世の中には、執事という、主人に仕える者が存在するらしい。
主人……たいていは金持ちの人間のことを指すのだろう。社長とか、その子供とか、もしかしたらその孫にも居るかもしれない。
まぁ、俺みたいな凡人には関係の無いことのはずなんだ。
そう、関係無いはず、なのに……!
「ぼっちゃま、今日は日差しが強いので日傘の中にお入り下さい」
俺のことを「ぼっちゃま」と呼ぶ、いっこ上の学年の黒原誠は笑顔で俺に日傘を差し出して来た。俺はぷい、と横を向く。
「いらない! って言うか、毎朝毎朝しつこい!」
毎朝のように「お迎え」される俺の心は、うんざりしていた。いくら家が近所だからって、通う高校が一緒だからって……俺はひとりで通学出来るんだ!
誠を置いて、ずんずん高校へ向かう俺の背中に、悲鳴のような声が刺さる。
「ぼっちゃま! 日焼けしてしまいます!」
「良いの! それくらいが健康的で!」
今日もふたりでの登校。
これは、主人と執事なのだろうか。
誠が俺のことを校内外に関わらず「ぼっちゃま」だの「葉一様」だの呼ぶものだから、俺たちはすっかり有名人になってしまっている。
あだ名は「忠犬くん」と「ボンボンくん」だ。
前者は誠、後者は俺。俺は別に金持ちの家の息子では無いので、ボンボンと呼ばれる筋合いは無いのだが、いつの間にかこのあだ名が定着してしまった。
誠だって執事なんかじゃない。ごく一般家庭の普通の息子だ。けど……俺に対しては、しつこいくらい「忠誠心」とやらを発揮してくる。
俺は誠に命令とか指示とかをしたことが無いのに、誠はまるで犬のように俺の言うことを聞きたがるのだ。
「ぼっちゃま」
やっと辿り着いた校門の前で、誠がすっと俺に小さな紙袋を渡してきた。俺は首を傾げる。
「これは?」
「クッキーです。授業の合間にお腹が空いたらどうぞ」
「……ありがと」
俺はそれを素直に受け取った。付き纏われるのは迷惑だが、クッキーに罪は無い。
誠は嬉しそうに頬を緩めて、そっと日傘を畳んだ。
「では、またお昼休みに……ああ、同じ学年なら一緒に授業を受けられるのに」
「馬鹿なことを言ってないで、真っ直ぐ自分の教室に行けって」
俺のその言葉を「命令」と認識したのか、誠は背筋を伸ばす。
「分かりました! では、後ほど!」
そう言い残し、誠は駆け足で三年生の教室に向かって行った。俺は息を吐く。そして、紙袋の中をちらりと見た。そこに入っていたのは、可愛らしいピンク色の縁取りのあるビニール袋でラッピングされたクッキーだった。
「……もしかして、手作り?」
ビニール越しに見えるクッキーの形はハートだった。俺は、また息を吐く。
「……いったい、誠は何を考えているんだろう……」
俺の小さな呟きは、風に乗ってかき消されてしまった。
***
誠との出会いは、幼稚園だった。
当時、身体が小さかった誠はそれを馬鹿にされて同じ年長組の奴らにいじめられていた。泣き虫だった誠は、叩かれたり物をぶつけられたりしても、何も言い返せずに、ただ泣いていた。
そんな場面に遭遇した俺は、誠をいじめていた奴の頭に砂をぶっかけてやった。いじめっ子は悲鳴を上げた。
「うわ! 何すんだよ! 年少組のくせに生意気だぞ!」
俺は馬鹿だったので、年長組と年少組の違いなんて分からなかった。ただ「いじめは良くない」という気持ちだけで、ちょっと身体の大きいそいつに立ち向かったのだ。
「うるさい! いじめなんてしてダセーことして楽しいのかよ!」
「な……あいつが弱いからいじめてるんだよ!」
「ダセー! お前みたいなダセーやつにはこうしてやる!」
俺はそばにあった水やり用のホースを使って、そいつに荒めの水鉄砲をくらわせてやった。そうしたら、そいつはすっかり威勢を無くして、わんわん泣き出した。
「ぎゃーっ! いじめられた!」
「先にいじめてたのはお前だろ!」
