その内に定例会はお開きになり、僕は生徒会室を出て校舎から抜けて生徒通用口へ向かう。
一階にあるそこへ着いて靴を履き替えようとした時、いつになく浮かない顔をしている楽田がふらりとした足取りで近くを横切ったのだ。
いつもぱっちりと覇気のある大きな目許は伏し目がちで、長い睫毛が憂いを演出していていっそ色気まである。日に焼けた肌のせいもあって十六歳とは思えない雰囲気に僕の胸が高鳴ってしまう。
だからなのか、「楽田、」と、無意識に彼の名を呼んでいた。
楽田は僕の声に立ち止まり、ゆるりと顔をあげ、そしてたちまち輝くような笑みを浮かべ――たかと思ったら、また弱く目を伏せる。
明らかにいつもより元気がない様子に、流石の僕も気になってしまい、「なんかあったの?」と、つい、訊いてしまっていた。
楽田は僕からそんなことを訊かれると思っていなかったのか、え? と一瞬目を丸くし、そして泣きそうに目を潤ませながら手を握りしめてすがるように訴えてきたのだ。
「どうしよう、真木野さん……俺、もう走れないかも……」
「え? なんでそんな……ケガ?」
「体は元気っす。そうじゃなくて、ショックで元気ないっつーか、その……」
雨に打たれた子犬のように目に見えてしょ気る姿が、上背のある彼の姿との対比にギャップがあって、つい、笑いそうになってしまう。かわいいな、なんてついうっかりそんなことを思ってしまうほどに。
しかし楽田は本気で気落ちしているようなので、ひとまず通用口から出て、校門前の広場のベンチに座って話をすることにした。
「で? 何をそんな走れないって言うくらいのショック受けたの?」
昔のボクシング漫画のキャラクターみたいに、白く燃え尽きて肩を落としているように見える楽田に改めて訊いてみると、楽田はハーッと大きく息を吐いて話を切り出した。
「あの……俺、すっげーバカなんすよ」
それは知っている、何となく知っている……とはさすがの僕でも面と向かっては言いづらいので、「はあ、まあ……」と、曖昧に相槌を打ちつつ、ダチョウの姿が脳裏に浮かんでなんだかヘンに気まずい……。もちろん構わず楽田は続ける。
「走ることはガキの頃からすっげー好きで、走ってればしあわせなんすよ、俺。親とか友達とかも、速く走って一等賞とかとったら褒めてくれたし」
まあ、走るのが速いやつというのは大方そんなもんだろうな、と僕は思っているし、実際そうらしい。その陽キャ然としたところが、僕が一層苦手だなと思う所でもあるんだけれど。
しかし、「でもそういうのは、小学生まででしたね」と、楽田は珍しく悲しそうな、それでいて自嘲を含む顔で弱く笑う。
「中学行って、陸上部入って、大会とか出るようになって、記録とか出すとみんな喜んでくれるし、褒めてくれるんすよ。んで、日本二位になれたし」
「そうらしいね。でもなんで、ウチの高校なんて選んだんだ? 楽田なら、もっと陸上が有名なとこがいっぱいあっただろうに」
「まあ、そうなんすけど……」
そこまで話をして、楽田は口ごもり始め、きゅっと唇をかむ。なんだか恥じ入るような感じでもあり、いつもあけすけのように見える彼が、そうまでするものが何なのかが気になってしまう。
「何か理由が?」と、内心気が急きながら訊ねてしまうと、楽田は悲しそうに答える。
「言ったじゃないっすか、俺、すっげーバカだ、って」
「え、ああ、うん……でもそれって言葉の綾とかじゃ……」
「コトバノアヤ?」
まるで難読暗号でも聞いたような、宇宙猫の様な顔をしている楽田の様子から、僕は何かを察し、戸惑いを覚える。
もしかして……という勘のようなものに、僕は曖昧に笑って否定しようとするも、それはあっさりと本人の言葉で打ち消されてしまった。悲しい顔して、悲しい笑みを浮かべている楽田に。
