放課後マンツーマン指導、なんて言う、ガラにもないことをしつつ、自分の勉強もする。そんな日々を半月ほど送って、実力テストの日を迎えた。
主要五科目のテストを一日かけて解くだけで、特にこれといって変わりはない。部活動をしている生徒なんかは、テストが終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、まるで無罪放免でも受けたかのように開放的な声をあげてさえいた。
取り立てて何もない、夏前の一日ではあったけれど、テストの間中、僕の頭の隅には楽田のことが引っ掛かっていた。
僕の教え方に問題があったとは思っていないし、だからといって楽田の理解力がなかったとも思えない。確かにテストに太刀打ちできるほどの実力を、あの短期間で身に付けさせるのはかなり大変ではあったけれど。それでも、自分が教えたことを理解して、目に見えて理解力が上がっていくのがわかるのは気分が良かったし、普段になく高揚するものがあったのも確かだ。
だから、今日彼がどれくらいテストの問題を解けたのだろうか、時にするのは、教えた側としては当然の心理じゃないかと思う。
「……そう、教え子の成果を知りたい教師と同じ気持ちなだけだよ……」
あえて声に出してそう言い訳しているのは、いま僕の足は陸上部が主に練習をしているグランドに向いているからだ。
楽田のクラスを訪ねたのだけれど既に部活に行ったと言われたから、仕方なく向かっているにすぎないのに……何でやけに汗をかいてしまうのだろう。体が火照るように熱いのは、今日が梅雨の晴れ間だからだろうか。
日差しの強いグランドには影がなく、午後遅くの容赦のない日差しが痛いくらいに降り注いでいる。
楽田は、トラックのあるグランドの中央らへんに居て、ストレッチのような事をしている。傍にはあのマネージャーがいて、何やら楽し気だ。
マネージャーが何か話しかけると、楽田があの黒目がちな目を大きく見開き、口も大きく開いて笑う。白い歯が眩しいほどで、日焼けした肌によく映えている。
長い手足が動く様がゆっくりとスローモーションのようにはっきりと目に焼き付いてくる。彼の一挙一足を記憶中枢に焼きつけようとしているようだ。
なんで、そんなことを? 自分の体の動きの奇妙さに戸惑いを覚えていると、楽田が僕に気付き、嬉しそうに手を振る。
応えるように手をあげようとしたその時、すぅっと目の前が暗くトーンダウンしていった。そうして、ぐらりと天地が揺らいで――――
「誠さん!!」
誰かが、僕を呼んでいる。僕の下の名を呼ぶのは、この学校では浩輝くらいしかいないはずなのに。
手足が重い。なんだか自分のじゃないみたいだ。でもその手を、誰かがずっと握りしめている気がする。それが、ひどく安心する。目の前が真っ暗で何も見えないのに、不思議と怖くないのは、そうされているからだろうか。
ふわりとその内に身体が浮き上がるようになって、そのまま滑るようにどこかへと運ばれていく。がやがやと周りで何か声がするけれど、ちっとも聞き取れない。
(僕、何がどうしたんだろう――――)
誰かに訊きたいのに声が出ない。段々と意識が遠くなっていって――その内に真っ暗な視界の中に溶けるようにわからなくなってしまった。
ひんやりと冷たくやわらかな感触がして、僕はまた意識がゆっくりと目覚めるのを感じた。でもまだまぶたを開くほどの力はなく、薄く、ほんの少しだけ開けてみる。
白い天井……消毒薬のにおい……パリッとしたシーツの感触……
(あ、僕、保健室かどこかで寝かされているな……)
ここ最近は遠ざかっていると思っていたけれど、僕は基本的に、こういう白い天井で薬品のにおいのする空間になじみ深い子どもだったことを思い出す。
(高校生になって、昔より……それこそ小学生の頃より丈夫になって来たと思っていたのに、油断した……)
自分の虚弱な体質を忘れてしまうほどに、この所は体調が良かったつもりだったから、まさか、学校で倒れるようなことになるなんて思っていなかったのだ。だから余計に、この状況が悔しかった。
「ああ、もう……クソ……」
いつになく汚い言葉を呟いていたら、真横のカーテンが開き、誰かが覗き込んでくる。三十代くらいの白衣を着た女性――保健室の養護の先生だった。
「気が付いた? 真木野くん、グランドで倒れたのよ。憶えてる?」
「……少し」
「急に暑くなったからねぇ、今日。熱中症かな。なんか飲む?」
