滉大side


 人は欲望に溺れた時、取り返しのつかない過ちを犯す。憧れた夢。交わした約束。重ねた時。
 全てを失うくらいならこれでいい。
 この方がいい──。


「滉大お帰り〜」

 リビングに入ると、キッチンで洗い物をしていた姉の玲香(れいか)と目が合った。外はもう、うっすらと街灯が灯るだけの暗闇に変わっている。
 本来なら部活もないし半日授業でもっと早く帰れたのだが、外でランニングをしていたらこんな時間になっていた。

「……ただいま」

 小さく落として、鞄を床に置く。身体が汗や土で汚れていて気持ち悪い。風呂にでも入ろうかとネクタイを緩めていると、姉貴が「あれー」と声を響かせた。

「なんか今日の滉ちゃん元気なくなーい?」

 相変わらず鋭い人だ。
 イケメンが台無しよ〜とかふざけたことを言いながらスポンジを探偵の虫眼鏡替わりにしている。

「普通だよ」

 俺は表情を変えずに答えた。
 しかしさすがは17年を共に過ごした家族。艶やかな唇が不満げに尖るのは、自然な成り行きだった。

「えー、そうかなー?」
「そうなの」
「んー。……わかった」

 それっきり、詮索してこなくなった。たぶん、彼女なりの優しさなんだろう。
 ウェーブの長い黒髪に派手な服。クールビューティーと噂される姉貴だが、意外と真面目で、思いやりのある人間なのだ。

 ほら、今も風呂場へ向かう俺にとびきりのウインクをくれる。

「そだ。今日の夜ご飯、楽しみにしといて♡」


 俺の両親は、俺が5歳の時に離婚している。
 所謂母親の不倫というやつで、姉貴と二人、父親に引き取られることになった。

 8つ歳の離れた姉貴は、その日から俺の母親代わりになった。社会人になった今も、『滉大が高校卒業するまでは結婚もできないわね〜』と冗談を零しながら、働く合間に家事をしてくれている。毎朝の弁当作りも、掃除も、洗濯も、全部当たり前のようにだ。

 もちろん、俺も手伝ったりするが……姉貴曰く『あんたはあたしの前じゃ戦力外』なのだそう。

 そんな俺が野球を始めたのは、3歳の頃。
 元野球部の父がきっかけで始めたキャッチボールに、俺はいつしか夢中になっていた。

『滉大、お前センスあるんじゃないか?』
『ほんとう? おとうさん』

 小さな白い球が交互にグローブに吸い込まれていく感覚が、好きだった。想いが繋がるみたいで、嬉しかった。
 母がいなくなってからも、野球だけはやめなかった。やめられなかった。野球をやってる時だけは寂しい心を忘れられた。

 中学に上がると、俺はキャッチャーとして新人戦の主将に選ばれた。
 中学での初めてのチーム戦。その時敵チームの主将として対峙したのが紛れもない──唯川大智だった。

 大智は、とにかく声の大きいやつだった。円陣の時も、守備に声をかける時も、急に『よっしゃいくぞーーーー!』なんてバカでかい声を出すんだ。当惑するほかない。
 おまけにアイツは自信たっぷりな顔でマウンドに立つ。さんざめく太陽を前に、気圧されないバッターはいなかった。

 俺は試合中、大智に驚かされてばかりだった。
 もちろん、そのあとにも。

『千早くん? だっけ。さっきはめちゃくちゃかっこよかったなあ〜!』

 選手たちが対面する形で並ぶ中、大智はどんな顔したと思う? 普通、負けた相手には見せられない屈託のない笑顔だ。

 ……変なやつ。
 
 そんな変なやつと俺は、高校でクラスメイトになった。


『なあなあ滉大〜』

 いきなり呼び捨て?
 と思ったが、そのまま『なに?』と返す。
 桜が満開の入学式、一連の流れを終え教室の席に着いてからのことだった。

 大智はニヤリと子どもみたいに笑ったかと思えば、ペンを片手にノートを胸の前に構えた。

『血液型は何型? 誕生日は? ペットは飼ってる? 好きな食べ物はなに? 逆に苦手な食べ物ある?』

 この時、初めて注文が早すぎて聞き取れない店員の気持ちがわかった気がする。

 俺はなんとか記憶を手繰り寄せながら、
『AB型、3月21日、いない、カレー、ミニトマト』と答えた。
 答えたあとも、質問は止まらなかった。ノート全ページ埋まるんじゃないかって思うくらい、止まらなかった。

