「今日が土曜日で良かった……」
 ゲーセンで遊んだ次の日、俺は自室のベッドでごろごろしていた。
 腕の中には、青いぬいぐるみの猫。
 俺は、そいつのプラスチック製の鼻を指で軽くつついた。にゃあ、とも鳴かないぬいぐるみ。別に俺は可愛いものが好き、というわけではない。けど……。
 ——誠が取ってくれたから……。
 俺はぬいぐるみを抱きしめたまま寝返りを打つ。誠にこういったものを貰うのは、初めてだ。いつも、弁当やお菓子をくれるけど、こう「プレゼント」といったものをくれるのは初めてだ。だから……心がぐちゃぐちゃする。いや、ぐちゃぐちゃというより……どきどき? 分からん……。
 とにかく、今、誠に会うと心臓がおかしくなりそうだから、今日は学校が休みの土曜日でラッキーなのだ。
 俺は視線をぬいぐるみから学習机に移す。そこには、誠が選んでくれた参考書がたくさん並んでいる。
「……受験、かぁ……」
 来年の今頃、俺はきっと忙しいんだろうなぁ、と思う。俺は誠みたいに器用じゃないから、自分のことでいっぱいいっぱいになるだろう。そんな状態の俺を救ってくれる誠は、来年、もう高校には居ない。
「自立、しないとなぁ……」
 いつまでも、おんぶにだっこというわけにはいかない。そもそも、今の距離感がおかしいのだ。
 いつも俺を優先する誠は、もっと自分を大切にするべきだ。そして、俺は自分から離れるべきだ。うん、きっとそう。そうすれば、誠は自分の進路をしっかり確立して、来年からは自由なキャンパスライフを謳歌するだろう……彼女とか、作って。
「あー、もう! なんであいつイケメンなんだよ!」
 俺はベッドを手足でばたばたさせる。
 あんなにモテる見た目じゃなかったら、大学に行っても俺との時間を作ってくれる、あ……。
「いかんいかん。俺は自立、するんだ!」
 そう呟いた時、ピンポンと玄関のチャイムが鳴った。誰だろう。まだ朝の九時だ。回覧板を隣のおばさんが持って来たのかな?
 そうなると俺の母さんとの長話が始まるから嫌だな、と思っていたら、誰かがとんとんと音を立てて階段を上ってくる音がした。誰だろう……いや、この時間は父さんは仕事だし、母さんだな。
 俺は「朝からごろごろしないの!」と怒られる前に、素早くベッドから起き上がって机に向かった。そして、適当に参考書を広げて勉強しているふりをする。
 三回のノックの後、ドア越しに声が掛けられた。
「葉一様、いきなりすみません。入れていただけませんか?」
「え!? ま、誠!?」
 俺は慌てて椅子から飛び退いてドアを開ける。そこには、普段着姿の誠が笑顔で立っていた。
「ど、どうしたの……?」
 俺はどきどきしながら誠に訊いた。まずいぞ。この心臓の音が誠に聞こえてしまうかもしれない。
 俺のそんな心配をよそに、誠はにこにこしながら俺に言う。
「一緒にお勉強でも、どうかと思いお邪魔しました」
「勉強……」
「そう。お勉強です」
 誠は少し眉を下げて言う。
「ゲームセンターでは少し遊びすぎました。結果、葉一様の勉強の時間を奪ってしまったと心配になり……」
「い、いや。平気だよ、楽しかったし……」
「ですが!」
 誠は前のめりになりながら言う。
「昨日の遅れが、成績に影響したら大変です! ですから葉一様、今日はたっぷり一緒にお勉強をしましょう!」
「えー……」
 もうすぐ中間テストだ。勉強はしなけりゃならないけど、まだ朝の九時だし……もうちょっとゆっくりしたい。そう言おうとしたその時、階段の下から母さんの声が響いた。
「葉一! 誠ちゃんに見張ってもらって、ちゃんと勉強するんだよ!」
「……ハイ」
 俺は小さくそう返して、誠を部屋に招き入れた。勉強のこととなると、俺は母さんに逆らえない。理由は単純に怖いから。たまにプレッシャーのビームみたいなのを発射してくるから、最近はあんまり話さないようにしている。
