夏休みが明けると、文化祭に次いで大きな行事である体育祭が開催される。小学校のあのリレーの忌まわしい思い出があるので、僕が最も嫌う行事でもある。
 仮病を使ってずる休みをするほどの度胸がないので、どうにか合法的に休める、いわゆる公欠扱いになる方法を模索した結果が、いまのように生徒会の役員などになって運営側に回ることだ。中学の時にそれに気付いて以降、僕はずっと生徒会役員に立候補し、役職についてきた。
 日々面倒な細々とした仕事はあることはあるけれど、特に明花高校は生徒会がもつ裁量や権限が割と自由なので、細々としたそれらを厭わないのであれば、結構楽しくはある。それに内申書にも書かれるという特典付きでもある。

「……とは言っても、炎天下に日長一日晒されるのを耐えるのって、やっぱかなりツラいな……」

 高校生ともなれば、大掛かりな全体練習などはしないけれども、それでも本番当日は暑い日差しに晒されなくてはならない。僕は得点係の責任者として、得点板を設置している空き教室に控えているけれど、それでも日差しの照り返しに顔をしかめてしまう。

「まあ、それでも私らは一応日陰にいられるんだから、マシじゃない?」
「それはそうだけど……」

 青川さんとそんなことを言いながら、競技で盛り上がるグランドに目をやる。いまはちょうどトラック内で障害走が行われているらしく、応援席は大いに沸いている。
 全校生徒を赤組と白組と青組に分けて得点を競うのだけれど、毎年のようにどの組も僅差で競り合っている状況だ。

(暑い中走り回るだけのことがそんなに盛り上がることなのかな……そんなにみんな、クラス愛なんてないだろうに)

 そんな冷めた目でグランドを見ていたら、次の競技が始まった。競技は、百メートル走のようだ。

「あ、百メートル? 楽田くん出るのかな?」
「陸上部の選手なのに出ていいものなんですかね? 公平じゃない気がしますけど」

 しかも、楽田は中学時代のものとは言え、日本二位の記録を持っているのだ。それを、ごく普通の生徒たちが太刀打ちできるわけがないと思うのだけど。
 すると青川さんは肩をすくめ、さあ? と言うように苦笑する。

「こう言ったらあれだけどさ、中学の時とは言え、記録持ってるほど陸上部ですごいのって楽田くんだけじゃない? だから、楽田くんだけ出ちゃダメ、なんて言いにくいから、そういうのはないと思うけど」

 確かにそれは一理あるかもしれないな……と、思っている内に、グランドがわあっと湧きあがった。青川さんと思わずバルコニーに出て見に行くと、どうやら楽田がスタートに立ったらしいのだ。
 春先の大会で好成績を修めたことと、僕に対する熱烈アプローチを含む陸上部の一件で、楽田はそこそこ校内で認知されているようだ。

「何かアレでしょ? ファンがいるって話じゃん、楽田くん」
「へえ……」
「イケメンで足が速くてギャップ萌えするくらいかわいくて、って感じで、人気らしいよ」
「……なんで僕の方見るんですか」

 何か言いたげに見てくる青川さんの視線と含みのある言葉に、ムッとして言い返していると、スタートのピストルが鳴り響いた。
 グランドの方に目をやると、六コースある内のどこに楽田がいるとは聞いていなかったのに、すぐにわかってしまった。真ん中の三コース目の選手が、スタートから他よりも身体二つ分くらい飛びぬけていたのだ。
 あ、あれだ。そう、認識したころには第一コーナーを曲がり、直線コースに差し掛かっていた。ひとりそこだけ切り抜かれたかのように、流れている時間や空気が違っているように見える程に、楽田だけが駆け抜けていく。
 速い、とかそんな形容ではありきたり過ぎてチープに感じられてしまうほどに、楽田の走りは別次元で、ダントツの走り、と実況する放送部の声が聞こえる頃にはゴールテープを切っていた。

