ソースの焼ける香ばしい匂い、冷蔵庫の野菜が適当に混ぜられた栄養満点の焼きそばだ

(うみくん大丈夫かな...)

フライパンからジュージュー手に伝わる振動と脳裏に過ぎる帰宅前の会話

(心配しすぎか)

彼女について話したのは最近の事だし大丈夫と言った彼の顔と言動に齟齬は見つからなかった、こんなちょっとやそっとの事で揺れていたらうみくんにも迷惑だろうと気を引き締める

(よーし、ご飯も出来たし洗濯でも回すかぁ)

気持ちを切り替えてコンロの火を止めた時、玄関の方でガチャッと扉が開く音がして人が帰宅したのだとピョンッと跳ねた心臓のように足早に駆け寄った

「おかえっ..ぅわ、凄いな」

陽気に出迎えたつもりがまさかの出で立ちにビックリして目を見開く

「...?良かった〜風呂沸かしてあるから!風邪引く前に入りな?」

呆然と立ち尽くしてポタポタ水滴が玄関に水溜まりを作る、何となく今聞き出すよりは先に身体を温めて欲しかった

(んー、落ち込んでる?聞いた方がいいのかな...)

赤いボタンを押して揺れ出したドラム式洗濯機の中で回るびしょ濡れの衣服をしゃがみ込んで眺める、自分の考えもグルグルと回るようで頭を抱えたくなった、背後で微かに感じていたシャワー音が鳴り止み湯船に浸かって少しでも気持ちが解れたらいいな、何て思っていたらガラガラと浴室の戸が開いた

「ぉわっ、ごめんすぐ出る!」

悠長に物思いにふけっていたらまさかこんな早く出て来るとは思わず人の気配を背に立ち上がろうと足に力を込めた時ふんわり鼻腔を掠める甘い香りと背中に重さと熱を感じる

「つゆちゃん」

「...ちゃんと温まったの?」

か細く今にもちぎれそうな音に忙しなく回転していた脳が動きを止めてそっと首に回された水気を含む腕に触れた

「折角お風呂入ったのにまた冷めちゃうよ」

項に擦り付けるようにブンブンを首を左右に振られると擽っくて笑いそうになるのを必死で我慢して拒絶を示す後ろの人物を何とか説得しようとする

(俺も濡れてんだけどなぁ)

たっぷり水を吸収している髪が乾いたシャツ触れる度染みを広げてついでに言うのなら身体の水分も吸収されているだろう

「分かったから、じゃあ下だけでも履いてよ」

子供のように駄々を捏ねるデカくて重い身体を引きずって下着を手渡すと渋々と言うように片腕は俺に巻き付けたまま器用に履いていた

(はぁ〜、どうしたもんかねぇ)

背負った荷物を引き摺るようにリビングまで運んできてラグの上に転がすとそのまま眠ってしまったのか微動だにせず部屋から持ってきたブランケットをほぼ裸同然の身体に掛ける

(うみくんがこんな抜殻みたいになっちゃうなんて初めてだな...)

頭を撫でるように優しくタオルで髪の水分を拭って櫛を通す、肌も髪もケアを怠らないうみくんは俺が何かをしてあげるより先にいつも完璧でついでとばかりに俺の手入れもしてくれた

(まつ毛長いなぁ)

びっしりと伸びている目元は普段からこの重厚感だったのかそれとも湿りを帯びて存在感を増しているのか分からないが瞳を守るように下がっている

(だめだ、こんな時こそ俺がしっかりしないと!)

うみくんが俺にしてくれる事はいつも温かくてそれだけで元気にも幸せにもなれる、それを今返すべき時が来たのだとキッチンへ向かう

「たま〜ごにぎゅ〜にゅ〜っ、おっさとう♪」

静かに今出来たばかりの曲を口ずさんでお揃いのマグカップに砂糖とお湯を投入して電子レンジに放り込む

(卵は泡立てないように...久しぶりに作るから失敗しないといいけど)

ボウルに並んだオレンジの黄身がなんだか可愛いが遠慮せず牛乳や砂糖と共に混ぜていってレンジから取り出したマグカップに濾しながら注いでいく

(これほんとに簡単なんだよなぁ、後はレンジで気泡さえ入らなければ完璧なんだけど)

このスイーツの出来上がりの不安の種はやっぱりなんと言っても口当たりにある、固くても柔らかくても滑らかなのがプリンの美味しさだと持論を展開しながら様子を伺っていたマグカップの中の液も丁度良くなったので取り出してアルミホイルに包む

(リビングでも片付けるかぁ)

残るは冷ますだけになったのですぐにご飯を並べられるよう簡単に片しておく事にした

(まだ寝てる...)

