「……なんか、すんません」

 どれだけぼんやりと人混みを見つめていただろう。不意に、楽田がそう呟いたのが聞こえ、顔を向ける。何か理不尽に叱られた子どものような弱い笑みを浮かべて、楽田は僕を見ていた。

「べつに、楽田が謝ることじゃ……」

 取り繕うようにそうは言いつつも、僕は自分も楽田も悪いとは思っていなかった。明らかに、透の言動の度が過ぎていたのは明らかだ。
 だけど、それをわかりつつも、楽田はそう言い切って僕に謝ることすらできないでいる。弱く笑って伏せている目はいつもの明るさも感じられない。
 通りにいつまでも佇んでいるのもなんだから、と、僕が促すように歩きだすと、楽田もその後をついてくる。だけども、手は繋いでいなかった。
 露店の列が途切れ、ふと静かな場所に出た。それは商店街のはずれから続く公園への遊歩道で、そのまま僕と楽田は歩き進んで行く。
 周りが急に静かになったからか、「俺、ダメなんすよねぇ」と、不意に楽田が口を開いてきた。
 顔を向けると、あの弱い笑みを湛えて少し俯き加減に歩きながら、楽田が言葉を続ける。

「俺、全然兄ちゃんに、言い返したりとかって、ガキの頃からできないんすよねぇ。なんか、怖くて」
「怖い?」
「ガキの頃の癖って言うんすかね……いやだ、とかやめて、とか言うと、生意気だ、って言われたり殴られたりとかって。真木野さんもないっすか?」
「僕は、一人っ子だから……」

 兄弟げんかというものに憧れはしないけれど、兄弟の煩わしさに想いを馳せられない。だけど、ただ生まれ順による理不尽であることぐらいは、わかるつもりだ。
 そう、言葉を継ごうとしたけれど、楽田は僕の言葉に、「いいっすね、ひとりって」と、返してきて、それに僕は何も言えなかった。

「ガキの頃は、まあ、兄ちゃんの方がデカいし、足も速かったし、俺が何かいうのは違うんだろうなって思ってたんす。あとはまあ、俺、バカだから、“こんなのもわかんねえの?”って言われるのも、当然なんだと思ってたんすよね」

 薄暗い、街灯がぽつぽつとあるだけの道に、楽田の声だけが響く。遠くまだ祭りの音が聞こえるけれど、別の世界みたいだ。ここだけが静かで、二人だけしかいない。
 街灯の灯りに時折縁どられる楽田の横顔は、走っている時とは違う綺麗さがあって、僕は目が離せなかった。いつになく物憂げで、太陽の気配なんか欠片もない、小さな子どもみたいだったから。
 何をそんなに、楽田は兄である透に遠慮をしているのだろう。確かに成績の出来はいいとは言い難い子どもだったかもしれないけれど、それだけで弟をあんなに蔑んでいいものじゃないと思う。

「でもだからって、さっきのはあんまりひどいんじゃない?」
「うん、まあ……兄ちゃんがあんなすげえヒドイ感じになっちゃったのって、俺が記録出しちゃった辺りからなんすよね。それまでは、ちょっと意地悪だけど、遊んではくれてたし、無視もしなかったし」
「記録って、日本二位の記録のこと?」

 全国で二番目の記録を出し、大注目をされていた中学校時代。推薦入試は結果として明花高校を選ぶしかなかったようだけれど、それでも当初は引く手数多だったのは想像に難くない。そしてそういう身近な存在を、負けん気が強そうな透が良く思っていなかったであろうことも。

「もともと、兄ちゃんみたいに速く走れるようになりたくて、俺も陸上部入ったんすよ。同じ中学で、一個違いで。兄ちゃんも、エーススプリンターだったんすよ。だから、俺もああいう風になりたいって思ってた。兄ちゃんにどうやったらもっと速く走れるのかもいっぱい聞いたりしたし」