「お邪魔します」
 誠は一礼してから部屋に入った。よく見ると、肩には白いトートバッグ。たぶん、中には勉強道具が入っているんだと思った。
「えっと……どっちに座る?」
 俺は学習机と、ローテブルを指差して誠に訊いた。誠はローテブルを選んで、ささっとそこに座る。素早い動き、忍者みたい。
「勉強って……誠は受験勉強? それとも中間テスト?」
「両方ですね」
 誠はトートバッグから、自分のテキストや筆入れを出しながら言う。
「今習っているところと、過去に習ったところをやります」
「そんな、同時進行みたいなこと出来るんだ……」
「私も人間です。現在習っている範囲ばかり復習していたら飽きます。なので、それよりも過去に習っていたところを気分転換に勉強し直します」
 勉強の気分転換が勉強……。
 俺はそれを聞いて、めまいを起こしそうになった。
 誠はそんな俺に明るい声で言う。
「葉一様、分からないところがあったらいつでもおっしゃって下さいね?」
 きっと、誠の頭の中には二年生の時に習った授業の内容がぜんぶ入っているのだろう。
 教えてもらえるのは、助かる。
 でも……。
「……気持ちは嬉しいけど、誠の邪魔はしたくないから静かにしてるよ」
「えっ!? 邪魔?」
「そう。勉強中に話しかけられたら迷惑だと思うし……」
「そんな!」
 誠は険しい顔をして、少し大きな声で言った。
「邪魔、迷惑だなんて思いません! そう思うのなら、初めからここに来ておりませんよ!」
「それは、そうかもしれないけど……」
「申した通り、過去に習ったところをもう一度解くのも私にとっては大切なのです!」
「うん……」
「ですから葉一様、いつでも私におっしゃって下さい! 私はいつでも大丈夫ですからっ!」
「……ありがと」
 俺が礼を言うと、誠は納得したのか表情を緩めた。そして「では始めましょう」とテキストを広げる。俺も、それに続く。
 ——いつでも、か。
 嬉しいけど、それじゃ甘えることになる。いつまで経っても自立は出来ない……。
 ——あんまり、声を掛けるのは止めておこう……。
 数学のテキストを広げながら、俺は小さくそう誓ったのだった。
 
 ***
 
 しばらく数字と戦っていた俺は、軽い頭痛を覚えたので、そっとテキストを閉じた。やっぱ、数学って難しいなぁ……。
 俺は、ちらりと誠の方を見た。すると、向こうもこっちを見ていたので視線がばちんとぶつかる。
「分からないところがありましたか?」
「あ……」
 俺は言葉に詰まる。ちょっと背伸びをして、まだ授業で習っていない応用問題のページをやってみたんだ。結局、分からなかった。
 ——誠に訊けば、丁寧に教えてくれるんだろうけど……。
 俺は「違うよ」と笑顔を作って言った。
「気分転換しようと思っただけ」
「気分転換ですか?」
「そう、ちょっと脳を休ませようかなって」
 俺は机の上の時計を見た。あと三十分で昼の十二時だ。
「あー、目が疲れた」
 言いながら俺はベッドにダイブした。本当に目の奥がずきずきしている。もしかして、ドライアイかもしれないと思った。それくらい、集中していた俺の頭も目も限界。
 俺は枕元に転がっていた、青い猫のぬいぐるみを抱き寄せて、そのふわふわしたボディに顔をうずめた。
「疲れたから休憩! 誠も休んだら?」
 俺の言葉に、誠は何も言ってこない。いつもなら、何か反応をくれるのに。
 俺は顔を上げた。
「誠……?」
「っ!」
 誠は、何故だか真っ赤な顔をして俺を見ていた。どうしたんだろう……まさか、知恵熱でも出た?
「誠、顔が赤いけど熱でもあるんじゃないの?」
「あ、い、いえ……!」
 誠は慌てた様子で否定した。
「えっと、暑い……そう! 今日は少し暑いですから、きっとそのせいです!」
「暑い?」
 そんなに暑いかな……?
