――教室の空気が、なんだかいつもと違う。
 遥が転校してきてから、早くも一週間。朝、登校してきた私は、教室に入るなり、そんなことを感じた。
 過去にもどこかで感じたことがある、嫌な雰囲気。頭の隅がキリキリと疼く。
 それでもいつも通りに遥のところへ行き、声をかける。
「……おはよう、遥」
 すると、遥は大きく肩を跳ねさせ、瞳を震わせて私を見た。
「お、おはよう……」
 びっくりしているんじゃない。怯えてる。
 ああ、やっぱり、そういうことなんだ。遥の反応で確信してしまった。
 このどろどろとした雰囲気の中心にいるのは、遥だ。
 クラス中から浴びせかけられる視線。どこからか聞こえるヒソヒソと話す声。
 いたたまれなくなって、遥の側を離れ、自分の席に着いた。
 でも、どうして。なにがあったんだろう。昨日も遥は主に私と一緒にいたけれど、特に変わった様子はなかった。なにかあったとすれば、昨日の夜から今日の朝にかけて。
 頭の奥の振り返りたくない記憶が、存在を誇示するように大きく脳を打つ。
 本当は、今だって遥から離れるべきじゃなかった。もう過去のような後悔はしたくない。遥に傷ついてほしくない。
 今度こそ、私が、遥を、助ける。

 遥は、明らかに避けられていた。
 クラスメイトは、用事がないから遥に声をかけないんじゃない。声をかけたくなくて、そうしている。今日一日クラスの様子を見ていて、過去の傷がどんどん浮き上がってきた。
 ――そうなる前に、なんとかしなきゃ。
 放課後、まだクラスメイトがいる中、なけなしの勇気を振り絞って遥に近付いた。
「……遥」
 声をかけると、遥はまたびくっと体を震わせた。きっと遥も、過去のことを思い出している。
「美術室、来てくれる……?」
 周りに聞こえないくらいの小さな声量でそう誘う。やや間を置いてから、遥は声を出さずにうなずいてくれた。
 二人で美術室へ行き、向かい合って座る。
 けれど、連れてきたはいいけど、なにからどう尋ねるのか、全く考えていなかった。せっかく遥が来てくれたんだから、なにか言わないと……。
 言葉に迷っていると、遥が先に口を開いた。
「雪乃ちゃん……。僕なんかと、関わらない方が、いいよ」
 なんでそんなこと言うの――?
 私の心が悲痛な叫びを上げる。
「……どうして?」
 そんな心を抑えて、静かに尋ねた。遥は目を伏せ、膝の上で拳を握る。その手が震えている。
「……僕と、一緒にいると、雪乃ちゃんまで、傷ついちゃうから」
 私〝まで〟傷ついてしまう。それは、遥は既に傷ついているということで。
 違うよ、遥。私のこと、わかってない。
 私がいちばん傷つくことは、遥が傷つくことなんだよ。私は、遥が傷つくということが、いちばんつらい。
 だから、遥の傷を、教えて。
「……なにが、あったの?」
 苦しいことがあったなら話してほしくて、そう尋ねても。
「知らない方が、いいと思う」
 遥は頑なに話そうとしてくれない。どうしたら遥は心を開いてくれるんだろう。
 遥と私の心の距離は、そんなに大きかったの……?
 力のない私に、なにができるんだろう。
 悩んだ末に、私は遥に向かって無理矢理笑顔を作り、
「……じゃあ、今日も、一緒に、ペンダント、探してくれる?」
 それが、私にできる精一杯のことだった。私には、遥と一緒にいることくらいしか、できない。
「……う、うん」
 遥は、おそらく私の気遣いがわかって、ためらいつつも小さくうなずいた。
 そして私たちは、いつものように、ペンダントを探すために学校中を歩き回った。
 でも、その間、遥の表情が晴れることはなく、なにがあったのかも聞き出すことはできなかった。

 翌日、遥は学校に来なかった。先生によると体調不良とのことだったけれど、本当かどうかはわからない。
 もしかして、私のせい……?
