ぼくは毎日、怯えている。
明日がくるのを、怯えている。
一分一秒ですらも過ぎてほしくない。微かな時間の積み重ねが明日をつくる。明日が来て、何かが変わるくらいなら、今日この状態で死んでしまいたい。
ずっと、このままでいたかった。
「カヤー、こっちこいよー」
やわらかく沈みかけたせっかちな夕日が冬の始まりを告げている。そんな佳き日の放課後、とあるクラスメイトがぼくを呼んだ。
彼は椅子に座ったまま、自分の太ももをぱんぱん、と叩いている。
ぼくはそのまま、にこにこした表情を提げながら、彼の膝の上に腰掛けた。それから、彼はぼくの両腕ごと、ぼくを後ろからゆるく抱きしめる。そこに湿っぽさは感じない。ただのじゃれあいの一環だった。
「いいなー。俺のとこにも来てや」
今度は目の前に座っていた別のクラスメイトが、談笑のついでにぼくを差す。今まさに僕を後ろから抱きしめている男子は、仕方ねえな、と言ってぼくを解放した。ぼくはそのまま、ぼくを呼んだ別の男子の膝の上に乗せられる。
何事もなく会話が続いていく。
「カヤっていま身長何センチ?」
「春測ったときは151」
「おー女子の平均くらい? いいねー。いま俺、合法的に女子抱いてる?」
ぼくを膝に乗せたクラスメイトが仲間たちに問いかけると、ぼくたちを囲んでいた3人の友人が、けらけらと笑った。
「その考え方ヤバ、合法ロリ?」
「まあカヤはロリみたいなもんでしょ」
「はあ、俺も女子中学生抱っこしてえよ」
「はい、ロリどうぞ」
ぼくがまた別のひとに受け渡された。ぼくの定位置は、つねに誰かの膝の上である。
ぼくが通うこの学校は、中高一貫の男子校である。
当たり前だが、あっちを見てもこっちを見ても、至るところ男子だらけだ。女子のにおいはどこにもない。
男子校に通っていると、男ばかりでむさくるしいからか、愛でる対象が極端に少ない。それがゆえに、男子校の生徒たちは、小さくて中性的な男子生徒に癒しを求める。
女子校だと、王子様ポジションというものがあるそうだ。ショートカットで、イケメンで、高身長の女子が、女子校という女の園で、王子様だと持て囃されるのだそう。
同じようなことは男子校でも見られる。男子校では、童顔であること、身長が低いこと、声が高いことなどを理由に、誰かをお姫様のようなポジションにあてがう。日々の楽しみとして、数少ない癒しとして扱われる。
ぼくは、言ってしまえば男子校の姫ポジであった。
もう中学2年生になるというのに、身長は女子と同じくらいしかない。顔はたぶん女っぽいし、体重も軽い。声変わりもまだしていない。動きものろのろしている。
ぼくは自分にあてがわれた役割に、ほんの少し救われていた。
共学だったら、ぼくはきっといじめられていただろう。チビで、のろまで、細くて、文化部で、むだに色白だから、きっと女子からはモテないし、男子からも邪険に扱われていたかもしれない。
けれどぼくは、この男子校の姫ポジになることで、居場所を手に入れていた。
みんなはぼくにやさしくしてくれる。重い荷物は持ってくれるし、話しかけてくれる。定位置はみんなの膝の上だ。呼ばれて膝の上に座れば、自然にみんなの会話に入れる。背が低いとか、童顔だとかいうマイナスポイントは、男子校の姫ポジとして生きるうえでは、すべてプラスの要素だった。
だからこそ、ぼくは怯えている。
ぼくは成長に怯えている。
明日が来るのを、怯えている。
「カヤ、帰んぞ」
みんなの輪の中にいるぼくに、外側から声をかける者がいた。
ふらり視線を向けると、身丈よりもずいぶんと大きい学ランの裾を弄ぶ少年がいる。ほっそりとした首に、ニキビひとつない肌がひかって見えた。相変わらずまつ毛が長い。
「真澄、ごめん今いく」
反射的にそう答えると、真澄はぼくを見つめて、頷く。
ぼくはクラスメイトの膝から下りて、そこにいたメンバーに手を振った。
「ぼく、帰るね。みんな、ばいばい」
「おー、じゃあなー。真澄も!」
