をつく。
 今日は、本当にいろいろなことがあった。
 特に……誠の変化。
 欲張りに生きろとは言ったけど……俺を抱き締めたり、き、キスしたり……誠はずっと、そういうことがしたかったってこと……?
「ますます、分からん……」
 いつも一緒で、一番理解していると思っていた誠だが、何故だか謎が深まってしまった一日だった。