「もうちょっと右……そっと、そっと……いまだ!」

 僕の声を合図に、楽田が薄紙の貼られているポイと呼ばれる、金魚すくいで使われる道具を水に潜らせた。迷いも躊躇いもない手の動きが、的確に赤いガラス片のような金魚を数匹掬い上げていく。素早く水の張られたお椀の中にそれらを放り込むと、楽田は得意げな顔をしてこちらを見る。

「真木野さん、捕れたっす!」
「おお、すごい。流石の素早さだね」

 短距離走に瞬発力は必須だというけれど、こういう場面でも有効だとは思わなかった。獲物を的確に捉え、サッと捕獲する。無駄のない動きは見ていて惚れ惚れしてしまう。

 ……え? 惚れ惚れ? 僕が、楽田に?

 ふと浮かんだ言葉が引っ掛かり、金魚すくいの露店から出て数歩のところで脚が停まる。なんでそんな言葉が浮かんだのか、浮かんだとしても引っ掛かってしまうのか。
 人ごみに紛れてはぐれてしまわないように、と、いつの間にか暗黙で僕と楽田は手を繋いでいた。すぐ間近にいる時でさえも、それはほどかれていない。つないだまま、僕ばかりがドキドキしているようで、なんだか居心地が悪い。

「いやー、真木野さんの指示的確っすね。流石っす」
「べつに、楽田の瞬発力があるからだよ」
「そっすかね? やったー、真木野さんが褒めてくれた! 明日はいい日になるな」

 小さな子どものようにはしゃいだ様子で、そんなことを言いながらつないでいる手を振り回すものだから、僕はつい笑ってしまう。無邪気で純粋で、祭りの灯りよりも眩しく見えてしまう。

「そんな、ヒトを滅多に褒めない冷血漢みたいに言わないでよ」
「でも、裏生徒会長って言うから、俺、最初はもっと怖いヒトかと思ってました」

 それは、よく言われる。真木野くんは冷血漢、とか、裏生徒会長はアンドロイドだ、とか。怖いなんて形容を通り越して、有機物でさえない言われようだ。
 大方、楽田も陸上部の連中からそういう話を聞いているだろうし、実際、最初に会った時は僕のことを堂々と裏生徒会長さん! なんて呼んできたくらいだ。さぞ、冷血な人でなしとでも思ったのかもしれない。
 だから、「まあ、否定はしなけど」と、僕が、繋いでいる手をそのままに、金魚すくいの前に買った綿あめに口をつけながら苦笑すると、楽田は「しないんすか?」と、不思議そうな顔をしている。まるで、僕がそう呼ばれるのを甘んじて受けていて、否定しないのを不思議がっているような顔だ。

「だってそうじゃん。楽田だって最初は僕のこと裏生徒会長って呼んでたし」
「あれは、まだ真木野さんって名前知らなかったから……」

 苦笑しながら僕が指摘すると、楽田はバツが悪いと思ったのか、鼻先まで赤くして唇を尖らせ目を反らす。気まずそうに口をつぐみ、拗ねたようにしているけれど、普段のようにあっけらかんとした軽薄さがないからか、それとも、祭りの灯りで顔に陰影がつくからか、妙に色気のある雰囲気だ。
 年下とは思えない、楽田の横顔から漂う色気のようなものに、僕の胸がうるさく騒ぎ出す。周囲の喧騒が何かに吸い込まれ、音という音がなくなってしまったかのように、僕と楽田の周りは無音の空間になっていた。
 ちらりと一瞥してくる、長い睫毛の目許に見据えられ、僕の胸が音を立てる。痛みを伴うそれに、うるさい心臓が煽られるように早打ちしていく。繋いでいる手から伝わりそうで気になってしまって、一層鼓動が速くなる。
 苦しい、痛い……だけど、彼に見つめられているこの瞬間に、どうしようもない熱い感情が湧いてしまう。熱くて甘いそれは、彼がトラックで走っていた姿を見た時にも感じた気がする。
 トラックを駆けて行く楽田の姿に、遠い記憶の中の何かの影が重なっていく。あれは、誰だ――――

「ッと、あっぶねぇな。止まってんじゃねえよ。……あれ? 走介?」

 どれぐらい、僕と楽田は見つめ合っていただろう。誰かが楽田の名を呼んだのすらすぐに僕は気付けず、見つめ合うようにしていた僕らの間に、その声の主が割り込むように現れて繋いでいた手が離され、ようやく我に返った。

「なんだ、どこの間抜け面かと思えば、お前かよ、走介」

 楽田より少しだけ背が低い、だけど同じくらい良く日に焼けた肌で、一目でスポーツをしているんだなとわかる体つきだ。
現れた彼に、「兄ちゃん?」と、楽田の驚いた声がした。
 楽田に兄と呼ばれた彼は、その方に振り返る。その顔には、あからさまな冷笑を浮かべる気配が背中越しに伝わってくる。その冷笑に、楽田の笑みが萎れていく。
 楽田に実力を抜かれたことで、彼の存在を無視したりバカにしたりするようになったという兄。明るく太陽のようだと思える笑顔を一気に陰らせるそんな存在の登場に、僕の胸中が騒めき始める。
 顔もろくに見えていないのに……ただ一言二言声を聞いただけで、すごく不愉快な気分だ。

