「転校生を紹介します」
夏の暑さが残る朝、先生のそんな一言で教室の空気がぴたっと止まる。
転校生。どうせ私は関わることなんてないから、関係ない。それよりももっと重大なことが、今の私にはある。
胸元に喪失感を覚えながら、そんなことを思っていた、のに。
先生に入ってきて、と言われ、姿を見せたその人に、教室中が息を呑んだ。
さらさらした、綺麗な茶色い髪。そこから覗く、同じ色の澄んだ瞳。小柄な体を学校指定のベージュのセーターに身を包んだその人は、クラス中の視線を浴び、うつむきがちに入ってきた。
――なんて綺麗な人なんだろう。
みんなの思っていることが透けて見える。そしてみんながもう一つ、考えていることも。
――この人、男の子?それとも、女の子?
でも、私が息を呑んだ理由は、その二つのどちらとも違う。
「な、永野遥です。えっと、よろしくお願いします」
――遥。
高い声でたどたどしく挨拶をしたその人は――私の幼馴染。
みんなから生じた疑問の答えは、クラスで私だけが知っている。
だけど、なんで、このタイミングで。
昨日の体育の時間だった。
制服だったらペンダントを隠せるのだけど、体操服だとそうはいかない。だからいつも、体育の時間だけは外している。
体育館から更衣室戻ってくると、ペンダントが、無くなっていた。
――なんで?確かにここに置いたはずなのに。
必死に周りを探してポケットの中も何度も確認したのに、見つからなかった。
宝物を失くしたせいで、昨日から私の心は落ち着かないままでいる。
そして、その宝物をくれたのが、遥だった。
綺麗な転校生に興味を持ったクラスメイトたちが休み時間ごとに遥に話しかけていた。遥は困惑しながらなんとかみんなの質問に答えているようだった。
やめてあげて。そう言いたかったけど、遥を囲む集団に突入していけるほど、私は強くない。
放課後、ようやく隙ができて、私は帰ろうとしていた遥に近寄った。
三年ぶりだ。
やや緊張しながら、息を吸って、声をかける。
「――遥」
届くか不安だったけど、遥はすぐに振り向き、私を見るなり茶色い瞳を丸くした。
「雪乃ちゃん……!」
私に向けられた高くやわらかい声を聞いて、たくさんの感情が溢れ出そうになった。でも、それをぐっと堪える。
「もし、良かったら、ついてきてくれる……?」
迷惑じゃないかな。
救えなかった私が、遥に話しかけていいのかな。
不安になりながら言葉を押し出すと、遥は、数秒置いて、うなずいてくれた。
良かった、受け入れてくれた。
ほっとして、私は遥を連れて美術室に向かった。
歩きながら、まずなんて言おう、と考える。けれど、考えつかないうちに着いてしまった。
普段は部活で放課後に使っている、美術室。
適当な席に座って、遥と向かい合う。
散々悩んだけど、まず言わないといけないのは、やっぱり。
「遥。……ごめんね」
いきなり謝った私を見て、遥は目を見張った。なんのことなのかも、ちゃんと言わなきゃ。
「遥がくれたペンダント、失くしちゃった……」
小学五年生の私の誕生日、遥がくれた、大切な大切な宝物。ずっと大事にしていたのに、せっかく遥からもらったのに。
遥だって、きっと悲しい。
でも、遥の反応は、私が思っていたこととは全然違った。
「まだ、持ってて、くれてたんだ」
「え……」
「……ありがとう」
予想外の感謝の言葉に、私は慌ててしまう。
「ち、違うよ!えっと、謝らなきゃいけないのは、それだけじゃなくて」
なにが違うんだ、と自分に突っ込みつつ、たどたどしく言葉をつなぐ。
私には、もっと重く大きな罪がある。三年間ずっと抱え続けていたもの。
遥ともう一度関係を作りたいから、はっきり、伝えないと。
「あのとき、助けられなくて、ごめん」
やっと、言えた。
そう思ったのも束の間、遥は視線を落とし、苦しそうに制服の袖を強く掴んだ。
私が「あのとき」と言ってその頃の記憶が思い浮かべられたのと同じで、遥にも思い出させてしまったんだ。
自分のことしか、考えてなかった。
「あの状況なら、仕方ないよ」
それでも遥は、うつむきがちにそう言った。
――仕方なくないよ。
やっぱり、遥は遥なんだ。
いつも他人を傷つけないように、言葉を慎重に選ぶ。優しすぎるよ。
「遥……」
ああ、ダメだ。
もっと言いたいことがあったはずなのに、遥と会えただけで安心して、言えそうになくて。
もう、一生会えないかもしれないなんて、不安になっていた。でも、会えた。
「はるか……っ!」
耐えきれなくなって、ぼろぼろと溢れ出してくる。
遥を困らせてしまうから、泣きたくないのに。
会えて嬉しかった。それだけじゃない。生きていてくれて、本当に良かった。
深い深い傷を負った遥が、私が知らない間に消えちゃうんじゃないかって、ずっと怖かった。
「ごめ、ごめんね……!私、泣き虫なのは、変わってないね……」
目の前で泣いて遥を困らせてしまうことは、これで何回目だろう。
