昼休みの一件から、一週間が経った。
 あれから誠は、変なことを言わない。進路のことは、ちゃんと真面目に考えたのだろう……たぶん。そう信じたい。
 俺から訊くのは、なんだかちょっと怖いので何も言えない。だから、誠の言葉を待っているのだけれども、誠の方も何も言ってこないから困る。
 ……一応、誠は上級生だ。下の俺が先輩の進路について詮索するのもなぁ……ちょっと対応に困っている。
「葉一様、お口にあいますか?」
「あ、うん……美味しい、ありがとう」
 俺の言葉に、誠は嬉しそうに微笑んだ。今は昼休みの屋上で、いつものように誠が作ってくれた弁当を食べている。今日のメインはハンバーグだ。冷凍だろうが何だろうが、美味い。
「そうだ、葉一様」
「ん? 何?」
 お互い食事を終えたタイミングで、誠が口を開いた。もしかして、進路のことを言ってくるのだろうか。俺はどきどきしながら、彼の言葉を待った。
「今日の放課後、お時間はありますか?」
「えっ? 放課後? あるけど……」
 生徒会に入っている誠と違って、暇人で帰宅部の俺には時間がある。というか、誠が生徒会で忙しくない限り、だいたいは一緒に帰っている……だから、わざわざ「時間があるか」って訊いてくる誠に、俺は違和感を覚えた。
「それは、良かった」
 誠は、微笑む。そして、そっと俺の両手を取って言った。
「では、一緒にゲームセンターに行きましょう」
「あ、うん……え? ゲーセン?」
 俺は驚く。誠の口からゲームセンターと言う単語が出てきたことに驚いた。いつもなら、「寄り道はいけません!」って言うのに……どうしたんだろう。
「良いけど……なんで、いきなり、急に?」
 俺が訊ねると、誠はふふっと笑って言う。
「高校生の放課後といえば、ゲームセンターだとクラスメイトに聞きました。葉一様、我々は高校生らしいことを今までしてきませんでした。これは完全に私の落ち度です。ですから、今日から青春を共に過ごすことにいたしましょう!」
「せ、青春って……」
 俺は戸惑う。だって、今までこんなことを言われたこと無かったし……あ、そうか。誠はきっと、勉強に行き詰まってしまっているんだ。だから、息抜きに遊びたいんだ……。
 俺はそう思うことにした。受験って、きっと毎日がプレッシャーなんだと思う。だから、付き合うよ、誠。
 俺は「うん」と頷く。
「分かった。駅前のショッピングモールの中のゲーセンに行こう」
「葉一様……ありがとうございます!」
 誠は感激を隠せない表情で笑顔を見せる。ああ、そんなに喜んでくれるなら、ゲーセンでもどこでもついて行くよ……いつも、いろいろとしてもらってるし。こんなことで、お礼にならないと思うけど。
「放課後、楽しみですね!」
「うん」
 うきうきしている誠を、俺はちらりと見た。どうせなら、クラスの可愛い子と行けばもっと楽しいと思うけどな……。
 そう考えると、何故だか胸がちくりと痛んだ。なんだ、この感じ……変なの。まるで、俺が誠と離れたく無いみたいじゃないか。
 いつもべったりで俺に「仕えて」くる誠より、俺の方が誠に依存しているみたいで、俺はちょっと複雑な気持ちになったのだった。
 
 ***
 
 放課後、いつものように俺の教室まで誠は俺を迎えに来た。
「ああ、目の保養……」
「いつも見られてラッキーだよね!」
 女子たちが小声できゃっきゃとはしゃぐ。聞こえているぞ! そうだ、誠はモテるんだ。俺の心はくもる。誠、俺にも一パーセントで良いから、イケメンの要素をくれ……!
 平凡な俺は帰り支度をささっと済ませて、誠の待っている廊下に向かった。そして、別に言葉を交わすことなく自然に歩き出す。向かうはゲーセン! ようし、今日は遊ぶぞ!
 廊下を歩いていると、背後から「黒原」と声が飛んできた。俺たちは振り返る。そこには、俺には馴染みのない先生が立っていた。きっと三年生の担当の先生だろうな。
「黒原、ちょっと良いか?」
「はい、なんでしょう?」
 その先生はちらりと俺を見た。席、外した方が良いかな……。
 俺は誠のシャツの袖を軽く引っ張って、言った。
「ちょっと、あっちで待ってる」
「あ、ありがとうございます……」
 俺はそそっとその場を離れた。そして、近くにあった進路指導室の壁に掲示されているプリントを適当に眺めた。それには、いかに勉強が大切か、体調管理はしっかり出来ているか、など……学生には役立つ情報がいっぱい書かれている。
「……誠は、どこの大学に行くんだろうな」
 そう呟きながら、俺は昨年の合格実績表を見た。さすが、進学校。合格率はとても高い。
 俺も来年は……はぁ……。
 誠のことを心配する前に、俺は自分の心配をしなければならないということに気付く。
 ああ、怖いなぁ、受験。今の成績じゃ……私立だよな。奨学金、取れるかな……。
 卒業したら、バイトだってしないといけないだろう。大学生って、忙しいのかな?