「兄ちゃんこそ、今日は部活ないの?」
「今日は休養日。馬鹿の一つ覚えで走ってるお前とは違うんだよ」
「……べつに、俺だって休むこともあるよ」
「ふーん……テストの結果はどうだったんだよ。どうせ最下位とかだったんだろ?」

 お前バカだもんな、と、あからさまな見下しように、僕は更に苛立ちを抑えきれないでいた。楽田がどれだけこの半月で努力をして、あの結果を勝ち取ったのか、僕の口からでも知らしめてやりたいと瞬間的に思ってしまったからだ。
 そして思った瞬間には、その兄だという彼の肩をつかんでいた。

「楽田は、最下位なんかじゃない。ちゃんと学年トップ二十位の中に入るくらいの成績だったんだから。君、兄さんだからってひどい言いようじゃな……」

 肩をつかみながら、まったく後先を考えないでそんなことを、見知らぬ誰かに言うなんて、いままでやったことも考えたこともなかったのに。声をかけてから自分が今やったことの大胆さに、冷や汗が溢れて来たけれど、せめて動揺を悟られてはいけないと、睨みつけてくる眼差しに対峙するように向き直る。
 しかし、肩をつかまれて振り返って睨みつけてきた顔に、僕は驚きで言葉を失った。相手もまた、僕を見て唖然としている。

「……真木野?」
「透……?」

 背があの頃より伸びて、体つきも大人のそれになっている、でも、ヤンチャそうな目許や気の強そうな口許はそのままで、その口で今しがた弟である楽田を、馬鹿にするようなことを言ったのかと思うと、つねり上げてやりたい気分だった。
 互いに、あの頃呼び合っていた名を口にし、呆然と佇む。思ってもいなかった相手と、思ってもいなかった場所での再会。腹の底が急激に凍り付くように体が冷えていく。
 脳裏によみがえる、あの時の侮蔑の言葉。クラス全体の非難の矛先を僕に仕向けた彼の言葉と態度が、僕をあの時の幼く弱い子どもに引き戻していく。

「知り合いなの、兄ちゃんと、真木野さん」
「小学校の時に、な?」
「ああ、うん……」
「ッはは、相変わらずどんくさそうだな、真木野。モヤシっ子のままじゃん」

 どう、その言葉に返せばよかったのだろうか。先程までの威勢の良さが宙に浮いてしまうほど、僕は緊張で冷や汗をかき、震えていないのが奇跡のようだった。
 僕が冷血な裏生徒会長と呼ばれるに至るほど、運動というもの、特に走る事に対する嫌悪感を植え付けるきっかけとなった存在の登場に、僕は絶望的な恐怖と、同じくらいの憎しみを覚えていた。
 しかし憎しみを覚えていても、僕と透では明確な体格差があり、今しがた方につかみかかったのが不相応な態度であったことを痛感させられる。たちまちに小さな弱いあの頃の僕に戻されて、先程まで口にしていた言葉が喉につかえて出てこなくなった。
 そんな僕の緊張具合を鼻で笑うように冷笑しながら、透は僕と楽田どちらに訊くでもなく声をかけてくる。

「お前らこそどういう取り合わせ? バカとくそ真面目と。ウケるんだけど」
「真木野さんは、俺の学校の、生徒会のヒトで……そんで、勉強、見てもらって……」
「は? どういう繋がり? ちゃんと順を追って話せよ。バカだなぁ、走介は。どうせあれだろ、部のルールで点数悪くてクビになったんだろ?」

 ハナから楽田を馬鹿にして話を聞こうとしない透の態度に、沈みかけていた僕の気持ちが苛立ちでふつふつと湧きあがってくる。さっきからどうにも拭えない不快感が、過去の忌まわしい記憶以上に膨れあがっていく。

「――楽田は、バカじゃない。僕が勉強を教えて、ちゃんと学年二十位以内に入った。クビにもなってない」

 てっきり先程までの僕が委縮して、透に怯えるようにしていたから、何も言わないとでも思っていたのか、反論をされてぽかんと口を開けている。楽田もまた、僕の思い掛けない言動に目をむいている。
 僕の反論に透はあからさまに不快そうな顔をし、「へぇ、証拠は?」と悪態をつく。
 楽田はそれに対し、慌ててリュックからあの成績の書かれたメモを取り出し、透に差し出す。透はそれを見るなり、一層不愉快そうに眉間にしわを寄せ、メモを投げ捨てるように返した。

「なーんだ、つまんねぇの。てっきりクビになってるかと思ったのに」
「だって俺、走らなかったら、何にもないし……」
「だからだよ。お前なんかな、走っただけでちやほやされて浮かれてる、ただバカなんだからな」

 それだけを吐き捨てるように言い置いて、透は僕らに背を向けて人混みの中に入っていく。その背中が見えなくなってしまうまで、僕らは言い返すこともできず、呆然と見送っていた。