でも、遥は一度も、迷惑だなんて言わなかった。
「……ううん。僕も、雪乃ちゃんと、会えて、泣きたいくらい、嬉しい」
ほら、こんなふうに。
三年前までは、遥は当たり前のように私の隣にいて、心の支えになってくれていた。遥がいたから、私はひとりぼっちにならなかった。
また、そのときみたいに、遥の隣にいたいよ――。
涙を拭いて、私は遥の目を見る。ようやくちゃんと視線を絡めてくれた。
「遥。一緒に、帰ってもいい?」
尋ねると、遥は少し困ったような目で私を見た。嫌だったかな。でも、すぐにそれは消える。
「……うん」
遥は小さくうなずいてくれた。
私に気を遣っているわけじゃなくて、遥もそうしたいと本当に思ってくれているなら嬉しいけれど、どうなんだろう。気になるけど、訊けない。
二人で美術室を出て、駅までの道を並んで歩く。それも懐かしくて、泣きそうになる。
けれど、私と遥は、歩いている間、ほとんど会話ができないでいた。実は教室から美術室に行くときも、一度も話せていなかった。
話したい。でも、なにを言えばいいのかわからない。
うつむきがちに歩く遥の身長は、小さい私とほぼ同じくらい。三年前の遥はもう少し小さかった気がする。
「……今日、どうだった、学校」
なにか話したくてその質問を選んだけれど、すぐに違うもののほうが良かったかなと思った。学校でのことを尋ねられるのが、遥は嫌かもしれない。
「緊張は、したけど、楽しかった、かな」
顔をまっすぐは上げないままで、遥は答えた。
「……そっか」
良かったね、とも、そうだよね、とも言えない。楽しかったっていうのは、たぶん嘘だ。一日中遥を見ていた私には、楽しんでいるようには見えなかった。
そこで会話が途切れてしまう。もっと私がいい反応ができたらよかったのに。
訊きたいことはいっぱいある。
でも、訊いていいのか、言っていいのかがわからない。遥が転校してきた理由、この三年間にあったこと。
「……ゆ、雪乃ちゃんは、最初からこの学校に、いるんだよね」
今度は遥が、なんとか会話が繋がるように尋ねてきたので、私は「うん」とうなずく。
「えっと、どんな感じ?」
学校のことを言っているのだろう。
入学してから今までのことを振り返る。いい思い出なんてない。そもそも人とほぼ接していないから、思い出がない。
でも、マイナスなことを言って遥の学校生活への希望をなくしてしまうのもどうかと思った。
「いいところ、だと思うよ。私も、やっていけてるから」
「そ、そうなんだ」
「……うん」
また、会話が途切れる。
遥も、私が本当はそう思っていないことに、なんとなく気付いているのかもしれない。
どう答えるのが正解だったんだろう。私にもっとコミュ力があれば。
大事なことは言えないまま、駅に着いてしまった。
「……遥は、今、どこに住んでるの?」
「あ、えっと、ここ」
遥が指差したのは、駅構内に貼ってあった地図の、端の方だった。私の家とは逆方向。
「えっ、ここって、二時間くらいかかるよね……?」
思わず尋ねてしまってから、しまった、と自分を責めた。こういうのが、訊いてはいけない質問だ。
「で、でも、その、こうするしか、なかったっていうか……」
責められているかのように慌てて説明する遥を見て、
ますます申し訳なくなる。
「ご、ごめんね!余計なこと訊いちゃったよね」
「ううん、だ、大丈夫……」
こうするしかなかったってどういうことだろうと気になったけれど、それ以上尋ねる気にはなれなくて、口を閉じた。
ホームへ行くなり、遥の住んでる方へ向かう電車が到着した。
「……またね、雪乃ちゃん」
「あっ、うん。また明日」
扉が閉まり、遥の姿があっという間に見えなくなる。
すると、突然、猛烈な寂しさに襲われた。
心を落ち着かせるために胸元に手をやると、いつもはあるはずのものがそこにはなかった。
そうだ、ペンダント、ないんだった……。
そのせいで心の空白がいっそう大きくなって、息がしづらくなる。
遥――。
家に帰ると今度はどっと疲れが襲ってきて、私は部屋ベッドに座り込んだ。でもこれは、いつものこと。
なにもない日でさえ相当疲れるのに、今日みたいに大きなことがあった日、誰かとたくさん会話した日は、さらに恐ろしいほど疲れてしまう。遥のせいじゃなくて、私のせい。みんなにとっては、これくらいの会話、少ないのだろうけど。
ベッドの上で、私は遥のことを考えた。そうしていないと落ち着けそうになかった。いや、考えたって落ち着かないけど、考えないよりはいい。
……そういえば、さっきは気付かなかったけど、遥が今住んでいると言った場所って、中学生のときに遥が引っ越した場所と同じだったような。
そうだとすれば、どうして、引っ越してもいないのに、転校してきたんだろう。
それに遥には、元気があるようには見えなかった。もしかして、またなにかあった……?