余程疲れているのか息と共に微かに上下する毛布がないと心配になるレベルで普段の煌びやかさは鳴りを潜めて薄く無骨な身体を無防備に晒している

(大丈夫、うみくんは俺を置いていかないって言ってた)

出ていた肩を仕舞うように毛布を引き上げて大分乾いてきた頭に手を乗せる、雨の日は憂鬱だ、聞きたくもない嫌な報告を聞かされる日

(うみくんがいれば怖くない、俺に離れていかないでって泣いてたし俺の中にも"居る"んだ、だからずっと一緒だよね大丈夫...)

自分を落ち着かせるように丸い頭を抱き締めるのは幼い頃から変わっていない、ずっと安心する場所を求めて失わないように互いに強い誓約を課した

(...大丈夫?あぁ、本当はずっと大丈夫だったのか)

大切な大切な腕の中の存在、そして心の中に居る大切な人、その存在に気付いてしまえばずっと傍に居てくれたのに失ったものや苦しみ、悲しさばかりに目を向けて蔑ろにしてきた事を咎めるように応えが降ってくる

「うみくん?」

ふわりと心が緩むと同時に抱き締めていた塊がむくりと起き上がって瞳がくすんだように一点を見ている

「とりあえずえーいちの兄さんがやってるバーで働かせてもらうか」

パッと軽やかに放たれた言葉のニュアンスが表情とは掛け離れたもので頭がついて行かない

「バー?」

「そう、前に誘ってもらってさ、それで昼間もどっか働いて稼いだらさどっか遠い所、沖縄とかいいかもなー、のんびりしてそうだし穏やかで田舎なんかに住んで干渉されないような所でゆっくり暮らすの、でも暑いし北海道もいいな、食べ物も美味しそうだしさー、どこがいいかな?」

なんとか出た質問になんて事ないように返しているが顔が良いならそういった大人な仕事も様になるだろうなんて脳が情報過多に現実逃避し始める

「うみくんっ、どうしたの?」

「んー?学校なんか辞めてつゆちゃんとずっと二人でいれたら幸せだなって、ねぇ一緒に居てくれるでしょ?」

「...何かあったの?」

物量で押し切られる前に遮るとはっきり予想の遥か斜め上をいく回答が帰ってきてその場に取り残されたまま冷たい指先が頬に触れて光を失った暗い瞳が瞳を飲み込むように絡み合う

「教えてくれないんだね...二人なら何でも乗り越えられるって思ってくれてたんじゃないの?ねえうみくん、俺大丈夫だよ?そうだちょっとまってて!」

ここで流されては駄目だとどんな理由があってうみくんが遠くへ逃げるような焦りや不安に駆り立てられるような事があったのか、彼を弱くしているのは誰なのか、それはきっと自分しかいない

「今日はごちゃ混ぜ焼きそばだよ?スペシャルに目玉焼きも乗せました!あとデザートにプリンも付いてきますっ、お腹空いてると元気でないからね、食べたらゆっくり寝てまた考えよ?」

「...ごめんねつゆちゃん不安かな、でも大丈夫だから少し邪魔が入っただけ、分かってるよつゆちゃんは何も心配しなくていい、何も変わらないから安心して?」

「うみくん...」

うみくんの力になれると分かって欲しい、もう大丈夫なんだって元気付けるように並んだ食器を一瞥してうみくんは息を吸い込んだ、わざとらしく切り替えられた明るい声、毛布を広げて閉じ込めるように包み込まれる

「怖いよね守ってあげるからね、誰も何も君から取り上げない傷付けない、ずっと傍にいるよ?だからつゆちゃんはただ俺の横で声を掛けて笑い掛けてくれればいいんだよ?」

「やだ、やだっ」

宥めるように背中を撫でながら小さい子に言い聞かせる優しい声色を出して告げる悪魔、相手も感情も何も見えない言葉達に憤り温かい胸元に額をグリグリ押し付けて少しでも距離が縮まるように願う

「どうして?なんで?」

心がまた近くて遠い触れられない物になってしまったのが悲しい、ちゃんと今の俺を見てほしい

「だって、だってそんなの、んっ」

もう幼くてか弱いだけじゃない、綺麗な天使でもないとしっかり目を見て訴える前に開いた口を食べられて生暖かいものが口内を這いずる

「ぅんっ...はぁっ、うみくん?」

「それだけで頑張れたのに...つゆちゃん、大丈夫怖くないよ?優しくするから」

擽ったいような切ないような息苦しさから解放されて何が起きたのか呼吸を整えているうちに身体は床に寝かされて視界は天井とうみくんで一杯になっていた