 サークルとか部活とか……未知の世界だ。そういえば、夏にはオープンキャンパスがあるな。参加するべきだよなぁ……。
「葉一様、お待たせしました」
「あ、うん」
 いつの間にか俺の横に来ていた誠が、申し訳なさそうに俺に言う。
「先生に何か言われた?」
「ええ、まぁ……」
 誠は苦笑しながら言う。
「少し、進路のことで……」
 進路、という言葉に俺はどきりとした。まさか、俺との約束を破って「一年、ダブります」って書いたんじゃ……!?
 俺の表情を見て、誠は「ご安心下さい」と息を吐く。
「大学には、行きます」
「あ、そっか……」
 良かった。素直にそう思った。
「怒られたのかと思って心配した」
「ふふ、心配していただきありがとうございます……ちょっとした意見の相違があっただけですので」
「えっ」
 それって、大丈夫なの……?
 そう思う俺をよそに、誠はそっと俺の手を取って明るい声で言う。
「さぁ、ゲームセンターに行きましょう!」
「え? その件、大丈夫なの!?」
 珍しく、俺の言葉に誠は返事をしなかった。俺は何も言えず、歩き出した誠に続いた。
 
 ***
 
 放課後のゲーセンは、そこそこ混んでいた。
 俺たちは、ぶらぶらといろんなゲームを見て回る。こういうところに来るのは、何年ぶりだろう? 放課後はいつだって誠と一緒で、寄り道は無しで……本当に、いつぶりだろうか。まったく思い出せない。
「葉一様、どれで遊びますか?」
「あ、えっと……」
 誠の言葉に、俺は適当に近くにあったシューティングゲームを指差した。
「あれは?」
 俺は説明書きを読む。
「えーっと……銃でゾンビを撃つゲームだって」
 良いな、と思った。こういうゲームは、きっとストレス解消になるだろう。誠の気分が晴れたらな、と思った。だが……。
「銃!? いけません!」
 誠は悲鳴を上げる。
「なんて危険な……! そんなものを持ってはいけません!」
「いや、これはゲームだし……」
「駄目です! もっと安全なものを選びましょう!」
 誠はきょろきょろと周りを見渡す。そして、クレーンゲームのコーナーを指差した。
「あれにしましょう! ぬいぐるみが相手なら安心安全です!」
「安心安全って……」
 まぁ、誠が選んだのなら良いけど。けど、一応、訊いておこう。
「誠はさ、やってみたいゲームは無いの?」
「私ですか?」
「ストレス解消に良いゲームあるよ、きっと……ほら、あのレーシングゲームとか……」
「私は運転免許を持っていませんので無理ですね」
「いや、これはゲームだし……」
 俺は息を吐く。どこまでも真面目な男、黒原誠だ。
 俺も周りを見て「安心安全」そうなゲームを探した。すると、角の方に太鼓を叩くリズムゲームがあるのを見つけた。俺はそれを指差して誠に言う。
「あれは?」
「太鼓、ですか?」
「太鼓なら、小学校の時に叩いたことあるだろう? 使うのもバチだから安心安全だよ」
「それなら……大丈夫ですね。さすが葉一様、目のつけどころが違う」
「大袈裟だよ……」
 俺たちは太鼓のゲームの前に立った。太鼓は横に並んでふたつ置いてある。対戦が出来るみたいだ。
「どっちが、音を外さずに出来るか勝負をしよう」
「え? 私も叩くのですか?」
「当たり前だよ。一緒に青春するために、ここに来たんだろ?」
「それは……分かりました。私も叩きます」
 誠は息を吐く。
「葉一様が太鼓を叩く様子を、動画撮影するつもりでしたのに……」
 言いながら、財布から百円玉を取り出す誠の言葉を、俺はあえて聞こえなかったふりをした。
「ようし、絶対に勝つ!」
「お手柔らかにお願いしますね」
 軽快な音楽が鳴って、画面に譜面みたいなものが表示された。なるほど、これを見て叩くんだな!