遥と、もっと話したい。遥のことをちゃんと教えてほしい。
寂しいのは、もう嫌だよ……。
翌日、登校すると、遥は既に来ていた。家が遠いのに、早い。
クラスメイトの視線が気になったけれど、なんとか頑張って「おはよう、遥」と声をかけた。遥はびっくりした様子で振り向いきつつ、「雪乃ちゃん、おはよう」と返してくれた。
授業の合間の休み時間はほとんど話せなかったけれど、昼休みは、遥と一緒に美術室でお弁当を食べた。他に人がいなかったので、安心して食べられた。いつもは教室でひとりで食べていて、心が休まらなかった。
遥は私が声をかけてくることに嫌な顔をせず、戸惑いつつも受け入れてくれた。
遥といる間は、微妙な心の距離はあるけれど、寂しくない。でも学校を出て遥と離れると、きっと昨日みたいに寂しくなる。今日の朝も遥のことばかりを考えていた。
やっぱり、ペンダントは必要だ。
帰りのHRが終わると同時に、鞄も持たずに教室を出て、女子更衣室に向かった。あるならそこがいちばん可能性が高いと思った。
他に使っている人がいない時間だから探しやすかったけれど、結局いくら探しても見つからず、そのうちひとりでなにしてるんだろうと虚しくなって、私は更衣室を後にした。
どこにいっちゃったんだろう。もしかして、誰かが……?もしそれで先生にバレてしまったら怒られてしまう。想像するだけで怖い。
更衣室を出てすぐの廊下で、人影が見え、足を止めた。もしかして先生、と思ったけど、違う。
「あっ、雪乃ちゃん」
「遥……!」
どうしてここに。もしかして、私を捜していたのかな。いやいや、そんなわけない。
すると、私が尋ねる前に、遥が口を開いた。
「なんか、すごく急いで、教室から出たから、どうしたのかなって思って……」
本当に私のことを捜しに来てくれたんだ。一日中、私から遥に話しかけてばかりだったから、遥から私に関わろうとしてくれたことが嬉しい。
だから、正直に言いたくなってしまった。
「ペンダント、探そうと思って」
遥はちょっと意外そうに「え……」と声を上げた。遥がくれたそれが私にとってとても大切なものになっていることに、遥は気付いていない。
「じ、じゃあ、一緒に、探しても、いい……?」
「えっ……」
今度は私が驚かされる番だった。まさか遥がそんな提案をしてくれるなんて。
「だ、ダメかな」
「うっ、ううん!むしろ、助かるよ。お願いしても、いい?」
「うん」
そして私は、遥と一緒に学校中を探し回り始めた。遥がいてくれるだけで、心強い。それに、遥が学校のことを知るいい機会になるかもしれない。
けれど、三十分ほど歩き回ったところで、私は遥の息がやけに上がっていることに気付いた。
「……大丈夫?」
「ご、ごめん、運動不足で……」
運動不足という言葉には、とても説得力があった。遥は体育の授業を全くと言っていいほど受けてこなかったから。転校してからも、そうだったのかな。
「ちょっと、休もうか」
「うん。ごめん……」
遥のせいだなんて思ってないのに。遥はことあるごとに「ごめん」を口にする。
ちょうど近くにあった美術室に入ると、美術部の部長、三谷さんがいた。
「こんにちは」
私に気付くと、落ち着いた口調で挨拶をしてくれた。私も「こんにちは」と返す。遥とも会釈を交わしていた。三谷さんは、美術室だけど読書か勉強をしている。ちなみに、部員は私と三谷さんの二人だけだ。
昨日と同じ位置に座って、遥と向かい合う。
「雪乃ちゃんは、美術部、なんだよね」
「……うん。そうだよ」
「どんな絵、描いてるの?」
遥の何気ない質問に、私は数秒動きが止まった。いつか訊かれるとは思っていたけど、実際に訊かれると動揺してしまう。でも、あの絵を見せなければ、大丈夫。
ちょっと待ってて、と言って過去に描いた風景画を取ってきて、遥に見せた。
「わぁ……。綺麗」
遥に見せたのは、夕日に照らされる山や田んぼの絵。
「これ、どこかの、景色?」
「ううん。私が想像して、描いたの」
「そうなんだ。すごい……!」
遥に絵を褒めてもらえることが嬉しいけれど、複雑だった。
本当は、遥にもっと見てもらいたい絵があるんだ。
見てほしい。でも、見せられない。遥に心配をかけたくない。
三谷さんからの視線を感じていたけれど、気付かないふりをした。
翌日の放課後、今度はペンダント探しを口実に図書室へ向かった。こんなところにあるわけがないんだけど、遥が本が好きなのを思い出し、本の話をしたいと思ったから、ここにした。遥は疑問に思っているのかもしれないけど、特になにも言わずついてきてくれた。
図書室にはほとんど人はいなくて、図書委員の子が暇そうにしていた。
「遥は、青春とか、恋愛系の本が、好きだったよね」
違ってたらどうしよう、と思いながら、小声で遥に話しかける。
「うん。覚えてて、くれたんだ」
遥が嬉しそうに小さく笑う。
――あ、この笑顔、懐かしい。
遥が笑顔を見せてくれたのは、昨日以降で初めてだった。私も照れ笑いを浮かべつつ、ふと生じた疑問を口にする。
「逆に、苦手なジャンルとか、あるの?」
「……血が出てきたり、人がたくさん死んじゃうのは苦手……」
想像しただけで苦しくなったのか、遥が視線を落として胸のあたりをきゅっと掴む。それを見て、訊かなければよかった、とすぐに後悔した。
だけど一方で、私は心のどこかで密かに喜んでいた。私も同じだったから。
ミステリーとか、ホラーとか、戦争の話は、嫌いではないし読むことはあるけれど、凄惨な場面を想像してしまって気分が悪くなってしまうことがある。
図書室を巡っていると、おすすめの本コーナーのところで、遥が足を止めた。遥の視線の先には、最近中高生の間で人気になっている、余命を扱った恋愛小説があった。
「……これ、好きなの?」
「あ、うん。雪乃ちゃんも、知ってる?」
「うん。切ないけど、優しくて、素敵な物語だよね。心が洗われるっていうか……」
遥もこくこくとうなずき、共感してくれる。
「いいよね。こういうの、書いてみたい」
「……書いてみたい?」
遥の言葉が頭に引っかかって、思わず訊き返してしまった。
「あっ、ううんっ、なんでもないよ」