 勉強に集中していたから、そう感じるのかな?
「エアコンつける?」
「いえ! 平気です!」
 誠は俺から視線を逸らして、ローテーブルをじっと見る。なんだか様子がおかしい。
「……」
「……」
 変な沈黙が流れた。
 しばらくしてから、それを破ったのは、誠だった。
「……そのぬいぐるみ」
「え? これ?」
 俺は腕の中のぬいぐるみを見る。
「これが、どうかした?」
「あ、いえ……」
 あ、もしかして返してほしいのかな?
 せっかくの戦利品だもんな……そう思った俺は、それをすっと誠に向けた。
「いるなら、返そうか?」
「い、いえ……そうではなくて……」
 誠は、小さな声でぼそぼそと言う。
「その子を抱きしめておられる葉一様が、あまりにも、か、可愛らしくて……」
「え……?」
 俺は思い出す。
 別れ際の、やり取りを……!
「っ……!」
 俺はぷい、と横を向く。きっと赤くなっている顔を隠すために。
「可愛いとか、無いし!」
「いえ、国宝級に可愛らしいです……」
「ば、馬鹿! 変なこと言うなよ……」
「……」
「……」
 また沈黙。
 俺はこの状況をどう動かせば良いのか分からなくて、またぬいぐるみに顔をうずめる。
 心臓が、どくどく鳴っている。血液が身体の上にどんどんのぼってきているみたいで、熱い。
 俺が変になってしまうのは、誠が変なことを急に言い出すからだ……!
 よし、文句を言ってやろう! そう意気込んで顔を上げたら、俺の耳に誠の声が飛び込んできた。
「……その子に名前はつけましたか?」
「は? 名前?」
 思わず間抜けな声が出た。
 名前?
 え?
 ぬいぐるみに名前なんて必要……?
 俺は首を横に振った。
「つけてない」
「それは、いけませんね」
 誠は視線をぬいぐるみに移して言う。
「葉一様のパートナーです。名前が必要かと思います」
「パートナーって、大袈裟な……」
「さあ、葉一様。名前をつけてあげましょう!」
「ええ……」
 俺はじっと青いそれを見つめる。急に名前をつけろなんて言われても、何も思い浮かばない。けど、誠は頑固なところがあるから、俺が名前を決めるまで、引き下がることはないだろう。
「……えーっと、くまきち、とか?」
「えっ」
 誠は固まる。それから、肩をぷるぷると震わせて、笑い出した。
「く、くまきち……! 葉一様、そのぬいぐるみは、ね、猫です……!」
「あ、そっか」
 俺はプラスチックの鼻をつつきながら、口を開く。
「じゃあ、ねこきち」
「っ……! その路線でいかれるのですねっ……!」
 ツボに入ったらしい誠は、うずくまって笑い続ける。それに釣られて、俺も笑顔になった。
「ねこたろう、とかの方が良い?」
「た、たろう……!」
「ねこのすけ」
「葉一様、やめて下さい! 笑いすぎて呼吸が……」
「ヤア、ボク、ネコノスケ。ヨロシクネ」
 俺の裏声がとどめだったらしい。誠はひいひい言いながら床に仰向けになって、目に涙を浮かべながら笑い続けた。
「葉一様、っはは! ど、独特なネーミングセンスですねっ……! ふはは!」
「うるさい」
 俺はベッドから降りて、誠の横に屈み、その顔を覗き込む。
 思えば、こんな風に笑う誠を見るのは初めてだ。いつも誠は大人びていて、執事みたいな態度で……でも、今はただの高校生。俺と同じ子供だ。
 ——俺が、いつも誠に無理をさせているのかな……。
 そう思うと胸が痛む。俺がいじめを止めて、そのことに誠はずっと感謝しているのは知っている。けど……あの時、俺はまず一番に先生に知らせに行くべきだったのかな。そうしたら、誠は俺に縛られることなく、こうやって笑う普通の高校生でいられたのかな……。
「葉一様? どうされました?」
「っ……」
 落ち着きを取り戻した誠が、俺を心配そうに見つめている。綺麗な瞳だ。その目に映るのは、俺という存在で……。