「レディー、ゴー!」
 機械がそう言って、ゲームが始まった。
 難易度は普通にしたけど、なかなか難しい……けど!
 ——楽しい!
 リズムに乗って、俺たちはバチを使って太鼓を叩き続けた。ふふふ、勉強では勝てないけど、ゲームでなら誠に勝てる気が、する!
 俺は、音楽に集中する。手を使っているだけなのに、うっすらと額に汗が滲んだ。
 
 ***
 
「すげー、あの高校生!」
「あの難易度でフルコンボの連続じゃん!」
 ゲームに集中すること数十分、俺たちの周りには、小さなギャラリーが出来ていた。
 数回叩いて慣れてきた俺たちは、面白半分で難易度を一番難しいやつに変えてやってみた。すると……。
「フルコンボ!」
 機械から拍手の音がする……俺の隣の誠の方から。
「あのイケメン、すげー!」
「バンドとかやってたりしてな!」
 ゲームに区切りがついたので、俺はちらりと誠の方を見た。彼はギャラリーに向かって、気まずそうに頭を下げていた。
「……葉一様、そろそろ他のゲームを……」
「そうだな……」
 あまり目立ちたくない俺たちは、バチを置いてクレーンゲームのコーナに向かった。一応、進学校の生徒なのだ。変な噂がたっても困る。
「……誠はリズムゲームの才能があったんだな」
「いえ、才能だなんて! たまたまです!」
 たまたまで、連続のフルコンボなんて出せないだろう。俺は息を吐く。結局、ゲームでも誠に勝てなかった。ちょっと悔しいけど、楽しかったから良いや。
「どうする? もうすぐ六時だけど」
 俺はスマートフォンの画面を眺める。こんな時間に遊んでいるなんて、なかなかレアな体験だ。
 俺の言葉に、誠は少し悩む仕草を見せた後で、言った。
「これで、遊んでから帰りましょう」
「分かった」
 俺たちはクレーンゲームの台を見て回って、最近流行っている猫のキャラクターのぬいぐるみが景品のものを選んだ。
「どれが良いですか?」
 取る気が満々の誠が俺に訊く。別に俺はこのキャラクターが好きってわけじゃ無かったけど、せっかく誠がそう言ってくれたから、なんとなく取りやすそうな場所に転がっていた、青色の猫のぬいぐるみを指差した。
「あの青いのが良い」
「分かりました!」
 誠は器用に機械を操作して、本当に抜いぐるみを一発で取った。俺は思わず声を上げる。
「誠! すごいな!」
「いえ、そんな……たまたまです」
 照れ臭そうに誠は頬を掻く。そして、取れた猫のぬいぐるみを俺に渡してくれた。
「葉一様、どうぞ」
「本当に貰って良いの? せっかく誠が取ったやつなのに……」
 俺の言葉に、誠は柔らかい表情で言った。
「葉一様のために取ったのです。受け取って下さい」
「あ、ありがと……」
 礼を言ってそのぬいぐるみを受け取る。十五センチくらいのそれは、ふわふわしていて触り心地が良い。プラスチックの目の部分はきらきらしている。
 俺は誠を見る。その瞳は、このぬいぐるみみたいに輝いていて……。
「……可愛いな」
 思わずそう言葉が漏れた。そして、しまった、と思う。心の声を聞かれたなんて、恥ずかしすぎる。
「はい、可愛らしいぬいぐるみですね」
 だが、誠は「ぬいぐるみ」が可愛いという意味で受け取ったらしい。俺はほっとした。
「葉一様がお望みであれば、もうひとつお取りしましょう!」
 意気込む誠に、俺は苦笑しながら言った。
「そろそろ帰ろう。あんまり遅くなると、駄目だし……」
 俺の言葉に、誠はどこか名残惜しそうに頷いた。
「はい……では、帰りましょうか」
「うん」
 ショッピングモールを出て、俺たちは歩き出す。幸いなことに、高校は地元なので徒歩で移動が可能だ。今日は駅前まで来たからちょっと遠くなるけど、楽ではある。
「葉一様、お疲れではないですか?」
 気遣わし気に訊いてくる誠に、俺は「平気だよ」と答えた。
「誠は? 疲れていない?」
「私は大丈夫です! とても……楽しかったです」
 誠は柔らかく笑った。
「ゲームセンターというのは、不良が行くところだと思っていましたが、違いましたね」
「あはは……」
「また、行きたいです」
 誠の言葉に、俺も頷く。楽しかった。ギャラリーができたのは予想外だったけど、たまには良いな。こういうのも。
「今度はさ、友達と行ってみたら? 誠の太鼓の腕前を見せてあげたら驚かれるよ、きっと」