遥がわかりやすく焦りながら答えたから、私はそれ以上言及しない。遥は誤魔化すのが下手だ。
それでまた言葉が途切れ、沈黙が訪れた。
なにか言わなきゃ、と思うのに、いい言葉が見つからない。以前は、この沈黙すら心地よかったはずなのに。
「……えっと、ちょっと、休む?」
「あっ、うん」
それなりに長く歩いていたから、これ以上は遥も昨日みたいに疲れてしまうかもしれない。そう思った私の唐突な提案にも遥はうなずいてくれて、二人で図書室にある自習スペースの椅子に腰掛けた。
「遥、大丈夫?」
昨日のことを思い、少し疲れた様子の遥にそう尋ねる。
「うん。僕は、大丈夫」
遥は澄んだ目で私を見てまたうなずいた。
でも、遥は、たとえ大丈夫じゃなくても大丈夫と言う。だからその言葉が本当かどうかはわからない。昔からそうだから、わかっているんだけど、だとしても、代わりにどう尋ねればいいんだろう。
「……ゆ、雪乃ちゃんこそ、大丈夫?」
「え……」
ふいに遥から上目遣いで心配そうに尋ねられ、私はどきりとしてしまう。
「その、なんか、しんどそうに、見えたから……。か、勘違いだったら、ごめんね」
遥に気を遣わせてしまっていることに気付き、申し訳なくなった。同時に、見抜かれたことにびっくりして、困惑してしまう。どうしよう。言ってもいいのかな。
遥の心配を無下にしたくないし、自分を責めてほしくない。でも、遥に心配をかけたくない。大変なのは転校したての遥のほうだ。
「……いつものことだから、大丈夫だよ」
結局はそんなどっちつかずの返事をして、遥の視線から逃げてしまった。
いつも疲れているのは事実。だから、慣れてるから、大丈夫。でも、本当のことを言えば、昨日と今日は学校にいる時間が長いせいで、いつにもまして疲れていた。
だけど、それを言ったら遥はきっと自分を責めてしまう。それに、休むために家に帰って、遥と過ごせる時間が少なくなってしまうのだって、嫌だ。
「そ、それにしても、見つからないね」
遥がいきなりそんなことを言うから、私はペンダント探しをしていたことを思い出した。
たぶん遥は気を遣って話題を無理に変えてくれたんだ。そのことがまた私の胸を縛りつける。
「あっ、うん、そうだね……」
遥と一緒にいれることへの安心感と、遥を元気づけたいという気持ちで、ペンダントのことを忘れかけていた。だけど遥と別れた後に、またすぐに思い出ことになるはずだ。
「そもそも、どこで、どんなふうに失くしたの?」
そういえばそのこともまだ離していなかった。なにやってるんだろう、私。
「えっと……いつも体育のときだけ外してるんだけど、体育の授業が終わってから、更衣室に戻ってきたら、失くなってて……」
もっとちゃんと、制服のポケットとかにしまっておけばよかった。今更言っても仕方がないことだけど、悔いは消えない。
「更衣室は……あ、見たんだよね」
昨日遥と会ったのは、まさに更衣室を出た直後だった。
「うん。でも、見落としてる可能性もあるから、もう一回見たほうがいいよね」
昨日も一昨日も、慌てていたから見れていない箇所があるかもしれない。遥と一緒なら、落ち着いて確認できる。
「……遥。一緒に、来てくれる?」
「……うん」
遥は少し間を置いてから了承してくれた。遥からすれば私の探し物に付き合わされて、大変だと思う。それなのに、遥は私の頼みに首を横に振らない。
二人で女子更衣室へと向かう。廊下ですれ違う何人かがちらちらと私たちを見ていた。転校生の遥が気になるのだろう。
既に、綺麗な子が転校してきた、と学校中の噂になっているようだった。
更衣室に着くと、遥は中に入った私をついていこうとせず、入口の前で立ち止まった。
「どうしたの?入っていいよ」
「でも、僕、女の子じゃないから……」
だけど、男の子でもない。遥は変ないたずらなんかしないし、他の人はいないから、私はいいと思ったんだけど、遥は入ろうとしない。
ちょっと寂しいけれど、ひとりで入室してペンダントを探すことにした。
更衣室にあるロッカーを一つずつ開けてみる。
視界を開けるために前髪を指で払うと、私の茶色い前髪がはらりと床に落ちた。
そうして更衣室中をくまなく探してみたけれど、やっぱり見つからない。誰かに持っていかれちゃったのかな……。
諦めて、更衣室を出た。
「……どう、だった?」
「なかった……」
「そっか……」
私の答えを聞いた遥もしゅんとして、残念がっている様子だった。
「……また、いろんなところ、探すしかないよね。とりあえず、今日は帰ろっか」
遥に悲しんでほしくなくて、私はあえて明るい声を出した。それでも遥は相変わらず落ち込み気味のようだった。
「……うん」
昨日は私がペンダントをまだ持っていたことに、ありがとう、と言ってくれたけれど、自分が渡したものを失くされたらそうはいっても悲しいはず。
更衣室を離れ、昇降口に向かって歩き出す。すると、前から来た人に気付かず、肩がぶつかってしまった。クラスメイトの女の子だった。
「あっ、ごめんなさい……!」
咄嗟に謝ったけれど、その子はなにも言わず、私と遥を一瞥して更衣室の方へ去っていった。
声が小さすぎて聞こえなかったのかな。不快にさせてしまったかもしれない。
急いていた様子の彼女のことがちょっぴり気になったけれど、私になにかができるわけでもない。そのまま遥と一緒に昇降口を出て、今日のペンダント探しは終了した。
夏の暑さが残る朝、先生のそんな一言で教室の空気がぴたっと止まる。
転校生。どうせ私は関わることなんてないから、関係ない。それよりももっと重大なことが、今の私にはある。
胸元に喪失感を覚えながら、そんなことを思っていた、のに。
先生に入ってきて、と言われ、姿を見せたその人に、教室中が息を呑んだ。
さらさらした、綺麗な茶色い髪。そこから覗く、同じ色の澄んだ瞳。小柄な体を学校指定のベージュのセーターに身を包んだその人は、クラス中の視線を浴び、うつむきがちに入ってきた。
――なんて綺麗な人なんだろう。
みんなの思っていることが透けて見える。そしてみんながもう一つ、考えていることも。
――この人、男の子?それとも、女の子?
