朝練が終わった後、俺はごくごくと水筒のお茶を飲んだ。
今日は梅雨入りで生憎の雨。室内トレーニングで失われた水分を一気に取り戻すように身体が潤っていく。傍らで、ザーっと耳に激しい雨の音が聞こえる。
「おつかれ」
──ドキッ。
水筒の蓋を閉め制服に手を伸ばした時、隣から声をかけられ心臓が止まりそうになった。
「おつかれ」
俺はすぐに手を止め、着替え中のその人に笑いかける。上手く返せていたかどうかはわからない。
いや、多分失敗した。だってその人が、滉大が、不思議そうな顔でこっちを見てる。
「ねぇなんでそんな固まってんの」
「別に……」
というのは嘘だけど。
俺は、「ふーん」と覗き込んできたそいつから逃げるように顔を背け、何事もなかったように着替え始めた。
『俺は……大智が好き』
この前滉大が言った言葉が、もう3日もずっと頭から離れずにいる。
もしやと予想していたはずなのに、事実とわかった途端脳がバグったみたいに照れと混乱が襲ってきて、おかげで昨日もほとんど眠れなかった。だからさっきも不意を突かれ、挙動不審になってしまったんだと思う。
その点、今日の朝練は室内トレーニングでよかった。筋トレや素振りといった個人メニューで、ほとんど滉大と絡む機会がなかったから。
それに、今はテスト一週間前。放課後練も休みだし ──。
なんて、思いっきり油断していた時だった。
「大智、好きだよ」
突如耳元で囁かれたイケメンボイス。
「おまっ、わかっててやってんだろ!」
……ったく、滉大のやつ。こんな部室の一角で大っぴらげにすすす、好きとか言いやがってっ!
「誰かに聞かれても知らないからな……って、あれ?」
辺りを見回し、驚いた。俺と滉大以外の部員が、いつの間にか部室からいなくなっているのだ。
ついさっきまで、ここでみんなこぞって着替えをしていたはずなのに……。
思わず呆気に取られている俺のすぐ側で、滉大がチャリンと部室の鍵を鳴らした。
その身はちゃっかり夏の制服に包まれている。
「大智が着替えるの遅いから、俺ら二人っきりになっちゃったな」
「うっ」
たしかに否定はしない。でも変な言い方をするのだけはやめてほしい。
ドキドキするから、ってのは語弊があるかもしれないが、連休のおかげでほぼ昨日の今日みたいなもんだ。『二人っきり』なんて言われると、どうしても意識はしてしまう。
……それに引き替え、滉大のやつときたら。
いつもと変わらぬ様子の顔に無性に腹が立ち、ぐぬぬと睨みつける。
するとふっと笑った滉大が、これまた戯けたことを抜かしてきた。
「そんな警戒すんなって。気持ち隠さないとは言ったけど、すぐにどうこうしようとか思ってねえし」
うそつけ。
「前に寝てる俺の額にキ、キス……したくせに」
言ってる途中で恥ずかしくなって、もごもごと口篭る。
そんな俺を見てなのか、滉大は「あーあ」と残念そうに腕を組んだ。
「な、んだよ」
言い訳でもあんのか? と思ったが、違った。
「どーせバレるなら口にしとけばよかったかなーって」
「はあ!?」
さすがに冗談だとわかった。なのにかああと熱くなる頬は止められない。
俺は誤魔化すように俯いて、その腕を掴んだ。
「……お前、その、いつから俺のこと」
「んー。気づいた時にはってやつ?」
「……全然、知らなかった」
「まあ隠してたからな」
ハハッと乾いたふうに笑う滉大に、俺は「ふ、ふーん」とそっぽを向いた。
自分で訊いておきながら、じわじわと湧き立つ羞恥心に耐えきれなかったのだ。
特に胸のあたりがムズムズしてどうしようもない。告白なんて初めてだし、ましてやあの滉大が俺のことをなんて改めて考えたら──。
「……でも」
え? と顔を上げる。そうやって聞こえた声に反応したのが間違いだったと気がつくのは、すぐあとのことだった。
「ちょっとは意識してくれねーかなーって期待はしてたけど」
「っ!」
「ふはっ、顔真っ赤」
「てめっ誰のせいだと」
向けられた妖艶な眼差しを前に、ぶわっと頬が紅潮する。
脳は既にキャパオーバーだ。それも、修復の余地もないくらい。なのに追い打ちをかけるように新たな爆弾が投下される。
「あーやっぱかわいいわ」
「なっ!?」
口元に手をやり、なんだかそんなことを呟いたかと思えば、滉大はずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
「お前その……俺のこと本気で可愛いって思ってんの?」
一瞬、雨のせいで耳がおかしくなったのかと思った。だから確かめるつもりで訊いた。……ちょっと、しりすぼみになったけど。
とにかく早くなんか言えよと心臓をバクつかせていると、おもむろに立ち上がった滉大が俺の手を取った。
「うん。ずっとかわいいって思ってた」
「なんだよそれ……」
そんな素振り、一切見せなかったくせに……いや違う。
……ずっと、隠してたんだもんな。
「じゃあ、あの時言ってたのはやっぱり全部嘘じゃなかったってこと?」
「俺はお前に嘘つかねえよ」
「そっか……」
あの時──ミニトマトをだしに好きな人を聞き出そうとした、あの時。滉大が答えてくれたのは、全部本物だったんだ。
「でも俺、冗談かと……」
そう言って軽く唇を噛むと、滉大がなにやら言いにくそうに言葉をむぐつかせた。
「それは……大智が困るから」
困る?
