結局、「夏以降に行われる競技会の成績次第で、陸上部をどうしていくかを決める」という、今年度いっぱいの予算も活動もそのまま継続、ということになった。
 それはまあ、五百万歩ほど譲ったとして良いとしても……何でそれを、僕が彼らの許に知らせに行かなきゃならないんだ。

「――ってことだから、今年度中の予算と活動は継続。それ以降のことは夏以降の部全体の成績や成果で決めていくことになっ……」
「っしゃー!!」

 僕の言葉が終わるか終わらないかの内に、目の前で神妙な面持ちで話を聞いていた陸上部の部員たちが雄叫びのような歓声を上げ始め、僕はびくりと肩を強張らせる。野生にでも帰ったのか、と思うほどに彼らは獣のような声をあげて喜びをあらわにし、互いに肩をたたき合っている。
 そんなに大袈裟に喜ぶほどに、彼らが走ったりなんだりすることに情熱を傾けていることが、僕には理解できない。何がそんなに楽しいのか、と。
 歓喜の嵐の終いには僕まで肩を抱かれた挙げ句、楽田から抱擁までされていた。もちろん慌てて突き放したけれど。

「あざっす! マジで助かりました! 真木野さん、全然怖い人じゃないじゃないっすかぁ」
「で、でも、夏の成績次第、なんだからな」
「わかってます! 俺、絶対記録も作るし、優勝もします!」

 高らかな楽田の宣言に、主将の生徒が「よく言った!」などと、これまた大袈裟に喜びながら楽田の肩をバシバシ叩き、激励のような事をしている。

(……こういう、いかにも体育会系なノリも、すっごく苦手なんだよな……)

 自分たちだけで輪になって盛り上がって、テンションが天井を突き破らんばかりになって、冷ややかな周りが見えていない内輪感が、僕は足が速いやつら同様に苦手だ。嫌悪に近いとも言える。
 だからそっと楽田たちから距離を取り、「……じゃあ、そういうことだから」と、部室を出て行こうとした。
 すると、楽田が離したはずの手を握り、引き寄せるようにして見つめてくる。

「……まだ何か?」
「よかったら、練習見てかないっすか?」
「……なんで?」

 なんの義理や義務があって、大嫌いな、走っている人間を今日もまた見なくてはならないのか。自分の足の速さの自慢をしたいなら、陸上部存続を願う生徒を集めるなりして、ファンサービスとやらすればいいだろうに。
 そう、苛立たしさに任せて激しく毒づこうとした時、「ぜひ、楽田くんの走り見て行って!」と、それまで傍で控えていると思っていた女子マネージャーが声をかけてきた。その隣では、主将もまた頷いている。

「僕が見て、それで?」

 どうしろというのだ? と、言いかける僕に、楽田がさらに手を引くようにしてこう続ける。

「俺、ギャラリーいた方がテンション上がるんすよ! それが好きな人ならもっと走れそうだし!」

 僕は一切その件に関しては認めてもいないのだが? と、言い返すより早く、楽田は僕の手を放し、「じゃあ、待ってますんで!」と言い置いてグランドへ出て行ってしまった。
 呆気にとられている僕に、マネージャーの女子が追い打ちをかけるように、「じゃ、行こうか」と、にこやかに促してくるので、断ることもできず、そのまま後を追うようにグランドへ向かうことになった。


 遅い午後の傾き始めた陽射しの中、先にグランドに出た楽田は、二年生らしい部員と並んでウォームアップのような事をしている。マネージャーの話によると、今日はいまからは軽くタイムを計るんだという。

「楽田くんは百メートルが専門で、今年はようやく短距離の選手が四人になったから、リレーにもエントリーできるねって言ってるの」
「リレーを、四人で?」
「そう。四百メートルを四人で百メートルずつ走って速さを競うの」
「トラック一周とかじゃないんだ」
「リレーの見どころは走るところ、というよりバトンパスかな。いかに減速しないで素早く決められた距離――テイクオーバーゾーンって言うんだけど――でバトンパスできるかが勝負で、見所なの」
「ふぅん……」

 マネージャーは丁寧に教えてくれはしたけれど、僕は陸上競技、特に走り競技に関しては無関心を決めているので、それ以上何か話を膨らませようとは思わなかった。一刻も早くこの場を去りたい、ただそれだけを考えて、内心そわそわ気もそぞろだった。
 その内にトラック内で楽田が何か他の部員と話をしたかと思うと、スタートラインらしきところでうずくまる。どうやら、いまからタイムを計るのだろう。
 これが終われば解放してもらえるかな……そんな心持ちでぼんやりと楽田の方を見ていると、二年の部員がホイッスルで合図をし、楽田が構える。
 地面に手をつき、足許のスタンドのようなもの――スターティングブロックというらしい――に足を置いて、楽田は一瞬俯く。まるでちゃんと自分の足が地についているのを確かめるかのように。
 そうして一瞬、楽田がこちらを向き、ふにゃりと笑って大きく手を振ってくる。デレている、と形容するにふさわしい緩みきった顔に、僕は反射的に顔をしかめる。

