楽田が走っていれば周りが喜んでくれたから、ずっと走っていた――と言うように、僕もまた、勉強さえしていれば周りが、特に親が喜ぶから、という理由で勉強ばかりしているようなやつだ。
もちろんそれに不満はなく、やればやっただけ、成果が数値化されて評価されるのはとても気分がいいし、わかりやすい。「これだけやったから、これだけの成績になった」というのが目に見えていると、俄然やる気になるし、改善点を見つけやすくもあるからだ。べつに、楽田が言うように頑張り屋なわけではない。
テストや勉強は一種のゲーム攻略に似ている、とも言われるが、そういう、僕にとってはある種のエンタメ性さえ感じられる。
でもそれが、万人に理解されるものだとは思ってはいない。例えば、目の前で中一の問題集で頭を抱える楽田なんかはそうなんじゃないかと。
「……無理っす。なんにもわかんねーっす……中一なんすか、これホントに……」
俺、中学出たのにぃ……と心底嘆く楽田の姿を見かねて、僕はつい声をかける。
「中学までは、よほど目に余らない限りは自動的に卒業できてしまうんだよ」
「目に余るって……悪いことするとか?」
「まあ、そんなとこ。で? どこがわかんない?」
開いているのは中学一年の前期頃にやるであろう、初歩も初歩の英会話のページ。家族の紹介をし合おうというあたりだろうか。白人と思われる女の子と、黒人と思われる男の子のイラストが、にこやかに話している吹き出しに書かれている虫食いを埋めていく問題だ。しかも、和訳もご丁寧に英文の下に書かれている。
「この二人が会話してるっつーのわかるんすけど、穴空いてるとこに何入れていいかわかんねえ……」
「この、“My brother John a lot ( )Hawii”の和訳は、“私の兄のジョンはハワイについてたくさん勉強している”って書いてあるだろ? 勉強する、は英語で何?」
「……なんだっけ? スタンド?」
「ちがう、スタンドは立つ。sがつくのは合ってるよ」
「スー、スー……スタデー?」
「スタディね。そうそれ」
テストまではあと半月ほどで、その期間は部活動の活動が短縮されたり自粛されたりする。楽田は飛びぬけて成績が悪いので、特例として今週頭から部活を休めと言われ、その分勉強に励めと言われているらしい。部としても、成績が悪いからエースをクビにしました、なんて避けたいのだろうし。
(まあ、そんなの外聞も悪いし、イメージが悪くなるだけだからね……とは言え……これ、間に合うの?)
高一の実力テストは高校入学以降に習ったことというより、中学までに学んだことの総ざらい、という感じが通例なので、まだ何とかなりそうかと思って、勉強を見てやるとは言ったものの……想像を上回る勉強嫌いと言うか、劣等生ぶりなのだ。
言い方は悪いが、「この程度もできないの?」と、何度口にしそうになったことか……それはさすがに人として口にしてはいけないと思ってはいるけれど。
しかしあまりに遅々として進んでいない気がするし、これでは中学三年間の五科目の総ざらいなんて時間が足らなすぎる。
「あー……わかんなすぎてイライラするっす……走ってきていいっすか?」
「気持ちはわかるけど、教室内でストレッチくらいで勘弁してね。どうせ君、走り出したら帰って来ないんだから」
昨日も同じようなやり取りをし、どうしても走りたい! と言うので、三十分だけなら……と、許可したら、二時間帰って来なかったのだ。日はとっくに傾いて、待てど暮らせど戻らない彼は、すっきりした顔で戻ってきて、「やっぱ走るの気持ちいいっすねー」とか笑っていたので、流石にその頭をはたいてやった。
「楽田が走るのがどうしようもなく好きなのは分かった。でも、そればっかりじゃ世の中やっていけないんだよ。そんな、いにしえのアフリカのサバンナで、動物と共に生きていく種族じゃないんだから」