『あ、ちなみに俺はO型の獅子座ね』

 ついでに大智は、メモを取りながら訊いてないことまで教えてくれた。

 次の日。

『滉大!』
『ん?』

 教室に入るなり正面から声をかけられた。
 言わずもがな、声の主は大智だ。
 席に鞄を置くや否や、その目がキラキラと輝きを増す。

『なあ知ってる? 妹から聞いたんだけどさ。獅子座と牡羊座って結構相性いいらしいぜ』

 何を言い出すのかと思えば、占いの話?
 世紀の大発見でもしたような言い方だな、なんて呆れていると、先程までは丸く輝いていた目がニカッと細くなった。

『俺ら、最強のバッテリーになれるかもな!』

 俺は元々友達と騒いだりするタイプじゃない。
 他人に心を見せるのが、得意じゃないから。
 クールだとか、王子みたいだとよく形容されることがあるけれど、それもただ人を傷つけるのが怖いだけ。

 だから大智(こいつ)は俺の苦手ど真ん中な人間のはず、なのに。

 ──フッ。
 自然と口角は上がっていた。
 理由はわからない。ただ、眩しいはずの光が、俺にはちょうど心地よかった。

 野球部に入った俺たちは、いつしかバッテリーを組んでいた。
 初めてアイツの球を受けた時の衝撃を、俺は今でも忘れられない。
 うまく言葉にできないけれど、〝しっくりくる〟ってこういうことなのだと、その時思った。

 そうやって練習の日々を重ねていくうちに、大智が俺と同じ夢を持っていることを知った。
 一緒に甲子園に行きたいと、伝えてくれた。

『甲子園に行くまでは、野球のことだけ考えようぜ』

 それは邪念なんて全て取っ払って、ただひたすらに甲子園を目指すという誓い。
 二人で、なにがなんでも叶えてやるんだ──。
 俺たちは青空に宣言するように、拳を突き合わせた。

 そうして俺と大智は、いつしか〝親友〟と呼べる存在になっていた。

 なんでも話せて、本心をぶつけられる。会話がなくても考えてることくらい目を見ただけですぐにわかる。
 俺たちなら必ず最強のバッテリーになれるんだと、信じて疑わなかった。
 
 しかし2年になったある頃、違和感に気づいた。
 自分の大智を見る目が、以前のものとは少し異なっているということに。

 俺以外のキャッチャーとは組んでほしくない。
 俺が一番、お前にいい球を投げさせてやれる。
 遥かに強くなる独占欲だけなら、まだよかった。

 笑った時に全てなくなる目が、愛しい。
 その時に浮かび上がる涙袋が、もっと愛しい。
 平気で人の心に土足で踏み込んでくるくせに、結局あとで掃除するような繊細なところが、愛しくてたまらない。

 苦手と知ったからって、ほぼ毎回弁当に入ってるミニトマトを代わりに食べ続けてくれる。そんな優しいところが──。

 〝ああそうなんだ〟と答えを導き出すまでに、時間はいらなかった。

 ──ごめんな、大智。
 俺、お前のこと好きになっちゃった。

 わりとすんなり受け入れられたのは、俺が今までまともに人を好きになったことがなかったからだと思う。
 男とか女とかじゃない。俺は唯川大智という人間に、惹かれたんだ。

 けれどこの想いは許されるはずがない。約束したのは、この俺なのだ。夢を脅かす感情なんて、邪魔になるだけ。
 それに大智の恋愛対象は女だ。男の俺が想ったところで、はなから勝ち目なんてない。もしバレて拒絶なんかされたら?