でも、私が息を呑んだ理由は、その二つのどちらとも違う。
「な、永野遥です。えっと、よろしくお願いします」
――遥。
高い声でたどたどしく挨拶をしたその人は――私の幼馴染。
みんなから生じた疑問の答えは、クラスで私だけが知っている。
だけど、なんで、このタイミングで。
昨日の体育の時間だった。
制服だったらペンダントを隠せるのだけど、体操服だとそうはいかない。だからいつも、体育の時間だけは外している。
体育館から更衣室戻ってくると、ペンダントが、無くなっていた。
――なんで?確かにここに置いたはずなのに。
必死に周りを探してポケットの中も何度も確認したのに、見つからなかった。
宝物を失くしたせいで、昨日から私の心は落ち着かないままでいる。
そして、その宝物をくれたのが、遥だった。
綺麗な転校生に興味を持ったクラスメイトたちが休み時間ごとに遥に話しかけていた。遥は困惑しながらなんとかみんなの質問に答えているようだった。
やめてあげて。そう言いたかったけど、遥を囲む集団に突入していけるほど、私は強くない。
放課後、ようやく隙ができて、私は帰ろうとしていた遥に近寄った。
三年ぶりだ。
やや緊張しながら、息を吸って、声をかける。
「――遥」
届くか不安だったけど、遥はすぐに振り向き、私を見るなり茶色い瞳を丸くした。
「雪乃ちゃん……!」
私に向けられた高くやわらかい声を聞いて、たくさんの感情が溢れ出そうになった。でも、それをぐっと堪える。
「もし、良かったら、ついてきてくれる……?」
迷惑じゃないかな。
救えなかった私が、遥に話しかけていいのかな。
不安になりながら言葉を押し出すと、遥は、数秒置いて、うなずいてくれた。
良かった、受け入れてくれた。
ほっとして、私は遥を連れて美術室に向かった。
歩きながら、まずなんて言おう、と考える。けれど、考えつかないうちに着いてしまった。
普段は部活で放課後に使っている、美術室。
適当な席に座って、遥と向かい合う。
散々悩んだけど、まず言わないといけないのは、やっぱり。
「遥。……ごめんね」
いきなり謝った私を見て、遥は目を見張った。なんのことなのかも、ちゃんと言わなきゃ。
「遥がくれたペンダント、失くしちゃった……」
小学五年生の私の誕生日、遥がくれた、大切な大切な宝物。ずっと大事にしていたのに、せっかく遥からもらったのに。
遥だって、きっと悲しい。
でも、遥の反応は、私が思っていたこととは全然違った。
「まだ、持ってて、くれてたんだ」
「え……」
「……ありがとう」
予想外の感謝の言葉に、私は慌ててしまう。
「ち、違うよ!えっと、謝らなきゃいけないのは、それだけじゃなくて」
なにが違うんだ、と自分に突っ込みつつ、たどたどしく言葉をつなぐ。
私には、もっと重く大きな罪がある。三年間ずっと抱え続けていたもの。
遥ともう一度関係を作りたいから、はっきり、伝えないと。
「あのとき、助けられなくて、ごめん」
やっと、言えた。
そう思ったのも束の間、遥は視線を落とし、苦しそうに制服の袖を強く掴んだ。
私が「あのとき」と言ってその頃の記憶が思い浮かべられたのと同じで、遥にも思い出させてしまったんだ。
自分のことしか、考えてなかった。
「あの状況なら、仕方ないよ」
それでも遥は、うつむきがちにそう言った。
――仕方なくないよ。
やっぱり、遥は遥なんだ。
いつも他人を傷つけないように、言葉を慎重に選ぶ。優しすぎるよ。
「遥……」
ああ、ダメだ。
もっと言いたいことがあったはずなのに、遥と会えただけで安心して、言えそうになくて。
もう、一生会えないかもしれないなんて、不安になっていた。でも、会えた。
「はるか……っ!」
耐えきれなくなって、ぼろぼろと溢れ出してくる。
遥を困らせてしまうから、泣きたくないのに。
会えて嬉しかった。それだけじゃない。生きていてくれて、本当に良かった。
深い深い傷を負った遥が、私が知らない間に消えちゃうんじゃないかって、ずっと怖かった。
「ごめ、ごめんね……!私、泣き虫なのは、変わってないね……」
目の前で泣いて遥を困らせてしまうことは、これで何回目だろう。
でも、遥は一度も、迷惑だなんて言わなかった。
「……ううん。僕も、雪乃ちゃんと、会えて、泣きたいくらい、嬉しい」
ほら、こんなふうに。
三年前までは、遥は当たり前のように私の隣にいて、心の支えになってくれていた。遥がいたから、私はひとりぼっちにならなかった。
また、そのときみたいに、遥の隣にいたいよ――。
