「うわー、結構応援団みたいな人たちっているんですね」

 翌日、僕は生徒会のみんなと駅前で待ち合わせ、電車とバスを乗り継いで郊外の陸上競技場へ向かった。
 空は晴れ渡秋晴れで、気温も程よく、まさにスポーツ日和と言える。
 インターハイのような全国大会レベルではないけれど、各学校の部活の関係者や保護者などがスタンド席にいて、時折、僕らのように知り合いを応援に、という小さな団体も見かける。
 トラック内ではあちこちでそれぞれの競技が行われているが、走る系のものはまだ行われていないらしく、選手たちの姿はまだない。

「短距離とかは午前だったらしくて、休憩挟んで、午後イチでリレーらしいよ」

 関係者にでも聞いてきたのか、浩輝がそう言いながらスタンドの席に腰を下ろし、缶コーヒーを飲む。
 僕らがついたのが昼近くだったので、すでに楽田の百メートル走は終わってしまったようだ。

「えー、じゃあ、楽田くんはもう走っちゃったってこと? 何位だったのかな?」
「あー、そこまでは聞けなかったな……閉会式で成績発表されるんじゃないかな」

 きっと優勝だよ、と青川さんと浩輝は言っているけれど、僕が気になっているのはリレーだ。結果次第では、楽田との今後が変わってしまうかもしれない。改めて大事な場面となる場にいる現状を思うと、正直逃げ出したくもある。入試でも模試でも、面接試験でさえ緊張なんてほとんどしないのに。

「真木野くん、どこ行くの?」
「ちょっとトイレ……」

 本当は、トラック内を見ていると僕の方が緊張してきて居た堪れないので、ちょっとだけ違う空気を吸いにスタンド席から離れた。
 スタンドになっている建物のすぐそばにある自販機であたたかいお茶を買い、ひと口飲んでいると、「あれ、どこか見たことある顔だと思ったら」と、聞き覚えのある声がし、振り返る。
 振り返った先にいたのは、胸元に小さく『大志』と黒字に赤でプリントされたジャージを着た透だった。透の傍には同じようなジャージ姿の生徒らしき人たちが数名いて、こちらを同じく見ている。
 なんで寄りにも寄ってこういうやつにこんなところで……ただでさえ気持ちが落ち着かないのに、余計にかき乱されそうな人物との遭遇に、内心舌打ちしたい思いだ。
 僕は軽く目礼程度でかわそうとしたのに、透は何を思ったか、ゆったりとこちらへ歩み寄ってくる。その様子は、何か含みがあるようで、いやな感じしかしない。
 無視しきれないほどの距離まで近づいてきた透は、片頬をあげて笑いながら問うてくる。

「何してんだよ、誠。お前陸上なんて興味ないんじゃないの?」
「……いいじゃんか、僕がここにいたって。応援に誘われたんだから」
「応援? まあそうだろうな。お前なんかが走れるワケねえもんな、すげー遅いし、足引っ張るだけだし」

 まだその話を蒸し返すのか、と呆れといら立ちを込めて視線を寄越すと、透はやはり含みのある顔でこちらを見ている。ニヤついてさえ見えるその様子に、腹の中がむかむかしてくる。

「弱小陸上部なんて応援して意味あるワケ? それも、お前なんかに」
「大切な試合だっていうから、少しでも力になれたらと思ってきたんだ。でもだからって、僕がどうこうできるとは思っていないよ」

 だろうな、と言いたげに透は鼻先で嗤い、そしてこう続けてきて、僕を凍り付かせた。

「で、惨敗した陸上部潰そうっていうんだろ? やることエグいよなぁ。いくら陸上嫌いだからって、陰湿なんだよ」

 どうしてそんな話を、と目を見張ると、透は面白そうに笑みを浮かべ、「やっぱそうなんだ」と、呟く。

「明花の生徒会が個人的な理由で陸上部目の敵にしてて、潰そうとしてるって、マジなんだな。結構噂になってんだよな、裏生徒会長さん、だっけ?」
「そ、それは……」

 どこからそんな話になったんだろう。確かに、きっかけはそうだったし、そう思っていた時も僕にはあった。
 でも今は違う。いまここにいるのは、部が潰れる様を見に来たわけではなく、来年への希望を勝ち取りに来る姿を見に来たのだ。
 だけどもし、楽田がそう思っていなかったとしたら? そしてその想いを、透が見抜いていて、僕が私情のままに陸上部を潰しにかかっていると吹き込まれていたら? それを、楽田が鵜呑みにしていたとしたら――――