この後、そのいじめっ子と俺は先生に事情を聞かれて、いじめっ子はいじめの件で叱られていた。俺はというと、やりすぎだと注意された。
「別に俺は悪くねーもん!」
そう思いながら、俺は自分の組に戻ろうとした。その時、控えめな声で「あの……」と声を掛けられた。それが——誠だった。
「さっきは……ありがとう」
「良いよ。俺はいじめとか嫌いなだけだし」
「先生に怒られたんじゃない?」
「へーき! 悪いのはあいつだし!」
「……ありがとう」
もじもじと誠は、俺の顔を見ながら言った。
「あの……お名前を教えてくれる?」
「名前? 良いよ。田辺葉一だよ。葉っぱっていう漢字に、一等賞の一って書くんだ。お父さんに教えてもらった!」
「葉一……君。いや、葉一様……」
誠は呪文のように俺の名前を何度も繰り返した。そして、こう言ったのだ。
「僕……いや、私は、今日からあなたにお仕えします……」
「え?」
仕える、という意味が分からなかった俺は、きっと友達になろう、ぐらいの意味なんだと勝手に解釈をして頷いた。
「分かった! よろしくな!」
「……はい! 葉一様……!」
その日から、俺と誠の奇妙な関係が始まったのだった。
***
「よっ! ボンボンくん!」
「あ、どうも……」
背後から声を掛けられて、俺は軽く頭を下げた。その声の主は……幼稚園でのいじめっ子、森野だった。彼はあれから無事にいじめから足を洗い、今ではそのごっつい体格から皆に「兄貴」と呼ばれている。
「それ、黒原からの差し入れ?」
興味津々といった様子で、森野は俺の持っている紙袋を覗いてきた。俺は頷く。
「食べます? たくさんあるんで」
「いや、止めとくわ」
森野は苦笑する。
「オレが食ったって知ったら、黒原に殺される」
「そんな、クッキーくらいで……」
クッキーは十枚ほどある。別に一枚くらい他人にあげたって良いだろう。
だが、森野の顔は真剣だ。
「あいつの忠誠心はすごいからな。他人が入って良い隙間なんか無いんだよ」
「はぁ……」
「知ってるだろ? 忠犬くんって呼ばれているのを……あれは見た目はゴールデンレトリバーだが、中身は土佐犬だぞ?」
幼稚園の時と違い、誠の身体は細いが背が高い。森野と同じくらいで俺よりも高い百八十センチはあると思う。髪の毛はふわふわで、見た目もふわふわ優しい雰囲気だ。きっと女子にモテる見た目だと思う。そんな誠が土佐犬だなんて、考えられなった。
「あ、今日は朝に小テストがあるからもう行くわ! じゃあな、ボンボンくん!」
「……っス」
変な縁で、当時のいじめっ子といじめられっ子と、それを止めた奴が同じ高校になった。
一応、進学校。
俺は本当は、もっとレベルの低い高校を受ける予定だったのだが、誠に泣きつかれて、渋々この高校を受験した。勉強に勉強を重ねて、中三の時は本当に死ぬ思いだった。けど、誠が根気よく受験勉強に付き合ってくれたので、無事に合格出来たのだった。
今でも、誠はテスト前になると勉強を見てくれる。自分も忙しいはずなのにな。これも「忠誠心」というやつなのだろうか。うん、よく分からん。
俺のことを「ぼっちゃん」なんて言って異常に世話を焼きたがること以外はとても良い「友達」であり「先輩」である。
だから、なんだかんだで俺は今日も、誠のいる日常に溶け込むのだ。
森野が小テストということは、学年の同じ誠もそうなんだろうな、と思いながら俺は紙袋の中からクッキーを取り出して一枚食べた。甘くて美味しい。ココア味だ。
これを作るために、誠は何時に起きたのだろう、と俺は甘い味を噛み締めながら、ふとそんなことを思ったのだった。
主人……たいていは金持ちの人間のことを指すのだろう。社長とか、その子供とか、もしかしたらその孫にも居るかもしれない。
まぁ、俺みたいな凡人には関係の無いことのはずなんだ。
そう、関係無いはず、なのに……!
