「真木野さぁん、弁当どうっすか?」
「……まあまあ」
「えー、そっかぁ……今日は割と上手くいったんすけどねぇ……」
「…………」
「こっちの卵焼きは自信作なんすよ!」

 そう言って弁当箱ごと突き出され、断りも突っ返しもできない僕は、複雑な面持ちをしながら、勧められた卵焼きをひと切れ摘まむ。
 一見すると、仲良く弁当をつついているように見えるが、楽しそうにしているのは楽田だけで、僕はちっとも楽しくないし、弁当の味がわからない。何せ、僕のクラスに楽田が押しかけてきて、かなり強引に僕に手作り弁当を食べさせているからだ。あの宣言をしてから、毎日。

「いいなぁ、真木野。めっちゃ美味そうなの食ってんじゃん」
「楽田くんからのお弁当なら、あたし言い値で買っちゃう」

 そんな好き勝手なことを言うクラスメイトの言葉を、一瞥して黙らせる気力もない。一瞥したところで、楽田がまた明日もここに弁当を提げてくるのは目に見えているのだから。
 勧められた卵焼きを口に放り込むと、僕好みの程よい塩気と甘味、そしてやわらかな卵の生地がふわりと口の中にほどけていく。さっきまで味がしなかったはずなのに。

「え、美味しい……」

 思わず呟いた言葉を、楽田が聞き逃すはずもなく、「でしょ?!」と、バカでかい声でその場に起立して僕の手を箸ごと握りしめてくる。リアクションがいちいちデカくて大袈裟で、傍にいるだけで疲れる……。

「自信作なんすよー。朝四時から起きて作った甲斐あるっす」
「四時?!」
「はい。朝走って、その後作ったんすよ」
「……親御さんにも迷惑じゃないの?」
「え? 俺一人で作ったっす」

 見た目によらず料理が美味い、なんて言う偏見も偏見な言葉を一瞬口にしかけ、慌てて口許を抑える。
しかし楽田はけろりとした顔で自分の分の卵焼きを摘まみながら、「結構、俺得意なんす、料理」と言うのだ。

「食事の管理もトレーニングだ、って中学の時の先生が言ってたんで、なるべく自分でしてるんすよ」

 でも、自信もって作れるのは卵焼きとおにぎりぐらいっすけど、と言う彼は、機嫌よく弁当をかっ込んでいる。

 「イケメンでスポーツできて料理もできるとか、スパダリ過ぎない?」という声が聞こえた気がしたが、それはそれで納得がいかない。こうやって僕の胃袋をつかもうという作戦かという気もして、素直に受け取って美味しいと言ってしまったのが悔やまれる。

「……美味しかったけど、だからって、僕は君と付き合うわけじゃないから。陸上部のことだって僕の一存では――」

 卵焼きに翻弄されそうになった態勢を立て直すようにそう言いかけた時、ひらりと一枚の紙を楽田が差し出してくる。それには、“陸上部廃部阻止嘆願書署名”なんて仰々しい文字と、いろんなクラスの生徒の名前が並んでいる。

「……何これ。署名?」
「なんか、いま学校で出回ってるみたいっすよ。陸上部潰さないでーっていうの」
「で? 僕にそれを受け取れって言うの?」
「あれ? 出すのって真木野さんじゃないんすか?」

 署名は、一枚一枚を差し出して、潰そうとしている人間に直談判する物じゃないだろうに……束になってかかってくるから効果があるのであって……そもそも今は昼休みで食事中だ、そう、説明するのも忌々しい。

「ちょっと今はまだ受け取れない。生徒会室に持って来て。あと、いまはごはん中だから」
「あ、そっかぁ。そうっすよね!」
「……随分余裕だな」
「そうっすか?」
「なにか実力があるからか知らないけれど、君が陸上部を救えるとでも?」
「あー、中学の全国二位の記録っすか? まあ、そうなんすよねぇ、二位だったんすよ、俺」

 照れた様子で、だけど謙遜はしない態度で笑う楽田の姿が癪に障る。そもそも全国二位の記録だか何だかって、彼の自称でしかないのだ。虚栄で陸上部の廃部を阻止しようなんて、短絡過ぎるんじゃないだろうか。

「まあ、せいぜい頑張ればいいんじゃない?」

 あの弱小陸上部で、と言うか言わないかの内に楽田の顔が輝き、僕の手をまた握りしめて大声で返事をしてくる。

「あざっす! 俺、絶対また全国二位以上になるっす!」

 こんなやり取りを毎日するせいか、昼休みだけで、一日の半分以上の気力体力を削がれ、この所僕は午後はぐったりしている。クラスメイトはじめ、周りのみんなは面白そうに見物して色めき立っているけれど。


「……ああ、もうイライラする! なんだって寄りにも寄ってあんな奴に口説かれなきゃなんだよ! それも毎日!」

 生徒会室で資料を片付けながらぶつぶつ文句を言っていると、「随分荒れてるね、誠」と、浩輝の声がした。浩輝は愉快そうに椅子に座って僕の不機嫌な様子を見守っている。

「荒れもしますよ! 毎日毎日弁当を作って食べさせられて!」

「そして口説かれてるんでしょ?」と、横にいた青川さんがさらに付け加えてきて、僕の苛立ちが頂点に達する。

「そう! 何なんだあいつは!」
「中学陸上界のエーススプリンターってとこかな」
「それ、本当のことなんですか? 自称全国二位なんじゃなくって?」

 イライラしながら投げかけた言葉に、浩輝はスマホをいじって何かを探し出し、僕らの前に示す。それは、何かのWebニュースの記事で、中学生陸上で新記録! と書いてある。日付は去年の秋ごろだ。

