もしかしたらまた転校になるかもしれない――そんな不安と恐怖を抱いていたけれど、遥は学校は三日休んだだけで、また登校してくれた。
クラス中の視線を集めながら、遥は自分の席にうつむいて座っていた。
そんな遥を見て、声をかけようか迷う。
みんなから見られるのが怖い。でも、遥の声を聞きたい。遥を安心させたい。
だから。
「……遥、おはよう」
その瞬間、クラスメイトの視線が突き刺さってきた。全てが敵意のあるものというわけじゃない。中には、同情や、心配もあると思う。でも、それを向けられて痛いということは、どの感情が込められていても変わらない。
「……おは、よう」
か細い声で遥が答えてくれた。
本当はもっと話したかったけれど、教室の空気に耐えられない。私は遥に微笑みかけて、自分の席に着いた。
一日中遥のことが気になって、授業に集中できなかった。一瞬でも気を抜けば、遥がいなくなってしまう気がして、気にせずにはいられなかった。
見ていると、遥の表情はあってないようなものだった。それくらい光がなかった。
朝挨拶を交わしたきり声はかけられなかったけれど、放課後になり、帰り支度をする遥に近付く。
「遥」
小さく肩を震わせ、遥が私に暗い茶色の瞳を向ける。
「……一緒に、来てくれる?」
沈み切っていたその瞳が大きく揺れる。
遥と話したい。遥に元気に生きてほしい。つらい思いをさせたくない。
私の頭の中が遥への気持ちでいっぱいになる。
「……今日も、ペンダント、探す?」
間を置いて、遥が困惑気味に尋ね返してくる。
「ううん。それは、一旦やめる。その代わり、遥が良ければ、美術室で話したいんだけど、どうかな」
遥とのペンダント探しだって、いつしかそのためになっていた。私は遥と話せるなら、それでいい。そうすることで少しでも遥の心を楽にしたい。
流れる沈黙。もしかすると、私に気を遣って、迷惑にならないかと考えているのかもしれない。
「……うん。僕も、話したい」
しばらくして返事を聞けて、私は心の中でほっと息を吐いた。なぜだか手が汗で濡れている。こうして自ら遥の心に触れようとしているなんて、今までにないことだった。
美術室には今日も三谷さんがいた。私たちを見るなり「こんにちは」と挨拶をくれて、いつも通りのやり取りに安心する。
席に座って遥と向かい合ったものの、なにを言えばいいのかわからない。遥の心に寄り添うための言葉って、なんだろう。
「……ごめんね」
私が話し出せないでいると、遥が何度目かわからない謝罪を口にし、視線を落とした。
「どうして?」
「また、雪乃ちゃんに、迷惑かけてばっかりで」
また?私は、一度も遥に対してそんなことを思ったことはない。
「違うよ。私は」
遥と一緒にいたい、遥を助けたい。だから、自分から、遥といることを選んだ。
「遥に元気でいてほしいから……。だから、迷惑だなんて思ってないよ」
言ってしまってから、これを聞いたら遥は無理にでも元気でいようとするんだろうなと、自分の言葉選びを悔やんだ。別の言葉だったら、私の気持ちをしっかり伝えられたのかもしれない。
そんなことを考えていると、顔を上げた遥の目が、私を通り越して後ろに向いた。
「どうしたの?……あ」
その視線を追うと、壁に飾られている一枚の絵――私が一学期に描いた、「心の絵」があった。
見られたくなかったのに――。そこに飾られていることを、すっかり忘れていた。
暗闇の森にある池に、一人佇む女の子の後ろ姿。
その絵は、当時の私の心そのもの。
「あれも、雪乃ちゃんが、描いたの?」
見られてしまったから、もう誤魔化しても仕方がない。
「……うん」
「すごい……。なんてだろう、寂しいなんて、いう言葉じゃ、足りないくらい、寂しそう……」
遥はすっかりその絵に見惚れているようだった。
嬉しい。嬉しいんだけど、複雑な気持ちも抱いていた。
「もしかして、これって、雪乃ちゃんの、気持ち?」
そこまで気付かれてしまうなんて。遥には、私がそう見えているんだろうか。
隠しきれそうもなくて、うなずくしかなかった。
「……でも、今は違うよ」
「寂しく、ないってこと……?」
ここまで来たら、遥になら、言ってもいいかなと思った。
「ううん。そうなのかもしれないけど、そうじゃなくて。……描けなく、なっちゃったから」
自分の本音がわからなくなってしまったせいで。
「だから、もう、遥に心の絵は見せられない……。ごめんね」
本当は、私が今も心の絵を描けるのなら、いくらでも遥に見てもらいたかった。でも今は、風景画すらまともに描けていない状態で、そんな自分が情けない。
「謝らないで……。つらいのは、雪乃ちゃんの、方だよね」
でも遥は、そんな私になんとか寄り添おうとしてくれて、私も心のどこかでそれを求めてしまっていた。そのことをはっきり自覚して、ますます自分が嫌になる。
「雪乃ちゃんが、また、心の絵、描けるように、僕も頑張るから……大丈夫だよ」
昔からそうだった。遥は、自分が苦しくても、こんな私に寄り添ってくれて、何度も救ってくれた。
「……ありがとう」
遥がまた助けてくれたことへの嬉しさと、そんな遥に弱い私はなにもできていないことの悔しさで、少しだけ、泣いた。
翌日、登校すると、またクラスの雰囲気が、前以上に悪くなっていた。
一回注目を集めたら、簡単にはそこから逃れられない。教室に入った瞬間に、その空気の中心にいるのが、またしても遥なのだと、気付いてしまった。
――どうして?遥がなにか悪いことをしたの?そんなわけ、ない。
教室の空気に逆らって、遥に声をかけようと一歩踏み出して――。
「霜月さん」
突然、慣れない声に名前を呼ばれ、反射的に肩を跳ねさせて振り向く。そこには数回だけ話したことがあるクラスの男の子が立っていた。数回だって、私には多い方だ。
彼は神妙な顔で、声を落として言った。
「永野遥と関わらない方がいいよ」
『あんな化け物と仲良くするのか』
脳内に鋭く甲高い音が鳴り響き、中学一年生のときの出来事がフラッシュバックする。背中に凍える風が吹き付け、寒さが心を痛めつける。
『あいつオカマなんだって』
『どっちでもないんだから人じゃなくね?』
『体どうなってんの』
やめて、やめて、やめて――。
これ以上、遥を傷つけないで。
頭がズキズキと痛み、話しかけられそうもなくて、私はそっと自分の席につき、突っ伏すしかなかった。
もしこの状況で私が遥に声をかけなければ、遥はまた私の前から姿を消してしまうかもしれない。それどころか、最悪な結末にだってなりかねない。
今度こそ遥を救うって、決めていた。
この空気の中で話しかけるのは怖い。でも、それは私の都合だ。
もっと大切なことが、今はあるはずで。
だから、放課後。
「……はるかっ」
なんとかこっそりと遥に声をかけた。
「来て」
戸惑う遥とともに美術室に行き、いつものように座った。
遥のことを助けたい。もう後悔したくない。
「……遥、なにがあったの?」
同じような質問を小学生のときにもした覚えがある。でも確かそのときは、遥は答えてはくれなくて。
「……今度は、本当に、僕が悪いんだよ」
――今回も、答えてはくれなった。
遥が、悪い?
「どうして……」
「ごめんっ……!」
「遥!」
遥はガタンと立ち上がり、どこかへ駆け出していってしまった。
追うこともできず、呆然としていると、私たちの様子を見ていたらしい三谷さんが「霜月さん」と声をかけ、スマホの画面を見せてくれた。
それを見て、私は目を疑った。
【この前噂になってた永野遥って人、前の高校で暴力事件起こして退学させられたらしい。怖くね?】
暴力事件。遥とはどうにも結びつかない言葉。
「遥はそんなことしません!」
「私もそう思う。でも……」
三谷さんが言葉を濁して視線を落とす。その続きならわかる。
遥は「本当に僕が悪い」と言っていた。つまり、そういうことがあったと認めているようなもの。
でも、遥がそんなことをするなんて絶対にありえない。遥に会ってちゃんと話を聞きたい。だけど、逃げられてしまったし、話したがっていなかったから、無理に会うわけにもいかない。それにもし遥と仲良くしていることが知られたら、私もなにをされるかわからない。
私は、どうすればいいの……?