 きっと、そのために楽田なりに練習や努力を重ねていただろうし、そうやって自分の背中を追ってくる弟を、透が無下にしていたのかどうかはわからない。でもたぶん、記録を出すまでは、そんなに雰囲気が悪くはなかったのだろうことが、言葉の端々からうかがえる。
 でもそれが、彼が中三の夏に記録を出したことで、一変したという。

「兄ちゃんは、フツーに入試受けて、大志(たいし)高校って知ってます? ここいらでは結構陸上強いとこなんすけど……そこに入ってて。でも、そういうとこって、選手層が厚いっつーんですかね……なかなか大会とか出してもらえないみたいで。だからなんか、高校入ってから、兄ちゃん、機嫌悪いこと増えて……」
「……それで、楽田が日本二位の記録出した、ってなったから、あんな風に?」
「まあ、そういうことっすね」

 結論を僕が口にすると、楽田は妙に明るい調子でそう頷いていたけれど、眼は悲し気に揺れている気がした。
 話を聞くにつれ、あまりの理不尽さに言葉がとっさに出てこなかった。
 楽田はきちんと憧れであった透に追いつき追い越すために努力し続け、それを達成したにすぎないし、あの記録もその賜物(たまもの)と言える。なのにそれを、僻んで蔑むなんて……兄としてだけではなく、ヒトとしても透の感覚を疑いたくなる。

「でもだからって、楽田があんな風に透に言われっぱなしで良いわけがないよ」
「それは、父さんや母さんも言うんすよね。走介は努力したんだから、そんな風な態度はおかしい、って」
「それでも、変わらないんだ……」
「ええ、まあ……俺がバカなのにちやほやされて調子に乗ってるのがきっと気に喰わないん……」
「そういうことじゃないよ!」

 自分に非がない事さえ認められないほどに、楽田の認識が甘いのかもしれないが、そう仕向けている透の歪んだ感覚が何よりも大きい気がする。そしてそれをとがめられても改めないでいる透の強情さも、許しがたい気がした。
 たかが兄弟間の蟠りじゃないか。他人の僕が口を挟んだところでどうかなる問題じゃない。いままでの僕なら、いつもの、“裏生徒会長”と呼ばれている僕なら、そう割切ってそこで話を終わらせていただろう。
 だけど、そうやって流してしまうにはあまりに許しがたい想いが(たぎ)っていて、つい、声を荒げていた。言われた楽田は勿論、言った僕も内心驚いている。だけど、開いた口も、喉からせりあがってくる感情をくるんだ言葉も、止められなかった。

「そんなの間違ってる。楽田はちゃんと自分で努力して勝ち取ってきたことで、卑怯なことは何もしていない。だからあんなすごい記録が出せたんだし、進学先だって得られたんだよ。今回のテストの結果だってそう。彼が、透がただ君の成功に僻んで歪んだ感覚で物を言ってるだけで、そんなの、許しちゃいけないよ」
「真木野さん……」

 こんなに誰かに対して、強い感情を持ったことなんてあっただろうか。そしてそれを、そのまま言葉にして吐き出したことなんてきっといままでになかった。だからなのか、視界が揺らいで潤んで、頬が熱くなっていくのが止められない。吐く息すらも熱く、夏なのに白く吐息が曇っているように思えてしまう。
 肩で息をするように一気にまくし立てた僕を、楽田は驚きを隠せない顔で見つめている。まさか僕が、そんなことを言ってくるなんて思ってもいなかったのだろう。僕だってそうだ。
 でも、言ったことに偽りはなかったし、お世辞でもなんでもなかった。それが、彼に通じたかどうかはわからないけれど。
 暗がりの中、街灯もない遊歩道の真ん中で沈黙していると、とつぜんぱっと夜空が明るくなった。光は赤や白と色とりどりで、思わず僕も楽田もそちらに顔を向ける。
 続いて、ドーンという腹の底に響くような音がして、また夜空が光る。それは花のように夜空に開く大きな花火だった。