昨日のことに絡めてそういう嫌味を言ってやったのだが、楽田の方は意に介している風ではなく、「あ、そっかー、そういうとこ行けばいいのかー」なんて呑気に納得している。頭がやわらかいと言えばそうなのかもしれないけれど、あまりに現実を見ていなさ過ぎて本当に腹が立つ。
「……君は本当にダチョウみたいだよね」
「ダチョウ? あの、すげー走る鳥っすか?」
「そう。ダチョウじゃ、飛べない上に走ることしかできない。速く走るために脳みそがものすごく軽くなったとも言われているほどなんだって」
「っはは、マジで俺みたいっすね! 走るしかできなくて、バカなとこ、すげえ似てる」
「……笑い事じゃないでしょ」
自分がバカにされてもいるとは思わないのだろうか? あまりに人が好すぎて、この先コロッと簡単に詐欺なんかに騙されそうで恐ろしくなってくる。その内、闇バイトなんかで片棒担がされたりしないだろうな? などと、大きなお世話を焼きそうになってしまう。
「ダチョウは鳥だから、走れればそれでいいかもしれないけど、君は人間でしょう? この先大人になって、社会でやっていくのに、走ることしかできない、なんて致命的じゃんか」
「ちめい? 東京とかっすか?」
「命に到る、という意味。つまり、命取りになるってこと。知識や特技が偏り過ぎていると、危ないってこと」
頭痛がしてきそうな会話の回路に溜め息が出そうになり、僕はこめかみを揉む。あまりに話したい話題に付随する言葉への説明に、時間がとられてしまうのが要因の一つかもしれない。わかりやすい言葉を選びつつ話をひとつひとつしていく。手間だし面倒臭いし、苛立ちがないわけではない。頭痛だってするし。
だけど、と僕は目の前で目をキラキラさせて話を聞いている楽田の顔を見ていると、その頭痛の痛みさえ(ほんの少しだけど)やわらいでしまうのだ。
人からこんな期待のこもっているのが、手に取るようにわかる目を向けられたことなんて初めてかもしれない……と、思いつつも、熱意もこもったそれはちょっと恥ずかしくもある。
「……何でこっち見てるの」
「やっぱ真木野さんって頭いいなーって思って。やっぱ頑張り屋だからですかね? てか、生まれながらの天才?」
「べつに、フツーだよ。多少の努力はしているけど」
「でも、本当に頭いい人ってのは、バカにもわかりやすく話をしてくれるって言うじゃないっすか。真木野さんの話、俺、すっごいわかりやすいっす! 勉強も……ちょっと」
語尾が小さくなりつつ、照れた様子で僕のことを手放しでほめてくる楽田の言葉が照れ臭くて、「そこはすごく、じゃないの?」と、茶々を入れるような言葉を返したのだけれど、内心、まんざらでもない気分でいた。
頭がいいなんて褒められ慣れているのに……なんで、彼に言われるとくすぐったく感じたり、嬉しいなんて思ってしまったりするんだろう。よくある言葉が、それこそ、キラキラして見える。
「あ、でも、前より勉強楽しいかもって思えるようになってきたっす。やっぱ真木野さんはすごいっすね!」
ついでのようにまた僕のことを誉め、楽田はニコニコしながら頬杖をついて僕の方を見つめてくる。日に焼けた肌に、凛々しく大きな目許が線のように細くなって笑っている。
(走っている時と、全然違う顔だな……なんだか無邪気過ぎて、怖いくらいだな)
ヒトを疑うことなんて露とも知らなそうな彼は、僕が陸上部の存続の鍵を握っているのかをどこまで理解しているのだろうか? すべてとはいかずとも、僕の一存でかなりの影響が出ることだってあり得るのに。
本能的に、僕にすり寄っていけば大丈夫だ、なんて思っているんだろうか? そんなうがった目を向けてしまいそうになるけれど、そうするにはあまりに楽田の僕に向けてくる言葉や眼差しに、疑うようなものが感じられない。
(ただ単に何も考えてないってだけなのかな……?)