「相変わらず仲良いのな、目の保養だわ」
口々にぼくらを愛でる彼らにひらひらと手を振って、ぼくは真澄の隣に並んだ。
こうして真澄と一緒に帰る習慣は、もうずっと昔、小学校低学年のときから続いている。ふたりで同じ男子校に進学してからも、こうしてずっとふたりで下校している。なんの変哲もない、毎日の習慣だった。
隣にいる少年——真澄は、ぼくと同様、みんなに可愛がられている。この学年のぼくらは、たったふたりのお姫様だった。
真澄の身長はぼくとほとんど変わらない。ぼくは151センチで、たしか真澄は153センチだったはずだ。真澄の身長はぼくよりも高いけれど、同年代の男子たちに比べればかなり小柄だ。そんなぼくたちが、ふたりセットで愛でられるのは当然のことだった。
校舎を出ると、ちょっとだけ冷たくなった風が頬をなでつけた。艶々の黒髪が真澄の顔にかかる。
真澄の髪は猫っ毛で、ふわふわとやわらかそうだ。くりくりの目に、ほんのりと丸い鼻、そして薄い唇は少年らしいあどけなさを残していて、その、なんていうか、真澄が姫ポジとしてあてがわれる所以はかんたんに理解できてしまう。単純に、綺麗だからだ。その綺麗さは、可愛さと共存しうる。
だが、かわいい顔とは裏腹に、真澄はとても不服そうであった。
「カヤ、またあいつらと仲良くしてんの?」
真澄は、ぼくと真澄を姫扱いするクラスメイトを、影でこっそり敵視している。
「……だって、誘われたから」
「おまえ、きもちわるくなんないの? あんな汚いやつと一緒になって」
その言葉を聞いた瞬間、心臓がきんとつめたくなる。ぼくは頷くことしかできなくなった。
「マジで、きもちわるい。ほんっと、むり。なあ、カヤ、お前だけは変わらないで」
「……うん、」
「お前だけはずっとそのままでいて」
クラスメイトの誰からも向けられたことのない鋭い眼光で見つめられる。ぼくは頷くことが精一杯だった。
「変わるくらいなら死んで。お前が大人になるの、耐えられない」
真澄は、大人がきらいだ。
真澄はぼくを脅している。変わるな、そのままでいろ、と言う。
「大人って、マジでキモい。国語の田中先生、女だからってちやほやされてるけど、あり得ない。化粧濃いし、脚太いし、醜いし。あんなふうになってまで生きたいと思える執念が気持ち悪い。早くしねよ」
ぼくは今日も、真澄の脅しを受けている。
「なあカヤ。おまえだけだよ。この学校で綺麗でいられるのは、おれとおまえだけ。ずっと変わらないで。気持ち悪いおとなになる前に、死のう。クラスの奴らはだめだ、あいつらはおかしい、だって醜くなっていくのに死なないんだから」
真澄がこうも大人を嫌うのには訳がある。
真澄の家庭は母子家庭だ。夜の仕事をする真澄の母は、たまに酔っ払った客の男を家に連れ込むのだそう。真澄はほとんど毎日、居心地の悪い家でしずかに生きることを強要されている。そういう行為の繰り返して、真澄は大人が信じられなくなった。
あんなふうになるのなら、大人になんかなりたくない。大人は醜い。ずっと、純粋無垢な子どものままでいたい。
真澄はそんな信念を抱えながら、ひとりでずっと生きていた。
ぼくは、そんな真澄の隣にいる。
真澄は、成長の遅いぼくに救いを求めていた。いつまで経っても変わらないぼくの声に、真澄はうっとりとしていた。伸びない身長も、濃くならない体毛も、真澄にとっては純粋無垢の象徴だった。
だから真澄はぼくに言うのだ。変わらずにそこにいて、変わらないで、成長しないで、大人になんかならないで、と。真澄は大人になることを嫌悪している。
「……ぼく、ずっとこのままでいられるかな」
未来への不安を口にこぼすと、真澄はぼくの手を掴んで言った。
「カヤはきれいだから、大丈夫」
何が大丈夫なのだろう。こうしている間にも、時は進んでいるというのに。
真澄の洗脳の影響を受けているからかどうかは定かではないけれど、ぼくは真澄同様、成長にある種の恐ろしさを感じている。
