署名活動も梅雨に入る頃には、陸上部存続願いの騒動はひと段落したのか、署名された用紙が届くことはぐっと減った。
しかしそれでも陸上部へのエールのようなものは衰えないようで、カンパが立ち上がるほどではないが、校内で練習をしていれば声がかかるし、競技会を見に行って応援する、という生徒もちらほらいるらしい。
その中の一人に浩輝もどうやら入っているらしく、先週末に行われた新人戦を見に行ったという。
「いやー、マジですごかったよ。グランドで練習してるのを見た時もすげえなぁって思ったけど、比じゃないんだよね」
定例会後、興奮気味にそう話している浩輝の様子を、僕は半眼で見つめているのだが、彼は構う様子なく喋り続ける。
「競技会って言うくらいだからさ、周り中速いやつだらけなわけじゃん? 学校一がいっぱいって言う。でもさ、楽田はその中でも飛びぬけてる感じだったな」
「中学で日本二位だったんだから当然じゃないですか?」
「そう思うでしょ、柿田さん。でもさ、高校生ともなると回りだってレベルアップしてるわけよ。楽田が飛びぬけてると言ったけど、めちゃくちゃ、ってわけじゃなかったからなぁ」
いつの間にか陸上競技の評論家のようなことを言いだした浩輝に、ますます僕は呆れたような目を向けたけれど、内心は少し安心もしていたのだ。それは、楽田が中学時代の余韻そのままに、高校でも楽勝で記録を作ってしまうのではないか、それにより、あっさりと廃部の件がクリアされてしまうのではないか、とひやひやしてもいたからだ。
(まあ、流石の世の中そんなに甘くはないか……)
陸上部の廃部が一歩近づくか、という喜ばしく思えるはずの話なのに、なんだかいままでのように手放しで喜べない。なんだか、薄く後ろめたさを感じるのだ。
後ろめたさ? 僕はちゃんと公正なルールを作り、それに則ってやっているだけの話だ。陸上部が、目の仇とは言え、合法的に抹消できるようにしているだけだから、後ろめたさなんて感じる義理もないはず。それなのに……なんで、楽田が高校陸上では苦労しそうだ、という素人推測を聞いただけで、なにか心構えが揺らぎそうなことを感じているのだろう。
いやいやそんなの気のせいだ……ただ少し、楽田の練習する姿とかを何度か目の当たりにしただけで、情が湧いたわけでは決してない……はず。
ひとりそうやって悶々と考えていると、「真木野くんもそう思う?」と、不意に柿田から話を振られた。
「え? 何?」
「だからね、真木野くんも、畑さんが言うみたいに、楽田くんは高校では苦労しそうって思う?」
「……なんで僕に訊くの?」
「だって、真木野くんは楽田くんと仲がいいじゃない」
「良くない」
「でも好かれてはいるでしょう? 何か練習秘話とかないの?」
「それは別に彼の高校での活躍に関係はないんじゃない? 柿田さんが知りたいだけでしょ?」
あ、バレた? なんて柿田はペロッと舌を出しておどけた感じに笑ったけれど、僕としては何も知らないので、そう答えたに過ぎない。
先月に来年度の陸上部の見通しについて話をしに行き、その時に練習の様子を目にしてからというもの、楽田はやたら僕に懐いてくる。子犬がすり寄ってくる、というよりも、ヒナの擦り込みのように、授業時間以外は後をついてくるのだ。
食堂に行けば向かいの席に座って同じものを食べ、空き時間で教室にいれば、上級生の教室でも臆することなく入って来て、「今日の練習も見に来てくださいよ!」と、毎度誘ってくる。その熱烈と言うか執着とも言える熱心さのせいで、僕は彼に口説かれているという噂が再燃してもいる。だから、仲がいいんでしょ? なんて言うのだ。
楽田はその整った容姿と、相反するように度の過ぎた天然とのギャップで、かなり女子からの人気が高い。
それだけなら男子から嫉妬されたりしそうなものなのだが、彼の天然な性格が規格外なせいか、敵視するにも及ばないというのか、庇護欲でも刺激されるのか、多少の陰口をたたかれることはあっても、あからさまな嫌がらせはされていないようなのだ。
「人徳ってやつ? あんなにイケメンなのに天然とか、ズルい通り越して国宝だもんね。守りたい、その笑顔」
「青川さん、タイプなんですかぁ?」
「だってさぁ、かわいすぎでしょ。“周回わかんなくなるから百メートルしか走れない”なんて」
そう、短距離にはもったいないと言われるスタミナを持ちながらも、楽田が百メートルだけを走る理由。先日たまたままた練習している場に、浩輝と居合わせ、世間話を(浩輝が)していた時に出た話で、楽田がそう答えたのだ。
「中学んとき、一万メートルとかやったんすけどねぇ……俺、バカだから、“いま何周走ってるっけ?”ってなっちゃって、永遠に走っちゃうんすよー」
永遠に走る、も実はあながち嘘じゃないらしく、教師とかが止めに入らないと、楽田は倒れるまで走ってしまう傾向があるらしいのだ。実際、中学の体育祭で長距離を走らされた時、周回がわからなくなって、最後まで一人走っていたらしい。そして、倒れた、という。
(それって、天然過ぎる、で片づけていいの? 色々大丈夫なの?)