「いえ……」
 誠は俺を見て言った。
「私は、葉一様と行きたいです。それが、何よりも嬉しいのです」
「……そう」
 こうも俺を優先して、誠は本当に楽しいのだろうか。ちらりとその顔を見ると、その表情に嘘は混じっていない。俺は照れ臭い気持ちで前を向いた。
「……遅くなったけど、怒られない?」
 俺は、さりげなく話題を変えた。誠は軽く頷く。
「最近、私の両親は帰りが遅いので大丈夫です。一応、連絡は入れましたが」
「そう……え? ふたりとも帰りが遅いって……おばさん、パートにでも行ってるの?」
 誠の家と俺の家は交流がある。だから、お互いの両親のことは知っている。誠の家のおばさんは、確か専業主婦だったと思うんだけどな……。
 俺の言葉に、誠は渋い顔で頷いた。
「四月からスーパーで働いてくれています。ほら……受験というものはお金がかかりますからね」
「なるほど……」
「本当は、私がアルバイトをするべきなのに。迷惑をかけてしまって、気が重いです」
 俺たちの通う高校は、バイトは禁止されている。そんなことをする時間があるなら、勉強しろ、ってことらしい。
「仕方無いよ……てか、誠は忙しいんじゃないの? ふたりが遅いってことは、家のことをしないといけないんじゃ……?」
「ええ、家事はひと通り済ませますね。今日も夕飯を作ってから宿題をします」
「え……」
 ゲーセン、本当に行っても良かったのかな……。
 誠、めちゃくちゃ忙しいじゃん。
 学校で、先生にも何かを言われていたし。
 ……俺は思い切って誠に訊いた。
「進路のこと、先生と意見が合わないって言っていたけど、それは平気なの?」
「えっ?」
 急にその話を振った俺を、誠は驚いたような表情で俺を見た。
「……ご心配をおかけしてすみません」
「心配するよ。友達だし……誠はさ、俺のことをいつも心配してくれるじゃん? 俺だって誠のことを心配する。同じだよ」
「葉一様……!」
 誠は感激しましたとでもいうように、瞳を潤ませる。
「そんなふうに言っていただけて嬉しいです……ありがとうございます!」
「……大袈裟だよ、誠は……」
 俺の言葉に、誠はふっと笑って、ゆっくりと口を開いた。
「……先生とは、県内と県外の大学について揉めていました」
「県内と県外?」
「はい……」
 誠は肩を落とす。
「私は家から通える、県内の大学に行きたいという希望を持っています。ですが、先生は県外のもっと上のレベルの大学に行けと言われていて……はぁ……」
「それは……困るよな……」
 こういった場合、本人の希望を尊重するものなんじゃないの?
 誠は県内の大学に行きたいって言っているんだから、それで良いんじゃないの? 大人の考えていることは分からないなぁ。
「誠は、どんな学科に行きたいの?」
「文学部です」
「なるほど」
 確かに、誠は文系の特別進学クラスだ。だから、文学部に進むのは自然な流れだと思った。
「それを先生に言ったら、県外にも文学部はあるからそこに行け、と。おそらく、学校での合格実績を上げたいのでしょうね。ああ、嫌ですね、そんなふうに利用されるのは」
「誠……」
 悲しそうな誠を見て、俺まで気分が沈んでしまう。
「……俺は、誠が一番行きたい大学に行くのが良いと思う! だから、大人の都合に負けたら駄目だ!」
「葉一様……」
 誠は俺の言葉をすべて吸収してから、ゆっくりと口を開いた。
「……ありがとうございます。葉一様は、いつも私の味方をして下さいますね」
「いつも、って?」
「幼稚園で、助けて下さいました。私の味方をして……」
 遠い昔の話を、誠はまるで昨日の出来事のように言う。
「本当に……本当に嬉しかったんです。あの時、葉一様が森野を止めて下さらなかったら、私はいつまでも孤独でした」
「孤独……」
「葉一様は、私を照らす太陽です」
 よくそんな恥ずかしいことを言えるな、と思いながら、俺は何も言えずに空を見上げた。 五月の夕方。まだこの時間はほんのり薄暗い。もうすぐ、夏だ。夏休み……誠はどんどん忙しくなっていくだろうし、俺もそろそろ動き出さないといけない。
「そういえば、誠はオープンキャンパスにはもう行ったんだっけ?」
「はい。一年生の時と、昨年に行きました」
 一年の時から動いているなんて、さすがだ。俺は誠に訊く。
「楽しかった? どんなことをするの?」