 昨日も朝から様子がおかしかったけれど、放課後に私と過ごした時間が決定的なことになってしまった可能性だってある。
 不安な気持ちで一日を過ごし、放課後、ひとりで美術室へ向かった。落ち着いていろいろと考えられそうなところはそこしかなかった。
 扉を開けると、中には三谷さんだけがいて、私に気付くなり立ち上がった。
 美術室で三谷さんと会って、こんにちは、というやり取りがないのは初めてだったから、なんだろうと思わず身構える。
霜月(しもつき)さん」
「は、はい」
 三谷さんの目はやや苦しげで、声もいつもより不安定だった。
「遥くん(・・)の件、知ってる?」
「は、遥の、こと……?」
 遥が休んだ理由、つらそうにしていた理由のことだろうか。私は知らない。
 困惑する私を見て、三谷さんはためらいがちに続ける。
「遥くんが女子更衣室に入ったって、噂になってて……」
 それは違う、と私には断言できる。遥が自ら更衣室に入ることは、ないはずだから。
「……どうして、そんな噂が」
「更衣室に、茶色い髪の毛が落ちてたらしくて、それが遥くんのじゃないかって、言われてる。見た人もいるみたい」
 それを聞いて、ようやく気付く。あのとき――二人でペンダントを探して、女子更衣室に寄ったときだ。でも、あとのき、遥は立ち入っていない。
 その茶色い髪の毛は。
「でも、もしかして、これって……」
 三谷さんも、気付いているようだった。
「……たぶん、私の、です」
「やっぱり……」
 私のせいだ――。
 遥をペンダント探しに巻き込まなければ、こんなことにはならなかった。
 また、私は。
 今すぐ遥に謝りたい。でも、体調不良なのが本当だとしたら、行っても迷惑になるはずだ。それでも、もう後悔したくない。遥を助けたい。
「どうしよう……」
 そんな弱気な言葉が私の口から零れた。
 それを拾ってくれたのは、三谷さんだった。
「霜月さんは、遥くんのこと、どうしたいの?」
 どうしたい?そんなの、決まってる。
「助けたいです」
 三谷さんが真っすぐに尋ねてくれたから、私も正直答えられた。
「だったら、やることは決まってるよね。余計なこと考えないで、今すぐ行くべきだよ」
 余計なこと、と言われてじくっと痛みを感じた。でも、三谷さんが言っていることは正しい。
 私が、行かなきゃ。
「はい……!ありがとうございます」
 私は踵を返して美術室を去ろうとしたけれど、一度三谷さんの方に向き直った。
「あの、できれば、遥くんって、呼ばないであげてください……!」
 私が言っていいことではないのかもしれないけれど。
 三谷さんは一瞬驚いたような顔をしてから、微笑んでうなずいた。

 この前、ちょうど一昨日あたりだったと思うけど、遥から家の場所を教えてもらったとき、やっぱり前――中学生のときに遥が引っ越した場所と、同じところだった。
 つまり、高校生での遥の転校は、家族で引っ越したわけじゃなかった。引っ越してなにのに、転校したんだ。
 その事実もまた、私の不安を大きくする。
 「雪乃ちゃんは考えすぎだよ」って、昔から何度も、いろんな人に言われてきた。でも、考えすぎであることを自分で願ったのは、今が初めてだった。
 落ち着かない気持ちで長時間電車に揺られ、遥の家に着く頃には太陽は真横になっていた。
 インターホンを押すと、玄関から落ち着いた雰囲気の女性が顔を出した。遥のお母さんだ。
「あ、雪乃ちゃん!久しぶりね」
「お久しぶりです。あの、遥は……」
「お見舞いに来てくれたの?どうぞ、入って」
「おじゃまします……」
 遥のお母さんに案内されて、遥の部屋に入れてもらった。遥は上半身を起こして窓際のベッドにいた。
 私を見ると学校でのそれ以上に光のない茶色い瞳を見開き、え、と掠れた声を上げた。一方で私は、遥の姿を見ただけで、安心した。体調不良なのに安心するなんて変だけれど。
 ゆっくりしてね、と言い残して遥のお母さんは部屋を出た。二人きりになる。
「……寝てなくて、大丈夫?」
「うん。朝は、熱あったけど、もう、引いてきたから」
 決して楽ではないはずなのに、遥は戸惑いつつも穏やかな口調で答える。
 遥の部屋はかわいいながらもキラキラはしていなくて、刺激の弱くやわらかい匂いで満たされていた。
 そんな雰囲気を壊すようになってしまうけれど、私は遥に言わないといけないことがある。
「……遥。あの噂のこと、聞いたよ。ごめんね、私のせいで……」
「雪乃ちゃんの、せいじゃ、ないよ」
 私が謝ると、いつも遥はそう言ってくれる。雪乃ちゃんのせいじゃない、雪乃ちゃんは悪くないって。でも、じゃあ、自分のせいだと思っているのだろうか。
 胸が締め付けられるように苦しい。遥が、つらそうな顔をしているから。
「……おかしいよ」
 気がつけば、そんな言葉を漏らしていた。
 遥に向けて、ではなく。