目の敵にしている陸上部の人間とは言え、普通に一人の対人間として心配になってくるエピソードに、僕は収支を記載するデータを作成していた手が停まりそうになる。
(確か、ダチョウは走ることしか能がなくて、ちょっとアレだっていう話があるけど……そこまで似てなくてもいいだろうに……)
いやべつに、彼がどういうやつであろうと、陸上をやっているやつなんだからそんなもんだろう……と、相変わらずの偏見で考えをシャットダウンし、手許の作業に没頭していく。
「そんなに天然なの? じゃあ、今度の実力テストとか大変なんじゃない?」
「あー……確かに心配ですねぇ」
明花高校は二期制で、夏休み明けと年明けに期末試験がある。その合間に、実力テストと称した、内申や成績表に影響の出る定期考査と同じ扱いのテストが行われる。それが、実はかなりくせ者なのだ。
部活動によっては、テストの取得点数の平均点が何点以上で在籍していい、なんて決まりを独自に作っている部もあったりする。それはやはり、文武両道を一応の学校の指針にしているからかもしれない。私立学校でもあるから、その辺りの評判も関係しているのかもしれないが。
「陸上部も、何かルールあるんですか?」
僕が聞くともなしに浩輝に話を向けると、浩輝は少し困ったような顔をしてうなずく。
「あるらしいんだよねぇ。まだ陸上部が大所帯だった時のルールが。それがかなり厳しくてね、そのせいで陸上部の部員が減ってしまったって話らしいよ」
「……そんなに?」
「例えば、主要五科目のテストの実力テストなら平均点数は八十点、期末試験もほぼ同じ感じかな。もちろん赤点は一つでもあったら即除籍」
「え、そこまで?」
「“体育会系は脳筋だから”って言う汚名返上の為にそういうルール作った部は多いみたいだよ、運動部は特に」
「ひぇ、厳しいですねぇ~」と、柿田は大袈裟に悲鳴を上げ、でしょう? と、浩輝は同情するように、これまた大袈裟に眉を下げる。
浩輝の言葉にギクリと胸が鳴り、僕は居た堪れなくなって俯く。自分の中に巣食う偏見を、突然白日に曝された気がしたからだ。心なしか、浩輝の視線を感じなくはなかったけれど、動揺を悟られまいと作業を何食わぬ顔で続ける。
収支の帳簿をつけながら、ふと、考える。もし、楽田が陸上部のルールに沿えないほどに、学力の成績の方も“軽薄”だったら?
(そうなったら、楽田は陸上部を除籍になるだろうし……そうなったら、陸上部の来年度以降の活動の道は閉ざされる……そして、廃部にもなるかも……?)