「まさかと思うけど、まだ昔のこと根に持ってるわけ? くっら。流石陰険モヤシ」

 考え得る「もしも」が頭の中にずらりと並び、僕を再び絶望の中へ突落していく。僕を絶望の中で囲む負の可能性が、うすら笑いを浮かべて覆い被さってくる。

(本当に、あの楽田が、僕のことをそういうやつだって思い込んでいるのだろうか……?)

 生徒会室での一件以来、顔も合わせていないし言葉も交わせていない。避けられているのは確かだけれど、でも、楽田はきっとまだ迷っているんじゃないだろうか。僕のことを信じるかどうか。
 陸上をするやつを憎んでいるのか? と言われ、僕はうなずかないままだったし、彼はそのまま去ってしまった。答えは出ていない。
 可能性は、はるかに低いかもしれない。だけど、まったくゼロとは言えない、まだ彼が僕を信じてくれている可能性にかけて、僕は楽田の力になりに行く。たとえ微々たるものでも、それが僕の彼への償いであり、気持ちを伝えるすべだから。

(だとすれば、僕は、こいつに惑わされたりしている場合じゃない。僕は、僕のすべきことをしに行くだけだ)

 僕はうつむきかけていた顔をあげ、透を睨み据える。透は僕の向けた視線に一瞬怯み、「なんだよ」と、小さく呟く。その声はなんだか情けなく弱い。
 僕は小さく息を吐き、そして透に向けて言い放つ。

「べつにもう僕は、あの時のことは気にしてないし、根になんて持っていない。楽田が……走介が、そういうのを覆すほどすごい走りを見せてくれるって、僕は信じているし、それをきっと彼も知っている」

 だからもう、僕はお前なんかに囚われてなんかいない――そう、言いかけようとした時、透の背後から彼を呼ぶ声がかけられ、透はそれに返事をする。
 まだ何か言いたげに透はこちらを見ていたけれど、「……ああそうかよ」とだけ言い置いて、走り去っていった。
 人ごみに紛れて去っていく背中を見送りながら、僕は大きく息を吐く。ふと見ると、手許が震えていて、いまさらに怖かったのかもしれないと気付かされる。

「ッはは……言ってやった、透に……」

 もう僕の中に、走ることへの嫌悪感はかけらもないし、囚われていた記憶の棘もない。ただあるのは、陸上部としての楽田と交わした約束のみ。それを、この眼で見届けるんだ。
 深呼吸を何回かして、僕は「よしっ」と、声に出して気合を入れ、スタンド席に戻っていく。ほんの少しの不安と期待と、祈りを抱いて。


 場内アナウンスが鳴り響き、リレー競技の招集がかかる。全体プログラムの中でも最後の方らしく、自分の競技を終えたほかの競技の選手たちも、自分の学校が集うスタンド席などで控えつつ観戦している。
 予選が二レース行われ、その次、準決勝と明花高校は危なげなく進んで行く。
 明花高校のリレーチームは三年生の主将、二年生二人、そして楽田の四人編成で、補欠はいないという。

「二年生の内の一人は高跳びの選手らしいから、明花はギリギリの人数なんだって」
「去年までリレーをやりたくてもできないって言ってたから、今年の出場は念願でもあるんですかねぇ」

 トラック内に集まり始める選手たちを眺めながら、青川さんと柿田がそんな話をしているのを、僕も聞くでもなしに聞いている。だけど内心は、走らないのに僕の方が緊張していて、手足が冷たいくらいだ。
 その内に明花の陸上部も現れ、ストレッチなどをして調整を行い始める。遠くて表情ははっきり見えないけれど、楽田が緊張しているようには見えない。それだけでも、僕はホッとしてしまう。

「誠が緊張してる?」
「……うるさいな」

 浩輝に図星をさされてムッとするも、それ以上浩輝は茶化しては来なかった。茶化しても来ないけれど、「大丈夫だよ!」と、無責任にも言ってこないのが、浩輝の良いところだと思う。

