生徒会室に楽田が現れたのは、どうやら先日言っていた競技会に出場する旨の報告のようなものだったらしいが、きっとそれは僕に会いに来るための口実だったのかもしれない。通常であれば大会参加後の事後報告が多いし、それで構わないからだ。
だけど、思いがけない僕の言葉を耳にしてしまった楽田は、あの日を境に、僕のクラスに現れなくなった。
「真木野の通い妻、今日も来ないんだな?」
「ケンカでもした?」
クラスメイトは事情なんて知らないので、好き勝手にそんなことを言って面白がっている。「関係ないだろ」と、一蹴する気力もなく、僕はただ一瞥するに留めて一人弁当をつつく。いままで通り、僕の母親が作ってくれる、ごく普通の弁当を。
美味しくないわけではないけれど、なんとも味気なくて、箸が進まない。向かいに賑やかに勝手にしゃべってくる相手がいないだけで、なんでこんなにも昼食の色味がなくなったように感じられるんだろう。
(べつに、去年までの状態に戻っただけなのに……なんで、こんなすかすかした気持ちになるんだろう)
ただ教室に現れないだけなら、まだ昼休みに練習でもしているのか、なんて思える。
だけど、放課後などにたまに、グランドや学校に続く坂道の走り込みをしている練習風景などに鉢合わせしたとしても、明らかに僕に気付いていても、楽田は僕の方を見ない。そしてその理由を、陸上部の面々も知っているのか、僕を見ると気まずそうに小さく会釈をして目を反らされてしまう。それまで楽田が僕を見れば子犬のように懐いていたのを部員たちも見て来たからか、楽田の態度に戸惑っているのかもしれない。
挨拶ぐらいしろよ、と注意するほどの気概が僕にあるはずもないし、そもそも、そんな風に目を反らされてしまう原因はこちらにある。挨拶なんてされなくて当然かもしれない。
「頭ではわかってるけど……何でいつものように割り切ってしまえないんだろう」
剣道部の時は部員が卒業生だったから、こんな煩わしさがなかったのも大きいのかもしれない。在学中の生徒がいる部に関わるリスクは、こういう面をはらんでいることを今更に思い知る。
でも、それ以上に僕の気持ちは大きく沈み、正直勉強にも生徒会の引継ぎの作業にも身が入らない。ぼうっとしてしまって、放っていると視界が滲んできそうになるのだ。
こんなことなんて、いままでなかったのに……そんな自分の常にない状態に一層動揺してしまい、ぎゅっと胸が苦しくなる。
それは特に、練習中の楽田に出くわして、背を向けられた時に強く感じた。
まるでぽっかり胸に穴が開いて、そこからさらさらと砂のように楽田と過ごした記憶が流れ出て行っているような感覚がする。じんわりとした傷みは苦みも伴い、僕を一層心許なくする。悲しいと寂しさが合わさったような複雑な感情に、僕はずっと翻弄されていた。
こちらは生徒会としての仕事をしただけで、恨まれることは多少あったとしても、それに心を痛めて落ち込むようなことはない――そう、春までの僕ならそう思っていただろう。
この煩わしいと思える痛みが、ただ単純に在校生の在籍する部活が絡む事案だったからというだけにしては、あまりに僕はショックを受けすぎている気がする。勉強にまで身が入らないなんて、初めてのことだ。
「……なんか、シンドイな……」
誰に言うでもなく呟いた言葉は、ひとりで歩く街路樹に吹く木枯らしに吹かれ、あっさりと飛んで行ってしまった。
数日程、すっきりしない気分に次いで、段々と体調までいまいちになり始めていた。
そして今日、とうとう僕は高校に入ってから遅刻も欠席したこともなかった学校を、休んでしまったのだ。ぼんやりと頭が痛くて体があまりに重たくて。