次の日も、その次の日も、私は遥と話せないまま過ごした。遥が次第に弱っていることは見ていて明らかで、私の心も苦しくなっていった。
さらに、その翌日。
登校してきた私は、目の前の光景に目を疑った。
遥を囲むクラスの男の子たち。それを心配と好奇の目で見る他のクラスメイト。
「なあ、お前、この学校から出てってくんね?迷惑なんだよ」
遥を取り巻く誰かが声を上げた。それを聞いて悲鳴を上げたのは、私の心だった。
彼の言葉を皮切りに、次々と罵声が教室に響く。
「お前のせいで俺らは迷惑してんだよ」
「しかもお前、男でも女でもないんだって?」
え、なにそれ、とざわざわと小さな声が聞こえてくる。
――やめて。それ以上言わないで。
「心も歪んでる上に体も変とか、マジで害悪なんだけど」
そんなこと言わないでよ。
そう、言えたら良かったのに。
足が竦んで一歩も踏み出せない。体が小刻みに震える。呼吸も微かに乱れているのに気付いた。
私が言われたわけじゃないけと、私が言われたみたいだった。
俯き続ける遥の恐怖、痛み、悲しみ、淋しさ。それらが私には、見ているだけでそのまま伝わってくる。
わかってる。
男の子たちも、自分たちがしたことがいいことだなんて思っていないはずだ。噂しか知らない彼らにとっては、遥は教室の空気を悪くする邪魔者だ。だから、クラスのためには遥がいない方がいい、という考えに至るのは、外側だけ見ていれば自然なこと。
でも、だとしても。最初の二言は、その誤った情報からの正義感からだと思う。でも、後の二言は、絶対に、言っちゃダメだよ。
どれだけ他人と違ったって、それを理由に侮蔑されていいわけがない。
授業中も遥はずっとつらそうにしていて、もう見ていたくなかった。
私が行かないと、遥はずっと一人で苦しんでしまう。
私だって、こんなところにいたくない。
だから、もう。
「遥!」
放課後、昇降口で、声量なんて気にせずに遥を呼び止めた。遥が立ち止まり振り向いた隙に、私は遥の制服の袖をぐっと掴む。
「早く、ここから出よう」
動揺している遥の返事も待たず、私はそのまま駆け出した。
近くにある小さな公園に入り、ぱっと遥の袖を離す。ここなら話せる、と思ったけれど、ときどきそばを通る同じ高校の人が気になって、集中できそうになかった。
だったら、もうこれしかない。
乱れた呼吸を整えて、「遥」と呼ぶ。
「二人で、どこか遠い所、行こう」
「え……」
「逃げよう……!どこまでも」
こんな〝生き〟苦しいところにいるくらいなら。ここにいたって遥は救われないし、私も……。
私の目を見つめ、数十秒、間を置いた後、遥は大きくうなずいた。
「でも、ちょっと、準備してきても、いい?」
「あ……そうだね。じゃあ、荷物まとめて、またここで待ち合わせしようね」
家族には書き置きを残しておいて、夜の八時にまた遥と合流した。私がその手紙を書くのに時間がかかり過ぎてしまって、かなり遅くなってしまった。荷物は、普段学校へ行くときよりも少し軽いくらいにした。
社会人が多い、走行音だけが響く夜の電車の席に、二人並んで座る。私は極力遥と肩が触れないようにした。
「……ごめんね」
ふと、遥のやや掠れた声が落とされた。
自分のせいでこんなことに、なんて思っているのかもしれない。
「遥のせいじゃないよ……ひとつも」
ぎゅっと胸の前で拳を握る。
みんなが勝手に勘違いして、遥を悪者にして、虐げただけ。今も、昔も。遥は悪くない。
「と、とりあえず、肩の力、抜いて」
気付いてたんだ、と少し驚く。
「……大丈夫なの?」
「うん。少し触れたり、当たっちゃうくらいなら」
気を遣いすぎて遥を困らせてしまっていたのかな、と反省する。遥は私の小さな動きをよく見ている。遥じゃなかったら、たぶん気付かれなかった。
言われた通り肩の力を抜く。けれどお互い細いから、電車が大きく揺れなければ触れ合うことはなさそうだった。
「……全部、僕のせいなんだよ」
視線を落とし、澄んでいた茶色い瞳を曇らせながら、遥が呟く。
「え……?」
「僕が前の学校で、暴力振るったっていう噂、知ってる?」
「……うん」
「あれ……本当のことなんだよ」
驚きで声さえも出なかった。遥が人の体を傷つけるなんてことが、本当に?信じられない。
「……なにか、事情があったんだよね?」
尋ねると、遥は硬い表情を保ったまま、ゆっくりと口を開いた。
「前の高校で、それなりに仲良くなれてたクラスの子が、触ろうとしてきたときに、思わず手を出しちゃって……。それは当たらなかったけど、かわそうとしたその子が、勢いで後に倒れて、怪我しちゃったんだ。周りから見たら、僕が殴ったように見えても、おかしくない。それに、その子はただ、親愛の印みたいなものだったんだと思う。それで、そのことで、停学になったから、転校してきたんだ」
そういうことだったのか。一年生の年度途中でどうして転校してきたんだろう、と疑問思っていたけれどずっと訊けていなかった。たぶん遥も、今だから話してくれたのだろう。
「でも、それだって遥のせいじゃないでしょ?」
確かに相手の子は怪我をしたけれど、遥が拒絶したのは触られることへのトラウマのせいだ。
「ううん、僕が、触りられることを嫌じゃなければ……。そうじゃなくても、先に話しておけば、そんなことにはならなかったはずだよ」
違う、いちばん悪いのはそのトラウマを植え付けた人だと思う。だけどそんなことを言っても、遥を救えそうにはなかった。誰が悪いか、なんてこの際関係ない。だから、別の言葉を選ぶ。
「遥」
同情が遥の心に染みるなんて思えないけれど。
「……つらかったよね。私に伝わってくるつらさよりも、遥はもっと痛いんだよね」
直接的に体験していない私でさえ遥の気持ちを思うと泣きそうになるくらい胸が苦しいのに、本人の心はどれほどの痛みと重みを抱えているんだろう。
遥は唇を固く閉じて、悲痛な表情でうなずいた。
遥の苦しそうな表情を見るのは、これで何度目だろう。
そこから目を離して、漆黒に染まる外の景色を見る。
「これからどうしよう……」
ぽつりと、遥にすら聞こえるかわからない声量で弱々しく声が漏れた。
自分で誘っておいて、どうするかを全く決めていなかった。
「雪乃ちゃんは、どこか、行きたいところ、あるの?」
私の呟きを拾ってくれたのかくれていないのか、遥が遠慮がちに尋ねる。
「私は……遠ければ、どこでもいいよ。遥は?」
「僕も、一緒」
どこか遠いところ。私はそこで、全てを投げ出してしまいたい。遥と一緒ならどこへでも行ける気がする。
「じゃあ、思いっ切り遠く行っちゃおうか」
精一杯の笑顔を向けると、遥は困惑したような表情をしたけれど、すぐに「うん」と答えた。
夜の電車を乗り継ぎ、到着したのは聞いたこともない小さな駅。もう終電がなくなったから、帰ることはできない。駅舎が開放されていたから、ここで休むことにした。
木製のベンチに並んで座って、ぼうっと駅舎内を眺める。
「……遥。本当に大丈夫だったの?逃げてきて……。私が、勝手に連れ出しちゃったけど……」
今更なにを言ってるんだろうと思いながら、不安になって尋ねる。遥の表情はまだ覇気がなかった。
「大丈夫、だよ。僕も逃げたいって思ってたから……」
「そっか……」
良かった、と思っていいのかわからないけど、ホッとした。私の衝動的な行動で遥を困らせたくない。今も、少し冷静になったけれど、鼓動が少しだけ早い気がする。
疲れ果てていた私と遥は、そのまますぐに眠りに落ちた。
翌朝、始発電車の入線する音で目が覚めた。遥も同時に起きたようだった。
「おはよう、遥」
「……おはよう」
五時間くらいしか寝ていないから、疲れがあまり取れていない。もしかしたらみんなにとっては普通の時間なのかもしれないけれど、私は疲れやすいせいでいつも寝足りない。
「今日は、どうしようか……」
何の計画もなくここまで来たから、今どんなところにいるのかすらよくわかっていない。
寝起きの頭を悩ませていると、遥が視線を落として口を開いた。
「……雪乃ちゃん」
その神妙な面持ちに、思わず息を呑む。よくない話だということはそれだけでわかった。
「……どうしたの?」
「まだ、話さなきゃいけないことがあって……」
「……うん」
遥を緊張させないように、なるべく穏やかさを意識してうなずいた。けれど私の不安は遥に伝わってしまっていたと思う。