「ほら、困ってる」
長いまつ毛が頬に影を落とした。
滉大の言いたいことはすぐにわかった。わかったからこそ、俺はすぐに否定する。
「別に困ってなんかねーよ! そりゃあびっくりはしたけど。ただちょっと頭が追いついてないだけっていうか、整うまで待っててほしいというか……っ」
俺にとって滉大は頼りになる捕手で、親友で。今までそれしか考えたことがなかった。
好きになるとか恋をするとか、選択肢になかったんだ。
「とにかく、俺がお前のこと嫌いなることは絶対ないから。だから、そのっ、それだけはわかってほしくて……」
たどたどしくも、確実に紡いでゆく、その途中。
「俺、大智のそういうとこ好きだよ」
「っ!」
気づけば俺は、滉大の腕の中にすっぽりと引き寄せられていた。
この前とは少し違う、その温もり。優しくて、でも少し頼りないみたいな、心地よい温もりだった。
「お前、人のこと好き好き言いすぎな」
それはちょっとした照れ隠し。
「だって好きだもん」
「なんだそれ……」
不覚にもちょっと可愛いって思っちゃったじゃねえか。なんて、言わないけど。
「滉大、そろそろ授業遅れる」
「ごめん。しばらくこのままでいさせて」
「……っ」
雨音の中、静かに吸った息。
耳元で響く滉大の心音が、言ってる。伝えてくる。
──ああこいつ、本当に俺のこと好きなんだ。
*
あのあと必死に着替えを済ませ、俺と滉大はなんとか朝のHRに間に合った。
教室に入る時、たまたま目が合った龍馬が何か言いたげな顔でこっちを見ていたが、俺はあえて気づかぬふりをした。
そうして迎えたお昼休み。今日もミニトマト時間がやってきた。
苦手な滉大に代わって毎日のように赤いそれを食べているわけだが……今日はなんだかいつもと様子が違う。
「ん」
「ん?」
差し出された箸に首を捻る。
見るとすでに掴まれたミニトマトがそこにはあって、早く食べろと言わんばかりの顔がこっちを向いている。
もしやこの男、俺にあーんしろと?
「じ、自分で食べられるってば」
「遠慮すんなって」
「してねえよ」
必死に抵抗する俺に構うことなく、ぐいぐいと箸を口元へ近づけてくる滉大。
「ぐ……っ! もう食べねえぞ、いいのか!?」
「だーめ。約束は守ってもらわないとなあ」
「なら普通に渡せって」
たしかに、こいつが本気で俺を好きなことは今朝のやり取りで十分わかった。にしても、教室のど真ん中でこれは、いきなりぶっ飛びすぎやしないですか?