「ね? 俺、そういうのわかんないくらい、バカなんすよ……だから折角、推薦? の話が来ても……“ちょっと、これくらいはできて頂かないと……”なんて言われちゃって……」
推薦入試でも、多少の学力調査という名の試験はあるという。ほとんどの場合、名前をかければそれでいい、なんて言われることもあったようだけれど、最近ではある程度の学力がないといけない学校もあるらしく、楽田が推薦入試を受けようとしたところは、ことごとく学力が及ばなかったというのだ。
「んで、ここは、陸上部が兎に角にヒトが欲しいから、って言われて……まあ、ぶっちゃけ、九九と小学校の漢字がわかってるならいい、って言われて……」
あ、もちろんもう少しできるっすよ! と、楽田は謎のフォローを入れて来たが、あまり意味はないように思われる。何せ、推薦入試に受からないほどの学力かもしれない、のだから。
楽田は大きく溜め息をつき、涙目になりならが「折角、高校でも思い切り走れると思ってたのに……」と呟く。その言葉から、先程の生徒会室での会話を思い出した。
先程浩輝たちの話だと、陸上部はテスト成績に関する謎ルールが異様に厳しく、それで部員が激減した過去があるくらいだという。
ここまでの情報だけで推測するに……もしかして、楽田は、本当に、陸上部をクビになりそうなのか? ということだ。
「高校は義務教育じゃないから、勉強もちゃんとしなきゃ卒業はできないし、それどころか一年から二年にもなれないぞ、って中学の先生から言われてたんすけど……まさか、部活の中で、“これだけ点数取って来なきゃクビ!”って言われるなんて……」
「あー、それはね、楽田……」
思わずフォローを入れようかと思うほどの落胆ぶりに、僕はかなり動揺していた。まさか、そんなにも彼は勉強が苦手だなんて思わなかったからだ。
陸上部は廃部になって欲しいけれど、でも、その手段が学力の成績でエースと呼ばれる彼を追い詰めて辞めさせるのはさすがになんか違う気がする。しかもそのルールとやらには僕は一ミリも加味していないのだから。
(でもだからって、僕から大丈夫だよ、と言っていいものじゃないし……それは無責任すぎる……)
どうしたものか、と僕までも黙り込んで悩んでいると、いつの間にか当然のように握りしめられていた手の力が強くなって、楽田が文字通りすがるようにしながらこう聞いてきた。
「真木野さんって、すっげー頭いいんすよね? なんか、校内のテストでいつも五位内に入ってるって……」
「……まあ、勉強は、嫌いではないから……」
というよりも、勉強しか僕はできないのだ。足も速くないし、体力もそんなにないから真面目に机に座って勉強するしかない。それでも、あの時の好きだった人にバトンを渡したくて、一生懸命走ったこともあった。あったけれど――それは、踏みつけられるように破れてしまった恋だったけれど。
「俺、真木野さんみたいに勉強頑張れるようになりたいっす。どうしたらいいっすか?」
縋るように向けられる眼が、どことなくあの彼を彷彿とさせて胸が騒ぐ。まるで、あの時の贖罪をされているような気になってしまって、心が揺らいで、困っている目の前の彼を助けたくなってしまう。
――だからなのか、つい、口走っていた。
「じゃ、じゃあ……僕が、勉強みてあげようか?」
口走った瞬間、自分の耳を疑ったが、もう時はすでに遅い。すがるように握りしめられていた手ごと引き寄せられ、気付けば楽田の腕の中にいたのだから。
「マジっすか! マジっすか、真木野さん!! 超うれしいっす! 真木野さんいたら百万力っす!!」
敵に塩を送るどころか、米も魚も送ってしまったような気分だ――だけど、いやな気分どころか、ほんのり嬉しく思ってしまっているのはどうしてだろう。