男子校でちやほやされる立ち位置を、ぼくはそこそこ気に入っていた。与えられたポジションどおりの振る舞いをすれば、みんなぼくに優しくしてくれる。だけど、もしぼくが成長したら、ぼくはみんなにそっぽを向かれるかもしれない。
学年で数人見られる姫ポジの男子生徒は、学年が上がるごとに姫要素が失われていく。ふたつ上の学年の野村先輩は、中学のときはその麗しさから圧倒的な姫ポジとして人気を得ていたみたいだけど、今はその影もない。野村先輩の成長は遅かったが、中3から高1にかけて、恐ろしいほどのスピードで背が伸びて、ガタイが良くなった。声も野太く、毛も深くなり、いまはもう、立派な成人男性みたいな風貌だ。
たまに、男子トイレで先輩が話しているのを聞く。ノムちゃんマジでデカくなったよな。昔はあんなに可愛かったのに。と、そんなことを言う。
姫ポジには賞味期限、否、消費期限が存在する。誰もその期限は知らない。明日かもしれないし、数時間後かもしれない。ぼくは、それがひどく恐ろしいと感じる。
恐ろしいのは、学年における自分の立ち位置が失われることだけじゃない。もっとこわくてどうしようもないのは、まさに目の前にいる少年、真澄に嫌われることだった。
真澄とぼくは、唯一無二の関係だ。家庭が混乱している真澄の心の拠り所はぼくだった。頼られるとまんざらでもないぼくは、真澄のそばにいた。そしてぼくは、見た目に反して自分の意見をきちんと持っている真澄がすきだった。
たぶんお互い、恋愛対象は異性だと思う。だけどぼくたちは、なんとなくお互いを特別視してる。身体の成長が遅い相手を、勝手に神格化してる。
そして真澄は、さらにぼくに追い打ちをかけるのだ。変わらないで、醜いおとなみたいにならないで、変わるくらいなら死のう、みんな気持ち悪い、カヤだけがきれいだ、おれたちはきれいなままでいよう。そんな呪いを毎日かけて、真澄はぼくの成長を認めない。醜い大人になんかなりたくないと、真澄は毎日、ぼくに言う。ぼくはその呪いを言葉のままに受け取っている。そんなぼくは、変化に怯えている。
電車に乗って、ふたりの最寄駅に着く。手は結ばれたままだった。
しばらく歩いて、ふたりが別れるT字路にさしかかる。真澄は繋がれた手を離した。
そしてそのまま、真澄はぼくに触れるだけのキスをした。
恋愛なんかでは到底表しきれない感情がそこにはある。美しいものに口をつけたくなる当然の原理がそこにある。真澄は純粋無垢なぼくを美しいと思っている。だからこうして口付けるのだ。
「カヤ、きれいだよ」
今日のぼくはまだ許されている。真澄の眼に映るぼくは、まだきれいなままだ。
頷いて、真澄に背を向けた。
ぼくが真澄に許されるのはいつまでだろう。そんなことをよく考える。
今日はまだ大丈夫だった。だけど、明日は? 明後日は? 1ヶ月後はどうだろう。ぼくの未来は、いつ閉ざされるだろう。
帰宅して、母にただいまを言って、自室に駆け込んだ。
荷物を床に放り出して、制服のまま、机の傍に置いてあるスタンドミラーを手繰り寄せた。
机の引き出しを開けて、文房具に紛れるように仕舞ってあるピンセットを取り出した。母の化粧ポーチの中から拝借したものだ。
じっとりと、鏡の中を覗き込む。
顎を触る。
たった一箇所だけ、ちくり、短くて太い毛の感触がした。
「……気持ち悪い」
違和感を感じたところを指で触り、そのまま顎を前に突き出すように確認する。
ぽつり。
しろい顎の、すこし左寄りに、一点の毛が目立っている。
皮膚を巻き込まないように注意しながら、ピンセットで毛先を挟んだ。
涙が出るほどに鋭い痛みがして、それから、表に見えていたよりも数ミリ長い毛が根っこから引き抜かれる。
髭だと認めたくない。
これは何かの間違いだ。たまたま今日、ちょうど顎のところに生えてしまっただけだ。大丈夫。大丈夫。たまたま、偶然ここ数日の間、こうして顎がちくちくするだけだ。大丈夫。ぼくの消費期限はまだ先だ。今日じゃない。きっと、明日でもない。