お茶かOS1しかないけどねぇ、という先生の声を聞きながらぼうっと体を起こしたら、入れ替わりに楽田が顔を覗かせていた。
まったく気配がなく、亡霊みたいに立っていたので、「うわっ」と、思わず声を出して驚いたら、途端に楽田がぼろぼろと泣き出したのだ。
「え? 何? なんで?」
「良かった……良かったぁ……」
楽田が大泣きしている理由もわからず戸惑っている僕を、彼は構わず(しかも保健室で)抱きしめてきた。ぎゅうぎゅうと音がしそうなほど強い抱擁に、僕の戸惑いは収まらない。
その内養護の先生が戻って来て、「あら、お邪魔かしら」なんて言うものだから、僕は慌てて楽田を両腕で押し離した。
「彼がね、真木野くんを運んでくれたんだよ。お姫様抱っこして」
「姫?!」
あまりの単語に僕が叫び声をあげると、楽田は何を誤解したのか、「べつにヘンなことはしてないっす」と蚊の鳴くような声で言い訳をしてくる。それはそれで問詰めたいところだけれど、気になったのはその運び方だ。
「担架とかじゃないんですか?」
「ヒトを集めて、真木野くんを担架に乗せて、ここまで運んで……ってするよりは、陸上部のエーススプリンターにお姫様抱っこされた方が速いじゃない?」
「それはまあ……そうかもですけど……」
緊急事態だったんだから、と先生は言うけれど、だからって……公衆の面前でお姫様抱っこ……春先の告白に続いて、またしても何か言われるか……誤解を招きかねないことをしてしまった……。
しかしだからと言って、恩人とも言える楽田を責めることはしてはいけないし、そのつもりもない。
ようやく自分がどうなったのかを把握できた僕は、まだ至近距離でベソベソと泣いている楽田にひとまずのお礼を言うことにした。
「……ありがとう、運んでくれて」
「よがっだっす……俺、真木野さんが……死んじゃったら、どうしよ……と思っ、てぇ……」
縁起でもないこと言うな、と言いたかったけれど、目の前で人が倒れたらそう思うのも無理はないかもしれない。それでなくとも、彼は……僕のことが好きだとか言うんだし。
(ああそうか……だから、泣いているのか。好きな人が倒れたら、まあ、動揺はするよな……)
ようやく楽田の号泣の理由を察した僕は、ひどく心配させてしまったことを今更に悔やんだ。
「ごめん、心配かけて」
申し訳なくてそう言うと、楽田は鼻水を盛大に啜りながら目を腕でこすり、泣き顔のままで笑顔を無理やり作りながら答える。
「そうっすよ。真木野さんは色がめっちゃ白くてモヤシなんすから、日差しの下とか出ちゃダメっす」
「それじゃ余計にモヤシになるんじゃない?」
あ、そうか、と自分の間の抜けた言葉に気付いたのか、苦笑する僕に釣られるように楽田もおかしそうに笑う。
「なんで、グランドに来てたんすか? キャプテンに用事っすか?」
「いや、楽田に用事だったんだ」
「俺に?」
用事というほど大したことではないのだけれど、倒れて運ばれてという騒動を起こしてしまった手前、なんでもないと帰るわけにもいかないだろう。だから、そのままを正直に白状した。
「今日のテスト、どうだったのかなって思って。その……一応、僕が、教えたりしたし……」
改めて言葉にしてみると、ひどく僕が傲慢でエラそうで、あまりに上から菜物言いをしているのに気付かされ、ベッドにもぐりこみたくなる。なんだかまるで、出来の悪い生徒を心配する体で自分の行いを正当化しているようで、恥ずかしい。
だけど、楽田は僕の言葉に特に気分を害しているような様子や、お節介さを感じている様子はなく、一瞬きょとんとして、そしてあのグランドでマネージャーと喋っている時に見せていた時よりも数倍明るい笑みを浮かべた。そして手は、サムズアップをして、表情も心なしか得意げなドヤ顔だ。
「バッチリっす! いままでのテストの中で一番解けたかも! つーか、ぜんぶ解答埋めれたんすよ!」
「へえ、すごいじゃん」
「初めてっす、テストで全部答えられたのって! なんか、すげー気持ちいいっすね!」
キラキラとした子どもみたいな目でそんなことを言われて、嬉しくないわけがない。教えた側として、最高の賛辞じゃないかとさえ思ったほどだ。かなり、大袈裟だと自分でもすぐに思って、ニヤけそうな顔を引き締めたけれど。
「よかったね」
「はい! あざっす! マジで真木野さんのお陰っす!」
手を握りしめて熱烈な感謝をぶつけてくる楽田の眼は、誇張なしにきらきらしていて、それが僕の胸の仲間で照らすようで、恥ずかしくもあり、彼をそうさせているのが自分であることが少し誇らしくもあった。