涙を拭いて、私は遥の目を見る。ようやくちゃんと視線を絡めてくれた。
「遥。一緒に、帰ってもいい?」
尋ねると、遥は少し困ったような目で私を見た。嫌だったかな。でも、すぐにそれは消える。
「……うん」
遥は小さくうなずいてくれた。
私に気を遣っているわけじゃなくて、遥もそうしたいと本当に思ってくれているなら嬉しいけれど、どうなんだろう。気になるけど、訊けない。
二人で美術室を出て、駅までの道を並んで歩く。それも懐かしくて、泣きそうになる。
けれど、私と遥は、歩いている間、ほとんど会話ができないでいた。実は教室から美術室に行くときも、一度も話せていなかった。
話したい。でも、なにを言えばいいのかわからない。
うつむきがちに歩く遥の身長は、小さい私とほぼ同じくらい。三年前の遥はもう少し小さかった気がする。
「……今日、どうだった、学校」
なにか話したくてその質問を選んだけれど、すぐに違うもののほうが良かったかなと思った。学校でのことを尋ねられるのが、遥は嫌かもしれない。
「緊張は、したけど、楽しかった、かな」
顔をまっすぐは上げないままで、遥は答えた。
「……そっか」
良かったね、とも、そうだよね、とも言えない。楽しかったっていうのは、たぶん嘘だ。一日中遥を見ていた私には、楽しんでいるようには見えなかった。
そこで会話が途切れてしまう。もっと私がいい反応ができたらよかったのに。
訊きたいことはいっぱいある。
でも、訊いていいのか、言っていいのかがわからない。遥が転校してきた理由、この三年間にあったこと。
「……ゆ、雪乃ちゃんは、最初からこの学校に、いるんだよね」
今度は遥が、なんとか会話が繋がるように尋ねてきたので、私は「うん」とうなずく。
「えっと、どんな感じ?」
学校のことを言っているのだろう。
入学してから今までのことを振り返る。いい思い出なんてない。そもそも人とほぼ接していないから、思い出がない。
でも、マイナスなことを言って遥の学校生活への希望をなくしてしまうのもどうかと思った。
「いいところ、だと思うよ。私も、やっていけてるから」
「そ、そうなんだ」
「……うん」
また、会話が途切れる。
遥も、私が本当はそう思っていないことに、なんとなく気付いているのかもしれない。
どう答えるのが正解だったんだろう。私にもっとコミュ力があれば。
大事なことは言えないまま、駅に着いてしまった。
「……遥は、今、どこに住んでるの?」
「あ、えっと、ここ」
遥が指差したのは、駅構内に貼ってあった地図の、端の方だった。私の家とは逆方向。
「えっ、ここって、二時間くらいかかるよね……?」
思わず尋ねてしまってから、しまった、と自分を責めた。こういうのが、訊いてはいけない質問だ。
「で、でも、その、こうするしか、なかったっていうか……」
責められているかのように慌てて説明する遥を見て、
ますます申し訳なくなる。
「ご、ごめんね!余計なこと訊いちゃったよね」
「ううん、だ、大丈夫……」
こうするしかなかったってどういうことだろうと気になったけれど、それ以上尋ねる気にはなれなくて、口を閉じた。
ホームへ行くなり、遥の住んでる方へ向かう電車が到着した。
「……またね、雪乃ちゃん」
「あっ、うん。また明日」
扉が閉まり、遥の姿があっという間に見えなくなる。
すると、突然、猛烈な寂しさに襲われた。
心を落ち着かせるために胸元に手をやると、いつもはあるはずのものがそこにはなかった。
そうだ、ペンダント、ないんだった……。
そのせいで心の空白がいっそう大きくなって、息がしづらくなる。
遥――。
家に帰ると今度はどっと疲れが襲ってきて、私は部屋ベッドに座り込んだ。でもこれは、いつものこと。
なにもない日でさえ相当疲れるのに、今日みたいに大きなことがあった日、誰かとたくさん会話した日は、さらに恐ろしいほど疲れてしまう。遥のせいじゃなくて、私のせい。みんなにとっては、これくらいの会話、少ないのだろうけど。
ベッドの上で、私は遥のことを考えた。そうしていないと落ち着けそうになかった。いや、考えたって落ち着かないけど、考えないよりはいい。
……そういえば、さっきは気付かなかったけど、遥が今住んでいると言った場所って、中学生のときに遥が引っ越した場所と同じだったような。
そうだとすれば、どうして、引っ越してもいないのに、転校してきたんだろう。
それに遥には、元気があるようには見えなかった。もしかして、またなにかあった……?