今度はベッドの上に上がった。
学ランのズボンのベルトを外して、そのまま下着をずり下ろす。昨日も一昨日も、性器に毛は生えていなかった。今日も、大丈夫であることを確認したかった。
……だが、願いは叶わなかった。
「え、うそ、」
にょろり。
たった一本、6センチほどの縮れた毛が、ぼくを嘲笑うみたいに生えていた。
◇
それからの一週間は地獄みたいだった。
授業を受けているときも、クラスメイトと話しているときも、パンツの中では今まさに、ごわごわで醜い体毛が大量に生えているんじゃないかって。そんな不安が種となって芽が生えた。自分の性器がもじゃもじゃになることを想像すると、言いようのない嫌悪感におそわれた。
顎を触るのが癖になった。ぼくの肌は白いから、黒い髭が生えたらとても目立つ。生えていないだろうか、見られていないだろうか。不安になって、なんども顎を触った。
なのに真澄は毎日、普通の顔をしている。真澄は顎を触ることもなく、ただいつも、何かを諦めるような眼をしては、帰り道でぼくを脅迫する。
今日もおまえだけがきれいだよ。
そのままでいて。
大人になんかならないで。
大人なんかきもちわるい。
いつも通りの呪詛を残して、真澄は毎日、ぼくにキスをする。恋愛感情のないキスだった。それを受けている間、ぼくの価値はまだ認められている。真澄がキスをしてくれるということは、真澄にとってのぼくはまだ美しいということだった。クラスのみんなが求める、お姫様としての素質をまだ失っていない裏付けでもある。
「カヤ。今日も明日もきれいなままでいるって、約束して」
真澄は今日も、ぼくを呪った。
いつものT字路に差し掛かる直前に、癖で顎を触ってみる。
ちくりとした。
一箇所じゃない。今日は、二箇所も。
いやだ、見られてしまったらどうしよう。
断らなければ。何か理由をつけて逃げなければ。この髭が見られたら、きっとぼくは真澄に見限られてしまう。醜くなるなら死ね、と言われてしまうかもしれない。
いやだ。真澄、いやだよ。ぼく、変わりたくないの。
「カヤ、こっち向いて」
けれど真澄に逆らうことはできない。
「っあ、」
抵抗する隙すらも与えられず、真澄は一瞬でぼくの唇を奪う。
そのまま、唇が離される。僕が綺麗であることを確かめるための儀式だった。だけど、今日の儀式には莫大な不安がつきまとう。
髭を見られてしまったかもしれない。真澄は、ぼくのことをよく見ているはずだから。見られていたらどうしよう。幻滅されたらどうしよう。結局おまえも大人になるんだなって、思われてしまったらどうしよう。
「カヤ?」
「……ごめん、ぼく、帰る」
「ん、また明日」
「うん、またね」
どうしてぼくは真澄に見限られてしまうことをこんなにも恐れているのだろう。ぼくは恋愛的な意味で真澄を好きでいるわけじゃないし、真澄だって同じはずだ。真澄がぼくにキスをするのは、ただぼくのうつくしさを確かめているだけである。ふたりともきっと、恋愛対象は異性のはずだ。
それでも僕が真澄に執着しているのはきっと、真澄のなかの一番でいられる自分が好きだからなのかもしれない。
ぼくも他人のことをいえるほど社交的なタイプではなかったが、真澄は昔から引っ込み思案だった。特にそれは、真澄の両親が離婚したあたりから顕著になった。
真澄は大人を信用しない。両親が離婚して、残された母が別の男を家に連れ込んで、いちゃいちゃしたりするのを目の当たりにした真澄は、大人が汚い、気持ち悪い、というのだ。だから真澄は大人がきらいだ。そして真澄は、大人を信用する子どももきらいで、そしてついには、第二次性徴を早めに迎えた同級生たちすらも嫌悪している。
真澄がぼくだけにやさしいのは、きっと、ぼくの身体だけが未熟ままだからだ。いつまで経っても伸びない身長に、いつまで経っても高いままの声に、つるつるで細長い手足を兼ね備えたぼくは、真澄にとっては最後の砦だった。