「“中学校全国陸上競技会、短距離百メートル走において、不破市立不破中学三年の楽田走介が大会新記録を樹立。タイムは――”」
「一〇秒五五?! え、めちゃくちゃ速くない?」

 僕よりも先に青川さんが声をあげて驚いていたが、陸上嫌いの僕にはピンと来ず、浩輝の方に問うように目を向ける。浩輝は僕のそういう態度も織り込み済みなのか、特に呆れることもなく、青川さんの声にうなずきながら答える。

「中学生の百メートルの新記録が一〇秒四七だとかいうから、彼が自称で全国二位でした、というのはあながち嘘じゃないんだよね。この年の大会記録であることもこっちの記事に書いてあるし」
「すごーい……ホントにエースだねぇ」

 日本二位の記録を持つ中学生が、本当にこの学校に入学していたなんて。これでは確かに陸上部をあっさりと廃部にしてしまえ、とは学校も言いづらくなっているのも無理もない。おそらく署名活動を始めた生徒の誰かも、この話をどこかで知ったのかもしれない。

「そんなすごい人が同じ学校にいるなんて信じられないです。ねえ、真木野くん」
「ああ、まあ……」

 いつの間にか、柿田も議事録を作る手を停めて、少しいつになく興奮気味に僕に話しかけてくる。身近にスターが、となると人は得てして妙に浮足立ってしまうものなのだろうか。
 やや冷ややかに思いつつも、曖昧に頷いていると、ふと、ある事が気になった。
 日本二位の記録の保持者であるなら、それなりに高校は有名校に進学できたんじゃないだろうか、と。それこそ、陸上の強豪校から引く手数多だったのではないか? それなのに、こんな潰れかけの陸上部しかない学校になんでわざわざ?

(もしかして、暴力沙汰でも起こしているとか……何かワケアリとか?)

 そういう何かを抱えているのなら納得がいくけれど……底抜けに軽薄で明るそうな雰囲気から見るに、粗暴な感じはしなかったのが正直なところだ。底抜けに明るく、身も心も軽い、空気の読めない感じではあるにはあるけれど……だからと言って、人間性を疑うような印象はなかった。

(……まあ、まだ僕が彼のすべてを知っているわけではないし……何か裏があるのかもしれないし……)

 そんな僕の疑問をよそに、青川さんと柿田は浩輝と楽田の話で盛り上がっている。

「こんなにすごい選手が入って来たなら、陸上部安泰じゃない、マジで」
「顧問の先生方もかなり期待してるみたいなんだよねぇ。だからさ、廃部の話はナシの方向になりそうなんだよね」
「は? 待って、それは話が違うんじゃ……」

 廃部の話をナシの方向に……、と浩輝の口から聞いて、僕は思わずパイプ椅子から立ち上がる。勢い余って椅子が倒れてしまったけれど、気にせず浩輝の方を凝視した。しかし、浩輝は涼しい顔でこう続ける。

「実際ね、連休中にあった小さい競技会で、楽田くんはぶっちぎりだったみたいだよ」

 ほら、と言って、どこで手に入れたのか、この辺りの中高の陸上部が集って開かれる記録会の報告書のデータ画面を見せてきた。楽田の記録は、先程の記事ほどではなかったけれど、確かに他の学校の選手よりも何秒も速いタイムだ。
 青川さんや柿田もそれを覗き込んで、「流石ぁ」なんて歓声じみた声をあげているが、僕はなんだか釈然としない。それはやはり、そんな記録保持者でありながら、こんな陸上界では知られていない学校を選んで入学してきた彼の意図がわからないからだろうか。

「まあ、これはあくまで力試しみたいな競技会だけどね。もっと正式なものになったら、彼の実力がどれだけすごいかわかるんじゃない?」

 誰に言うでもなく浩輝がそう言いながら、僕らの前からスマホを取り上げていく。そうして、僕の方を含みのある目をして見つめてくる。それがなんだか癪に障る。
 だからなのか、僕は思わず、「何が言いたいんです?」なんて、少し険のある言い方をしてしまった。浩輝は、意に介していないみたいだったけれど。

「うん? だからさ、来年度予算をどうするか、そもそも廃部になるかどうか、っていうのは、今後の彼の活躍を見てからでも遅くないんじゃない? って思って」
「それはそうかもですけど……」

 まるで、楽田の実力はこんなものじゃないことを、浩輝は見抜いているような言い方が余計に釈然としない。釈然としないけれど、それを真っ向から否定するほどの根拠が僕の手許にはないから、黙るしかない。

「……なんか、スカウトマンみたいなこと言うんですね、会長は」

 皮肉を込めて僕がそれだけを言い返しても、やっぱり浩輝はいつも通りにこやかで、少し肩をすくめる。そして、心なしか愉快そうにこうも言った。

「俺はただ、何に関しても優秀な生徒がいるのは、学校が活気づくきっかけになっていいんじゃないかなぁって思うだけだよ」

 学校が生徒みんなにとって楽しく活気あるものにする――そう公約して、浩輝は生徒会長になったのだから、その言葉に嘘も裏もないのだろう。実際、僕らが生徒会役員になってから、部活動を中心に活気があると言われているし。
 でもだからって、僕の天敵とも言える、足の速いやつの代表格のような楽田が、僕の鬼門である陸上部の救世主になろうとしているのは気に喰わない。

(あと一歩で、僕の前から陸上部が、足の速いやつらが集う場所がなくなるかもって思っていたのに……!)

 歯噛みして、内心地団太を踏みたい気持ちでいる、僕の気持ちなんて知らないみんなは、それからしばらくの間愉快そうに陸上部の展望を勝手に話して盛り上がっていた。