体が弱い方だった小学校の頃以来、高校生になって初めてと言えるほど珍しく寝込んだ僕に、母親は色々と聞きたがっていたけれど、「ちょっと疲れが出ただけだから」と、ごまかして部屋にひきこもることにした。
部屋着で過ごそうとしていたけれど、一応病欠になっているので、パジャマ代わりのスウェットに着替えてベッドにもぐりこむ。
「透のことがあった時でさえ、学校は休まなかったのにな……」
もぐりこんだ自室のベッドに横になって天井を見上げながら、僕は特に熱をもっていない吐息交じりに呟く。熱はさっき測ったけれど微熱で、頭痛は若干あるけれど、体のだるさも起き上がれないほどではないはず。だけど、どうしても学校に行く気力が湧かなかった。
眼を閉じて浮かぶのは、先日の生徒会室で言葉を交わした時の、楽田の打ちひしがれた顔。信頼しきっていたものに傷つけられた、という目を向けてくる彼の顔は、いままで見た中でも一番つらそうな顔をしていた。
「楽田でも、あんな顔、するんだな……」
足が速いようなスポーツに打ち込むような連中には、悩みなんてないんじゃないかなんて偏ったことを思ってすらいた。僕にはない身体的に優れた面を誇っている姿を見ていると苛立つほどに。
だけど、楽田は違っていた。選ばれしものになれる資格がありながら、彼は力及ばずなれなかった。そして、それをかつて憧れていた兄から馬鹿にされ、さらに嗤われもしていた。
だけどその傷みを抱えながらも、楽田は走り続けようとしている。しかも、自分にはそれしかないからと言いつつも、走るためなら苦手な勉強を、天敵であろう僕に教えを乞うてまで克服しようとまでして。
――そうか、彼もまた僕と同じように傷みを知る人間なんだ。
その当たり前に、ひどく傷つけてしまったいまになって気づいた。本当に、いまさらなのに。
いまさら過ぎることに気付きながらも、僕と楽田の間にそんな共通項があることが嬉しく、急激に痛みを抱える弱さが愛しく思えてくる。
愛しい――いつだったか僅かに感じた時よりも、はっきりといま、胸に刻み込むように感じている。
「……僕……楽田のことが、好きなんだ」
いまさらそんなことに気付いてしまった。傷つけるようなことをして、ひどい事ばかりしたのに、どの面を提げて彼を愛しいなんて思えるだろう。
でもそれは、彼の兄に感じていたものよりもはるかに濃密で深い色をしていて、あの頃よりもはっきりと相手のことを想っているのがわかる。
僕は、彼が、楽田が好きなんだ。あの軽薄にも見える底抜けの明るさも、走っている時の獰猛ささえ感じる真剣な姿も、すべて。
かつて、彼は僕に体ごと感情を全力でぶつけ、想いを伝えてきてくれた。まるで僕しか見えていないかのように、一心に想いを注いでくれていた。
「でも、彼を傷つけてしまったのは、僕だ……」
だからもう、彼に会わせられる顔なんてないし、そんな資格もないんだろう。だから、もう校内であっても顔も合わせてもらえないし、言葉も交わせない。ずっと執着するように些細で幼い恨みごとがもとになる振る舞いをしてしまってしまったから、その報いを受けているんだろう。
「この痛みは、罰なのかな……」
呟いた自分の言葉に胸が痛んで涙がにじんでしまう。馬鹿みたいだとわかっているのに、溢れて頬を伝っていく涙が止まらない。それはただ、気付いた瞬間に叶えられないと決まった恋だけのせいじゃないのだろう。
(これは、僕が彼に与えた傷みや仕打ちで、彼の受けた悲しみなんだ……)
だから、僕はずっと、これを抱えていくしかない。もう二度と、やっと好きになれた人からの想いに気付けたのだとしても、もう、それに応える権利も資格もない。
「……ごめん、楽田……ごめん……」
もう二度と一緒に弁当を食べたり、他愛ないことを喋ったり、勉強をしたり出来なくてもいい。ただもう一度だけ、名前を、彼のあの底抜けに明るい声で呼ばれたい。