「あはは、楽田くん、今日すごい張り切ってる。やっぱり真木野くんがいるからかな」
「……いたっていなくたって、変わらないでしょ」

 もはや彼と僕が公認の仲とでも言いたげな言葉に、僕が苦々しく返している内に、もう一度ホイッスルが鳴り、楽田がスタートの姿勢を構える。その瞬間、それまでだらしなくほどけていた彼の顔が、きりっと、それこそ僕に教室で話をしに来た時よりも数段真剣な顔に変わった。
 音がしそうな切り替わりに、僕は驚き目を惹かれる。ほんの一瞬前まで僕の方を見てデレデレとだらしない表情をしていたと思ったのに……長い睫毛の影から覗く黒い瞳は、まっすぐに伸びた直線のゴールに向けられている。まるで、そこに獲物を見つけたかのように。
 やがてスタートの合図のホイッスルが鳴り響き、小さな金属音と共に弾けるように楽田が飛び出していく。それはまさに瞬発的な反応で、あっという間に何メートルもの距離を数歩で走り抜いていく。
 そうして気が付けば、ストップウォッチを手にしている部員のいるゴールまで駆け抜けていた。瞬きをするほどの間に、彼は風のようになっていた。
 ただ驚くことに、ゴールした楽田は一切呼吸が乱れていないのだ。遠目から見ると、スタート前とほとんど変わりがない。多少の汗はかいているのか、手渡したタオルで額を拭いはするものの、力を出し切っている感じは全く見られない。あれだけのスピードを出せば、多少は息が乱れるのではないかと、僕でも察しがつくのに。

「すごいでしょ、楽田くん。全然疲れないの」
「え、あ、ああ……」
「スタミナがね、すごいから長距離やればって先生とかキャプテンとかも言うんだけど……どうしても百メートルがいいんだって」

 もったいないよねぇ、と、マネージャーから同意を求められるように話しかけられている所に、タイムを計り終えたらしい楽田が駆け寄ってくる。やはり、汗だくになって疲労をしている感じは全くない。

「真木野さんが来てくれたから、十秒七八でした!」
「へぇ……」

 走ることに関しては全く興味がないし、寧ろ避けて通ってきているので、タイムがどれくらいだと言われても正直何の感慨もない。「練習でそれだけ出せるなら、本番もっと出るかもね! そしたら来年度の陸上部にも期待できるよ!」と、隣でマネージャーが興奮気味に楽田に応じているけれど、その熱心さにイラっとしてしまう。
 一応感情は顔に出さないようにしているつもりではあるんだけれど、それがかえって雰囲気にはにじみ出てしまうのか、マネージャーは無言でいる僕の顔を見るなり、気まずそうにうつむく。
 しかし楽田は全く意に介している様子はなく、マネージャーの言葉に嬉しそうに頷いている。

「そっすね! やっぱ俺が来たからには陸上部安泰じゃないと!」

 ね? と、何故か僕の方にまで同意を求めてくる楽田の様子に、マネージャーの顔が引きつっている。まさか陸上部を目の仇をしている張本人に、そんな話題を振るなんて思ってもいなかったのだろう。空気が凍り付いたように気まずくなっていく。

「わ、私、ちょっと先生の手伝いしてくるね……!」

 気まずさに耐えかねたように、マネージャーの彼女が僕らの場所から小走りに離れていくのを、僕と楽田で見送っていると、人の好い顔をした楽田がこちらを振り返る。その顔は僕が彼の天敵とも言える存在であることなんて露とも知らなそうな呑気な顔だ。先程のあの走っている瞬間の凛々しさなんてカケラもない。
 あれは見間違いだったのか……? と、内心首をかしげていると、楽田はまたしてもだらしなく顔を緩ませる。

「真木野さんが練習見てくれて嬉しいっす」
「……べつに、君らが仕事のついでに見に行けと言うから」
「仕事?」
「さっきの、来年度はどうなるかって話をしただろ。ああいうことをするのが、僕の仕事なんだ」
「え? へー、そうなんすねぇ。じゃあ、俺、頑張らなきゃだなぁ」

 ケロッとした顔で、悲壮感も気負いもない感じでそんなことを嬉しそうに言う楽田の横顔には、全く邪気が感じられない。僕のことを裏生徒会長なんて呼んでいた割に、僕が陸上部を困らせているとは考えもしないのだろうか?

(のん気、というか……ちょっと、天然の度が過ぎてるのか……?)

 その度の過ぎ方も、かなりのもののようだけれども……まあ、運動をする奴なんてそんな奴らばかりだろう……なんて、かなりの偏見を僕がもっている自覚は重々にあるつもりだけども。

「真木野さんが来てくれたから、今日はすっげー調子いいっす」
「そうらしいね」
「愛の力っすねぇ」
「…………」

 本当に、さっきまであんなに凛々しく風のように走っていた人物と同じ人間なんだろうか? 俊敏な獣のようだと思わせておきながらも、飄々としていて軽薄で……鳥の羽のようだ。
 そう、まるで、彼はまさにダチョウのようなのだ。姿も仕草も、雰囲気も。

「……ダチョウ系男子」
「なんすか、それ? 芸人?」

 黒目がちな大きな目を瞬かせながら、朗らかにそんなことを訊いてくる彼に、野生の飛べない走る鳥の姿が重なる。
 走ることしかできない鳥……あまりに似合いすぎていて僕は吹き出してしまう。堪えようとしたけれど、出来なくて、そのまま腹を抱えて笑いだしてしまった。

「え? え? なんすか?」

 人前で声をあげて笑うなんていつ以来だろう。僕がひとり大笑いしている横で、わからないなりに楽田もまたおかしそうに微笑んでいる。その奇妙な空気を、なんだか心地よいなんて思ってしまった。