「なんでみんな、遥のことを苦しめるの……?」
 ここで吐いても仕方のないことだけれど、言わずにはいられなかった。
 小学校のときから、ずっと感じていた。自分たちが作った枠の中に収まらない人を邪魔者扱いして、自分の強さを示そうとする。その理不尽を。
 性別なんていうものは、その最たる例だ。
 遥だって、ううん、遥こそ、いつも感じていたと思う。
「……遥は、〝中性〟だから、どっちにもなれるのに……」
 だから、たとえ女子更衣室に入っていたとしても、遥が責められる筋合いはない。
 でも、遥は目を伏せて首を横に振った。
「……違うよ」
 それは、諦めたような表情にも見えた。
「僕は、どっちにもなれるんじゃなくて、どっちにもなれない、曖昧な存在なんだよ」
 自分の境遇を受け入れる、そんな姿勢の遥を見て、私はまた後悔した。
 私はまた、遥を傷つけてしまったんだ。
 助けたいって言ったくせに、逆のことをしている。どうすれば遥の心を救えるんだろう。私なんかじゃ……。
 なにも言えずにいると、遥が「ぅ……」と小さく呻いて額を抑えた。
「遥……!」
 遥のこめかみを汗が伝う。熱が上がってきたのかもしれない。そう思って、遥の額に手を当てようとして――。
「待って!」
 遥が聞いたことのない鋭い声を上げたから、私は反射的にびくっと肩を震わせ、手を引っ込めた。
「――っ、ごめん……!」
 私の反応を見て、呼吸を乱しながら謝ってくる。遥がこんな声を上げたのは初めてだった。
「は、遥……」
 落ち着かせるために背中をさすったりしてあげたいけれど、拒絶されてしまったからできない。遥のためになにもしてあげられないことが、もどかしいし、情けない。
「……ごめん……。人に、体を、触られるのが、どうしても嫌で……」
 それは、遥の過去を考えれば当たり前のことだった。そして、遥の過去をいちばん知っているはずの私が、それに気付けなかった。
「……さ、最初に、言っておく、べきだったよね……」
「……っ!いいよ、無理に喋らないで……」
「ご、ごめん……」
 私は何度謝られるんだろう。むしろ謝らなきゃいけないのは私の方なのに。
「ごめん、遥、ごめんね……」
 遥のことを支えたいのに、なにもできなくて。それどころか、遥のことを傷つけてばっかりで。
 そのまま次第に遥は落ち着いていき、いつしか安らかな寝息を立て始めた。

「あら、もう帰るの?」
 そっと部屋を出たところで、遥のお母さんに声をかけられる。
「あ、はい。すみません、役に立てなくて……」
「ううん、遥からすれば、雪乃ちゃんが来てくれるだけで嬉しいだろうから。また遊んであげて」
「……はい。お邪魔しました」
 静かに遥の家を出て、駅に向かう。
 私が来てくれると、遥は嬉しい。本当に、そうなのかな。むしろ、救われているのは私の方だ。
 幼い頃から、ずっと。
 小学生のときも、中学生のときも、自分はたくさん遥に助けられていたのに、私は遥を助けられなかった。
 もう遥に、つらい思いをしてほしくない。

 集団生活が始まった最初のとき、保育園のときから、私はずっと人間関係が苦手だった。たぶん生まれつきなのだと思う。
 当時、ことあるごとに泣いていた私は、周りの子どもたちから嫌われて、早々とひとりぼっちになった。
 そんなときに、唯一仲良くしてくれたのが、遥だった。お母さん同士が同じ高校、クラスメイトだったから、私たちも元々知り合いだったというのもある。でも、いちばんは、私と遥の気が合ったからだと思う。たとえば遥が元気いっぱいの子どもだったら、幼馴染でも仲良くなれなかったと思う。
 遥は、他の子みたいにきついことを言うことはなく、いつも私のそばにいてくれた。二人とも口数は少なかったけれど、気まずいとは思わなかった。
 小学生になり、私は少しずつ自分と周りとの違い、差を理解し始めた。もしかしたら、遥もそうだったのかもしれない。
 低学年のときは、私はまだいろんな場面で泣いていた。失敗したとき、恥ずかしいとき、怖いとき……。「なんでみんなはへいきなの?」と、ずっと思っていた。でも、だんだんと、おかしいのは私の方だと気付き始めた。
 保育園の頃に遥とばかりいたから、私は友達の作り方を知らなかった。でも、遥がいてくれたから、それでよかった。それが当たり前じゃないことだなんて気付かずに。
『遥くんって、呼ばないでほしい』
 四年生のとき、遥からそう頼まれた。そのとき私は、遥が抱える悩みと生きづらさをなにも知らなかった。
『男の子でいるの、やなの?』
 わからないなりにそう尋ねると、遥は大きくうなずいた。遥くんって本当は女の子なのかな。そんなことを思った。呼び捨ては慣れなかったけれど、頑張ってだんだんとできるようになった。
 同じ頃から、遥は体育の授業を見学するようになった。
『遥って、からだが悪いの?』