解らない感情と、余計に心をかき乱す抱擁の中、僕は軽く途方に暮れていた。
一階にあるそこへ着いて靴を履き替えようとした時、いつになく浮かない顔をしている楽田がふらりとした足取りで近くを横切ったのだ。
いつもぱっちりと覇気のある大きな目許は伏し目がちで、長い睫毛が憂いを演出していていっそ色気まである。日に焼けた肌のせいもあって十六歳とは思えない雰囲気に僕の胸が高鳴ってしまう。
だからなのか、「楽田、」と、無意識に彼の名を呼んでいた。
楽田は僕の声に立ち止まり、ゆるりと顔をあげ、そしてたちまち輝くような笑みを浮かべ――たかと思ったら、また弱く目を伏せる。
明らかにいつもより元気がない様子に、流石の僕も気になってしまい、「なんかあったの?」と、つい、訊いてしまっていた。
楽田は僕からそんなことを訊かれると思っていなかったのか、え? と一瞬目を丸くし、そして泣きそうに目を潤ませながら手を握りしめてすがるように訴えてきたのだ。
「どうしよう、真木野さん……俺、もう走れないかも……」
「え? なんでそんな……ケガ?」
「体は元気っす。そうじゃなくて、ショックで元気ないっつーか、その……」
雨に打たれた子犬のように目に見えてしょ気る姿が、上背のある彼の姿との対比にギャップがあって、つい、笑いそうになってしまう。かわいいな、なんてついうっかりそんなことを思ってしまうほどに。
しかし楽田は本気で気落ちしているようなので、ひとまず通用口から出て、校門前の広場のベンチに座って話をすることにした。
「で? 何をそんな走れないって言うくらいのショック受けたの?」
昔のボクシング漫画のキャラクターみたいに、白く燃え尽きて肩を落としているように見える楽田に改めて訊いてみると、楽田はハーッと大きく息を吐いて話を切り出した。
「あの……俺、すっげーバカなんすよ」
それは知っている、何となく知っている……とはさすがの僕でも面と向かっては言いづらいので、「はあ、まあ……」と、曖昧に相槌を打ちつつ、ダチョウの姿が脳裏に浮かんでなんだかヘンに気まずい……。もちろん構わず楽田は続ける。
「走ることはガキの頃からすっげー好きで、走ってればしあわせなんすよ、俺。親とか友達とかも、速く走って一等賞とかとったら褒めてくれたし」
まあ、走るのが速いやつというのは大方そんなもんだろうな、と僕は思っているし、実際そうらしい。その陽キャ然としたところが、僕が一層苦手だなと思う所でもあるんだけれど。
しかし、「でもそういうのは、小学生まででしたね」と、楽田は珍しく悲しそうな、それでいて自嘲を含む顔で弱く笑う。
「中学行って、陸上部入って、大会とか出るようになって、記録とか出すとみんな喜んでくれるし、褒めてくれるんすよ。んで、日本二位になれたし」
「そうらしいね。でもなんで、ウチの高校なんて選んだんだ? 楽田なら、もっと陸上が有名なとこがいっぱいあっただろうに」
「まあ、そうなんすけど……」
そこまで話をして、楽田は口ごもり始め、きゅっと唇をかむ。なんだか恥じ入るような感じでもあり、いつもあけすけのように見える彼が、そうまでするものが何なのかが気になってしまう。
「何か理由が?」と、内心気が急きながら訊ねてしまうと、楽田は悲しそうに答える。
「言ったじゃないっすか、俺、すっげーバカだ、って」
「え、ああ、うん……でもそれって言葉の綾とかじゃ……」
「コトバノアヤ?」
まるで難読暗号でも聞いたような、宇宙猫の様な顔をしている楽田の様子から、僕は何かを察し、戸惑いを覚える。
もしかして……という勘のようなものに、僕は曖昧に笑って否定しようとするも、それはあっさりと本人の言葉で打ち消されてしまった。悲しい顔して、悲しい笑みを浮かべている楽田に。