願ったり叶ったりじゃないか、という声が脳内に聞こえた気がした。でも、そうだな、とうなずけない自分もいる。廃部になって僕の眼の前から、足の速い奴が集う場の象徴である陸上部がなくなるのは、悲願にも似ているのに……なんで、チャンスだ、なんて思えないんだろう。なんか、あんまりフェアな気がしない……別に、それは僕が考えたルールではなく、彼らが作ったルールも同然なのに。
しかしそれでも陸上部へのエールのようなものは衰えないようで、カンパが立ち上がるほどではないが、校内で練習をしていれば声がかかるし、競技会を見に行って応援する、という生徒もちらほらいるらしい。
その中の一人に浩輝もどうやら入っているらしく、先週末に行われた新人戦を見に行ったという。
「いやー、マジですごかったよ。グランドで練習してるのを見た時もすげえなぁって思ったけど、比じゃないんだよね」
定例会後、興奮気味にそう話している浩輝の様子を、僕は半眼で見つめているのだが、彼は構う様子なく喋り続ける。
「競技会って言うくらいだからさ、周り中速いやつだらけなわけじゃん? 学校一がいっぱいって言う。でもさ、楽田はその中でも飛びぬけてる感じだったな」
「中学で日本二位だったんだから当然じゃないですか?」
「そう思うでしょ、柿田さん。でもさ、高校生ともなると回りだってレベルアップしてるわけよ。楽田が飛びぬけてると言ったけど、めちゃくちゃ、ってわけじゃなかったからなぁ」
いつの間にか陸上競技の評論家のようなことを言いだした浩輝に、ますます僕は呆れたような目を向けたけれど、内心は少し安心もしていたのだ。それは、楽田が中学時代の余韻そのままに、高校でも楽勝で記録を作ってしまうのではないか、それにより、あっさりと廃部の件がクリアされてしまうのではないか、とひやひやしてもいたからだ。
(まあ、流石の世の中そんなに甘くはないか……)
陸上部の廃部が一歩近づくか、という喜ばしく思えるはずの話なのに、なんだかいままでのように手放しで喜べない。なんだか、薄く後ろめたさを感じるのだ。
後ろめたさ? 僕はちゃんと公正なルールを作り、それに則ってやっているだけの話だ。陸上部が、目の仇とは言え、合法的に抹消できるようにしているだけだから、後ろめたさなんて感じる義理もないはず。それなのに……なんで、楽田が高校陸上では苦労しそうだ、という素人推測を聞いただけで、なにか心構えが揺らぎそうなことを感じているのだろう。
いやいやそんなの気のせいだ……ただ少し、楽田の練習する姿とかを何度か目の当たりにしただけで、情が湧いたわけでは決してない……はず。
ひとりそうやって悶々と考えていると、「真木野くんもそう思う?」と、不意に柿田から話を振られた。
「え? 何?」
「だからね、真木野くんも、畑さんが言うみたいに、楽田くんは高校では苦労しそうって思う?」
「……なんで僕に訊くの?」
「だって、真木野くんは楽田くんと仲がいいじゃない」
「良くない」
「でも好かれてはいるでしょう? 何か練習秘話とかないの?」
「それは別に彼の高校での活躍に関係はないんじゃない? 柿田さんが知りたいだけでしょ?」
あ、バレた? なんて柿田はペロッと舌を出しておどけた感じに笑ったけれど、僕としては何も知らないので、そう答えたに過ぎない。
先月に来年度の陸上部の見通しについて話をしに行き、その時に練習の様子を目にしてからというもの、楽田はやたら僕に懐いてくる。子犬がすり寄ってくる、というよりも、ヒナの擦り込みのように、授業時間以外は後をついてくるのだ。
食堂に行けば向かいの席に座って同じものを食べ、空き時間で教室にいれば、上級生の教室でも臆することなく入って来て、「今日の練習も見に来てくださいよ!」と、毎度誘ってくる。その熱烈と言うか執着とも言える熱心さのせいで、僕は彼に口説かれているという噂が再燃してもいる。だから、仲がいいんでしょ? なんて言うのだ。
楽田はその整った容姿と、相反するように度の過ぎた天然とのギャップで、かなり女子からの人気が高い。
それだけなら男子から嫉妬されたりしそうなものなのだが、彼の天然な性格が規格外なせいか、敵視するにも及ばないというのか、庇護欲でも刺激されるのか、多少の陰口をたたかれることはあっても、あからさまな嫌がらせはされていないようなのだ。
「人徳ってやつ? あんなにイケメンなのに天然とか、ズルい通り越して国宝だもんね。守りたい、その笑顔」
「青川さん、タイプなんですかぁ?」
「だってさぁ、かわいすぎでしょ。“周回わかんなくなるから百メートルしか走れない”なんて」
そう、短距離にはもったいないと言われるスタミナを持ちながらも、楽田が百メートルだけを走る理由。先日たまたままた練習している場に、浩輝と居合わせ、世間話を(浩輝が)していた時に出た話で、楽田がそう答えたのだ。
「中学んとき、一万メートルとかやったんすけどねぇ……俺、バカだから、“いま何周走ってるっけ?”ってなっちゃって、永遠に走っちゃうんすよー」
永遠に走る、も実はあながち嘘じゃないらしく、教師とかが止めに入らないと、楽田は倒れるまで走ってしまう傾向があるらしいのだ。実際、中学の体育祭で長距離を走らされた時、周回がわからなくなって、最後まで一人走っていたらしい。そして、倒れた、という。
(それって、天然過ぎる、で片づけていいの? 色々大丈夫なの?)