『ううん。そういうわけじゃ、なくて』
『じゃあ、どうして?』
『……みんなのからだ見るの、嫌で』
 わからないでもなかったけれど、一緒に着替えたくないほどなのかと疑問を持った。でも、嫌なら仕方ないと思って、それ以上は尋ねなかった。
 五年生になっても、私と遥はふたりぼっちのままだった。他に友達を持ちたいとも、あまり思わなかった。
『雪乃ちゃんって、びびりだよね』
『こんなんでびっくりするの?弱虫じゃん』
 その年に、クラスメイトから言われたことが未だに頭に残っている。でもそれ以上に、その後の帰り道、遥がくれた言葉の方が、印象的だった。
『私、びびりで弱虫なのかな……』
『雪乃ちゃんは、みんなが気付けないところに、気付ける……〝せんさい〟なんだと思う』
 せんさい。そのとき初めて聞いた四文字が、なぜだか私にぴったりだなあと感じた。
 そうして弱音を吐けるのも、遥の前だけだった。遥も私に、いろんなことを話してくれた。誕生日にペンダントをくれたのも五年生のときだった。でも、実際に小学生の私が知っていたことは、遥のほんの一部だった。
 六年生のときに、事件が起こった。
 遥は体育を見学し続けていて、その日も体育館の端で座ってるのだろうと、私はそっちに目を向けた。そしたら――遥は、いなかった。
 体育館中を見渡して見たけれど、いない。
 先生に報告もせずに、私は慌てて体育館を飛び出した。後から追いかけてきた副担任の先生とともに教室へ戻ると、遥が、膝を抱え、怯えた様子で座り込んでいた。遥は、服を着ていなかった。
『遥……!?ねえ、どうしたの?誰にやられたの?』
 尋ねても、遥はなにも答えない。私はどうしたらいいかわからなくて、震える遥の手をただ握っていた。
 加害者にはその日のうちに指導が入り、形の上では「仲直り」した。だけど、その次の日から、遥は学校に来なくなってしまった。

 小学校卒業まで遥が学校に来ることはないまま、中学生になった。中学校は遥も始めから通えるようになって、ほっとしたのを覚えている。それも、長くは続かなかったのだけど。
 中学生になっても、私の友達は遥だけだった。
 遥は他の子と違い声は高いままで、身長も急に伸びることはなく、体つきも男の子という感じはしなかった。
 その理由ついて遥から打ち上げられたのは、中一の冬。
『僕、中性、なんだって』
『中性……?』
 遥によると、自分の体のことについて両親に相談したところ、遥の成長に違和感を得た両親が、遥を病院に連れていったのだという。そこで検査を受けた結果、お医者さんから「中性とでもいいますか、男の子でも、女の子でもない体です」と告げられたそうだ。中性とはいえ、男の子と女の子がちょうど半々というわけではないとのことだった。
 ――そうだ、そのときに言われてたのに。男の子でも、女の子でもないんだって。
 遥からそれを打ち明けられたとき、私はそれほど驚かなかった。なんとなく、遥って男の子っぽくないけど、女の子でもないよね、と思っていたからかもしれない。
 それに、そのことで私が遥と付き合い方を変える必要性は感じなかった。だから、私は遥と変わらず接し続けた。
 けれど、ある日から、遥を取り巻く状況が一変した。
『……様子が変だよ』
 その日の帰り道、隣の遥を心配して声をかけたけれど、『大丈夫』と言うだけで、なにも話そうとしてくれなかった。だから私は遥にあったことを知れなかった。
 そしてその翌日から、遥に対するいじめが始まった。初めの頃は、「変なやつ」と悪口や陰口を言われたり、無視したり。私もそれを見聞きしたけれど、反論できなかった。
 次第にエスカレートして、他の人や遥本人がいる前で悪口を言われたり、口だけでなく、叩かれたり、蹴られたりすることもあった。遥がいじめっ子のストレスのはけ口にされていた。
 遥は一度も、彼らに対して抵抗することはなかった。私にもなにも教えてくれなかった。
 それで私は、遥に起こったことになんとなく気付いてしまった。誰から聞いたわけではないけれど、おそらく、遥の様子が変わったあの日、トラウマになるようなことがあって、心を壊されてしまったのだ。小学六年生のときのようなものか、そんなことでは済まないことか。
 確かあの日、私が体育の授業から戻ってきたとき、遥は悪魔に襲われたような表情をしていた。
 遥がいじめられていたとき、私にできることは、一緒に登下校をすることくらいだった。だけど、ある日クラスの男子に『あんな化け物と仲良くするのか』と脅されて、それすらもやめてしまった。
 傍観者は共犯者。なら、私も共犯者になった。
 そして、助けることができないまま、二年生に進級するタイミングで、遥は引っ越してしまった。
 残ったのは、死にたくなるほどの罪悪感と、青く光るペンダント。
 中学二年生以降、私の物語は止まっていた。