そんな驚きを胸に、不毛な闘いを延々と繰り返していると、
「なあ滉大智」
「「?」」
「なんとかは犬も食わないって、知らない?」
「……は?」
割って入ってきた龍馬の言葉に、俺はぽかんと口を開けたまま眉根を寄せる。
なんなんだよ、露骨に呆れたーみたいな顔して──。
「隙あり♡」
──えっ。
やばい! 咄嗟に口を押さえるも、時すでに遅し。
「ほまっ……! はりはかっはなあ!(おまっ……! やりやがったなあ!)」
「油断してたお前が悪い」
「くっ」
してやったりと上げられた口端がやけにムカつく。
俺は悔しさとともに、口の中に放り込まれたそれを思いきり噛み潰した。
……つーか、あんなことして恥ずかしくねーのかよ。
ケロッとした顔で龍馬と話しているそいつを、への字口で盗み見る。
だってさあ。こんなん……。こんなん、間接──。
「げっ」
「「……げ?」」
「あああいやあ、そのっ」
滉大と龍馬の丸い目が俺を訝しげに貫く。
俺は自らの失言によりパニック状態に陥った脳を、必死にフル回転させた。
「とっ、トイレ! 行こうと思って……」
「「……」」
「大智ー、びっくりさせんなよな。ってか、そういうのは黙って行けばいいんだって。なあ、滉大」
「うん」
「お、おう。そうか」
なんとか誤魔化せたっぽい。確認するや否や、俺は「じゃ」と逃げるように教室を出ていった。
「……はぁ」
溜め息をつき、誰もいない廊下をとぼとぼと歩く。昼休みだから当然、みんな教室で昼飯を食べているんだろう。
……にしても。自分でも驚いてしまった。まさかあんな単語が頭に浮かぶだなんて、思いもしなかった。
ただ、アイツの箸で掴んだものを口にしただけなのに。それなのに、俺は──〝間接キス〟だなんて小っ恥ずかしいことを……。
「〜〜〜〜〜っ!」
ああもう! ほんっと、どうしちまったんだよ俺。今までそんなこと気にしたこともなかっただろ。
叫びたくなる気持ちを抑えながら、ガシガシと頭を掻きむしる。
いや……実際、思い当たる節はありまくる。
『この前寝てる俺の額にキ、キス……したくせに』
『あーあ。──どーせバレるなら口にしとけばよかったかなーって』
だァーーー!
とっ、とにかく、あれだ。一旦冷静になろう。
素早く切り替えた俺が向かったのは、トイレではなく手洗い場だった。冷たい水が頭を冷やすのにちょうどいい。
無論、頭からかぶったわけではないと、念の為に言っておこう。
そうして、ハンカチで手を拭きながら教室へ戻ろうと足を踏み出した時だった。
「……?」
誰もいなかった廊下に、誰かがいる──。
「あ、唯川くん!」
「矢代……?」
*
「なあ大智ぃー、俺なんかしたっけ?」
「だーから、知らねえって言ってんだろ?」
放課後。掃除当番を済ませた俺は、ぶちぶちと不安らしき声を洩らす滉大を引き連れ、とある場所へと向かっていた。
というのも──。
『唯川くん!』
『矢代……? どうした?』
『あ、あのね。これ……なんだけど』
あの時ばったり出会った矢代から小さな手紙のようなものを渡されて、そこに、こう書かれていたんだ。
【放課後、千早くんと二人で
5階第3演習室に来てください。
待ってます。 矢代】
そんなわけで、この通り。俺たちの足は今、第3演習室へと歩みを進めていた。
大方、滉大に告白でもするつもりなんだろう。まさか俺が付き添いに呼ばれるとは思わなかったが……。当然、大役を任されたからには責任をもって全うしなければならない。
しっかし、問題はこの鈍感男なんだよなあ。と、チラリ窺うように隣を見る。
すると目に入ったのは、うーんと唸りながら小首を傾げるアイツだった。その頭ん中じゃ、果たし状でも受け取ったことになっているんだろう。
「……はあ」
「え、なに大智」
「んーん?」
学校一のモテ男がこれって、信じられる?
……まあ、そこがお前のいいとこでもあるんだけどな。
「ここだよな」
〝第3演習室〟そう書かれた教室の前で足を止めた俺は、確認するように呟いた。
さっき5階まで上ってきたのはこの目で見たし、きっと合っているはず。ひとまず、コンコンとノックをして──。
「矢代ー、俺だけど」
声をかけながら、ドアを開ける。
「唯川くん、千早くん! ありがとう、来てくれたんだ」
「おう。ちゃーんと連れてきた……って」
あれ?
矢代一人だと思っていたら、違ったみたいだ。
「横田」
「……こ、こんにちは」
「こんにち、は?」
長いポニーテールを手でいじりながら、どこか緊張した面持ちでそこにいた彼女。
なんで横田が? と疑問に思った直後、頭の上で電球がピカッと光った。
そうか。お前も俺と同じか。
それはそうと、ドアの前で置物みたいになっているアイツがそろそろ気になる。
「ほら、滉大も早くこっちに……」
そこまで口にして、俺は続きを言えなくなった。
滉大と目が合った瞬間、はっと思い出したんだ。
──そういえばこいつの好きな人って……俺、なんだよな。
さっきまでなんでそんな重大なことが抜け落ちていたんだろう。途端に、焦りのようなものが身体中を駆け巡った。
なんというか、気まずい?