「すごい……楽田の走り……」

 僕は走りについて、陸上について何も知らないし、寧ろ知りたくないと思って来ていた。だから、記録の話をされても、だから何だろうか、と思っていたくらいだ。
 でも、それを実際目の当たりにして、彼がどれほどすごい脚力の持ち主であるかをあらためて思い知る。

「すごーい! めっちゃカッコいい! ダントツだったよねぇ」

 青川さんがはしゃぎながら僕にそう声をかけて来たけれど、上手く応えられない。それくらいに、圧巻の走りだった。

「でもさあ、競技会だっけ? そういうのに行くとさ、あんな速い人ごろごろいるんだよねぇ。すごい……同じ人間とは思えない」
「……同感です」

 うなずく僕に、青川さんは、だよねぇ、と言い、一位入賞の選手だけが集められていく所に並ぶ楽田に向かって手を振っている。
 楽田はそれに気付いたらしく、手を振り返してくる。それに対して青川さんがきゃあきゃあとはしゃいで飛び跳ねている。それがなんだか、僕は面白くなかった。

(僕を好きって言う割に、誰にでも手を振ったり愛想よくしたりはするんだな……)

 呟いた胸の内の言葉に、僕は自分で驚き、顔が熱くなっていくのを感じて教室に戻る。暑さのせいにして、顔が赤くなっていくのを見られたくなかったからだ。なんだかまるで、僕が楽田の走りに見惚れていたように思われそうで、癪で。
 それでも、と、僕は時期に報告が来るだろう百メートル走の得点を待ちながら、考える。それでもやっぱり、楽田が走る姿はカッコいいと思えてしまうな、と。孤高で凛としていて、まっすぐにゴールだけを捕えている眼差しが、いつもの軽薄さが消えてぞくりとするほどで。
 だけどゴールすると、一転していつものあの音がしそうなほど軽薄な雰囲気に戻ってしまう。大きな黒目がちな目許を線にして、子どもみたいに手を振ったりして、あっという間にあどけなくなる。
 そのギャップを。女の子たちは良いというのだろう。そういう所がモテる要素でもあるのは、なんとなくわかって来た。

(でも、何かそれに納得がいかないんだよな……)

 それの理由が、僕を好きだというくせに他の人にも愛想よくするから、というのであれば、僕だってなんて幼稚な理由で拗ねているのだろうか。恥ずかしくて、居た堪れない。
 自分で自分の感情がよくわからない。迷子、というわけではないけれど、突拍子もない、思ってもいない反応をしたりして、戸惑ってしまう。
 夏休み中に、浩輝から、「楽田のことが好きなんだろう?」ということを言われて、僕はなんであんなに慌てたんだろう。たとえ楽田から迫られているとは言え、べつに僕のスタンスとしては、友達として、とか、後輩として、とか、言いようはいくらでも出来たはずなのに。


 もやもやとしたままいくつかの競技が行われ、見るともなしに青川さんと交代で休憩を取りながら見ていた。
 その内に、最後の競技、組別対抗リレーの番となった。

「ねえあれ、楽田くんじゃない?」

 選手入場の際、走者順に入場するとは聞いていたが、その最後尾に赤いサッカーシャツを着た楽田がいたのだ。最後尾にいるということは、アンカーということだろうか。

「普通、アンカーって三年生がすると思ってたけど、楽田くんなんだ」
「確かに、そうですね……」

 三年生は最後の体育祭だから、と華を持たせる意味でアンカーを務めさせるのが暗黙の慣例に思っていたのだけれど、どうやら赤組はそういう慣例を破ってまで勝ちにこだわっているということなんだろうか。
 確かに、赤白青の点差はそれぞれ十数点という僅差で、リレーの結果次第では大きく覆ることが考えられる。