「……僕、四日後から、入院することになってるんだ」
「え……」
思いもよらぬ言葉に私は動揺を隠せない。
「僕、体が、弱くて。中性だから、体がうまく機能しないのかな……。最近はどんどん弱ってきてて……だから、入院しないと、いけないんだって」
体が弱い。それを聞いて、急に不安が膨らんだ。私が遥の体に悪影響を与えているかもしれない。
「それなのに、こんなことして、本当に良かったの……?」
「うん。入院する日になるまでは、一緒にいれるよ。でも、それ以上は……。ごめんね」
「謝らないで……。もしかして、ペンダント探しも、けっこうきつかった……?」
学校を歩き回っているとき、遥が息を切らしていたのを思い出した。私は、今の遥のこともよく知らないで。
「ううん、あれくらいなら、大丈夫」
遥はたぶん私に気負わせないために、そう言ってくれているのだろう。遥に無理をさせたくない。けれど、遥がその日までは一緒にいれると言ってくれたことが嬉しい。
でも、逆に言えば、その日までしか一緒にいれないんだ。入院となれば、学校に行ったとしても会えない。
「……じゃあ、それまでに思いっ切り楽しんじゃおうよ」
私は遥ににっこりと笑いかけた。心の中の苦しさを必死に押し留めて。
ようやく、旅の方向性が決まった。スマホを取り出して電源を入れると、その眩しさに一瞬目眩がした。それに耐えて、地図を開く。現在位置と、この辺りの観光地を確かめた。
遥と相談してホテルを予約し、今日はいろいろと寄り道をしながらそこに向かうことにした。
人が多くいるところは避け、広い公園、清流の川、花畑など、自然に恵まれた場所を巡った。かなり歩くことにはなったけれど、遥の体調が崩れることはなく、穏やかに一日が過ぎた。遥も、少しだけど、やわらかな表情をまた見せてくれるようになった。
予約したホテルに着いたのは、夜の八時過ぎ。ちょうど逃げ始めてから一日が経った頃だった。
思っていたより広く、落ち着いた部屋。二人ともそれぞれのベットの上に座って、ふぅ、と息をついた。
なんでだろう。ちょっぴり、ドキドキしている。しかも、今まで感じていたような嫌な動きじゃない。
「……そういえば、二人だけで出かけるのは、初めてだね」
これまで遥の家族と私の家族でどこかに行ったことはあるけれど、遥と私二人だけで出かけたことは一度もなかった。だけど、本当は。
「そうだね……。ほんとは、ずっと、こういうこと、したかった」
私が考えていたこととまるっきり同じことを言われ、ますますドキドキが高まる。けれど、やるせない気持ちにもなる。
……遥が転校してしまう前に、もっと踏み込めていれば、遥のことを助けられたのかな。
「遥……いつも、助けられなくて、ごめんね」
謝って済むことじゃない。遥の受けた傷はそんなことでは治らないくらい、深く、鋭い。だけど、謝らないわけにはいかなかった。
「雪乃ちゃんは、悪くない」
遥はいつもと同じような言葉を繰り返す。私は、悪くない、と。ううん、違う、違うよ。
「でも……!ずっと、ひとりで、苦しんでたんだよね。今も……」
遥の苦しみは、単に過去のことじゃない。
私があと一歩踏み出せていれば、こんなことにはならなかったはずだから。
遥の苦しみにとっくに気付いていたのに、私は今まで怖くて聞けなかった。聞くなら、今しかない。
「遥の、本当の気持ち、教えて」
真っすぐに見つめると、遥の瞳が大きく揺れた。そして遥が意を決したように大きく息を吸う。
「……苦しい」
それはまるで、ずっと囚われていた人が解放されたようだった。
「僕は、周りの人と違って、特殊な体で、おかしい存在なんだよ。そうやって特別扱いされて、排除されるのなんて、当たり前で……。でも、どうして、みんなと違ったらいけないの?なんで、中性だってことを、隠さなきゃいけないの?」
初めて聞いた、遥の心からの叫び。悲痛に歪む遥の顔から目が離せない。「みんなと違う」ことの苦しみは、私も何度も味わったことがある。
「こんな思い、するくらいなら、いない方がいいって、何度も、消えたいって思った」
消えたい。たった四文字が、重く、重く、私の心に楔を打つ。遥がそう思ってしまうことを、否定できるわけがない。
「本当は、家族と、雪乃ちゃんと一緒に、幸せに生きていたいだけなのに……」
遥の頰を、涙が一筋伝った。遥の本音は、聞いているだけでも泣きそうなほどつらくて、でも、遥が望む人生に私を入れてくれたことが、嬉しい。
本音を話してくれた遥のために、私ができることは。
光を反射して輝く遥の茶色い瞳を見つめ直す。「遥」と、大事にその名前を呼ぶ。
「なにがあっても、私はずっと遥の味方だよ。遥が中性だからとかじゃなくて、私が、遥の隣にいたい」
私の気持ちは、ちゃんと伝わっている?遥の目を見続けながら、「それにね」さらに言葉を続ける。
「遥は、中性だから、どっちにもなれないって、言ってたけど……どっちでもないからこそ、遥だけの生き方ができるんじゃないかな」
なにもこれは、遥にだけ言えることじゃない。性別に縛られた経験は、誰にでもあると思う。願わくは、性別による偏見や固定観念がなくなってほしい。
本当はもっといろいろな言葉をかけてあげたい。でも、これ以上は今は無理そうだった。
「……ありがとう。やっぱり、雪乃ちゃんは、僕の……」
震える声で紡がれた遥の言葉は、最後まで言い切られなかった。気になるけれど、聞き返さないことにする。
目を擦る遥に触れるわけにもいかなくて、私は見ていることしかできない。私にできることと言ったって、結局はこうして言葉で慰めて、隣にいることくらいだ。もっと遥のためにできることがあるはずなのに。
触れられることは、遥にとっては怖いこと。だから、私からは触れらない。
だけど、二人の間の距離が、とても、もどかしかった。
次の日もホテル付近を観光することにした。昨日とは違って、街の方にも出てみる。
昨日一日過ごしてみて、この記憶を残しておかないのはもったいないなと思った。
だから、お昼のとき、頰を緩めてお団子を食べている遥にこっそりスマホを向けた。
ガシャ、とシャッター音が響く。そのせいで遥がこちらを振り向いた。
「えっ。と、撮った……?」
「うん」
「は、恥ずかしいよ……」
顔を赤くする遥が可愛らしい。その姿も撮りたくなったけれど、さすがにやめておく。
「でも、この瞬間を残しておきたいから……。だめかな?」
「……ん、いいよ」
遥は恥ずかしがりながらも許してくれた。だけどその後、遥も仕返しに私の写真を撮ってきた。恥ずかしいけど、遥の記憶に私が残るならいいかなとも思えた。
――楽しい。そう素直に思った。この時間が、永遠に続けばいいのに。でも、その願いは、叶わない。
ホテルに戻ってきて、遥とお喋りをする。昨日よりも遥の表情は明るくなった。
「今日も楽しかったね」
「うん。楽しかった……」
遥は自分の胸に軽く手を当てて、噛み締めるように呟いた。
こうして、いつまでも遥といれたら。そうすれば、私はあんな苦しい場所にいなくて済むのに――。
無意識に、手元のシーツをぎゅっと握っていた。
「……雪乃ちゃん」
そんな私の様子に気付いたのか、遥が心配そうに私を見る。
「訊いても、いい?」
「……うん」
もしかしたら、遥はもう私の気持ちに。遥には、絶対に気付かれたくなかったのに。心配をかけたくない。
「……なんで、雪乃ちゃんは、逃げてるの……?」
それは、当然の疑問だと思う。遥に逃げることを提案したのは他でもない私。他の人だったら、それ以外の方法も思いついたのだろうけど、私には、逃げることしか考えつかなかった。
「……前から、思ってたけど……雪乃ちゃんも、つらい思い、してるんだよね」
「……!」
心のどこかで、遥がいつか、こうして私の痛みに気付いてくれることを、望んでいた。そのことに気付かされる。違う、気付いたんじゃなくて、観念して受け入れた。
「昨日、雪乃ちゃんが、そうしてくれたみたいに、僕も、雪乃ちゃんの気持ち、知りたい」
それでも私は、弱々しく首を振る。
「……話しても、遥がつらくなるだけだよ――」
「でも!雪乃ちゃんがひとりで苦しんでるところ、見たくない!隠さないで」
突然遥が高く声が上げ、訴えるような目で私を見た。
なんで。なんで、自分のときより、つらそうにしてるの?