いや、それもそうなんだが、それ以上に申し訳ないようななんというか、形容しがたい変な気持ちになる。
ていうか俺、絶対この場にいるべきじゃないんじゃ──。
「あの!」
とその時、大きく響いたその声に俺の意識は掻っ攫われた。
「二人とも、もうすぐ野球部の大事な大会なんでしょう?」
「ん、そうだけど……」
何で急に大会の話……?
不思議に思いつつ答えると、矢代は一度横田と目を合わせてから再び口を開いた。
「あのね。これ、りりちゃんと二人で作ったの」
「よかったら受けとってくれる、かな?」
スッと、小さな何かを両手に乗せて差し出した矢代に続けて、横田が同じように小さなそれを俺たちの目の前に見せた。
これって、もしや……。
「御守り?」
気づいたと同時、先に滉大がその名を口にした。
「……うん。一応神社に行って必勝祈願もして……。その、迷惑だった?」
矢代はそう言うなり、上目遣いに滉大を見つめた。
余計なこと言うなよ……という俺の心配は──。
「ありがとう。これがあれば心強いよ」
どうやら、野暮だったみたいだ。
*
「やー、まさか御守り貰えるなんてなぁ」
滉大と二人になった教室に、ポツリと声を浮かべる。
一時はどうなることかと焦ったが、告白じゃなかったみたいで助かった。もし告白なら、滉大にも矢代にも合わせる顔がないからな。今度からは気をつけなきゃ。
そんなことを思いながら、ひとまずよかった……と一息つくと、隣で滉大が机に腰掛けながら首を捻った。
「……よかった?」
「へあっ!?」
やばい、どうやら声に出てしまっていたらしい。
慌てて言葉を見つける途中で、滉大が「ああ」と思いついたような顔をする。
「大智、御守りそんな嬉しいんだ」
「そ、そりゃな。この前もっさんが彼女から貰ってたの見ただろ? あれ、ちょっと羨ましかったんだよな〜」
まあ嬉しい気持ちも嘘ではないし、と思いつきで言ってみたがどうだ? バレなかったか? ドギマギしながら笑顔を貼り付ける。そこへ「ふーん」と低い声が落とされた。なんとかセーフらしい。
安堵した俺は「ま、俺のはお前のついでだけどよ」と言いながら、さっき貰ったばかりの御守りの紐を指でくるくると回した。
「……ついで、ねえ」
「な、なんだよ。文句あっか?」
「や。それより、俺も作ろうかな」
「……ん? 今なんて?」
ぴたり、紐を回していた指が静かに止まる。
「だから、俺も御守り作ろうかって」
「…………冗談、だよな」
こいつの裁縫の実力は、2年の時の家庭科の授業でよーーーく知っている。
「なにその何か言いたげな目」
「……あの、滉大? 悪いこと言わないからさ──」
「どうせ俺は不器用だよ」
そんな声に遮られてはっとなる。
多分滉大は、勘違いしたんだ。不貞腐れたように顔を背けた滉大に、俺は「ちげーって!」と声を飛ばした。
「今大事な時期じゃん。だから滉大が怪我でもしたらやだなと思っただけというか……」
上手く伝わってるかわからない。でも、俺はお前を傷つけたくて言ったわけじゃないんだよと、それだけはわかってほしかった。
祈る気持ちで見つめていると、ようやく滉大がこっちを向いた。
「俺は大智くんの専属捕手だもんな?」
「……っ、おう」
一瞬ドキッとして、返事がワンテンポ遅れてしまった。なんだよ、そのちょっと嬉しそうな顔。
動揺してしまった心を悟られまいと、むこうを向く。
すると、
「大智が本当に、俺だけのものになればいいのに」
「……え?」
小さく耳になにか聞こえた気がして、思わず振り返った、その時だった。
グイッとネクタイを引かれ、自ずと視線がほぼ同じ高さで交わる。
「……こう、だい?」
「俺は……こんなにも好きなのにな」
「……っ」
どこか切なげで、熱を孕んだ瞳。
捉えられた俺の身体は、カチカチに固められたみたいに動かない。
「大智……」
囁いた滉大が、ネクタイを掴んだままサラリと頬に触れた。そしてそのままゆっくりと、こっちへ顔を近づけてきて。
「〜〜っ!」
声にならない声をあげるので精一杯だった。
加速する心音のペースを自覚する裏で、その距離はさらに縮まっていく。
どうすりゃいいんだ? まともに呼吸することもできず、脳はもうパンク寸前になっていた。
だって、こ、このままじゃ──。
「キス、されると思った?」
「……っ!?」
ぎゅうっと瞼に力を入れた次の瞬間、耳元を撫でた甘い声に思いきり目を見開くと、そこにあったのは悪戯が成功したみたいなしたり顔。
「おっ、思ってねーし!」
「へえ……かわいい顔してたから、期待でもしてんのかと思った」
「なっ!」
なんなんだよもう!