「ね? 俺、そういうのわかんないくらい、バカなんすよ……だから折角、推薦? の話が来ても……“ちょっと、これくらいはできて頂かないと……”なんて言われちゃって……」
推薦入試でも、多少の学力調査という名の試験はあるという。ほとんどの場合、名前をかければそれでいい、なんて言われることもあったようだけれど、最近ではある程度の学力がないといけない学校もあるらしく、楽田が推薦入試を受けようとしたところは、ことごとく学力が及ばなかったというのだ。
「んで、ここは、陸上部が兎に角にヒトが欲しいから、って言われて……まあ、ぶっちゃけ、九九と小学校の漢字がわかってるならいい、って言われて……」
あ、もちろんもう少しできるっすよ! と、楽田は謎のフォローを入れて来たが、あまり意味はないように思われる。何せ、推薦入試に受からないほどの学力かもしれない、のだから。
楽田は大きく溜め息をつき、涙目になりならが「折角、高校でも思い切り走れると思ってたのに……」と呟く。その言葉から、先程の生徒会室での会話を思い出した。
先程浩輝たちの話だと、陸上部はテスト成績に関する謎ルールが異様に厳しく、それで部員が激減した過去があるくらいだという。
ここまでの情報だけで推測するに……もしかして、楽田は、本当に、陸上部をクビになりそうなのか? ということだ。
「高校は義務教育じゃないから、勉強もちゃんとしなきゃ卒業はできないし、それどころか一年から二年にもなれないぞ、って中学の先生から言われてたんすけど……まさか、部活の中で、“これだけ点数取って来なきゃクビ!”って言われるなんて……」
「あー、それはね、楽田……」
思わずフォローを入れようかと思うほどの落胆ぶりに、僕はかなり動揺していた。まさか、そんなにも彼は勉強が苦手だなんて思わなかったからだ。
陸上部は廃部になって欲しいけれど、でも、その手段が学力の成績でエースと呼ばれる彼を追い詰めて辞めさせるのはさすがになんか違う気がする。しかもそのルールとやらには僕は一ミリも加味していないのだから。
(でもだからって、僕から大丈夫だよ、と言っていいものじゃないし……それは無責任すぎる……)
どうしたものか、と僕までも黙り込んで悩んでいると、いつの間にか当然のように握りしめられていた手の力が強くなって、楽田が文字通りすがるようにしながらこう聞いてきた。
「真木野さんって、すっげー頭いいんすよね? なんか、校内のテストでいつも五位内に入ってるって……」
「……まあ、勉強は、嫌いではないから……」
というよりも、勉強しか僕はできないのだ。足も速くないし、体力もそんなにないから真面目に机に座って勉強するしかない。それでも、あの時の好きだった人にバトンを渡したくて、一生懸命走ったこともあった。あったけれど――それは、踏みつけられるように破れてしまった恋だったけれど。
「俺、真木野さんみたいに勉強頑張れるようになりたいっす。どうしたらいいっすか?」
縋るように向けられる眼が、どことなくあの彼を彷彿とさせて胸が騒ぐ。まるで、あの時の贖罪をされているような気になってしまって、心が揺らいで、困っている目の前の彼を助けたくなってしまう。
――だからなのか、つい、口走っていた。
「じゃ、じゃあ……僕が、勉強みてあげようか?」
口走った瞬間、自分の耳を疑ったが、もう時はすでに遅い。すがるように握りしめられていた手ごと引き寄せられ、気付けば楽田の腕の中にいたのだから。
「マジっすか! マジっすか、真木野さん!! 超うれしいっす! 真木野さんいたら百万力っす!!」
敵に塩を送るどころか、米も魚も送ってしまったような気分だ――だけど、いやな気分どころか、ほんのり嬉しく思ってしまっているのはどうしてだろう。
解らない感情と、余計に心をかき乱す抱擁の中、僕は軽く途方に暮れていた。