「誠……」
 もう俺なんか、放っておいて良いよ。
 そう言わなきゃいけないのに、言えない。言葉が喉でつっかえて、言えない。
 怖いのだ。
 今すぐに、この関係が変わってしまうということが……。
「葉一様……」
 そっと誠が手を伸ばして、俺の頭を撫でる。俺は驚いて目を見開いた。
「な、何?」
「いえ、とても辛そうなお顔をされていたので」
 くしゃっと髪を撫でられる。地味な俺の黒い髪に、誠の手が触れている。熱い。熱くて、溶けてしまいそうだ。
 俺は目を閉じる。そして、強がりみたいな言葉を口にした。
「……子供扱いするな」
「ふふ、私たちは子供ですよ?」
「そうだけど……いっこしか歳が違わない人間にはされたくない」
「そうですか」
 言いながら、誠は手を止めることなく俺を撫で続ける。不思議だ。気持ち良い。怖いと不安だった気持ちが消えていく……。
「……誠はさ、ちゃんと青春してるの?」
「青春、ですか?」
「そう……」
 ゲームセンターに行ったきっかけは、誠が青春をしようと言ったからだ。
 そう言い出した張本人は、俺の居ないところではどんな高校生活を送っているのかが気になった。考えてみれば、俺は誠のことをあまりよく知らない。
 あまりにも距離が近すぎて、俺は誠のことを自分から知ろうとしていなかったのだ。
「クラス、ちゃんと馴染めてる?」
「クラスですか? そうですね……まぁ、普通ですね」
「友達は居る?」
「ええ、居ますよ。席が近い人とよくお話をします」
「じゃあ……親友は?」
「親友……」
 俺は目を開いて誠を見た。誠も俺を見ている。視線が、ぶつかった。
「親友は……居ませんね」
「あ、そう……」
 心の底で「それは葉一様です」って言われたらどうしよう、って思った俺は恥ずかしくなって少し俯いた。一瞬でも馬鹿なことを考えた自分を殴ってやりたい。
「……親友は居ませんが、大切な人なら居ます」
「え?」
 大切……?
 それって……か、彼女……?
 誠はゆっくりと起き上がり、俺の手をそっと握った。
「それはもちろん、葉一様です」
「……そ、そう……」
 俺は赤くなった顔を隠すために、俯いて早口で言った。
「それって……親友と違うの?」
「違います。まったく、違います」
 俺はちらりと誠を見る。俺に向けられている表情は、真剣そのものだった。
「葉一様には、親友はおられますか?」
「え? 俺?」
 突然の問いに、俺は言葉に詰まった。
 親友、というカテゴリーに、誠を入れるのはなんだか変な気がした。
 ——あれ? 誠は「友達」なんだよな?
 友達、先輩、幼馴染……どれも当てはまる言葉だ。でも、それらに誠を当てはめるのを心が何故だか拒否している。
「……葉一様、前に私のことを友達だとおっしゃいましたね?」
「え……?」
 言ったっけ?
 いや、言った。誠が一年ダブるなんて、わけの分からないことを言った時に、俺は言った。
「い、言った……」
「……私は、葉一様のことをそうは思ったこと無いのですよ?」
「……え?」
 誠の言葉に、俺は混乱した。どういう、意味?
 友達って思っていないのに、ずっと一緒に居たって……。
「誠……じゃあ、俺は誠にとって、どんな人間なの?」
「それは……」
 誠が何かを言おうとしたその時、部屋のドアがノックされた。俺たちは慌てて距離を取る。
 ドア越しに、大きな母さんの声がした。
「ふたりとも! チャーハンを作ったから食べなさいな! 休憩も大切よ!」
 母さん、今、俺たちは大切な話をしていたのに……!
「ありがとうございます。お母様」
 誠は何事もなかったかのように冷静だ。
「葉一様、行きましょう」
「あ、うん……」
 穏やかに笑顔を見せる誠。いつものその姿を見て、俺はますますわけが分からなくなった。