 隠し通すのがいいに決まってる。

 俺はただお前の18.44m先で、お前の球が受けられれば、それでいい──。
 そうやって想いは深層へ閉じ込め、堂々と前へ進んでいく、はずだったんだ。


『長谷くんたちは? 好きな人とか、いないわけ?』

 全ては、あの日から狂ってしまった。

『滉大もいねーって。てか、いるわけねーよな?』

 ──は?
 プツンとなにかが途切れた音がした。
 いるわけない? 俺は、必死に隠してるのに。

 気づいた時には飛び出していた。

『いるよ、好きな人』

 大智は目を大きく見開き、固まっていた。
 そりゃそうだよな。俺にとっても、さっきまでは口が裂けても話すつもりのなかった、とっておきの秘密なんだから。

 だけど、どうしても許せなかった。衝動を止められなかった。
 アイツにだけは、大智(アイツ)を好きだという俺の想いを、否定されたくなかった。

『つーか滉大、なんだよお前! バッテリーの俺にも言わねぇとか、つれなくねぇ?』

 投げかけられた大智の言葉に、胸が一瞬ざわめいた。
 でもどうすることもできない。何を言われようとこればかりは、言いたくても言えないんだ。

『誰にも……本人にも言わないって決めてるから』

 俺は葛藤を振り払い、はっきりとした口調でそう伝えた。
 わかってくれ──と、強く願いを込めて。

 それからはみんなでいつもの他愛のない話をした。
 長谷も、山本も、俺も。そして大智も。全員、バカみたいに笑ってた。

 だからもう、納得してくれたと思ってたんだ。

『お前が……俺に隠し事すっからじゃん』

 大智の、拗ねたような声を聞くまでは。
 まさか俺の一言が大智を苦しめていたなんて、思いもしなかった。
 あの時『……そんなこと?』と答えてしまったのは、本当に心から驚いたせいだった。

 隠し事が気に食わないんだとはいえ、俺の好きな人をそこまで知りたがってると思うか?
 それで怒ってる大智がすげえかわいく見えて、こんな時なのに俺の頭は、『うわ、抱きしめてえ』とかいう衝動と必死に戦ってた。

『なんで教えてくんねーの』

 正直、そのままテキトーにはぐらかすことだってできたよ? けどさ。

『本当に〝仲良し〟だって思ってんなら、それくらい教えろや……っ』

 好きなやつに泣きそうな顔でそんなこと言われたらもう、逃げるなんてできないじゃん。

『その人は今、目の前にいたり……する?』

 まっすぐな目で俺を見て、大智が声を震わせた。
 なんでだろうな。核心に迫られてるっていうのに……不思議と、怖くはなかった。

『うん。いるよ』

 それは思いの外、するりと喉を通っていった。

 ──そうだよ、俺はお前が好きなんだよ。
 丸くなった瞳に訴えかける。
 しがらみなんて取っ払って、全部伝わってしまってもいいと思った。本気でそう思った。

 でも──。

『なーんてな』

 次に俺の口から出ていったのは、ごまかすような一言だった。

 忙しなく小刻みに揺れる瞳。何かを言おうとしてパクパクと動く口。
 明らかに動揺の色を隠せずにいる大智を見て、ガツンと頭を殴られた。

 俺はお前にそんな顔をさせたかったわけじゃない。

 大智を、困らせたくなかった。
 瞬間、身勝手な想いは心の奥底へと沈んでいった。
 これでいい。言い聞かせて、再び前を向く。
 その時完全に封印できたと思ってたんだけどな。

 体育祭の当日、一変した。

『……大智! 大智!』

 部活中に倒れた大智。俺は我を忘れてその名を必死に叫んでいた。

 大智が倒れたのは、熱のせいだった。
 俺が寝かせたベッドの上で今、苦しそうに顔を顰めている。
 その傍らに腰掛けた俺は、なんで気づいてやれなかったんだと激しく悔やんだ。
 俺がもっと早くに気づいていれば……。 

 ぎりっと奥歯を噛んだ時、アイツの口が微かに動いた気がした。

『大智……?』

 思わず顔を覗き込んだ。すると、再び口は開かれ。

『行くな……滉大』

 ドクン──と心臓が飛び跳ねた。
 まさか、俺の夢でも見てるのか……?