私の頰を温かいものが流れた。
本当は、ずっと遥に、聞いてほしかった。
「うん……。遥の、言う通りだよ」
思えば遥はいつも、私の心に寄り添おうとしてくれていた。
「小学生のときに、言ってくれたよね。雪乃ちゃんは、せんさいなんだと思うって」
ことあるごとに驚いたり怯えたりしていた私が、自分のことを「びびり」だと口にしたとき。繊細、という言葉を教えてくれたのは、遥だ。
「その言葉が、本当にぴったりだなって思うよ。みんなにとって小さなことでも、私にとっては大きなことなんだよ」
「うん……」
「……だから、そのせいで、ちょっとしたこともストレスになって、溜まっていって」
自分のその繊細さを、何度も憎んだ。どうしてこんなに弱いんだろう。なんで私だけみんなと違うんだろう。そんなふうに。
でも、変えられないものは、変えられない。その事実に、打ちひしがれた。
そんな私の今の気持ちを表すのに、一番合っている言葉は――。唇が震え、喉の奥に物が詰まったように苦しくなる。
「生きてるだけでつらい……!」
一息で言い切った。すると途端に、視界がぼやけて遥の顔もよく見えなくなった。でも、まだ、話したい。
今の一言で、ようやく自分の心の声に気付けたから。
「みんなが、〝当たり前〟のようにやってることを、こなすのにも、みんなの何倍も時間がかかって、何倍も疲れちゃう。なんでみんなは平気なのって、不思議だった」
小学生のときは、特にそれが露骨に表れていた。勉強だってみんなよりも遅くて、人間関係でも、円滑なコミュニケーションなんて取れるはずもなかった。
それが、悔しいというより、ショックだった。
「この感覚は普通じゃないんだって気付いたとき、寂しくて、つらくて」
なんでみんなは平気なの、という疑問に対して出た答えは、私が変なんだ、ということだった。納得したけど、突然、自分が世界から隔離されているような感覚に陥ったのを覚えている。
「誰にも理解されてもらえないんだって、ずっとひとりで塞ぎ込んでた」
誰かに理解してほしかった。そして私は、その期待を、密かに遥に向けていた。たぶん、ずっと前から。
遥は昨日、家族や私と幸せに生きたいと、言ってくれた。
「私も、本当は、遥と一緒に幸せに……楽に生きたい」
思いつく限りの私の気持ちを全て吐露して、心がすっと軽くなった。ようやく、言えた。言ってしまった。
震えていた私の手に、そっと熱が添えられた。――遥の手だ。
「雪乃ちゃん」
遥の声が、私の心を優しく撫でるように、包み込むように響く。
「雪乃ちゃんの繊細さは、雪乃ちゃんの、宝だと思う。その宝に、僕も、何度も救われてきたんだよ」
「……っ。私、遥のこと、救えてなんか……!」
「救われてるよ。本人が、言うんだから、間違いないよ」
遥との距離が縮まるのを感じた。遥から、寄ってくれるなんて。
「雪乃ちゃん。生きてるだけで、えらいよ」
囁くように、私のそばで、優しい声が聞こえた。
それで私の涙腺は完全に崩壊してしまった。泣き虫な私といえど、こんなに涙が出るなんて長いことなかった。
「なん、で、かな……。遥の前だと、涙脆く、なっちゃう」
「ご、ごめん」
「ううん、むしろ、ありがとう……」
遥の前だから、思い切り泣ける。遥の隣にいると気が緩んでしまうからだろうか。
そして遥は私が泣いているときはいつも、泣き終わるまで静かに隣にいてくれる。今もそうだ。
「泣きたいだけ、泣いていいよ」
鋭さの一切ない遥の優しい声が耳にすっと入ってくる。
「僕は、ずっと、雪乃ちゃんの、味方だから。……一緒に、幸せになろう?」
「え……」
顔を上げると、遥が恥ずかしそうに頰を赤くしていた。でも俯かずに微笑んで、私を見てくれる。
手元と、触れていないけれど目や声から感じる遥の熱。心地よくて、甘えてしまいそうだった。
いつまでもこの熱を感じていたい。せめて、今だけは、ひとりじめさせて。
◇
翌朝、窓から差し込む眩しい光で目が覚めた。
「おはよう、雪乃ちゃん」
寝起きの私の耳に飛び込んできたのは、ふんわりとした穏やかな声。もう起きてたんだ。
「おはよう、遥」
体を起こすと、どこか楽しそうな表情の遥と目が合う。こんな表情、転校する少し前から、ずっと見れていなかった。
「雪乃ちゃん、動物、好き?」
「えっ、う、うん」
「じゃあ、近くに動物園があるから、今日はそこ、行ってみようよ」
もしかして、今日の予定を立てるために早起きしてくたのか。
「うん!行く!」
嬉しくて、思わず勢いよくうなずいた。きっと私の表情はぱあっと明るくなっていると思う。なんだか恥ずかしい。自分でも、喜ぶとこんなふうになるんだな、なんて思った。
今日は動物園に行って、その後別のホテルに向かうことになった。
私は人間よりも小動物の方が好きだ。動物園には、ペンギン、ハムスター、ミーアキャット、レッサーパンダなど、可愛い動物がたくさんいた。見ているだけで癒される。隣の遥は時折動物を優しい表情で見ていた。それをこっそり盗み見てまた癒される。
この子たちはどんな気持ちでどんな生活を送ってきたんだろう、と動物に思いを馳せてみたりもした。それを遥にも話して、二人していろんな想像を働かせた。たぶん遥じゃなかったら、真剣に聞いてくれなかっただろう。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、夜になってしまった。明日には帰らなければならない。この逃避行でかなり遠くまで来てしまったから、明日はほぼずっと電車に乗ることになると思う。
遥との時間が、あと少しで終わってしまう。
ホテルに着いて、部屋に入った。そこで私は自分の大変なミスに気付いた。
「え……」
部屋を見て驚いた私の横で、遥も同じことに気付く。
「ベットが、ひとつ……?」
念の為部屋番号とかを確認してみても、やっぱりそっちは合っていた。つまり、私が予約し間違えたのだ。
「ご、ごめんね、遥」
「ううん、しょうがないよ……」
「どうする……?」
上目遣いで遥を見る。どうするもなにも、たいして広くもない部屋だから、方法はひとつしかないわけだけど。
「……二人で、使う……?」
「わ、私は、それでいいけど……。遥は?」
「うん……。そうするしか、ないよね」
どちらかが床で寝るとかにしても、狭いし、譲り合いが発生することは目に見える。今まで以上に変に意識してしまう。
荷物の整理やお風呂などを済ませたあと、着替えてベッドの上に並んで座った。
どうしてだろう。遥の隣にいると、少し鼓動が逸る。だけど居心地が良くて、安心できる。中学生のときくらいから、もしかして、と何度も思ったことはあるけれど――。
そっか、これが、恋なんだ。
私は、ずっと前から、性別なんて関係なしに、遥のことが好きだったんだ。
そう自覚してしまったら、なおさら意識してしまう。それだけでなく、この時間が、愛おしく、なってしまう。
「帰りたくないよ……」
そんな呟きが零れてしまった。遥にもはっきりと届いたはずだ。すると、遥が体を私の方に向けた。
「雪乃ちゃん。……手、出して」
「手……?」
「うん。掌、上にして」
遥と向かい合い、言われた通りにすると、遥が私の手を握った。昨日重ねてくれたのと違ってしっかりと、強く。
どくんと、心臓が大きく跳ねた。
「……安心、する?」
「うん。すごく、安心する」
「良かった」
「……大丈夫なの?触れて……」
「雪乃ちゃんなら、大丈夫」
人と触れることがトラウマなはずの遥が、今は私にだけは自分から触れてくれている。
ずっと遥とこうしていたい。いつまでも遥と一緒にいたい。離れたくないよ。
強い思いに駆られた私は、体を遥の方に傾けた。
「あ……」
けれどバランスを崩して、遥がベッドに倒れ込んでしまう。
ベッドに体を預け、頬を赤くし溶けそうな目を私に向ける遥。そんな遥を上から覆うように見つめる私。
吐息がかかるほどの至近距離で、熱に包まれる。
――この体勢、やばい。
「ゆ、雪乃ちゃん……」
「ご、ごめんっ」
慌ててばっと体を起こす。遥もゆっくりと起き上がった。心臓が壊れそうなほどばくばくと音を立てる。呼吸が荒く、顔が燃えるように熱い。
私はなにをやっているんだろう。
だけど、いつかは遥とその先まで。そんなことまで、考えてしまっていた。
「……そ、そろそろ、寝る?」
少し震えた遥の声で我に返る。
「そ、そうだね……」
おそるおそる、二人で一つの布団に入る。まさかこんなことになるなんて思っていなかった。心臓が持たない。
遥と一緒にいられる。それだけで幸せなはずのに、もっとを求めてしまう私がいる。
「……遥」
近すぎる距離にある遥の顔を見る。
「遥が、無事、退院できたら……。私の気持ち、聞いてくれる?」
「……うん。なんでも、聞くよ」
「ありがとう……」
なんで、今の私はこんなことを言ってしまうんだろう。
これはきっと、全部、夜の熱のせいだ――。
◇
遥との逃亡劇の、最後の日。
朝食を食べてすぐホテルを出て、最寄り駅に向かった。そこからはひたすら電車で元の場所へと戻っていく。
最初は旅の思い出などを話すなど遥と談笑していたけれど、降りる駅が近付くにつれて私の心は暗くなっていった。
夕日が車内に差し込んでいる。それがまた私の寂しさを膨らませる。
「明日からも、生きられるかな」
ぽつりと弱音を零してしまう。私が弱気じゃ、遥に心配をかけてしまうだけなのに。