あまりに裏が読めないし、感じられない彼の態度に翻弄されるように、僕はテストまでの日々の放課後を、こうして空いている教室でマンツーマンの家庭教師のように過ごしていた。
もちろんそれに不満はなく、やればやっただけ、成果が数値化されて評価されるのはとても気分がいいし、わかりやすい。「これだけやったから、これだけの成績になった」というのが目に見えていると、俄然やる気になるし、改善点を見つけやすくもあるからだ。べつに、楽田が言うように頑張り屋なわけではない。
テストや勉強は一種のゲーム攻略に似ている、とも言われるが、そういう、僕にとってはある種のエンタメ性さえ感じられる。
でもそれが、万人に理解されるものだとは思ってはいない。例えば、目の前で中一の問題集で頭を抱える楽田なんかはそうなんじゃないかと。
「……無理っす。なんにもわかんねーっす……中一なんすか、これホントに……」
俺、中学出たのにぃ……と心底嘆く楽田の姿を見かねて、僕はつい声をかける。
「中学までは、よほど目に余らない限りは自動的に卒業できてしまうんだよ」
「目に余るって……悪いことするとか?」
「まあ、そんなとこ。で? どこがわかんない?」
開いているのは中学一年の前期頃にやるであろう、初歩も初歩の英会話のページ。家族の紹介をし合おうというあたりだろうか。白人と思われる女の子と、黒人と思われる男の子のイラストが、にこやかに話している吹き出しに書かれている虫食いを埋めていく問題だ。しかも、和訳もご丁寧に英文の下に書かれている。
「この二人が会話してるっつーのわかるんすけど、穴空いてるとこに何入れていいかわかんねえ……」
「この、“My brother John a lot ( )Hawii”の和訳は、“私の兄のジョンはハワイについてたくさん勉強している”って書いてあるだろ? 勉強する、は英語で何?」
「……なんだっけ? スタンド?」
「ちがう、スタンドは立つ。sがつくのは合ってるよ」
「スー、スー……スタデー?」
「スタディね。そうそれ」
テストまではあと半月ほどで、その期間は部活動の活動が短縮されたり自粛されたりする。楽田は飛びぬけて成績が悪いので、特例として今週頭から部活を休めと言われ、その分勉強に励めと言われているらしい。部としても、成績が悪いからエースをクビにしました、なんて避けたいのだろうし。
(まあ、そんなの外聞も悪いし、イメージが悪くなるだけだからね……とは言え……これ、間に合うの?)
高一の実力テストは高校入学以降に習ったことというより、中学までに学んだことの総ざらい、という感じが通例なので、まだ何とかなりそうかと思って、勉強を見てやるとは言ったものの……想像を上回る勉強嫌いと言うか、劣等生ぶりなのだ。
言い方は悪いが、「この程度もできないの?」と、何度口にしそうになったことか……それはさすがに人として口にしてはいけないと思ってはいるけれど。
しかしあまりに遅々として進んでいない気がするし、これでは中学三年間の五科目の総ざらいなんて時間が足らなすぎる。
「あー……わかんなすぎてイライラするっす……走ってきていいっすか?」
「気持ちはわかるけど、教室内でストレッチくらいで勘弁してね。どうせ君、走り出したら帰って来ないんだから」
昨日も同じようなやり取りをし、どうしても走りたい! と言うので、三十分だけなら……と、許可したら、二時間帰って来なかったのだ。日はとっくに傾いて、待てど暮らせど戻らない彼は、すっきりした顔で戻ってきて、「やっぱ走るの気持ちいいっすねー」とか笑っていたので、流石にその頭をはたいてやった。
「楽田が走るのがどうしようもなく好きなのは分かった。でも、そればっかりじゃ世の中やっていけないんだよ。そんな、いにしえのアフリカのサバンナで、動物と共に生きていく種族じゃないんだから」