 詳しい状況はわからないが、どうやら俺がお前から離れていこうとしているらしい。

 俺は迷わず、そこにあった手を包み込んだ。
 練習で硬くなった手。お世辞にもきれいだとは言えないそれを、ギュッと握りしめる。

『ああ、行かないよ。──俺は、どこにも行かないから』

 じっと見守っていると、次第に大智の強張りは解けていった。
 あれだけうなされてたくせに、今は天使みたいに穏やかな顔で眠っている。

 なんだよ大智。そんなに俺がいなくなるのが怖かったのかよ。
 なんて密かに思いながら、明るいその髪を優しく撫でた。

『大智……早く元気になれよな』

 呟くとともに、静かに笑みが零れた。

 試合中凛々しくなる猫目が、寝てるとかわいくなるなんて知らなかった。
 ……ああ、ダメだ。どうしようもなく、この男が愛おしい。

 胸を突き上げる想いは一気に膨らんで、もう、自分の意思では止められないところまできていた。

 お前が目を開けたら俺、ちゃんとするからさ。
 だから──。

 ──今だけは、こんな俺を許してほしい。

 こうしてまた一つ、大智に隠し事ができてしまった。
 額にぶつけた想いは、俺だけの秘密。
 そう、その時は100%思っていたんだが……。

 どうもバレているらしい──そんな予期せぬ事態に気づくのに、それほど時間はかからなかった。

 次の日から、大智は俺をまっすぐ見なくなった。挙動不審で、目を合わせれば顔はすぐに真っ赤になる。
 でもアイツはそれを、どういうわけか必死に隠そうとしているみたいだった。

 だから、わざとカマをかけた。

『……なあ。元気ないの、俺のせい?』

 多分、俺は自分の心の中にある危惧を否定してほしかっただけなのかもしれない。
 口から心臓が飛び出しそうなほど緊張する俺に、大智はすぐに答えを示した。

『ちげーよ。……ただ、最後の夏だってことを改めて実感しただけ。ナイーブなんだよ、俺は』

 俺の不安をわかってるみたいな、その上で全て消し去ろうとしているみたいな口ぶりだった。
 大智はいつもそうやって安心を与えてくれる。大丈夫だよと伝えてくれる。
 そんな大智だから?

 この時俺は、どうしても真実を確かめたくなったんだ。

『大智……』

 ──本当はあの時、起きてたんじゃないの?

 腕の中に閉じ込めたその身体は、思ったよりも小さかった。
 さあ、言ってくれ。なんだよって。離せよって。そう想いを込めて、ぎゅっと抱きしめる。

 ……けど、しばらく経っても期待した台詞は返ってこなかった。
 
 そうか。

『……やっぱりな』
『え?』
『お前、嘘つくの下手なんだよ』

 やっぱり、知ってしまったのか。
 悟ったと同時に、俺の中でなにか覚悟のようなものが固まった。

『俺は……大智が好き』

 まっすぐ目を見て伝えた。
 伝えたくても伝えられなかった、俺の、最大の隠し事。

『男にこんなこと言われて、引く?』

 ここで頷かれでもしたら、まだ引き返せたのにな。
 お前がいいっていうなら俺、逃げないよ。

『ならもう隠さないから。覚悟しといて』

 ──なあ大智。俺にはどのくらいの可能性がある?

 それから俺は、言葉通り大智への気持ちを隠さなくなった。

 一度外れた箍が元には戻らないように、何度伝えても足りない。
 だから調子に乗って『大智、好きだよ』と囁くと、案の定怒られてしまった。

『おまっ、わかっててやってんだろ!』

 そんな余裕、俺にあるわけないのにな。

 誰に聞かれようが、どう思われようが、俺にはどうだってよかった。
 大智が拒絶しないでいてくれさえいれば、何だっていい。
 それでも俺の言葉で赤くなってるのが嬉しくて、俺の行動にいちいち照れてるのが嬉しくて。あわよくばその心が俺だけで埋まればいいのになんて、らしくもないことを願ったりもした。

 とはいえ、さすがにあの時ばかりは自分でもどうかしてたと思う。

『滉大、そろそろ授業遅れる』
『ごめん。しばらくこのままでいさせて』

 どうしても離したくなくて、酷いわがままを言った。
 大智困ってるかな? 困ってなければいいな。
 離さずにいたら、俺のこと、少しは好きになってくれないだろうか。

 そんな夢みたいなことまで頭に浮かべて、必死に腕を背中に回していた。
 でも本当に嬉しかったんだ。

『ただちょっと頭が追いついてないだけっていうか、整うまで待っててほしいというか──』

 大智がそんなふうに、俺のことを考えようとしてくれていたことが。

 そうやって俺は、来る日を過ごした。毎日学校に通い、朝練で汗を流し、昼までの短縮授業を受け、休み時間を友人と過ごし。テスト勉強の傍ら、放課後には自主練に取り組む。

 忙しなく過ぎていく日々の中、俺は純粋に大智の反応を楽しんでいた。
 
 ……しかし、それは突然に訪れた。

『ご、ごめん!』

 頭上に飛んできたストレート。それを受け止めた瞬間、目の前から光が消えた。

『悪い滉大、次は……』

 違う。お前は悪くない。
 ストレートは大智の得意な球で、だからこんな失敗、普通ならありえない。じゃあ、どうして?