「雪乃ちゃんなら、大丈夫」
それでも遥は、私に寄り添ってくれる。
「そうなのかな……」
「そう、だよ。今までも、一人でも生きてこられたんだから。……一緒に、いれなくて、ごめん」
「ううん。ときどき、会いに行ってもいい?」
「うん。毎日、来てほしいくらいだよ。そしたら、寂しくないから」
私の方が、毎日会いに行きたいくらいだ。遥が転校してからも生きられたのは、遥がくれたペンダントと、遥がくれた言葉のおかげだ。それに、いつかまたどこかで会えるまでは死にたくなかった。
私は、遥がいるから、生きていけるんだよ。
「遥。……甘えて、いい?」
「……!うん、もちろん……」
旅行による疲れもあって、私は隣に座る遥に身を寄せた。肩や腕をわざとくっつける。
寝たくはない。遥との時間を少しでも多く味わっていたいから。
「……遥も、生きてね」
私も、頑張って生きる。
「うん。絶対、生きる」
消えたいと言っていた遥。その遥の口から「生きる」という強い言葉を聞けた。やっぱり、遥は強い。
遥なら、生きてくれる。そしたらまた、こうやって二人でどこかに出かけたい。今度は、逃げるためじゃなくて、前に進むために。
それを叶えるために、私も、現実に向き合わないといけない。
クラス中の視線を集めながら、遥は自分の席にうつむいて座っていた。
そんな遥を見て、声をかけようか迷う。
みんなから見られるのが怖い。でも、遥の声を聞きたい。遥を安心させたい。
だから。
「……遥、おはよう」
その瞬間、クラスメイトの視線が突き刺さってきた。全てが敵意のあるものというわけじゃない。中には、同情や、心配もあると思う。でも、それを向けられて痛いということは、どの感情が込められていても変わらない。
「……おは、よう」
か細い声で遥が答えてくれた。
本当はもっと話したかったけれど、教室の空気に耐えられない。私は遥に微笑みかけて、自分の席に着いた。
一日中遥のことが気になって、授業に集中できなかった。一瞬でも気を抜けば、遥がいなくなってしまう気がして、気にせずにはいられなかった。
見ていると、遥の表情はあってないようなものだった。それくらい光がなかった。
朝挨拶を交わしたきり声はかけられなかったけれど、放課後になり、帰り支度をする遥に近付く。
「遥」
小さく肩を震わせ、遥が私に暗い茶色の瞳を向ける。
「……一緒に、来てくれる?」
沈み切っていたその瞳が大きく揺れる。
遥と話したい。遥に元気に生きてほしい。つらい思いをさせたくない。
私の頭の中が遥への気持ちでいっぱいになる。
「……今日も、ペンダント、探す?」
間を置いて、遥が困惑気味に尋ね返してくる。
「ううん。それは、一旦やめる。その代わり、遥が良ければ、美術室で話したいんだけど、どうかな」
遥とのペンダント探しだって、いつしかそのためになっていた。私は遥と話せるなら、それでいい。そうすることで少しでも遥の心を楽にしたい。
流れる沈黙。もしかすると、私に気を遣って、迷惑にならないかと考えているのかもしれない。
「……うん。僕も、話したい」
しばらくして返事を聞けて、私は心の中でほっと息を吐いた。なぜだか手が汗で濡れている。こうして自ら遥の心に触れようとしているなんて、今までにないことだった。
美術室には今日も三谷さんがいた。私たちを見るなり「こんにちは」と挨拶をくれて、いつも通りのやり取りに安心する。
席に座って遥と向かい合ったものの、なにを言えばいいのかわからない。遥の心に寄り添うための言葉って、なんだろう。
「……ごめんね」
私が話し出せないでいると、遥が何度目かわからない謝罪を口にし、視線を落とした。
「どうして?」
「また、雪乃ちゃんに、迷惑かけてばっかりで」
また?私は、一度も遥に対してそんなことを思ったことはない。
「違うよ。私は」
遥と一緒にいたい、遥を助けたい。だから、自分から、遥といることを選んだ。
「遥に元気でいてほしいから……。だから、迷惑だなんて思ってないよ」
言ってしまってから、これを聞いたら遥は無理にでも元気でいようとするんだろうなと、自分の言葉選びを悔やんだ。別の言葉だったら、私の気持ちをしっかり伝えられたのかもしれない。
そんなことを考えていると、顔を上げた遥の目が、私を通り越して後ろに向いた。
「どうしたの?……あ」
その視線を追うと、壁に飾られている一枚の絵――私が一学期に描いた、「心の絵」があった。
見られたくなかったのに――。そこに飾られていることを、すっかり忘れていた。
暗闇の森にある池に、一人佇む女の子の後ろ姿。
その絵は、当時の私の心そのもの。
「あれも、雪乃ちゃんが、描いたの?」
見られてしまったから、もう誤魔化しても仕方がない。
「……うん」
「すごい……。なんてだろう、寂しいなんて、いう言葉じゃ、足りないくらい、寂しそう……」
遥はすっかりその絵に見惚れているようだった。
嬉しい。嬉しいんだけど、複雑な気持ちも抱いていた。
「もしかして、これって、雪乃ちゃんの、気持ち?」
そこまで気付かれてしまうなんて。遥には、私がそう見えているんだろうか。
隠しきれそうもなくて、うなずくしかなかった。
「……でも、今は違うよ」
「寂しく、ないってこと……?」
ここまで来たら、遥になら、言ってもいいかなと思った。
「ううん。そうなのかもしれないけど、そうじゃなくて。……描けなく、なっちゃったから」
自分の本音がわからなくなってしまったせいで。
「だから、もう、遥に心の絵は見せられない……。ごめんね」
本当は、私が今も心の絵を描けるのなら、いくらでも遥に見てもらいたかった。でも今は、風景画すらまともに描けていない状態で、そんな自分が情けない。
「謝らないで……。つらいのは、雪乃ちゃんの、方だよね」
でも遥は、そんな私になんとか寄り添おうとしてくれて、私も心のどこかでそれを求めてしまっていた。そのことをはっきり自覚して、ますます自分が嫌になる。
「雪乃ちゃんが、また、心の絵、描けるように、僕も頑張るから……大丈夫だよ」
昔からそうだった。遥は、自分が苦しくても、こんな私に寄り添ってくれて、何度も救ってくれた。
「……ありがとう」
遥がまた助けてくれたことへの嬉しさと、そんな遥に弱い私はなにもできていないことの悔しさで、少しだけ、泣いた。
翌日、登校すると、またクラスの雰囲気が、前以上に悪くなっていた。
一回注目を集めたら、簡単にはそこから逃れられない。教室に入った瞬間に、その空気の中心にいるのが、またしても遥なのだと、気付いてしまった。
――どうして?遥がなにか悪いことをしたの?そんなわけ、ない。
教室の空気に逆らって、遥に声をかけようと一歩踏み出して――。
「霜月さん」
突然、慣れない声に名前を呼ばれ、反射的に肩を跳ねさせて振り向く。そこには数回だけ話したことがあるクラスの男の子が立っていた。数回だって、私には多い方だ。
彼は神妙な顔で、声を落として言った。
「永野遥と関わらない方がいいよ」
『あんな化け物と仲良くするのか』
脳内に鋭く甲高い音が鳴り響き、中学一年生のときの出来事がフラッシュバックする。背中に凍える風が吹き付け、寒さが心を痛めつける。
『あいつオカマなんだって』
『どっちでもないんだから人じゃなくね?』
『体どうなってんの』
やめて、やめて、やめて――。
これ以上、遥を傷つけないで。
頭がズキズキと痛み、話しかけられそうもなくて、私はそっと自分の席につき、突っ伏すしかなかった。
もしこの状況で私が遥に声をかけなければ、遥はまた私の前から姿を消してしまうかもしれない。それどころか、最悪な結末にだってなりかねない。
今度こそ遥を救うって、決めていた。
この空気の中で話しかけるのは怖い。でも、それは私の都合だ。
もっと大切なことが、今はあるはずで。
だから、放課後。
「……はるかっ」
なんとかこっそりと遥に声をかけた。
「来て」
戸惑う遥とともに美術室に行き、いつものように座った。
遥のことを助けたい。もう後悔したくない。
「……遥、なにがあったの?」
同じような質問を小学生のときにもした覚えがある。でも確かそのときは、遥は答えてはくれなくて。
「……今度は、本当に、僕が悪いんだよ」
――今回も、答えてはくれなった。
遥が、悪い?
「どうして……」
「ごめんっ……!」
「遥!」
遥はガタンと立ち上がり、どこかへ駆け出していってしまった。
追うこともできず、呆然としていると、私たちの様子を見ていたらしい三谷さんが「霜月さん」と声をかけ、スマホの画面を見せてくれた。
それを見て、私は目を疑った。
【この前噂になってた永野遥って人、前の高校で暴力事件起こして退学させられたらしい。怖くね?】
暴力事件。遥とはどうにも結びつかない言葉。
「遥はそんなことしません!」
「私もそう思う。でも……」
三谷さんが言葉を濁して視線を落とす。その続きならわかる。
遥は「本当に僕が悪い」と言っていた。つまり、そういうことがあったと認めているようなもの。
でも、遥がそんなことをするなんて絶対にありえない。遥に会ってちゃんと話を聞きたい。だけど、逃げられてしまったし、話したがっていなかったから、無理に会うわけにもいかない。それにもし遥と仲良くしていることが知られたら、私もなにをされるかわからない。
私は、どうすればいいの……?