ぼくは自分の幼さを武器にして、学年での立ち位置も、真澄からの信頼も得た。とくに真澄から向けられるその好意は、今の自分を、ありのままの自分を認めてくれている気がして、とても心地よかった。カヤ以外は醜い、カヤだけがきれい、カヤしかいない、カヤだけは変わらないで。そんな言葉を吐かれるたび、ゾッとすると同時に、ほんの少しだけ興奮していた。同級生とは違う、いろいろと達観している真澄に、ぼくだけが認められている。それだけで僕は生きていられた。
だから、髭が生えてきたぼくに価値はない。
家に帰ったぼくは、やはりピンセットで髭を抜く。一本、二本。心なしか顎に産毛も生えてきた気がする。ぼくは母から拝借したカミソリで、ていねいに 産毛を剃った。
その後、やはりズボンを脱いだ。
たった一本、この前とは別の場所から縮れた毛が生えている。親指と人差し指でつまんで、一思いに抜いた。
顎よりも皮膚が弱いからか、髭を抜くよりも随分と痛かった。こんなもの、二度と生えてこなければいいのに。
◇
真澄に髭を見られてしまったかもしれない、なんて、そんな不安を抱えながらも、残酷に時間だけはきちんと過ぎていくから、ぼくは今日も、明日に怯えながら学校に行った。
今日は手鏡とピンセットを学ランの内ポケットに入れている。これでいつでも顎に生えた毛を抜くことができると考えると、ほんのすこしだけ安心した。
今日も定位置はみんなの膝の上だったし、クラスメイトの木島くんは先生に頼まれた重い荷物を運ぶのを手伝ってくれた。廊下ですれ違った他クラスの知り合いからは頭を撫でられた。大丈夫。ぼくは今日も役割通り。今日のぼくは、まだお姫様。
「真澄、かえろう」
放課後の教室で真澄に声をかける。真澄は自分の席で、スマートフォンを覗いていた。この男子校は、放課後のHRが終わればスマホの電源を点けていいという校則だ。
「あ、ちょっとまって」
真澄はぼくを制止して、スマホに文字を打ち込んでいる。
ちらり斜め上から見えてしまったのは、メッセージアプリのトーク画面だった。
真澄のしろい指が器用に画面上を蠢いて、書いたり、消したりを繰り返しながらメッセージを作り上げていく。
「真澄、だれと連絡してんの?」
「……べつに」
真澄の口角がほんのすこし上がっている。
いやな予感がする。
「だーれ?」
ぐ、と上半身を前のめりにして、真澄のスマホの画面を覗き込もうとする。
「っ、やめろって!」
だが、真澄は自分のスマホの画面を隠すかのように、スマホを胸のあたりに抱きかかえた。
そして真澄はぼくをきっと睨みつける。邪魔するな、とでも言いたいみたいに。
「これだけ返したいから、待ってろって」
彼はもう一度画面を見て、またも文字打ちをはじめる。
……ああ。おそろしいことが起こってしまった。
さっき、一瞬だけ見えてしまった。メッセージの相手の名前のところ、ユウナ、って書いてあった。女の子だ。女の子の名前だった。
真澄、女の子と連絡とってる。一緒に帰ろうとするぼくを邪険にして、女の子と連絡をとっている。
真澄の前に立ち尽くし、心の中にぽっかりと空いた穴を撫でていた。
この感情をどう形容したらいいのだろう。喪失感? それとも悲しみ?
わからない。なぜ自分がこんな感情になっているかわからない。
癖で顎を触る。
……ちくりとする。
ぼくの成長は止まってくれない。
真澄だけはずっと、細くて小さくて、天使みたいだ。ぼくだってそうだった。ぼくはいったい、いつからその土俵に乗れなくなったのだろう。
ぼくたち、学年でたったふたりのお姫様だったのに。
「ごめん、終わった。帰ろ」
真澄がスマホをポケットに入れて言う。すっきりした、みたいな顔をして。彼女から返信が来たら、真澄はまた、さっきみたいに口角をあげて、嬉しそうに返信を打つのだろうか。
ぼくはもう、真澄の一番にはなれない? 真澄にとって、一番きれいなぼくにはなれない?