『滉大……?』

 ──俺のせいだ。
 だからお前はそんな辛い顔、しないでよ。
 俺はその時初めて、自分の犯した過ちの重大さに気がついた。

『伊東。お前、今から俺と交代な』

 サーッと全身から血の気が引いていく。それに、心臓がドクドクと鳴って息苦しい。 

 こうなることくらい、簡単に予測できていたはずなのに。大智の優しさにつけ込んだ罰なのだと思った。
 これじゃあ今まで何のために自分の心を隠してきたのか。全部水の泡だ。

 ──俺が動揺させるようなこと言ったせいで、大智が思うように球を投げられなくなったら?

 ──もし、それで大智がイップスにでもなったら?

 嫌だ。それだけは、絶対に嫌。

『甲子園に行くまでは、野球のことだけ考えようぜ』

 そう言って一緒に夢を叶えようと誓った俺が、大智の夢を奪っていいはずない。
 ラストチャンスなのに。……いや、ラストチャンスだからこそ。

『──俺がこの前言ったこと全部、忘れてくれていいから』

 赦されなくてもいい。
 全部忘れて、あの頃に戻ろう。
 まだ、ただの仲良いバッテリーだった、俺とお前に。

 ……今ならまだ間に合う、よな?


* 


 風呂から上がると、俺は早々に部屋着に着替えを済ませ、リビングに戻った。
 少し長湯しすぎた。いつもより火照った顔を扇風機で鎮めながら、濡れた髪をタオルで拭いていく。

「髪の毛乾かしたらご飯よ」
「了解」

 姉貴に促されるまま、洗面所でドライヤーをかける。そのうちに親父が仕事から帰ってきた。

 家族3人で囲う食卓。今日の夕飯は、匂いから予想した通り、好物のカレーだった。





 次の日、俺はいつものように朝練に向かった。
 正直昨日のこともあり少し気まずい気持ちもあったが……大智は昨日の不調が嘘みたいに、調子を取り戻していた。

「大智、ナイス!」
「おうっ」

 ほっとした。やはりあの時の選択は、間違ってなかったんだ──。


 朝練終了直後の部室は、男たちの熱気で溢れかえる。
 6月も後半になり、ただでさえ外にいるだけで汗ばむくらいだというのに、ここは灼熱地獄のような空間だ。

「あーきもちーーーっ」

 隣で長谷が自販機で買ったジュースを頬に当て、帽子を団扇替わりにして扇いでいる。
 そんな光景をつい微笑ましく思っていると、ふとある一箇所に目を奪われた。

 ……アイツ、あんな所につけてたんだ。
 隣の長谷の更に一つ隣で着替えをする大智の、エナメルバッグ。その取っ手部分に取り付けられていたのが、この間女子からもらった御守りだと気づいた。

『この前もっさんが彼女から貰ってたの見ただろ? あれ、ちょっと羨ましかったんだよな〜』

 そう言って、嬉しそうな顔をする大智に少しだけ痛んだ胸。けれど仕方ないと受け入れた、それ。

 思えば体育祭あたりから予感はあったが、御守りを受け取ったあの日、確信したんだ。
 あの子は……横田さんは、俺と同じ気持ちなんだと。

 当の大智は、そんな想いには微塵も気づいてないんだろうけど。気づくな、なんてずるいことを思う自分がいて嫌になる。

 ……もう諦めたつもりなのに、未練タラタラかよ。
 早くも鳴きだした蝉の声が、はりぼてな心を嘲笑うように鼓膜を揺らした。

 アイツは普通に女の子と恋愛して、普通の家庭を持って、そうやって過ごすのが幸せなのかもしれない。
 俺は大智が幸せなら、それでいいんだ。

 このまま、二人で夢の甲子園を目指せるなら──。

 よし、と気を引き締めて重たい鞄を肩にかける。そのまま一人部室から一歩踏み出した、時だった。

「滉大!」

 俺は先にそこにいた誰かに、腕を掴まれた。