次の日も、その次の日も、私は遥と話せないまま過ごした。遥が次第に弱っていることは見ていて明らかで、私の心も苦しくなっていった。
さらに、その翌日。
登校してきた私は、目の前の光景に目を疑った。
遥を囲むクラスの男の子たち。それを心配と好奇の目で見る他のクラスメイト。
「なあ、お前、この学校から出てってくんね?迷惑なんだよ」
遥を取り巻く誰かが声を上げた。それを聞いて悲鳴を上げたのは、私の心だった。
彼の言葉を皮切りに、次々と罵声が教室に響く。
「お前のせいで俺らは迷惑してんだよ」
「しかもお前、男でも女でもないんだって?」
え、なにそれ、とざわざわと小さな声が聞こえてくる。
――やめて。それ以上言わないで。
「心も歪んでる上に体も変とか、マジで害悪なんだけど」
そんなこと言わないでよ。
そう、言えたら良かったのに。
足が竦んで一歩も踏み出せない。体が小刻みに震える。呼吸も微かに乱れているのに気付いた。
私が言われたわけじゃないけと、私が言われたみたいだった。
俯き続ける遥の恐怖、痛み、悲しみ、淋しさ。それらが私には、見ているだけでそのまま伝わってくる。
わかってる。
男の子たちも、自分たちがしたことがいいことだなんて思っていないはずだ。噂しか知らない彼らにとっては、遥は教室の空気を悪くする邪魔者だ。だから、クラスのためには遥がいない方がいい、という考えに至るのは、外側だけ見ていれば自然なこと。
でも、だとしても。最初の二言は、その誤った情報からの正義感からだと思う。でも、後の二言は、絶対に、言っちゃダメだよ。
どれだけ他人と違ったって、それを理由に侮蔑されていいわけがない。
授業中も遥はずっとつらそうにしていて、もう見ていたくなかった。
私が行かないと、遥はずっと一人で苦しんでしまう。
私だって、こんなところにいたくない。
だから、もう。
「遥!」
放課後、昇降口で、声量なんて気にせずに遥を呼び止めた。遥が立ち止まり振り向いた隙に、私は遥の制服の袖をぐっと掴む。
「早く、ここから出よう」
動揺している遥の返事も待たず、私はそのまま駆け出した。
近くにある小さな公園に入り、ぱっと遥の袖を離す。ここなら話せる、と思ったけれど、ときどきそばを通る同じ高校の人が気になって、集中できそうになかった。
だったら、もうこれしかない。
乱れた呼吸を整えて、「遥」と呼ぶ。
「二人で、どこか遠い所、行こう」
「え……」
「逃げよう……!どこまでも」
こんな〝生き〟苦しいところにいるくらいなら。ここにいたって遥は救われないし、私も……。
私の目を見つめ、数十秒、間を置いた後、遥は大きくうなずいた。
「でも、ちょっと、準備してきても、いい?」
「あ……そうだね。じゃあ、荷物まとめて、またここで待ち合わせしようね」
家族には書き置きを残しておいて、夜の八時にまた遥と合流した。私がその手紙を書くのに時間がかかり過ぎてしまって、かなり遅くなってしまった。荷物は、普段学校へ行くときよりも少し軽いくらいにした。
社会人が多い、走行音だけが響く夜の電車の席に、二人並んで座る。私は極力遥と肩が触れないようにした。
「……ごめんね」
ふと、遥のやや掠れた声が落とされた。
自分のせいでこんなことに、なんて思っているのかもしれない。
「遥のせいじゃないよ……ひとつも」
ぎゅっと胸の前で拳を握る。
みんなが勝手に勘違いして、遥を悪者にして、虐げただけ。今も、昔も。遥は悪くない。
「と、とりあえず、肩の力、抜いて」
気付いてたんだ、と少し驚く。
「……大丈夫なの?」
「うん。少し触れたり、当たっちゃうくらいなら」
気を遣いすぎて遥を困らせてしまっていたのかな、と反省する。遥は私の小さな動きをよく見ている。遥じゃなかったら、たぶん気付かれなかった。
言われた通り肩の力を抜く。けれどお互い細いから、電車が大きく揺れなければ触れ合うことはなさそうだった。
「……全部、僕のせいなんだよ」
視線を落とし、澄んでいた茶色い瞳を曇らせながら、遥が呟く。
「え……?」
「僕が前の学校で、暴力振るったっていう噂、知ってる?」
「……うん」
「あれ……本当のことなんだよ」
驚きで声さえも出なかった。遥が人の体を傷つけるなんてことが、本当に?信じられない。
「……なにか、事情があったんだよね?」
尋ねると、遥は硬い表情を保ったまま、ゆっくりと口を開いた。
「前の高校で、それなりに仲良くなれてたクラスの子が、触ろうとしてきたときに、思わず手を出しちゃって……。それは当たらなかったけど、かわそうとしたその子が、勢いで後に倒れて、怪我しちゃったんだ。周りから見たら、僕が殴ったように見えても、おかしくない。それに、その子はただ、親愛の印みたいなものだったんだと思う。それで、そのことで、停学になったから、転校してきたんだ」
そういうことだったのか。一年生の年度途中でどうして転校してきたんだろう、と疑問思っていたけれどずっと訊けていなかった。たぶん遥も、今だから話してくれたのだろう。
「でも、それだって遥のせいじゃないでしょ?」
確かに相手の子は怪我をしたけれど、遥が拒絶したのは触られることへのトラウマのせいだ。
「ううん、僕が、触りられることを嫌じゃなければ……。そうじゃなくても、先に話しておけば、そんなことにはならなかったはずだよ」
違う、いちばん悪いのはそのトラウマを植え付けた人だと思う。だけどそんなことを言っても、遥を救えそうにはなかった。誰が悪いか、なんてこの際関係ない。だから、別の言葉を選ぶ。
「遥」
同情が遥の心に染みるなんて思えないけれど。
「……つらかったよね。私に伝わってくるつらさよりも、遥はもっと痛いんだよね」
直接的に体験していない私でさえ遥の気持ちを思うと泣きそうになるくらい胸が苦しいのに、本人の心はどれほどの痛みと重みを抱えているんだろう。
遥は唇を固く閉じて、悲痛な表情でうなずいた。
遥の苦しそうな表情を見るのは、これで何度目だろう。
そこから目を離して、漆黒に染まる外の景色を見る。
「これからどうしよう……」
ぽつりと、遥にすら聞こえるかわからない声量で弱々しく声が漏れた。
自分で誘っておいて、どうするかを全く決めていなかった。
「雪乃ちゃんは、どこか、行きたいところ、あるの?」
私の呟きを拾ってくれたのかくれていないのか、遥が遠慮がちに尋ねる。
「私は……遠ければ、どこでもいいよ。遥は?」
「僕も、一緒」
どこか遠いところ。私はそこで、全てを投げ出してしまいたい。遥と一緒ならどこへでも行ける気がする。
「じゃあ、思いっ切り遠く行っちゃおうか」
精一杯の笑顔を向けると、遥は困惑したような表情をしたけれど、すぐに「うん」と答えた。
夜の電車を乗り継ぎ、到着したのは聞いたこともない小さな駅。もう終電がなくなったから、帰ることはできない。駅舎が開放されていたから、ここで休むことにした。
木製のベンチに並んで座って、ぼうっと駅舎内を眺める。
「……遥。本当に大丈夫だったの?逃げてきて……。私が、勝手に連れ出しちゃったけど……」
今更なにを言ってるんだろうと思いながら、不安になって尋ねる。遥の表情はまだ覇気がなかった。
「大丈夫、だよ。僕も逃げたいって思ってたから……」
「そっか……」
良かった、と思っていいのかわからないけど、ホッとした。私の衝動的な行動で遥を困らせたくない。今も、少し冷静になったけれど、鼓動が少しだけ早い気がする。
疲れ果てていた私と遥は、そのまますぐに眠りに落ちた。
翌朝、始発電車の入線する音で目が覚めた。遥も同時に起きたようだった。
「おはよう、遥」
「……おはよう」
五時間くらいしか寝ていないから、疲れがあまり取れていない。もしかしたらみんなにとっては普通の時間なのかもしれないけれど、私は疲れやすいせいでいつも寝足りない。
「今日は、どうしようか……」
何の計画もなくここまで来たから、今どんなところにいるのかすらよくわかっていない。
寝起きの頭を悩ませていると、遥が視線を落として口を開いた。
「……雪乃ちゃん」
その神妙な面持ちに、思わず息を呑む。よくない話だということはそれだけでわかった。
「……どうしたの?」
「まだ、話さなきゃいけないことがあって……」
「……うん」
遥を緊張させないように、なるべく穏やかさを意識してうなずいた。けれど私の不安は遥に伝わってしまっていたと思う。