(本来ならきっと、僕が楽田にそういう存在になれればいいんだけれど……)

 それにはまず、傷つけたことを、悲しい想いをさせたことを謝らないといけない。今日の応援だって、償いの気持ちもある。
 でもそれ以上に、僕が彼を支えたいんだ。陸上のことなんて何も知らないけれど、それでも何か力になれるのであれば、なんでもしたい。その想いの源にあるのは、彼を好きだという気持ちであり、彼から向けられていた気持ちに答えたいと思っているからでもあるから。

「位置について、ヨーイ……」

 やがて乾いた破裂音がして、リレーの決勝が始まった。
 レースは、体育祭で見たよりもずっと速度が速くて、走りだしてすぐに次の走者へとバトンが渡っていく。第一走者から第二走者、そしてその次――トラックの中を色とりどりのユニフォームの選手たちが一斉に走っていく様は圧巻だった。

「すごい、みんな速いね、決勝に残るくらいだもん」
「アンカー、楽田くんだよ!」

 第三走者までの差はほとんどなく、団子状態で駆け抜けていく。そしてリレーの魅力だと聞いていたバトンパスでわずかに差がつき始めていた。
 明花高校は二位のまま、アンカーの楽田へとバトンが渡る。オレンジのユニフォームの楽田が、二年の選手からバトンを受けて走り出したのと同時に、隣の学校の選手――大志高校の透にもバトンが渡ったのが見えた。
 一瞬、透が楽田の方を一瞥した。牽制するような、睨み据えるような目つきに、僕の方が怯みそうになる。
 でも、楽田はそれに目もくれず、大きく一歩前へ出る。一瞥の隙を突くようにして、ぐっと前へ踏み込んでいくのがわかる。
 透もまたすぐに体勢を立て直し、追い抜かんばかりに進んでくる。そうして二人は横並びになり、そのままコーナーを曲がっていく。

「うわ、並んだ!」

 どこからともなくそんな悲鳴じみた声がし、僕は思わず立ち上がり、拳を握りしめる。
 トラックを走る二人は最後の直線に差し掛かったところで、どちらも一歩も譲らない。僕は思わず手を祈るように組み、楽田を見つめる。その横顔は、あのサバンナを駆け抜けていく黒い羽根の鳥のように凛としていた。
 一歩、透の足が前へ出て、ほんのわずかに差が生じる。このまま抜き去られることを許してしまうのかと、ひやりとし、目をつぶりそうになる。
 しかし次の瞬間、楽田がさらにその前へと踏み込んでいく。短距離は後半のスタミナが重要であると聞いた。そして、楽田は短距離走者にはもったいないほどのスタミナの持ち主だともいう。

「走介、行けー!!」

 彼を信じているから。彼の走りをもっと見たいから。僕は出せる限りの声を張り上げて彼の名を叫んだ。
 行け、そのまま真っ直ぐに。白いテープを目指し、そしてその向こうまで駆けていけ――――祈りに近い願いを声と眼差しに載せて叫んでいる中、オレンジのユニフォームは他よりも身体二つ分ほどの差をつけてゴールテープを切った。

「やった! 明花、優勝だ!!」

 誰かが叫んだ言葉で、目の前で起こったことが明確になり、スタジアム内が歓声と拍手に包まれる。
 トラックのゴール付近では走り終えて荒い息をする楽田に、部員たちが駆け寄り抱き着いていくのが見えた。
 そしてレースの結果を聞いたらしい楽田が顔をあげ、ここまで聞こえるほどの雄叫びのような歓声を上げる。その姿に、僕は胸がきゅっと甘く締め付けられ、強く実感した。

(僕は、走っている彼が、好きなんだ……)

 そう思った瞬間、トラックの楽田がこちらに気付き、大きく両手を振ってくる。あのいつもの、軽薄さを感じるような明るい笑顔で。

「真木野さーん! 俺、勝ったよー!」

 スタジアムの歓声にも負けないほどの大声が途切れ途切れに僕を呼ぶのが聞こえ、僕は滲む視界の中の彼に手を振って答え、頷いた。