遥と、もっと話したい。遥のことをちゃんと教えてほしい。
寂しいのは、もう嫌だよ……。
翌日、登校すると、遥は既に来ていた。家が遠いのに、早い。
クラスメイトの視線が気になったけれど、なんとか頑張って「おはよう、遥」と声をかけた。遥はびっくりした様子で振り向いきつつ、「雪乃ちゃん、おはよう」と返してくれた。
授業の合間の休み時間はほとんど話せなかったけれど、昼休みは、遥と一緒に美術室でお弁当を食べた。他に人がいなかったので、安心して食べられた。いつもは教室でひとりで食べていて、心が休まらなかった。
遥は私が声をかけてくることに嫌な顔をせず、戸惑いつつも受け入れてくれた。
遥といる間は、微妙な心の距離はあるけれど、寂しくない。でも学校を出て遥と離れると、きっと昨日みたいに寂しくなる。今日の朝も遥のことばかりを考えていた。
やっぱり、ペンダントは必要だ。
帰りのHRが終わると同時に、鞄も持たずに教室を出て、女子更衣室に向かった。あるならそこがいちばん可能性が高いと思った。
他に使っている人がいない時間だから探しやすかったけれど、結局いくら探しても見つからず、そのうちひとりでなにしてるんだろうと虚しくなって、私は更衣室を後にした。
どこにいっちゃったんだろう。もしかして、誰かが……?もしそれで先生にバレてしまったら怒られてしまう。想像するだけで怖い。
更衣室を出てすぐの廊下で、人影が見え、足を止めた。もしかして先生、と思ったけど、違う。
「あっ、雪乃ちゃん」
「遥……!」
どうしてここに。もしかして、私を捜していたのかな。いやいや、そんなわけない。
すると、私が尋ねる前に、遥が口を開いた。
「なんか、すごく急いで、教室から出たから、どうしたのかなって思って……」
本当に私のことを捜しに来てくれたんだ。一日中、私から遥に話しかけてばかりだったから、遥から私に関わろうとしてくれたことが嬉しい。
だから、正直に言いたくなってしまった。
「ペンダント、探そうと思って」
遥はちょっと意外そうに「え……」と声を上げた。遥がくれたそれが私にとってとても大切なものになっていることに、遥は気付いていない。
「じ、じゃあ、一緒に、探しても、いい……?」
「えっ……」
今度は私が驚かされる番だった。まさか遥がそんな提案をしてくれるなんて。
「だ、ダメかな」
「うっ、ううん!むしろ、助かるよ。お願いしても、いい?」
「うん」
そして私は、遥と一緒に学校中を探し回り始めた。遥がいてくれるだけで、心強い。それに、遥が学校のことを知るいい機会になるかもしれない。
けれど、三十分ほど歩き回ったところで、私は遥の息がやけに上がっていることに気付いた。
「……大丈夫?」
「ご、ごめん、運動不足で……」
運動不足という言葉には、とても説得力があった。遥は体育の授業を全くと言っていいほど受けてこなかったから。転校してからも、そうだったのかな。
「ちょっと、休もうか」
「うん。ごめん……」
遥のせいだなんて思ってないのに。遥はことあるごとに「ごめん」を口にする。
ちょうど近くにあった美術室に入ると、美術部の部長、三谷さんがいた。
「こんにちは」
私に気付くと、落ち着いた口調で挨拶をしてくれた。私も「こんにちは」と返す。遥とも会釈を交わしていた。三谷さんは、美術室だけど読書か勉強をしている。ちなみに、部員は私と三谷さんの二人だけだ。
昨日と同じ位置に座って、遥と向かい合う。
「雪乃ちゃんは、美術部、なんだよね」
「……うん。そうだよ」
「どんな絵、描いてるの?」
遥の何気ない質問に、私は数秒動きが止まった。いつか訊かれるとは思っていたけど、実際に訊かれると動揺してしまう。でも、あの絵を見せなければ、大丈夫。
ちょっと待ってて、と言って過去に描いた風景画を取ってきて、遥に見せた。
「わぁ……。綺麗」
遥に見せたのは、夕日に照らされる山や田んぼの絵。
「これ、どこかの、景色?」
「ううん。私が想像して、描いたの」
「そうなんだ。すごい……!」
遥に絵を褒めてもらえることが嬉しいけれど、複雑だった。
本当は、遥にもっと見てもらいたい絵があるんだ。
見てほしい。でも、見せられない。遥に心配をかけたくない。
三谷さんからの視線を感じていたけれど、気付かないふりをした。
翌日の放課後、今度はペンダント探しを口実に図書室へ向かった。こんなところにあるわけがないんだけど、遥が本が好きなのを思い出し、本の話をしたいと思ったから、ここにした。遥は疑問に思っているのかもしれないけど、特になにも言わずついてきてくれた。
図書室にはほとんど人はいなくて、図書委員の子が暇そうにしていた。
「遥は、青春とか、恋愛系の本が、好きだったよね」
違ってたらどうしよう、と思いながら、小声で遥に話しかける。
「うん。覚えてて、くれたんだ」
遥が嬉しそうに小さく笑う。
――あ、この笑顔、懐かしい。
遥が笑顔を見せてくれたのは、昨日以降で初めてだった。私も照れ笑いを浮かべつつ、ふと生じた疑問を口にする。
「逆に、苦手なジャンルとか、あるの?」
「……血が出てきたり、人がたくさん死んじゃうのは苦手……」
想像しただけで苦しくなったのか、遥が視線を落として胸のあたりをきゅっと掴む。それを見て、訊かなければよかった、とすぐに後悔した。
だけど一方で、私は心のどこかで密かに喜んでいた。私も同じだったから。
ミステリーとか、ホラーとか、戦争の話は、嫌いではないし読むことはあるけれど、凄惨な場面を想像してしまって気分が悪くなってしまうことがある。
図書室を巡っていると、おすすめの本コーナーのところで、遥が足を止めた。遥の視線の先には、最近中高生の間で人気になっている、余命を扱った恋愛小説があった。
「……これ、好きなの?」