真澄はぼくの隣に並びながらもどこかうわのそらだった。
駅まで歩いているときも、真澄はちょっとだけご機嫌で、時々なにかを期待するようにスマホを触っては画面をつけたり消したりを繰り返していた。
電車を待っていても、乗車しても、下車しても、人通りの少ない道を歩いていても。何をしていても今日の真澄はぼくにあまり興味がなさそうで、スマホの画面の向こう側にいる、姿すらも見えない女の子に夢中だった。
顎をさわる回数が増える。ちくり、ちくり、ちくり、ちくり、不快感が指の腹を撫でる。どうしよう、早く家になってこの忌まわしい毛をすべて抜いてしまいたい。
真澄は今日、ぼくにキスをしなかった。
◇
真澄にとってきれいだったのはぼくだけだった。
ぼくと真澄はたったふたりきりのお姫様。ぼくたちは互いを、自分の分身かのように認識していて、相手だけがこの世界で唯一の天使かのように思っていた、はずだったのに。
だが真澄は、そんなぼくの思い込みを嘲笑うかのように、スマホの向こう側にいる女の子に夢中になった。
朝も、昼も、放課後も。真澄はスマホを触って、どこの誰かも知らない女にメッセージを打っている。
真澄の興味がぼくじゃない誰かに注がれるのが苦痛でならなかった。
そんな日々がただ繰り返される。ぼくはピンセットで、顎に生えた毛を抜く。明日になったら、抜けないくらいに多い毛が生えてきたらどうしよう、だなんて、そんな不安ばかりを抱きながら。
今日も真澄は、放課後の教室で、画面の向こうの女にメッセージを打っていた。
「真澄、またメッセージ打ってるの?」
「ん、ちょっとまって」
真澄はぼくの方をちらりとも見ずに、親指を動かしている。そのやりとり、いつまで続くんだろう。
真澄はもう、相手の女の子と付き合ったりしているのだろうか。考えたくない。
教室にはちらほらと級友たちが残っておしゃべりをしている。
真澄と正面から向かい合うように、クラスメイトの誰かの椅子を引き、座った。
顎をさわる。ちくり、一箇所だけ違和感がある。ああ、まただ。また抜かなければならない。
顎にちくりとした違和感を覚えた状態で真澄とキスをしてしまったあの日の放課後から、真澄はぼくにキスをしてこない。
女の子とメッセージを始めたからだろうか。ぼくの顎に生えた毛に気づいたからだろうか。それとも、両方だろうか。ぼくにはもうわからない。
「ねえ、真澄。ぼくって、もうきれいじゃないのかな」
真澄からぼくに、ずっとそのままでいろって言ってきたくせに。真澄は変わりゆくぼくを見捨てるかのように、自分は女に耽るのだ。
それって、なんなの。どんだけ自分勝手なんだよ。
真澄は一度スマホから顔を上げて、ぼくをじっとりと見つめる。
スマホ、置けよ。仕舞えよ。ぼくのことだけ見ろよ。
「どしたの、急に」
真澄は何事もなかったかのように、スマホに向き直る。もう少しで終わるから、とか、そうやってぼくをいなして、画面の中に夢中だ。
寂しさから逃れるように。助けを求めるかのように、ぼくの美しさ、子どもっぽさ、少年らしさに縋りついていたくせに、真澄はその対象がぼくじゃなくても、別によかったのだ。
「真澄、言ってたじゃん。ぼくに、変わらないでって。変わるくらいなら死んでって」
「ん、ああ。ごめん」
親指の動きが落ち着いて、画面をタップする。下から上にスワイプされたあと、画面を暗転させたスマホが真澄の学ランのポケットに滑り込んだ。
「ぼく、そろそろ死なないといけないのかも」
冗談交じりにそう言うと、真澄はハア、とため息をついた。
「別に、死ぬ必要ないじゃん」
「なんで? 真澄、ずっと言ってたじゃん。大人は気持ち悪い、変わりたくないって」
「ああ、うん。ごめん、なんか考え変わったわ。別に、変わることっておかしいことじゃないよなって、今そういう気分」
ぼくは真澄をなぐりたいと思った。
おもいきり罵りたいと思った。
だってそんなの、ずるくない?