「花火だ!!」

 二人同時に、声にしていた気がする。楽田は夜空を指し、僕の方を花火に負けないほどきらめく顔をして振りかえってきた。もう先程までの萎れた感じはなく、いつもの明るくて軽薄ささえ感じるいつもの彼だ。
 見上げている間にも、花火は赤や青、白、緑など色とりどりでデザインも様々なものが上がっては消えていく。流れ星のように夜空を流れていく白い花火には、揃って感嘆の溜め息のようなものをついていた。

「きれいっすねー……」
「花火とか、いつ振りだろ……」
「真木野さんって結構引きこもりなんすか?」
「引きこもりって言うか……人混みが苦手で……すぐ、倒れちゃうから」

 暑いところも人が多いところも苦手で、花火を見に行くなんてことは、親に抱かれて少しだけ見に行ったことがあるくらいだ。記憶ではなく、写真という記録でそれを知っているくらい。
 先日部活を見に行って倒れた件もあるからか、楽田は妙に納得したようで、「確かにそうっすね」と、苦笑する。

「モヤシっ子って思ってるんでしょ」
「そんなことな……ちょっと、思いました」

 バカ正直に思っていることを言ってしまうあたりが楽田らしい。だからなのか、それに対していちいち怒る気にもなれず、僕もまた苦笑して、呟く。

「まあ、そんなだから、透には足手まといだって言われたんだろうけどね」
「……え? どういうことっすか?」
「んー……僕と透はね、小学校の頃同じクラスでね。で、運動会のリレーで僕が転んだせいで最下位になっちゃったんだ。僕は元々足も遅かったからね。だから、透はそう言ったんだよ」

 そしてそれ以来、僕は足が速い人間が苦手で嫌いだ、とまではさすがに言えず、ただ黙って夜空に開く花を見上げていた。開いては消えていく花々は美しく儚く、ただ見上げているだけでも心の中のわだかまりが一掃されていく気がする。
 だからなのか、心なしか僕は気分がすっきりしていたのだけれど、楽田は、複雑な感情をはらんだ顔をして僕を見ていた。

「楽田?」
「それは、真木野さんのせいじゃないっす」
「いや、でも、僕が転ばなかったら、最下位になんてならなかったはず……」
「リレーはチーム戦なんだから、カバーできなかったチームのやつらにも責任があるっす。だから、兄ちゃんのせいもある。真木野さんだけのせいじゃない」

 はっきりと真っ直ぐな言葉で楽田がそう告げた瞬間、大きく開く花火が夜空に打ち上げられる。流星のように残像が流れていく中、その光に縁どられた楽田の真剣な面持ちに、僕の胸が痛いほど音を立てていた。そして早鐘のように鼓動し、呼吸まで速くなっていく。頬が、耳の端が、喉が、指先が……すべての体温が上がっていく――この感情に、名前があるのを、僕は知っている。でも、それを彼に(いだい)いてしまっていいのか、わからない。
 だって彼は、僕と住む世界や見ているものが違う、走り抜けていく人間なのだから。
 それでも、いま差し出された言葉を、嬉しく思って受け取ってもいいだろうか。それだけは、許されたい。そう、思ってしまった。すべてが名前を付けてしまっていいかわからない感情のせいなのがわかりきっているのに。

「……ありがとう、楽田」

 そう呟くように告げた言葉に、花火の残像が消えた夜空を背にした楽田が微笑む。その微笑みに、胸がどうしても痛くなる。甘くて切なくて、彼だけを見つめていたくなる。

 ――知っている気がする、この感情の名前を。

「帰りましょうか、真木野さん」
「ああ、うん……」

 繋げなくなってしまった指先を名残惜しむように見つめながら、僕は生まれたての感情のぬくもりに戸惑うように頷いて歩き出す。
 数歩先を歩く背中は大きくて広くて、触れたいほどに愛しいと思えた。