「あ、うん。雪乃ちゃんも、知ってる?」
「うん。切ないけど、優しくて、素敵な物語だよね。心が洗われるっていうか……」
遥もこくこくとうなずき、共感してくれる。
「いいよね。こういうの、書いてみたい」
「……書いてみたい?」
遥の言葉が頭に引っかかって、思わず訊き返してしまった。
「あっ、ううんっ、なんでもないよ」
遥がわかりやすく焦りながら答えたから、私はそれ以上言及しない。遥は誤魔化すのが下手だ。
それでまた言葉が途切れ、沈黙が訪れた。
なにか言わなきゃ、と思うのに、いい言葉が見つからない。以前は、この沈黙すら心地よかったはずなのに。
「……えっと、ちょっと、休む?」
「あっ、うん」
それなりに長く歩いていたから、これ以上は遥も昨日みたいに疲れてしまうかもしれない。そう思った私の唐突な提案にも遥はうなずいてくれて、二人で図書室にある自習スペースの椅子に腰掛けた。
「遥、大丈夫?」
昨日のことを思い、少し疲れた様子の遥にそう尋ねる。
「うん。僕は、大丈夫」
遥は澄んだ目で私を見てまたうなずいた。
でも、遥は、たとえ大丈夫じゃなくても大丈夫と言う。だからその言葉が本当かどうかはわからない。昔からそうだから、わかっているんだけど、だとしても、代わりにどう尋ねればいいんだろう。
「……ゆ、雪乃ちゃんこそ、大丈夫?」
「え……」
ふいに遥から上目遣いで心配そうに尋ねられ、私はどきりとしてしまう。
「その、なんか、しんどそうに、見えたから……。か、勘違いだったら、ごめんね」
遥に気を遣わせてしまっていることに気付き、申し訳なくなった。同時に、見抜かれたことにびっくりして、困惑してしまう。どうしよう。言ってもいいのかな。
遥の心配を無下にしたくないし、自分を責めてほしくない。でも、遥に心配をかけたくない。大変なのは転校したての遥のほうだ。
「……いつものことだから、大丈夫だよ」
結局はそんなどっちつかずの返事をして、遥の視線から逃げてしまった。
いつも疲れているのは事実。だから、慣れてるから、大丈夫。でも、本当のことを言えば、昨日と今日は学校にいる時間が長いせいで、いつにもまして疲れていた。
だけど、それを言ったら遥はきっと自分を責めてしまう。それに、休むために家に帰って、遥と過ごせる時間が少なくなってしまうのだって、嫌だ。
「そ、それにしても、見つからないね」
遥がいきなりそんなことを言うから、私はペンダント探しをしていたことを思い出した。
たぶん遥は気を遣って話題を無理に変えてくれたんだ。そのことがまた私の胸を縛りつける。
「あっ、うん、そうだね……」
遥と一緒にいれることへの安心感と、遥を元気づけたいという気持ちで、ペンダントのことを忘れかけていた。だけど遥と別れた後に、またすぐに思い出ことになるはずだ。
「そもそも、どこで、どんなふうに失くしたの?」
そういえばそのこともまだ離していなかった。なにやってるんだろう、私。
「えっと……いつも体育のときだけ外してるんだけど、体育の授業が終わってから、更衣室に戻ってきたら、失くなってて……」
もっとちゃんと、制服のポケットとかにしまっておけばよかった。今更言っても仕方がないことだけど、悔いは消えない。
「更衣室は……あ、見たんだよね」
昨日遥と会ったのは、まさに更衣室を出た直後だった。
「うん。でも、見落としてる可能性もあるから、もう一回見たほうがいいよね」
昨日も一昨日も、慌てていたから見れていない箇所があるかもしれない。遥と一緒なら、落ち着いて確認できる。
「……遥。一緒に、来てくれる?」
「……うん」
遥は少し間を置いてから了承してくれた。遥からすれば私の探し物に付き合わされて、大変だと思う。それなのに、遥は私の頼みに首を横に振らない。
二人で女子更衣室へと向かう。廊下ですれ違う何人かがちらちらと私たちを見ていた。転校生の遥が気になるのだろう。
既に、綺麗な子が転校してきた、と学校中の噂になっているようだった。
更衣室に着くと、遥は中に入った私をついていこうとせず、入口の前で立ち止まった。
「どうしたの?入っていいよ」
「でも、僕、女の子じゃないから……」
だけど、男の子でもない。遥は変ないたずらなんかしないし、他の人はいないから、私はいいと思ったんだけど、遥は入ろうとしない。
ちょっと寂しいけれど、ひとりで入室してペンダントを探すことにした。
更衣室にあるロッカーを一つずつ開けてみる。
視界を開けるために前髪を指で払うと、私の茶色い前髪がはらりと床に落ちた。
そうして更衣室中をくまなく探してみたけれど、やっぱり見つからない。誰かに持っていかれちゃったのかな……。
諦めて、更衣室を出た。
「……どう、だった?」
「なかった……」
「そっか……」
私の答えを聞いた遥もしゅんとして、残念がっている様子だった。
「……また、いろんなところ、探すしかないよね。とりあえず、今日は帰ろっか」
遥に悲しんでほしくなくて、私はあえて明るい声を出した。それでも遥は相変わらず落ち込み気味のようだった。
「……うん」
昨日は私がペンダントをまだ持っていたことに、ありがとう、と言ってくれたけれど、自分が渡したものを失くされたらそうはいっても悲しいはず。
更衣室を離れ、昇降口に向かって歩き出す。すると、前から来た人に気付かず、肩がぶつかってしまった。クラスメイトの女の子だった。
「あっ、ごめんなさい……!」
咄嗟に謝ったけれど、その子はなにも言わず、私と遥を一瞥して更衣室の方へ去っていった。
声が小さすぎて聞こえなかったのかな。不快にさせてしまったかもしれない。
急いていた様子の彼女のことがちょっぴり気になったけれど、私になにかができるわけでもない。そのまま遥と一緒に昇降口を出て、今日のペンダント探しは終了した。