叶うことがない願いを抱きながら、僕はひとりベッドの中で声を殺して泣いた。
だけど、思いがけない僕の言葉を耳にしてしまった楽田は、あの日を境に、僕のクラスに現れなくなった。
「真木野の通い妻、今日も来ないんだな?」
「ケンカでもした?」
クラスメイトは事情なんて知らないので、好き勝手にそんなことを言って面白がっている。「関係ないだろ」と、一蹴する気力もなく、僕はただ一瞥するに留めて一人弁当をつつく。いままで通り、僕の母親が作ってくれる、ごく普通の弁当を。
美味しくないわけではないけれど、なんとも味気なくて、箸が進まない。向かいに賑やかに勝手にしゃべってくる相手がいないだけで、なんでこんなにも昼食の色味がなくなったように感じられるんだろう。
(べつに、去年までの状態に戻っただけなのに……なんで、こんなすかすかした気持ちになるんだろう)
ただ教室に現れないだけなら、まだ昼休みに練習でもしているのか、なんて思える。
だけど、放課後などにたまに、グランドや学校に続く坂道の走り込みをしている練習風景などに鉢合わせしたとしても、明らかに僕に気付いていても、楽田は僕の方を見ない。そしてその理由を、陸上部の面々も知っているのか、僕を見ると気まずそうに小さく会釈をして目を反らされてしまう。それまで楽田が僕を見れば子犬のように懐いていたのを部員たちも見て来たからか、楽田の態度に戸惑っているのかもしれない。
挨拶ぐらいしろよ、と注意するほどの気概が僕にあるはずもないし、そもそも、そんな風に目を反らされてしまう原因はこちらにある。挨拶なんてされなくて当然かもしれない。
「頭ではわかってるけど……何でいつものように割り切ってしまえないんだろう」
剣道部の時は部員が卒業生だったから、こんな煩わしさがなかったのも大きいのかもしれない。在学中の生徒がいる部に関わるリスクは、こういう面をはらんでいることを今更に思い知る。
でも、それ以上に僕の気持ちは大きく沈み、正直勉強にも生徒会の引継ぎの作業にも身が入らない。ぼうっとしてしまって、放っていると視界が滲んできそうになるのだ。
こんなことなんて、いままでなかったのに……そんな自分の常にない状態に一層動揺してしまい、ぎゅっと胸が苦しくなる。
それは特に、練習中の楽田に出くわして、背を向けられた時に強く感じた。
まるでぽっかり胸に穴が開いて、そこからさらさらと砂のように楽田と過ごした記憶が流れ出て行っているような感覚がする。じんわりとした傷みは苦みも伴い、僕を一層心許なくする。悲しいと寂しさが合わさったような複雑な感情に、僕はずっと翻弄されていた。
こちらは生徒会としての仕事をしただけで、恨まれることは多少あったとしても、それに心を痛めて落ち込むようなことはない――そう、春までの僕ならそう思っていただろう。
この煩わしいと思える痛みが、ただ単純に在校生の在籍する部活が絡む事案だったからというだけにしては、あまりに僕はショックを受けすぎている気がする。勉強にまで身が入らないなんて、初めてのことだ。
「……なんか、シンドイな……」
誰に言うでもなく呟いた言葉は、ひとりで歩く街路樹に吹く木枯らしに吹かれ、あっさりと飛んで行ってしまった。
数日程、すっきりしない気分に次いで、段々と体調までいまいちになり始めていた。
そして今日、とうとう僕は高校に入ってから遅刻も欠席したこともなかった学校を、休んでしまったのだ。ぼんやりと頭が痛くて体があまりに重たくて。
体が弱い方だった小学校の頃以来、高校生になって初めてと言えるほど珍しく寝込んだ僕に、母親は色々と聞きたがっていたけれど、「ちょっと疲れが出ただけだから」と、ごまかして部屋にひきこもることにした。
