「で、この図のようにグランドにトラックを作るとする。直線は五十メートル、一レーンのカーブの半径はrメートル。またそのレーンの距離は内側の線上を測り、各レーンは一メートル。ちなみに短距離走として……この一レーンは一周何メートル?」 
「えーっと……半径がrで、円周率がπってするんすよね? だとしたら……」

 どうすれば楽田が興味を持って勉強するようになるのか、僕なりに考えた末、色々調べて行き着いたのが、陸上競技に絡めた問題を捜し出してきて解かせる、ということだった。
 最初はそれこそ、トラックをまん丸の円とした上での円周の求め方から教えたりしたんだけれど、何日か繰り返している内にかなり理解が進んだように思える。ちなみに今やっているのは、陸上のトラックの円周の求め方などを、中学数学の応用で求める問題だ。

「できたっす! 2πr+100っす!」
「うん、正解」
「っしゃぁ!」

 陸上に絡む問題を解かせるようになってきたからか、狙い通り楽田は勉強に前よりも熱心に取り組むようになったように見える。そして同時に、理解力も上がっているのか、正解率も上がっている。
 ただ、いまやっているのはあくまで陸上に絡めた問題、であって、実際のテストでも同じようなものが出るとは限らないし、寧ろないと言える。

(いまやっているの、兎に角楽田に勉強への苦手意識をなくさせること。これが取り払えれば、きっと前よりは問題が解けるようになるはず……)

 数学は勿論、英語もスポーツ関連の英字の記事を捜してきて、僕なりに簡単にまとめたものを読んでもらったりしている。それだけでも随分違うのか、昨日はスポーツに関連していない文章もだいぶ読めていた気がするし、問題も解けていた。
 赤ペンで採点をしていると、バツよりも丸を付ける回数が多くなったのを実感する。

「へえ、前よりできるようになってるね」

 だから、なんとなくそんな、褒めるともつかないようなことを言ったのだけれど、楽田はパァッと顔をわかりやすく華やがせ、僕の手を両手で包むように握りしめてくる。その表情は感激にきらめいてさえ見える。

「マジっすか?! 俺、出来るようになってます?!」
「う、うん……最初の頃よりは、結構……」
「やったぁ! これでまた走れるぞー!」

 小さな子どもみたいに両手を掲げ、飛び跳ねんばかりに悦びを露わにしている様子を、僕はなんだかほほえましく見つめてしまう。僕が教えていることで、ささやかでも彼が勉強に対して苦手意識をなくすことができたり、自身のようなものを勉強に対してもつけられたりしているのなら、勉強が好きな者として嬉しい限りだからだ。

「やっぱ真木野さんは超頭いいっすね! 俺、こんなすごい人のこと好きになれちゃったんだなぁ」

 好きになれただけで、まだ何も関係は成立してないし、発展すらしていないのだが? というツッコミをしてしまうのは野暮かな、と思い口をつぐんだ。
 放された自分の指先にそっと触れながら楽田を見つめていると、楽田はこちらを向いて嬉しそうに微笑んでくる。

「真木野さんのお陰で、俺、頑張ってマジでぶんぶりょーどーってやつになれるかもしれないっす」

 ちょっとバカっぽく文武両道を伸ばし気味に言う口調がおかしくて、つい、くすりと笑ってしまった。それにまた楽田が嬉しそうに笑い、ぽつりと呟く。

「俺が文武両道ってのになれたら、真木野さん、ちょっとは俺のこと好きになってくれるかなぁ……」

 その僕が目の前にいるのに、まるで雲の上の殿上人として君臨しているような言い方に、苦笑してしまう。彼の中での僕はどんな存在になっているのやら。訊いてみたくもあるけれど、とんでもなく偶像化されていたら怖いので、黙っておいた。

「楽田は、文武両道目指したいの?」
「そりゃそうっすよ! 真木野さんに好きって言ってもらいたいっすもん。それに、兄ちゃんにも褒められたいんで」
「お兄さんがいるんだ?」

 人懐っこさも兼ね備えている楽田だから、長子長男というタイプではないだろうな、という勝手な推測を立てていたのだけれど、実際、末っ子なんだという。末っ子というか、二人兄弟の二番目、という話だけれど。

「一個上なんすよ。んで、やっぱ足が超速くて。俺、兄ちゃんみたいに速く走れたらなぁって思って、ガキの頃から追いかけてたら……」
「追い越してたってこと?」
「そっすね。小四あたりからだんだん兄ちゃんと走ってても俺の方が速いかも? ってなっていって、んで、去年、日本二位になったんで」
「まあ、日本二位の記録の中学生はそこら辺の中高生よりは速いだろうね」