「本来なら陸上部のキャプテンとかが走るのかもしれないけど、楽田くんはもっと速いからねぇ」

 本気で勝ちに行っているね、と青川さんが感心している中、僕は楽田の姿を見つめる。高い位置からだから頭しか見えない。
 全国レベルのレースにも出たことがあるのだから、学校のリレーなんてきっと平気だろう。勝負へのプレッシャーが違うはず。頭ではそうわかっているのに、なんだかソワソワ落ち着かない。レースを見るだけなら、先程の百メートル走のようにここから見ればいい。だけど、いまちゃんと楽田が平常心でいる顔を見て、僕の方が安心したい気分なのだ。
 居ても立っても居られない――そう、思った瞬間には、僕はバルコニーから教室内に戻り、そして教室を飛び出していた。
 青川さんが何か言っていた気がしたけれど、聞く気もなく、ただ僕はひたすらに、グランドを目指して走り始めていた。
 靴を履き替えることもせず、転がるようにグランドまで駆けつけると、ちょうどリレーがスタートしたところだった。
 各学年男女それぞれ四人ずつ選出され、走者順を組んで速さを競う。一周二百メートルという長い距離を、全力で走り抜ける。

『赤組、第五走者にバトンが渡りました。白組が間近に迫っています! 青組も近づいています!』

 リレーの面白さはバトンパスにあると、陸上部のマネージャーがいつだったか言っていた。確かにそこでしくじれば、レース全体に響きかねないのだろう。
 しかし、二百メートルという距離を走るせいか、スタミナが切れてしまう選手もいて、赤と白は交互に順位を入れ替え、時折青が入ってくる展開だ。どこが一位になってもおかしくないレース展開に、場内は大いに沸いている。僕もいつの間にか、本部席の後ろの方で食い入るように手に汗握っていた。
 そうしているうちに、三組ともほぼ同時にアンカーにバトンが渡り、楽田の番が回って来た。
 混戦するバトンパスゾーンの中を、いち早く飛び出たのは青組で、僅差で白と赤の楽田が続く。青組のアンカーは陸上部の主将で、白はどこかの運動部のようだ。
 先頭と楽田の差がひらいたように見え、一瞬場内が悲壮などよめきに包まれかける。でも次の瞬間、赤い鉢巻を巻いた影が、ぐっと前に踏み出た。

「楽田!!」

 思わず口をついて出た名前に、ほんの一瞬、楽田が片頬をあげて笑った気がした。でもそう見えた時には、すでに楽田は白組を追い抜き、青組の陸上部の主将のすぐ後ろに追いついていたのだ。
 追いついた、と思った時には楽田は青組の一歩前を行き、そのままスピードを落とすこともなく、寧ろ速度をあげながら走り抜けていく。それからはもう、風よりも速く楽田がゴールテープを切るまで瞬きほどの時間しかかからなかった気がする。

『赤組が一位でゴールしました! 続いて青組、そして……』

 興奮気味の実況と、楽田を出迎えるチームメイトで沸くトラックの光景を、僕は妙な興奮に包まれたまま見つめていた。バルコニーから高みの見物をしていた時とは違う、空気を分かち合う中でのレースの熱に、僕は絆されていたのかもしれない。
 呆然としている僕の方に楽田が振り向き、あの軽薄だけれど憎めない顔で笑って大声でこう言った。

「真木野さーん! 俺、一番でした!」

 僕は、何と答えればいいのかわからず、楽田がしているようにブイサインをして返した。楽田はそれに嬉しそうに大きく笑い、バトンを持つ手もまたブイサインをしている。そうしてそんな彼をチームメイトが囲み、胴上げを始める。
 ほんの一瞬前まであんなに野性的で誰も寄せ付けない雰囲気で駆け抜けていたのに。

「……ヘンな奴」

 そう、苦笑して呟きながらも、僕はまた彼が初めて見せた姿に惹かれ、それを強く目と記憶に焼き付けようと、無意識にしていたことに気付いていなかった。