主要五科目のテストを一日かけて解くだけで、特にこれといって変わりはない。部活動をしている生徒なんかは、テストが終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、まるで無罪放免でも受けたかのように開放的な声をあげてさえいた。
取り立てて何もない、夏前の一日ではあったけれど、テストの間中、僕の頭の隅には楽田のことが引っ掛かっていた。
僕の教え方に問題があったとは思っていないし、だからといって楽田の理解力がなかったとも思えない。確かにテストに太刀打ちできるほどの実力を、あの短期間で身に付けさせるのはかなり大変ではあったけれど。それでも、自分が教えたことを理解して、目に見えて理解力が上がっていくのがわかるのは気分が良かったし、普段になく高揚するものがあったのも確かだ。
だから、今日彼がどれくらいテストの問題を解けたのだろうか、時にするのは、教えた側としては当然の心理じゃないかと思う。
「……そう、教え子の成果を知りたい教師と同じ気持ちなだけだよ……」
あえて声に出してそう言い訳しているのは、いま僕の足は陸上部が主に練習をしているグランドに向いているからだ。
楽田のクラスを訪ねたのだけれど既に部活に行ったと言われたから、仕方なく向かっているにすぎないのに……何でやけに汗をかいてしまうのだろう。体が火照るように熱いのは、今日が梅雨の晴れ間だからだろうか。
日差しの強いグランドには影がなく、午後遅くの容赦のない日差しが痛いくらいに降り注いでいる。
楽田は、トラックのあるグランドの中央らへんに居て、ストレッチのような事をしている。傍にはあのマネージャーがいて、何やら楽し気だ。
マネージャーが何か話しかけると、楽田があの黒目がちな目を大きく見開き、口も大きく開いて笑う。白い歯が眩しいほどで、日焼けした肌によく映えている。
長い手足が動く様がゆっくりとスローモーションのようにはっきりと目に焼き付いてくる。彼の一挙一足を記憶中枢に焼きつけようとしているようだ。
なんで、そんなことを? 自分の体の動きの奇妙さに戸惑いを覚えていると、楽田が僕に気付き、嬉しそうに手を振る。
応えるように手をあげようとしたその時、すぅっと目の前が暗くトーンダウンしていった。そうして、ぐらりと天地が揺らいで――――
「誠さん!!」
誰かが、僕を呼んでいる。僕の下の名を呼ぶのは、この学校では浩輝くらいしかいないはずなのに。
手足が重い。なんだか自分のじゃないみたいだ。でもその手を、誰かがずっと握りしめている気がする。それが、ひどく安心する。目の前が真っ暗で何も見えないのに、不思議と怖くないのは、そうされているからだろうか。
ふわりとその内に身体が浮き上がるようになって、そのまま滑るようにどこかへと運ばれていく。がやがやと周りで何か声がするけれど、ちっとも聞き取れない。
(僕、何がどうしたんだろう――――)
誰かに訊きたいのに声が出ない。段々と意識が遠くなっていって――その内に真っ暗な視界の中に溶けるようにわからなくなってしまった。
ひんやりと冷たくやわらかな感触がして、僕はまた意識がゆっくりと目覚めるのを感じた。でもまだまぶたを開くほどの力はなく、薄く、ほんの少しだけ開けてみる。
白い天井……消毒薬のにおい……パリッとしたシーツの感触……
(あ、僕、保健室かどこかで寝かされているな……)
ここ最近は遠ざかっていると思っていたけれど、僕は基本的に、こういう白い天井で薬品のにおいのする空間になじみ深い子どもだったことを思い出す。
(高校生になって、昔より……それこそ小学生の頃より丈夫になって来たと思っていたのに、油断した……)
自分の虚弱な体質を忘れてしまうほどに、この所は体調が良かったつもりだったから、まさか、学校で倒れるようなことになるなんて思っていなかったのだ。だから余計に、この状況が悔しかった。
「ああ、もう……クソ……」
いつになく汚い言葉を呟いていたら、真横のカーテンが開き、誰かが覗き込んでくる。三十代くらいの白衣を着た女性――保健室の養護の先生だった。
「気が付いた? 真木野くん、グランドで倒れたのよ。憶えてる?」
「……少し」
「急に暑くなったからねぇ、今日。熱中症かな。なんか飲む?」
お茶かOS1しかないけどねぇ、という先生の声を聞きながらぼうっと体を起こしたら、入れ替わりに楽田が顔を覗かせていた。