目の敵にしている陸上部の人間とは言え、普通に一人の対人間として心配になってくるエピソードに、僕は収支を記載するデータを作成していた手が停まりそうになる。
(確か、ダチョウは走ることしか能がなくて、ちょっとアレだっていう話があるけど……そこまで似てなくてもいいだろうに……)
いやべつに、彼がどういうやつであろうと、陸上をやっているやつなんだからそんなもんだろう……と、相変わらずの偏見で考えをシャットダウンし、手許の作業に没頭していく。
「そんなに天然なの? じゃあ、今度の実力テストとか大変なんじゃない?」
「あー……確かに心配ですねぇ」
明花高校は二期制で、夏休み明けと年明けに期末試験がある。その合間に、実力テストと称した、内申や成績表に影響の出る定期考査と同じ扱いのテストが行われる。それが、実はかなりくせ者なのだ。
部活動によっては、テストの取得点数の平均点が何点以上で在籍していい、なんて決まりを独自に作っている部もあったりする。それはやはり、文武両道を一応の学校の指針にしているからかもしれない。私立学校でもあるから、その辺りの評判も関係しているのかもしれないが。
「陸上部も、何かルールあるんですか?」
僕が聞くともなしに浩輝に話を向けると、浩輝は少し困ったような顔をしてうなずく。
「あるらしいんだよねぇ。まだ陸上部が大所帯だった時のルールが。それがかなり厳しくてね、そのせいで陸上部の部員が減ってしまったって話らしいよ」
「……そんなに?」
「例えば、主要五科目のテストの実力テストなら平均点数は八十点、期末試験もほぼ同じ感じかな。もちろん赤点は一つでもあったら即除籍」
「え、そこまで?」
「“体育会系は脳筋だから”って言う汚名返上の為にそういうルール作った部は多いみたいだよ、運動部は特に」
「ひぇ、厳しいですねぇ~」と、柿田は大袈裟に悲鳴を上げ、でしょう? と、浩輝は同情するように、これまた大袈裟に眉を下げる。
浩輝の言葉にギクリと胸が鳴り、僕は居た堪れなくなって俯く。自分の中に巣食う偏見を、突然白日に曝された気がしたからだ。心なしか、浩輝の視線を感じなくはなかったけれど、動揺を悟られまいと作業を何食わぬ顔で続ける。
収支の帳簿をつけながら、ふと、考える。もし、楽田が陸上部のルールに沿えないほどに、学力の成績の方も“軽薄”だったら?
(そうなったら、楽田は陸上部を除籍になるだろうし……そうなったら、陸上部の来年度以降の活動の道は閉ざされる……そして、廃部にもなるかも……?)
願ったり叶ったりじゃないか、という声が脳内に聞こえた気がした。でも、そうだな、とうなずけない自分もいる。廃部になって僕の眼の前から、足の速い奴が集う場の象徴である陸上部がなくなるのは、悲願にも似ているのに……なんで、チャンスだ、なんて思えないんだろう。なんか、あんまりフェアな気がしない……別に、それは僕が考えたルールではなく、彼らが作ったルールも同然なのに。