部屋着で過ごそうとしていたけれど、一応病欠になっているので、パジャマ代わりのスウェットに着替えてベッドにもぐりこむ。
「透のことがあった時でさえ、学校は休まなかったのにな……」
もぐりこんだ自室のベッドに横になって天井を見上げながら、僕は特に熱をもっていない吐息交じりに呟く。熱はさっき測ったけれど微熱で、頭痛は若干あるけれど、体のだるさも起き上がれないほどではないはず。だけど、どうしても学校に行く気力が湧かなかった。
眼を閉じて浮かぶのは、先日の生徒会室で言葉を交わした時の、楽田の打ちひしがれた顔。信頼しきっていたものに傷つけられた、という目を向けてくる彼の顔は、いままで見た中でも一番つらそうな顔をしていた。
「楽田でも、あんな顔、するんだな……」
足が速いようなスポーツに打ち込むような連中には、悩みなんてないんじゃないかなんて偏ったことを思ってすらいた。僕にはない身体的に優れた面を誇っている姿を見ていると苛立つほどに。
だけど、楽田は違っていた。選ばれしものになれる資格がありながら、彼は力及ばずなれなかった。そして、それをかつて憧れていた兄から馬鹿にされ、さらに嗤われもしていた。
だけどその傷みを抱えながらも、楽田は走り続けようとしている。しかも、自分にはそれしかないからと言いつつも、走るためなら苦手な勉強を、天敵であろう僕に教えを乞うてまで克服しようとまでして。
――そうか、彼もまた僕と同じように傷みを知る人間なんだ。
その当たり前に、ひどく傷つけてしまったいまになって気づいた。本当に、いまさらなのに。
いまさら過ぎることに気付きながらも、僕と楽田の間にそんな共通項があることが嬉しく、急激に痛みを抱える弱さが愛しく思えてくる。
愛しい――いつだったか僅かに感じた時よりも、はっきりといま、胸に刻み込むように感じている。
「……僕……楽田のことが、好きなんだ」
いまさらそんなことに気付いてしまった。傷つけるようなことをして、ひどい事ばかりしたのに、どの面を提げて彼を愛しいなんて思えるだろう。
でもそれは、彼の兄に感じていたものよりもはるかに濃密で深い色をしていて、あの頃よりもはっきりと相手のことを想っているのがわかる。
僕は、彼が、楽田が好きなんだ。あの軽薄にも見える底抜けの明るさも、走っている時の獰猛ささえ感じる真剣な姿も、すべて。
かつて、彼は僕に体ごと感情を全力でぶつけ、想いを伝えてきてくれた。まるで僕しか見えていないかのように、一心に想いを注いでくれていた。
「でも、彼を傷つけてしまったのは、僕だ……」
だからもう、彼に会わせられる顔なんてないし、そんな資格もないんだろう。だから、もう校内であっても顔も合わせてもらえないし、言葉も交わせない。ずっと執着するように些細で幼い恨みごとがもとになる振る舞いをしてしまってしまったから、その報いを受けているんだろう。
「この痛みは、罰なのかな……」
呟いた自分の言葉に胸が痛んで涙がにじんでしまう。馬鹿みたいだとわかっているのに、溢れて頬を伝っていく涙が止まらない。それはただ、気付いた瞬間に叶えられないと決まった恋だけのせいじゃないのだろう。
(これは、僕が彼に与えた傷みや仕打ちで、彼の受けた悲しみなんだ……)
だから、僕はずっと、これを抱えていくしかない。もう二度と、やっと好きになれた人からの想いに気付けたのだとしても、もう、それに応える権利も資格もない。
「……ごめん、楽田……ごめん……」
もう二度と一緒に弁当を食べたり、他愛ないことを喋ったり、勉強をしたり出来なくてもいい。ただもう一度だけ、名前を、彼のあの底抜けに明るい声で呼ばれたい。
叶うことがない願いを抱きながら、僕はひとりベッドの中で声を殺して泣いた。