「ぼっちゃま、今日は日差しが強いので日傘の中にお入り下さい」
俺のことを「ぼっちゃま」と呼ぶ、いっこ上の学年の黒原誠は笑顔で俺に日傘を差し出して来た。俺はぷい、と横を向く。
「いらない! って言うか、毎朝毎朝しつこい!」
毎朝のように「お迎え」される俺の心は、うんざりしていた。いくら家が近所だからって、通う高校が一緒だからって……俺はひとりで通学出来るんだ!
誠を置いて、ずんずん高校へ向かう俺の背中に、悲鳴のような声が刺さる。
「ぼっちゃま! 日焼けしてしまいます!」
「良いの! それくらいが健康的で!」
今日もふたりでの登校。
これは、主人と執事なのだろうか。
誠が俺のことを校内外に関わらず「ぼっちゃま」だの「葉一様」だの呼ぶものだから、俺たちはすっかり有名人になってしまっている。
あだ名は「忠犬くん」と「ボンボンくん」だ。
前者は誠、後者は俺。俺は別に金持ちの家の息子では無いので、ボンボンと呼ばれる筋合いは無いのだが、いつの間にかこのあだ名が定着してしまった。
誠だって執事なんかじゃない。ごく一般家庭の普通の息子だ。けど……俺に対しては、しつこいくらい「忠誠心」とやらを発揮してくる。
俺は誠に命令とか指示とかをしたことが無いのに、誠はまるで犬のように俺の言うことを聞きたがるのだ。
「ぼっちゃま」
やっと辿り着いた校門の前で、誠がすっと俺に小さな紙袋を渡してきた。俺は首を傾げる。
「これは?」
「クッキーです。授業の合間にお腹が空いたらどうぞ」
「……ありがと」
俺はそれを素直に受け取った。付き纏われるのは迷惑だが、クッキーに罪は無い。
誠は嬉しそうに頬を緩めて、そっと日傘を畳んだ。
「では、またお昼休みに……ああ、同じ学年なら一緒に授業を受けられるのに」
「馬鹿なことを言ってないで、真っ直ぐ自分の教室に行けって」
俺のその言葉を「命令」と認識したのか、誠は背筋を伸ばす。
「分かりました! では、後ほど!」
そう言い残し、誠は駆け足で三年生の教室に向かって行った。俺は息を吐く。そして、紙袋の中をちらりと見た。そこに入っていたのは、可愛らしいピンク色の縁取りのあるビニール袋でラッピングされたクッキーだった。
「……もしかして、手作り?」
ビニール越しに見えるクッキーの形はハートだった。俺は、また息を吐く。
「……いったい、誠は何を考えているんだろう……」
俺の小さな呟きは、風に乗ってかき消されてしまった。
***
誠との出会いは、幼稚園だった。
当時、身体が小さかった誠はそれを馬鹿にされて同じ年長組の奴らにいじめられていた。泣き虫だった誠は、叩かれたり物をぶつけられたりしても、何も言い返せずに、ただ泣いていた。
そんな場面に遭遇した俺は、誠をいじめていた奴の頭に砂をぶっかけてやった。いじめっ子は悲鳴を上げた。
「うわ! 何すんだよ! 年少組のくせに生意気だぞ!」
俺は馬鹿だったので、年長組と年少組の違いなんて分からなかった。ただ「いじめは良くない」という気持ちだけで、ちょっと身体の大きいそいつに立ち向かったのだ。
「うるさい! いじめなんてしてダセーことして楽しいのかよ!」
「な……あいつが弱いからいじめてるんだよ!」
「ダセー! お前みたいなダセーやつにはこうしてやる!」
俺はそばにあった水やり用のホースを使って、そいつに荒めの水鉄砲をくらわせてやった。そうしたら、そいつはすっかり威勢を無くして、わんわん泣き出した。
「ぎゃーっ! いじめられた!」
「先にいじめてたのはお前だろ!」