昨日のことに絡めてそういう嫌味を言ってやったのだが、楽田の方は意に介している風ではなく、「あ、そっかー、そういうとこ行けばいいのかー」なんて呑気に納得している。頭がやわらかいと言えばそうなのかもしれないけれど、あまりに現実を見ていなさ過ぎて本当に腹が立つ。
「……君は本当にダチョウみたいだよね」
「ダチョウ? あの、すげー走る鳥っすか?」
「そう。ダチョウじゃ、飛べない上に走ることしかできない。速く走るために脳みそがものすごく軽くなったとも言われているほどなんだって」
「っはは、マジで俺みたいっすね! 走るしかできなくて、バカなとこ、すげえ似てる」
「……笑い事じゃないでしょ」
自分がバカにされてもいるとは思わないのだろうか? あまりに人が好すぎて、この先コロッと簡単に詐欺なんかに騙されそうで恐ろしくなってくる。その内、闇バイトなんかで片棒担がされたりしないだろうな? などと、大きなお世話を焼きそうになってしまう。
「ダチョウは鳥だから、走れればそれでいいかもしれないけど、君は人間でしょう? この先大人になって、社会でやっていくのに、走ることしかできない、なんて致命的じゃんか」
「ちめい? 東京とかっすか?」
「命に到る、という意味。つまり、命取りになるってこと。知識や特技が偏り過ぎていると、危ないってこと」
頭痛がしてきそうな会話の回路に溜め息が出そうになり、僕はこめかみを揉む。あまりに話したい話題に付随する言葉への説明に、時間がとられてしまうのが要因の一つかもしれない。わかりやすい言葉を選びつつ話をひとつひとつしていく。手間だし面倒臭いし、苛立ちがないわけではない。頭痛だってするし。
だけど、と僕は目の前で目をキラキラさせて話を聞いている楽田の顔を見ていると、その頭痛の痛みさえ(ほんの少しだけど)やわらいでしまうのだ。
人からこんな期待のこもっているのが、手に取るようにわかる目を向けられたことなんて初めてかもしれない……と、思いつつも、熱意もこもったそれはちょっと恥ずかしくもある。
「……何でこっち見てるの」
「やっぱ真木野さんって頭いいなーって思って。やっぱ頑張り屋だからですかね? てか、生まれながらの天才?」
「べつに、フツーだよ。多少の努力はしているけど」
「でも、本当に頭いい人ってのは、バカにもわかりやすく話をしてくれるって言うじゃないっすか。真木野さんの話、俺、すっごいわかりやすいっす! 勉強も……ちょっと」
語尾が小さくなりつつ、照れた様子で僕のことを手放しでほめてくる楽田の言葉が照れ臭くて、「そこはすごく、じゃないの?」と、茶々を入れるような言葉を返したのだけれど、内心、まんざらでもない気分でいた。
頭がいいなんて褒められ慣れているのに……なんで、彼に言われるとくすぐったく感じたり、嬉しいなんて思ってしまったりするんだろう。よくある言葉が、それこそ、キラキラして見える。
「あ、でも、前より勉強楽しいかもって思えるようになってきたっす。やっぱ真木野さんはすごいっすね!」
ついでのようにまた僕のことを誉め、楽田はニコニコしながら頬杖をついて僕の方を見つめてくる。日に焼けた肌に、凛々しく大きな目許が線のように細くなって笑っている。
(走っている時と、全然違う顔だな……なんだか無邪気過ぎて、怖いくらいだな)
ヒトを疑うことなんて露とも知らなそうな彼は、僕が陸上部の存続の鍵を握っているのかをどこまで理解しているのだろうか? すべてとはいかずとも、僕の一存でかなりの影響が出ることだってあり得るのに。
本能的に、僕にすり寄っていけば大丈夫だ、なんて思っているんだろうか? そんなうがった目を向けてしまいそうになるけれど、そうするにはあまりに楽田の僕に向けてくる言葉や眼差しに、疑うようなものが感じられない。
(ただ単に何も考えてないってだけなのかな……?)
あまりに裏が読めないし、感じられない彼の態度に翻弄されるように、僕はテストまでの日々の放課後を、こうして空いている教室でマンツーマンの家庭教師のように過ごしていた。