真澄は女と触れ合って頭がおかしくなったのかもしれない。ここ何年も、大人がきらい、大人なんかきもちわるい、信用できない、って。そういって、ぼくだけを頼りにしていたのに。ずっと変わらないぼくを神格化していたくせに。
真澄は、自分を受け入れてくれる相手さえいればそれでよかったのだ。自分の寂しさを受け入れてくれる人がいればよかった。その対象が、ぼくから女に変わったのだ。
「ぼくのこと、きれいって言ってくれたのはうそだった?」
「なに急に。教室に人いるのに、そんな話やめろよ」
「ぼくね、最近ひげが生えてきたの。抜いても抜いても生えてくるの。最近、声を出そうとすると喉が引っかかるの。ねえ、ぼくってずっときれいなままでいられるのかな?」
ぼくは、真澄が死ねと言ったら死ねると思う。
そういう約束で生きてきた。成長するくらいなら、大人になるくらいなら死のうって。そうふたりで約束をした。なんとなく、そのうち死ぬと思ってた。
ぼくは毎日、怯えている。
明日がくるのを、怯えている。
「真澄はぼくに変わらないことを強いるのに、どうして真澄はぼくを置いて変わっていくの?」
ぼくは変わることを恐れている。
真澄がぼくに変わらないでと言ったからだ。
真澄は変わる。
ひとりで勝手に変わっていく。
「カヤ、もういいから。目立つからデカい声出すのやめろ」
「自分勝手だよね。ぼくは真澄のために、毎日痛い思いして毛を抜いて、変わらないままでいようとしたのに、真澄は結局女が良いんだ?」
真澄はあきれたような顔をする。
「うるせえな。おれが誰と連絡とろうが自由じゃん。なに。カヤっておれのこと好きなの? おまえって、ホモだった?」
こいつ、もうだめだ。
ぼくは立ち上がり真澄に掴みかかる。
愛のせいで憎がより強くなるのだ。
胸倉をつかみ思い切り突き飛ばす。
その力が思ったよりも強くて、自分のなかに男の芽があるのが恐ろしかった。
大きい音が鳴る。
机を巻き込んで真澄が床に崩れ落ちる。
教室内の視線が全部自分に向くのがわかった。
「真澄が言ったからだろ。変わるな、そのままでいろって」
自分の声が思ったよりも低くて死にたかった。
ぼくは変わりゆく自分を止めることができない。
ぼくの顎に太い毛穴ができるのだ。
そこから毛が伸びていく。
自分の成長を気持ち悪いものと思うようになったのは、紛れもなく真澄のせいだった。
「よくそんなこと言えるよな、ぼくのこと、さんざん利用しておいて」
真澄に馬乗りになって、思い切りその頭を殴ろうとした。
……そのとき。
「カヤ!!!! やめろって!!!!」
ぼくと真澄の様子を見かねていたクラスメイトの何人かが、ぼくに飛びついた。
ぼくを真澄から引きはがそうとしている。
二人がかりで腕を押さえられる。思い切り腕を捩った。思い切り振り払えばクラスメイトはひるんだが、それでも二人ともぼくを抱きしめるようにして、むりやりぼくを真澄から振り払うのだ。
ずるい。みんな、ぼくよりも力がつよいから。大人はきらいだ。成長した大人が何よりきらいだ。
「邪魔するなよ、おまえらもなんなんだよ、どうせ、どうせおまえらも、ぼくが成長したらぼくのこと捨てるんだろ!?」
ぼくを押さえつける二人の膝に、ぼくは何度だって座ってきた。かわいい、とか、癒し、とか、そんな便利な言葉でぼくをまつり上げて、どうせぼくが成長したらぼくを捨てるくせに。ぼくなんか、ただかわいさで消費されるだけのモノでしかないのに。
ぼくの第二次性徴を、だれも望んでいない。
ぼくが成長したら、だれもぼくを好きではなくなる。
クラスメイトも、真澄ですらも。
変わるくらいなら死んで、と言った真澄の声が忘れられない。
「ぼく、もうだめなの、もうきれいじゃいられないの、最近関節が痛いの、身長を測るのがこわい、髭が生えてきてるかもしれない、やだ、やだよ、みんながぼくを好きでいてくれなくなるのがこわい、みんながやさしくしてくれるのは、ぼくが小さいからだって、わきまえてきたけど、やっぱりこわい、なんでわかってくれないの、真澄だって、ずっと、ずっと、」