この後、そのいじめっ子と俺は先生に事情を聞かれて、いじめっ子はいじめの件で叱られていた。俺はというと、やりすぎだと注意された。
「別に俺は悪くねーもん!」
そう思いながら、俺は自分の組に戻ろうとした。その時、控えめな声で「あの……」と声を掛けられた。それが——誠だった。
「さっきは……ありがとう」
「良いよ。俺はいじめとか嫌いなだけだし」
「先生に怒られたんじゃない?」
「へーき! 悪いのはあいつだし!」
「……ありがとう」
もじもじと誠は、俺の顔を見ながら言った。
「あの……お名前を教えてくれる?」
「名前? 良いよ。田辺葉一だよ。葉っぱっていう漢字に、一等賞の一って書くんだ。お父さんに教えてもらった!」
「葉一……君。いや、葉一様……」
誠は呪文のように俺の名前を何度も繰り返した。そして、こう言ったのだ。
「僕……いや、私は、今日からあなたにお仕えします……」
「え?」
仕える、という意味が分からなかった俺は、きっと友達になろう、ぐらいの意味なんだと勝手に解釈をして頷いた。
「分かった! よろしくな!」
「……はい! 葉一様……!」
その日から、俺と誠の奇妙な関係が始まったのだった。
***
「よっ! ボンボンくん!」
「あ、どうも……」
背後から声を掛けられて、俺は軽く頭を下げた。その声の主は……幼稚園でのいじめっ子、森野だった。彼はあれから無事にいじめから足を洗い、今ではそのごっつい体格から皆に「兄貴」と呼ばれている。
「それ、黒原からの差し入れ?」
興味津々といった様子で、森野は俺の持っている紙袋を覗いてきた。俺は頷く。
「食べます? たくさんあるんで」
「いや、止めとくわ」
森野は苦笑する。
「オレが食ったって知ったら、黒原に殺される」
「そんな、クッキーくらいで……」
クッキーは十枚ほどある。別に一枚くらい他人にあげたって良いだろう。
だが、森野の顔は真剣だ。
「あいつの忠誠心はすごいからな。他人が入って良い隙間なんか無いんだよ」
「はぁ……」
「知ってるだろ? 忠犬くんって呼ばれているのを……あれは見た目はゴールデンレトリバーだが、中身は土佐犬だぞ?」
幼稚園の時と違い、誠の身体は細いが背が高い。森野と同じくらいで俺よりも高い百八十センチはあると思う。髪の毛はふわふわで、見た目もふわふわ優しい雰囲気だ。きっと女子にモテる見た目だと思う。そんな誠が土佐犬だなんて、考えられなった。
「あ、今日は朝に小テストがあるからもう行くわ! じゃあな、ボンボンくん!」
「……っス」
変な縁で、当時のいじめっ子といじめられっ子と、それを止めた奴が同じ高校になった。
一応、進学校。
俺は本当は、もっとレベルの低い高校を受ける予定だったのだが、誠に泣きつかれて、渋々この高校を受験した。勉強に勉強を重ねて、中三の時は本当に死ぬ思いだった。けど、誠が根気よく受験勉強に付き合ってくれたので、無事に合格出来たのだった。
今でも、誠はテスト前になると勉強を見てくれる。自分も忙しいはずなのにな。これも「忠誠心」というやつなのだろうか。うん、よく分からん。
俺のことを「ぼっちゃん」なんて言って異常に世話を焼きたがること以外はとても良い「友達」であり「先輩」である。
だから、なんだかんだで俺は今日も、誠のいる日常に溶け込むのだ。
森野が小テストということは、学年の同じ誠もそうなんだろうな、と思いながら俺は紙袋の中からクッキーを取り出して一枚食べた。甘くて美味しい。ココア味だ。
これを作るために、誠は何時に起きたのだろう、と俺は甘い味を噛み締めながら、ふとそんなことを思ったのだった。