「……僕、四日後から、入院することになってるんだ」
「え……」
思いもよらぬ言葉に私は動揺を隠せない。
「僕、体が、弱くて。中性だから、体がうまく機能しないのかな……。最近はどんどん弱ってきてて……だから、入院しないと、いけないんだって」
体が弱い。それを聞いて、急に不安が膨らんだ。私が遥の体に悪影響を与えているかもしれない。
「それなのに、こんなことして、本当に良かったの……?」
「うん。入院する日になるまでは、一緒にいれるよ。でも、それ以上は……。ごめんね」
「謝らないで……。もしかして、ペンダント探しも、けっこうきつかった……?」
学校を歩き回っているとき、遥が息を切らしていたのを思い出した。私は、今の遥のこともよく知らないで。
「ううん、あれくらいなら、大丈夫」
遥はたぶん私に気負わせないために、そう言ってくれているのだろう。遥に無理をさせたくない。けれど、遥がその日までは一緒にいれると言ってくれたことが嬉しい。
でも、逆に言えば、その日までしか一緒にいれないんだ。入院となれば、学校に行ったとしても会えない。
「……じゃあ、それまでに思いっ切り楽しんじゃおうよ」
私は遥ににっこりと笑いかけた。心の中の苦しさを必死に押し留めて。
ようやく、旅の方向性が決まった。スマホを取り出して電源を入れると、その眩しさに一瞬目眩がした。それに耐えて、地図を開く。現在位置と、この辺りの観光地を確かめた。
遥と相談してホテルを予約し、今日はいろいろと寄り道をしながらそこに向かうことにした。
人が多くいるところは避け、広い公園、清流の川、花畑など、自然に恵まれた場所を巡った。かなり歩くことにはなったけれど、遥の体調が崩れることはなく、穏やかに一日が過ぎた。遥も、少しだけど、やわらかな表情をまた見せてくれるようになった。
予約したホテルに着いたのは、夜の八時過ぎ。ちょうど逃げ始めてから一日が経った頃だった。
思っていたより広く、落ち着いた部屋。二人ともそれぞれのベットの上に座って、ふぅ、と息をついた。
なんでだろう。ちょっぴり、ドキドキしている。しかも、今まで感じていたような嫌な動きじゃない。
「……そういえば、二人だけで出かけるのは、初めてだね」
これまで遥の家族と私の家族でどこかに行ったことはあるけれど、遥と私二人だけで出かけたことは一度もなかった。だけど、本当は。
「そうだね……。ほんとは、ずっと、こういうこと、したかった」
私が考えていたこととまるっきり同じことを言われ、ますますドキドキが高まる。けれど、やるせない気持ちにもなる。
……遥が転校してしまう前に、もっと踏み込めていれば、遥のことを助けられたのかな。
「遥……いつも、助けられなくて、ごめんね」
謝って済むことじゃない。遥の受けた傷はそんなことでは治らないくらい、深く、鋭い。だけど、謝らないわけにはいかなかった。
「雪乃ちゃんは、悪くない」
遥はいつもと同じような言葉を繰り返す。私は、悪くない、と。ううん、違う、違うよ。
「でも……!ずっと、ひとりで、苦しんでたんだよね。今も……」
遥の苦しみは、単に過去のことじゃない。
私があと一歩踏み出せていれば、こんなことにはならなかったはずだから。
遥の苦しみにとっくに気付いていたのに、私は今まで怖くて聞けなかった。聞くなら、今しかない。
「遥の、本当の気持ち、教えて」
真っすぐに見つめると、遥の瞳が大きく揺れた。そして遥が意を決したように大きく息を吸う。
「……苦しい」
それはまるで、ずっと囚われていた人が解放されたようだった。
「僕は、周りの人と違って、特殊な体で、おかしい存在なんだよ。そうやって特別扱いされて、排除されるのなんて、当たり前で……。でも、どうして、みんなと違ったらいけないの?なんで、中性だってことを、隠さなきゃいけないの?」
初めて聞いた、遥の心からの叫び。悲痛に歪む遥の顔から目が離せない。「みんなと違う」ことの苦しみは、私も何度も味わったことがある。
「こんな思い、するくらいなら、いない方がいいって、何度も、消えたいって思った」
消えたい。たった四文字が、重く、重く、私の心に楔を打つ。遥がそう思ってしまうことを、否定できるわけがない。
「本当は、家族と、雪乃ちゃんと一緒に、幸せに生きていたいだけなのに……」
遥の頰を、涙が一筋伝った。遥の本音は、聞いているだけでも泣きそうなほどつらくて、でも、遥が望む人生に私を入れてくれたことが、嬉しい。
本音を話してくれた遥のために、私ができることは。
光を反射して輝く遥の茶色い瞳を見つめ直す。「遥」と、大事にその名前を呼ぶ。
「なにがあっても、私はずっと遥の味方だよ。遥が中性だからとかじゃなくて、私が、遥の隣にいたい」
私の気持ちは、ちゃんと伝わっている?遥の目を見続けながら、「それにね」さらに言葉を続ける。
「遥は、中性だから、どっちにもなれないって、言ってたけど……どっちでもないからこそ、遥だけの生き方ができるんじゃないかな」
なにもこれは、遥にだけ言えることじゃない。性別に縛られた経験は、誰にでもあると思う。願わくは、性別による偏見や固定観念がなくなってほしい。
本当はもっといろいろな言葉をかけてあげたい。でも、これ以上は今は無理そうだった。
「……ありがとう。やっぱり、雪乃ちゃんは、僕の……」
震える声で紡がれた遥の言葉は、最後まで言い切られなかった。気になるけれど、聞き返さないことにする。
目を擦る遥に触れるわけにもいかなくて、私は見ていることしかできない。私にできることと言ったって、結局はこうして言葉で慰めて、隣にいることくらいだ。もっと遥のためにできることがあるはずなのに。
触れられることは、遥にとっては怖いこと。だから、私からは触れらない。
だけど、二人の間の距離が、とても、もどかしかった。
次の日もホテル付近を観光することにした。昨日とは違って、街の方にも出てみる。
昨日一日過ごしてみて、この記憶を残しておかないのはもったいないなと思った。
だから、お昼のとき、頰を緩めてお団子を食べている遥にこっそりスマホを向けた。
ガシャ、とシャッター音が響く。そのせいで遥がこちらを振り向いた。
「えっ。と、撮った……?」
「うん」
「は、恥ずかしいよ……」
顔を赤くする遥が可愛らしい。その姿も撮りたくなったけれど、さすがにやめておく。
「でも、この瞬間を残しておきたいから……。だめかな?」
「……ん、いいよ」
遥は恥ずかしがりながらも許してくれた。だけどその後、遥も仕返しに私の写真を撮ってきた。恥ずかしいけど、遥の記憶に私が残るならいいかなとも思えた。
――楽しい。そう素直に思った。この時間が、永遠に続けばいいのに。でも、その願いは、叶わない。
ホテルに戻ってきて、遥とお喋りをする。昨日よりも遥の表情は明るくなった。
「今日も楽しかったね」
「うん。楽しかった……」
遥は自分の胸に軽く手を当てて、噛み締めるように呟いた。
こうして、いつまでも遥といれたら。そうすれば、私はあんな苦しい場所にいなくて済むのに――。
無意識に、手元のシーツをぎゅっと握っていた。
「……雪乃ちゃん」
そんな私の様子に気付いたのか、遥が心配そうに私を見る。
「訊いても、いい?」
「……うん」
もしかしたら、遥はもう私の気持ちに。遥には、絶対に気付かれたくなかったのに。心配をかけたくない。
「……なんで、雪乃ちゃんは、逃げてるの……?」
それは、当然の疑問だと思う。遥に逃げることを提案したのは他でもない私。他の人だったら、それ以外の方法も思いついたのだろうけど、私には、逃げることしか考えつかなかった。
「……前から、思ってたけど……雪乃ちゃんも、つらい思い、してるんだよね」
「……!」
心のどこかで、遥がいつか、こうして私の痛みに気付いてくれることを、望んでいた。そのことに気付かされる。違う、気付いたんじゃなくて、観念して受け入れた。
「昨日、雪乃ちゃんが、そうしてくれたみたいに、僕も、雪乃ちゃんの気持ち、知りたい」
それでも私は、弱々しく首を振る。
「……話しても、遥がつらくなるだけだよ――」
「でも!雪乃ちゃんがひとりで苦しんでるところ、見たくない!隠さないで」
突然遥が高く声が上げ、訴えるような目で私を見た。
なんで。なんで、自分のときより、つらそうにしてるの?