呪詛を零すぼくを真澄はじっと見つめていた。
「カヤ、大丈夫だから、俺らは、カヤがどうなったって友達でいるから」
そんな言葉を放ってくれたのは、真澄じゃない。
それを言ったのは、ぼくを抱きしめるふたりのクラスメイトだった。
ぼくは訳がわからず泣いていた。
真澄は何も言わず、泣いているぼくを、真っすぐに、ただひたすらに真っすぐ見つめていた。
地獄みたいな教室で、しばらくその沈黙が続いたあと。
真澄がふつうの顔をして言うのだ。
「カヤ、帰ろう」
◇
ぼくらのことを心配するクラスメイトを置いて、ぼくと真澄はいつもと同じ帰り道をたどっていた。
さっきの騒ぎは、あまり事が大きくならないようにと、クラスメイトに口止めしておいた。噂にはなるだろうけど、先生が介入してくることはないと信じたい。
夕日が照り付けるアスファルトをスニーカーで踏みつけながら、ぼくは真澄との関係が変わる予感だけを抱いていた。
否、変わるのは真澄との関係だけじゃないのかもしれない。
「真澄、ぼくたちもう、変わらないといけないのかな」
「……」
「ねえ、なにか言ってよ」
真澄はただ、何かを考えこむように黙りこくっている。
いつもと同じ駅の改札を通って、電車を待って、乗り込む。いつもと変わらぬ距離感が今では恐ろしい。真澄の左腕と触れそうなほどに近いぼくの右腕は、ほんの30分前まで真澄を殴ろうとしていた腕なのだ。
同じ駅で下車して、それでもまだ沈黙は続いた。
いつも真澄からキスをされていたT字路が遠くに見えたとき、真澄が言う。
「おれ、変われないんだ」
真澄は足を止める。
ぼくは真澄の数歩先で、立ち止まる。それから、振り返るようにして真澄を見た。
真澄の背中越しに沈みかけた夕日が見える。
「変われない、って? 変わりたくない、ではなくて?」
何かを確かめるように言葉を返すと、真澄が静かに頷いた。
「おれの身体、おかしいんだって。染色体がおかしいんだって。おれ、病気なんだって。第二次性徴が来ないんだって」
ぽろり、ぽろり。吐き出される事実が真澄の足元に落ちていく。
「おれ、カヤも同じだと思ってた。中2になっても小さいままだし、おれより背ちっちゃいし。だから、カヤも同じであってほしくて、自分だけじゃないって確かめたくて、だから変わらないでって言った」
保健体育の授業で習った気がする。
染色体異常で、第二次性徴が来ない人や、遅い人がいる。
知っていた。だけど自分も、ましてや真澄も、教科書に載るような事例とは違うと思ってた。ただ周りよりも成長が遅いだけだと思ってた。
実際にぼくは、ただ成長が遅いだけだったと思う。だって、今だって、遅咲きの髭がその片鱗を見せている。きっとパンツの中には、縮れた黒い毛が生えている。昨日あたりからずっと、喉に違和感がある。ぼくの成長はもう、止められない。
「……大人がきもちわるいって、言ってたのはうそだったの?」
「うそじゃないよ、今だって親のこと、気持ち悪いって思ってる。だから、カヤがあんなふうになるのが許せなかった。ビョーキになったおれを置いて、カヤだけが成長するなんて、ゆるせない。気持ち悪くならないでほしかった。おれと同じであってほしかった。そうしたら、ビョーキでも生きていけるって思った」
真澄が執拗に、ぼくに不変を強いた理由が解き明かされて、ぼくは一時の感情だけで真澄に殴りかかった自分が、ひどく醜く思われてならなかった。
「ぼくは、ぼくが変わっても、真澄が変わらなくても、きっと真澄のそばにいると思う」
真澄は泣いていた。
ぼくはただ、夕日を背負う真澄を真っすぐに見つめていた。
その日ぼくは、はじめて、男性器に生えた毛を抜かなかった。
了