「そうですね……」
 誠は宙を見ながら言う。
「基本的に、自由に校内を見学出来ます。予約をすれば、模擬授業を受けられたり、実際に学食を食べられたり……イメージとしては、真面目な学園祭といったところでしょうか」
「へぇ……すごいな」
「葉一様は、今年オープンキャンパスに行かれるのですか?」
「あ……まぁ、そのつもり。具体的にどこの大学は決めていないけど、まぁ、成績と相談して行ってみようかな……」
「その時は、私も誘って下さいね!」
「えっ?」
 思いがけない言葉に、俺は首を傾げる。
「誠は、もう行きたい大学を決めているんだろう?」
「はい!」
「なら、意味無いんじゃ……それに、俺が行くのは私立大学だし」
「葉一様が行かれるところは、どこだって知っておきたいのです」
 目をきらきらと輝かせる誠に、俺はどう返せば良いのか分からなくなった。
 出来れば、オープンキャンパスは同じ学年の友達と行きたい。それに……ただでさえ忙しい誠の一日を奪って、俺の都合で連れ回すのは気が引けた。
「……誠は、夏期講習でそんな暇は無いんじゃないかな?」
「あ……」
 今、思い出したといった表情で、誠は頭を抱える。
「忘れていました……地獄の夏期講習!」
 うちの高校名物、三年の地獄の夏期講習。朝の九時から夕方五時まで、受験生は勉強を強制的にさせられるというものだ。さすがにお盆休みはあるけど、それ以外は遊ぶ時間もままならない、まさに地獄の時間らしい。
「夏休みは、葉一様と思い出をたくさん作りたかったのに……!」
「思い出?」
「そうです! まず、海に行って、それから山……ゲームセンターにだってもっと行きたいと私は……!」
「誠……」
 俺は苦笑する。そんな夏休みだったら、きっと楽しいな、と思った。
「来年の夏休みに遊べば良いじゃん」
「来年は葉一様が地獄の夏期講習です!」
「あ、そっか……じゃあ、その次の夏」
「ああ、長い……」
 俺は、俺たちが大学生になった姿を想像してみた。大学は私服だから、今みたいに制服で楽は出来ない。そこそこのおしゃれが必要になるだろう。
 ……誠、今以上にモテるだろうな。
 忠犬キャラ以外、完璧なイケメンの誠だ。きっと大学でのキャンパスライフの中で、彼女を簡単に作ってしまうだろう。
 ——あれ? そうしたら、誠は彼女を優先するのかな……。
 ふと、そんなことが頭に浮かんだ。
 もう今みたいに「ぼっちゃま」とか「葉一様」とか言わないのかな……。
 寂しい、と思ってしまう。だって、いつだって一緒だから。そんな俺たちが離れたら、人生はどう変わるんだろう……。
「葉一様、どうされました?」
「あ……」
 急に黙った俺を心配してか、誠が顔を覗き込んでくる。長い睫毛、茶色い瞳、整った顔……。来年は、もう誠は高校には居ない。そう、居ないのだ……。
「いや……今日の夕飯は何かなって思っていただけ」
「そうでしたか。ちなみに、うちは魚を焼こうと思っています」
「そうなんだ。俺は肉が良いな。焼肉」
「葉一様は、昔からお肉がお好きですね」
「魚は骨があるから苦手」
「ふふ、では骨をちゃんと取ったものをお出ししますよ」
「え? いつ?」
「いつか、ですね」
 そうこう話しているうちに、俺の家に到着した。ここから数メートル先に誠の家がある。本当に、ご近所さんだ。
「では、葉一様。ご飯の後は歯を磨いて、お風呂は湯船に肩まで浸かって……」
「はい! 分かったから!」
 俺の言葉に、誠は笑って「では」と自分の家の方に去って行く。その背中に、俺は声を掛けた。
「誠!」
 誠が振り向く。俺は続けた。
「これ! 取ってくれてありがとう!」
 俺は手の中のぬいぐるみを前に突き出して、ついている手を振って「ばいばい」をしてみせた。誠は嬉しそうに笑う。
「……可愛らしいですね」
 そう呟いた誠は、俺に一礼してから、今度こそ家に向かって歩き出した。
 ——可愛らしいですね。
 その言葉を、俺は胸の中で繰り返す。それって、ぬいぐるみが、だよね? きっと、そうだよね!?
 もし、俺自身に向けられた意味だとしたら……いや、そんなことは無いと思うけど!
 万が一ってことがあるから!
「……っ!」
 俺は青い猫のぬいぐるみを両手で抱きしめる。
 次に誠に会う時、どんな顔をすれば良いのか分からなくなっていた。