 そっすね、と楽田は苦笑し、そして少しだけ悲しそうな顔をして目を伏せた。先日テストの結果次第で走れなくなるかも、と怯えていた時とは違う、アンニュイさというか、一種の憂いのようなものまで感じてしまう表情だ。
 だからなのか、僕の胸が急に大きな音を立ててしまったのだけれど、楽田には聞こえていないのか、構わず言葉を続ける。

「そしたら何か……それから、兄ちゃんあんまり俺と口きいてくれなくなっちゃって……」
「え? 楽田が、日本二位になってから?」
「そっすねぇ……去年の今ごろに記録出したんすけど、そっから、なんか、俺のこと無視するみたいになっちゃって……」
「なんでまたそんな……」

 歳が近い兄弟だと、ライバル心が強いとは聞くけれど、だからって日本二位の記録を持つ弟を誇りに思うどころか、存在を無視するようになるなんて。僕と同い年でありながら、少々大人げない気がしてしまう。思う所はあったとしても、無視はどうなんだろうか。

「たぶん、兄ちゃんも陸上してるんで……ムカついたんじゃないっすかね。“バカ走介のくせに生意気だ”って。兄ちゃんは、自分が一番じゃないと気が済まないみたいで。俺なんかに抜かれたのが相当悔しかったみたいっす」
「だからってそんなこと言われたの?」

 あまりの言葉に問いただすと、楽田は肩をすくめて、「まあ、いつものことっすよ」と苦笑していた。それを機に、兄からの無視が始まったのだ、とも。

「俺が推薦ダメだった時も、“走介なんだから仕方ねえよな”って言われたりもしたっすよ。“いくら足が速くても、バカは高校には行けない”って」
「そんな……」
「だから俺、明花高校に入れてよかったっす! 走れるし、真木野さんには勉強教えてもらえるし!」

 無邪気な顔でそう言われて、僕はどう返していいのかがわからなかった。
 足の速い奴に悩みなんてないだろうと思っていたし、僕みたいに足の速くない人間の抱える悩みなんてきっと些末だと嗤うんだろうと思ってもいた。自分たちが天下一えらいんだ、なんて本気で思って良そうだな、なんて――小学校時代のあの忌まわしい記憶の中の透の言葉や態度が甦ってきて、胸が締め付けられる。

(どっちに秀でていても、妬んでくる奴やいやなことを言ってくる奴はいるんだな……悩みがないヒトなんていない、って本当なんだな……)

 そんな当たり前を実感し、僕はいままで楽田のような人たちに(いだ)いてきた偏見を見つめ直したほうがいい気がした。
 ごめん、と謝ったほうがいいだろうか……そんなことを考えていると、向かいに座る楽田がきりっと少し真剣な面持ちをして、改まった様子で呟いた。

「真木野さんは、俺のことバカだからダメだ、とか言わないじゃないっすか。だから、俺、真木野さんっていいなぁって思うんすよ。あと、やっぱ顔きれいだし」

 クールビューティーと、浩輝や青川さんからからかわれることはあっても、面と向かってきれいだと言われたことはなかったので、僕は言葉の意味が解らないなりに恥ずかしさを覚えて頬が熱くなってく。

「な、なに言ってんだよ……僕にそんなお世辞言っても、何も出ないからね」
「俺お世辞とかわかんねえんで、マジっすよ。真木野さんは、超きれいっす。美人っすよ」
「だから! そういうこと言われても……!」
「顔真っ赤なの、イチゴみたいでかわいいっすねぇ」

 歯の浮くような言葉を、にこにこと躊躇うこともなく次々と言い放ってくる楽田は、心なしかずいずいと距離を縮めてきている気がして油断ならない。

「男なんかにそういう……きれいとかかわいいとか言って……馬鹿じゃないの……」
「俺がバカなのは、真木野さんが一番知ってるでしょ?」

 ああ言えばこういう、という妙な知恵がついていて忌々しい。おかしそうに笑いつつニコニコしながら、机に頬杖をついて僕のことを見つめてくる楽田の眼差しがやさしく甘く、ヘンに心が慌てて焦ってしまう。何だろう、この気持ち……知らないはずなのに、甘いという味を知っている気がする。

「……知っているから、さっさと次の問題答えなよ」

 むず痒さを覚えながら、ようやくそれだけを言い返し、楽田の注意を僕から反らす。楽田は子どものような返事をしつつも、やはり嬉しそうにしている。それはやっぱり、彼が僕を好きだからなのか?
 何なんだ一体……好きだなんだという、あの初対面の言葉が、いまになって思い出されて、体が火照ったように熱くなっていく。本当に何だこれは一体。理解の範疇を越えた感情の動きに翻弄されながら、僕は楽田の勉強を見てやって気を紛らそうとした。