まったく気配がなく、亡霊みたいに立っていたので、「うわっ」と、思わず声を出して驚いたら、途端に楽田がぼろぼろと泣き出したのだ。
「え? 何? なんで?」
「良かった……良かったぁ……」
楽田が大泣きしている理由もわからず戸惑っている僕を、彼は構わず(しかも保健室で)抱きしめてきた。ぎゅうぎゅうと音がしそうなほど強い抱擁に、僕の戸惑いは収まらない。
その内養護の先生が戻って来て、「あら、お邪魔かしら」なんて言うものだから、僕は慌てて楽田を両腕で押し離した。
「彼がね、真木野くんを運んでくれたんだよ。お姫様抱っこして」
「姫?!」
あまりの単語に僕が叫び声をあげると、楽田は何を誤解したのか、「べつにヘンなことはしてないっす」と蚊の鳴くような声で言い訳をしてくる。それはそれで問詰めたいところだけれど、気になったのはその運び方だ。
「担架とかじゃないんですか?」
「ヒトを集めて、真木野くんを担架に乗せて、ここまで運んで……ってするよりは、陸上部のエーススプリンターにお姫様抱っこされた方が速いじゃない?」
「それはまあ……そうかもですけど……」
緊急事態だったんだから、と先生は言うけれど、だからって……公衆の面前でお姫様抱っこ……春先の告白に続いて、またしても何か言われるか……誤解を招きかねないことをしてしまった……。
しかしだからと言って、恩人とも言える楽田を責めることはしてはいけないし、そのつもりもない。
ようやく自分がどうなったのかを把握できた僕は、まだ至近距離でベソベソと泣いている楽田にひとまずのお礼を言うことにした。
「……ありがとう、運んでくれて」
「よがっだっす……俺、真木野さんが……死んじゃったら、どうしよ……と思っ、てぇ……」
縁起でもないこと言うな、と言いたかったけれど、目の前で人が倒れたらそう思うのも無理はないかもしれない。それでなくとも、彼は……僕のことが好きだとか言うんだし。
(ああそうか……だから、泣いているのか。好きな人が倒れたら、まあ、動揺はするよな……)
ようやく楽田の号泣の理由を察した僕は、ひどく心配させてしまったことを今更に悔やんだ。
「ごめん、心配かけて」
申し訳なくてそう言うと、楽田は鼻水を盛大に啜りながら目を腕でこすり、泣き顔のままで笑顔を無理やり作りながら答える。
「そうっすよ。真木野さんは色がめっちゃ白くてモヤシなんすから、日差しの下とか出ちゃダメっす」
「それじゃ余計にモヤシになるんじゃない?」
あ、そうか、と自分の間の抜けた言葉に気付いたのか、苦笑する僕に釣られるように楽田もおかしそうに笑う。
「なんで、グランドに来てたんすか? キャプテンに用事っすか?」
「いや、楽田に用事だったんだ」
「俺に?」
用事というほど大したことではないのだけれど、倒れて運ばれてという騒動を起こしてしまった手前、なんでもないと帰るわけにもいかないだろう。だから、そのままを正直に白状した。
「今日のテスト、どうだったのかなって思って。その……一応、僕が、教えたりしたし……」
改めて言葉にしてみると、ひどく僕が傲慢でエラそうで、あまりに上から菜物言いをしているのに気付かされ、ベッドにもぐりこみたくなる。なんだかまるで、出来の悪い生徒を心配する体で自分の行いを正当化しているようで、恥ずかしい。
だけど、楽田は僕の言葉に特に気分を害しているような様子や、お節介さを感じている様子はなく、一瞬きょとんとして、そしてあのグランドでマネージャーと喋っている時に見せていた時よりも数倍明るい笑みを浮かべた。そして手は、サムズアップをして、表情も心なしか得意げなドヤ顔だ。
「バッチリっす! いままでのテストの中で一番解けたかも! つーか、ぜんぶ解答埋めれたんすよ!」
「へえ、すごいじゃん」
「初めてっす、テストで全部答えられたのって! なんか、すげー気持ちいいっすね!」
キラキラとした子どもみたいな目でそんなことを言われて、嬉しくないわけがない。教えた側として、最高の賛辞じゃないかとさえ思ったほどだ。かなり、大袈裟だと自分でもすぐに思って、ニヤけそうな顔を引き締めたけれど。
「よかったね」
「はい! あざっす! マジで真木野さんのお陰っす!」
手を握りしめて熱烈な感謝をぶつけてくる楽田の眼は、誇張なしにきらきらしていて、それが僕の胸の仲間で照らすようで、恥ずかしくもあり、彼をそうさせているのが自分であることが少し誇らしくもあった。