私の頰を温かいものが流れた。
本当は、ずっと遥に、聞いてほしかった。
「うん……。遥の、言う通りだよ」
思えば遥はいつも、私の心に寄り添おうとしてくれていた。
「小学生のときに、言ってくれたよね。雪乃ちゃんは、せんさいなんだと思うって」
ことあるごとに驚いたり怯えたりしていた私が、自分のことを「びびり」だと口にしたとき。繊細、という言葉を教えてくれたのは、遥だ。
「その言葉が、本当にぴったりだなって思うよ。みんなにとって小さなことでも、私にとっては大きなことなんだよ」
「うん……」
「……だから、そのせいで、ちょっとしたこともストレスになって、溜まっていって」
自分のその繊細さを、何度も憎んだ。どうしてこんなに弱いんだろう。なんで私だけみんなと違うんだろう。そんなふうに。
でも、変えられないものは、変えられない。その事実に、打ちひしがれた。
そんな私の今の気持ちを表すのに、一番合っている言葉は――。唇が震え、喉の奥に物が詰まったように苦しくなる。
「生きてるだけでつらい……!」
一息で言い切った。すると途端に、視界がぼやけて遥の顔もよく見えなくなった。でも、まだ、話したい。
今の一言で、ようやく自分の心の声に気付けたから。
「みんなが、〝当たり前〟のようにやってることを、こなすのにも、みんなの何倍も時間がかかって、何倍も疲れちゃう。なんでみんなは平気なのって、不思議だった」
小学生のときは、特にそれが露骨に表れていた。勉強だってみんなよりも遅くて、人間関係でも、円滑なコミュニケーションなんて取れるはずもなかった。
それが、悔しいというより、ショックだった。
「この感覚は普通じゃないんだって気付いたとき、寂しくて、つらくて」
なんでみんなは平気なの、という疑問に対して出た答えは、私が変なんだ、ということだった。納得したけど、突然、自分が世界から隔離されているような感覚に陥ったのを覚えている。
「誰にも理解されてもらえないんだって、ずっとひとりで塞ぎ込んでた」
誰かに理解してほしかった。そして私は、その期待を、密かに遥に向けていた。たぶん、ずっと前から。
遥は昨日、家族や私と幸せに生きたいと、言ってくれた。
「私も、本当は、遥と一緒に幸せに……楽に生きたい」
思いつく限りの私の気持ちを全て吐露して、心がすっと軽くなった。ようやく、言えた。言ってしまった。
震えていた私の手に、そっと熱が添えられた。――遥の手だ。
「雪乃ちゃん」
遥の声が、私の心を優しく撫でるように、包み込むように響く。
「雪乃ちゃんの繊細さは、雪乃ちゃんの、宝だと思う。その宝に、僕も、何度も救われてきたんだよ」
「……っ。私、遥のこと、救えてなんか……!」
「救われてるよ。本人が、言うんだから、間違いないよ」
遥との距離が縮まるのを感じた。遥から、寄ってくれるなんて。
「雪乃ちゃん。生きてるだけで、えらいよ」
囁くように、私のそばで、優しい声が聞こえた。
それで私の涙腺は完全に崩壊してしまった。泣き虫な私といえど、こんなに涙が出るなんて長いことなかった。
「なん、で、かな……。遥の前だと、涙脆く、なっちゃう」
「ご、ごめん」
「ううん、むしろ、ありがとう……」
遥の前だから、思い切り泣ける。遥の隣にいると気が緩んでしまうからだろうか。
そして遥は私が泣いているときはいつも、泣き終わるまで静かに隣にいてくれる。今もそうだ。
「泣きたいだけ、泣いていいよ」
鋭さの一切ない遥の優しい声が耳にすっと入ってくる。
「僕は、ずっと、雪乃ちゃんの、味方だから。……一緒に、幸せになろう?」
「え……」
顔を上げると、遥が恥ずかしそうに頰を赤くしていた。でも俯かずに微笑んで、私を見てくれる。
手元と、触れていないけれど目や声から感じる遥の熱。心地よくて、甘えてしまいそうだった。
いつまでもこの熱を感じていたい。せめて、今だけは、ひとりじめさせて。
◇
翌朝、窓から差し込む眩しい光で目が覚めた。
「おはよう、雪乃ちゃん」
寝起きの私の耳に飛び込んできたのは、ふんわりとした穏やかな声。もう起きてたんだ。
「おはよう、遥」
体を起こすと、どこか楽しそうな表情の遥と目が合う。こんな表情、転校する少し前から、ずっと見れていなかった。
「雪乃ちゃん、動物、好き?」
「えっ、う、うん」
「じゃあ、近くに動物園があるから、今日はそこ、行ってみようよ」
もしかして、今日の予定を立てるために早起きしてくたのか。
「うん!行く!」
嬉しくて、思わず勢いよくうなずいた。きっと私の表情はぱあっと明るくなっていると思う。なんだか恥ずかしい。自分でも、喜ぶとこんなふうになるんだな、なんて思った。
今日は動物園に行って、その後別のホテルに向かうことになった。
私は人間よりも小動物の方が好きだ。動物園には、ペンギン、ハムスター、ミーアキャット、レッサーパンダなど、可愛い動物がたくさんいた。見ているだけで癒される。隣の遥は時折動物を優しい表情で見ていた。それをこっそり盗み見てまた癒される。
この子たちはどんな気持ちでどんな生活を送ってきたんだろう、と動物に思いを馳せてみたりもした。それを遥にも話して、二人していろんな想像を働かせた。たぶん遥じゃなかったら、真剣に聞いてくれなかっただろう。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、夜になってしまった。明日には帰らなければならない。この逃避行でかなり遠くまで来てしまったから、明日はほぼずっと電車に乗ることになると思う。
遥との時間が、あと少しで終わってしまう。
ホテルに着いて、部屋に入った。そこで私は自分の大変なミスに気付いた。
「え……」
部屋を見て驚いた私の横で、遥も同じことに気付く。
「ベットが、ひとつ……?」
念の為部屋番号とかを確認してみても、やっぱりそっちは合っていた。つまり、私が予約し間違えたのだ。
「ご、ごめんね、遥」
「ううん、しょうがないよ……」
「どうする……?」
上目遣いで遥を見る。どうするもなにも、たいして広くもない部屋だから、方法はひとつしかないわけだけど。
「……二人で、使う……?」
「わ、私は、それでいいけど……。遥は?」
「うん……。そうするしか、ないよね」
どちらかが床で寝るとかにしても、狭いし、譲り合いが発生することは目に見える。今まで以上に変に意識してしまう。
荷物の整理やお風呂などを済ませたあと、着替えてベッドの上に並んで座った。
どうしてだろう。遥の隣にいると、少し鼓動が逸る。だけど居心地が良くて、安心できる。中学生のときくらいから、もしかして、と何度も思ったことはあるけれど――。
そっか、これが、恋なんだ。
私は、ずっと前から、性別なんて関係なしに、遥のことが好きだったんだ。
そう自覚してしまったら、なおさら意識してしまう。それだけでなく、この時間が、愛おしく、なってしまう。
「帰りたくないよ……」
そんな呟きが零れてしまった。遥にもはっきりと届いたはずだ。すると、遥が体を私の方に向けた。
「雪乃ちゃん。……手、出して」
「手……?」
「うん。掌、上にして」
遥と向かい合い、言われた通りにすると、遥が私の手を握った。昨日重ねてくれたのと違ってしっかりと、強く。
どくんと、心臓が大きく跳ねた。
「……安心、する?」
「うん。すごく、安心する」
「良かった」
「……大丈夫なの?触れて……」
「雪乃ちゃんなら、大丈夫」
人と触れることがトラウマなはずの遥が、今は私にだけは自分から触れてくれている。
ずっと遥とこうしていたい。いつまでも遥と一緒にいたい。離れたくないよ。
強い思いに駆られた私は、体を遥の方に傾けた。
「あ……」
けれどバランスを崩して、遥がベッドに倒れ込んでしまう。
ベッドに体を預け、頬を赤くし溶けそうな目を私に向ける遥。そんな遥を上から覆うように見つめる私。
吐息がかかるほどの至近距離で、熱に包まれる。
――この体勢、やばい。
「ゆ、雪乃ちゃん……」
「ご、ごめんっ」
慌ててばっと体を起こす。遥もゆっくりと起き上がった。心臓が壊れそうなほどばくばくと音を立てる。呼吸が荒く、顔が燃えるように熱い。
私はなにをやっているんだろう。
だけど、いつかは遥とその先まで。そんなことまで、考えてしまっていた。
「……そ、そろそろ、寝る?」
少し震えた遥の声で我に返る。
「そ、そうだね……」
おそるおそる、二人で一つの布団に入る。まさかこんなことになるなんて思っていなかった。心臓が持たない。
遥と一緒にいられる。それだけで幸せなはずのに、もっとを求めてしまう私がいる。
「……遥」
近すぎる距離にある遥の顔を見る。
「遥が、無事、退院できたら……。私の気持ち、聞いてくれる?」
「……うん。なんでも、聞くよ」
「ありがとう……」
なんで、今の私はこんなことを言ってしまうんだろう。
これはきっと、全部、夜の熱のせいだ――。
◇
遥との逃亡劇の、最後の日。
朝食を食べてすぐホテルを出て、最寄り駅に向かった。そこからはひたすら電車で元の場所へと戻っていく。
最初は旅の思い出などを話すなど遥と談笑していたけれど、降りる駅が近付くにつれて私の心は暗くなっていった。
夕日が車内に差し込んでいる。それがまた私の寂しさを膨らませる。
「明日からも、生きられるかな」
ぽつりと弱音を零してしまう。私が弱気じゃ、遥に心配をかけてしまうだけなのに。
「雪乃ちゃんなら、大丈夫」
それでも遥は、私に寄り添ってくれる。
「そうなのかな……」
「そう、だよ。今までも、一人でも生きてこられたんだから。……一緒に、いれなくて、ごめん」
「ううん。ときどき、会いに行ってもいい?」
「うん。毎日、来てほしいくらいだよ。そしたら、寂しくないから」
私の方が、毎日会いに行きたいくらいだ。遥が転校してからも生きられたのは、遥がくれたペンダントと、遥がくれた言葉のおかげだ。それに、いつかまたどこかで会えるまでは死にたくなかった。
私は、遥がいるから、生きていけるんだよ。
「遥。……甘えて、いい?」
「……!うん、もちろん……」
旅行による疲れもあって、私は隣に座る遥に身を寄せた。肩や腕をわざとくっつける。
寝たくはない。遥との時間を少しでも多く味わっていたいから。
「……遥も、生きてね」
私も、頑張って生きる。
「うん。絶対、生きる」
消えたいと言っていた遥。その遥の口から「生きる」という強い言葉を聞けた。やっぱり、遥は強い。
遥なら、生きてくれる。そしたらまた、こうやって二人でどこかに出かけたい。今度は、逃げるためじゃなくて、前に進むために。
それを叶えるために、私も、現実に向き合わないといけない。