内心叫び散らした俺は、きっと真っ赤になっているであろう顔を隠すよう、くるりと背を向けた。
単純な自分が情けないというか、心底恥ずかしい。というか可愛い顔ってなんだよ、可愛い顔って!
「ほら、もう帰るぞ!」
やけくそに言うや否や、俺はすたすたと足早に歩きはじめた。
……ったく。急にドキドキさせんなよな。
まだ騒がしい心を落ち着かせつつ、すぐに追いついてきた隣をちらりと見上げる。
でもアイツは腹立たしいくらい、いつもの澄ました顔をしていた。
なんだよ。俺だけ馬鹿みたいじゃん……。
そのまま特に会話もなく廊下を歩くこと、おそらく数分。靴箱まできたところで、滉大が突然声をあげた。
「お、雨止んでんじゃん」
促されて外の景色を見ると、確かに太陽が顔を覗かせている。
「ほんとだ。ちょっと練習してくか?」
「別にいいけど……大智、英語やばいんじゃないの?」
「うっ」
そういやそうだった。
タイムリミットまであと1週間。それまでに、苦手な英語を克服しなければならないという任務が俺にはあったのだ。
この前の土曜にトーナメント表が決まったことだし、火照った身体を鎮めるためにも投げて気分転換しようかと思ったんだが……。
『今回の期末試験、赤点だったやつは試合出さねーから覚悟しとけよォ!』
そう鬼監督に鬼の形相で言われたらねぇ。
秀才の滉大とは違って、正直俺はちょいピンチ。……というわけで。
「今日のところは大人しくお家に帰ってテスト勉強でもするとしましょうか」
ふうっと溜め息をついて、帰路に着く。
不要になった傘の柄を人差し指に乗せ遊ばせていると、隣で滉大がうんうんと誇張気味に頷いた。
「はい、俺もそれがいいと思います先生」
「誰が先生だ」
思わず笑ってしまう。
こんな小さなことが楽しいと思ってしまうのは、きっと……恋愛感情じゃないにしても、俺が単純にこいつのことが好きだからなんだろうな──。
「てことで……」
次の瞬間、小さな囁きのような声とともに爽やかな黄色が視界を奪った。
「……ノート?」
いつの間にか滉大の手元にあったそれには、マジックで〝英語〟という文字が書かれてある。
「これ、大智にやるよ。テスト範囲の要点、まとめといたから」
胸に押し付けるように渡され、俺は返事するより前にノートを受け取っていた。
「……あ、ありがとう」
「ん。長谷には内緒な」
シーッと人差し指を手にあて妖艶に言った滉大の顔を、俺は呆けたまま見つめる。
まとめといたって……まさか、俺のためにこんなものを作ってくれてたなんて……。
「え?」
視線を手元に移した時だった。今思えば、1冊にしてはどうにも重すぎる。
「全部……滉大が一人で?」
「もちろん。驚いた?」
「……そ、そりゃあ」
俺は、10冊くらいに重なっていた色とりどりのノートを、ギュッと胸に抱き締めた。
これ、ほぼ全教科じゃん。……ほんと。こんなにたくさん、いつ作ったんだよ。
「優しすぎんだろ……」
じんわりとした温もりを感じながら、ポツリ呟く。滉大は、そんな俺にニシッと笑いかけた。
「キャプテンとして、エースの赤点は見過ごせないからなぁ」
「うっ」
「それに──好きなやつには特別扱いしたい性格なんでね」
「……っ」
俺の驚いたような顔を暫し見た後、滉大は真っ直ぐ前を向き空を見上げた。
目に映ったのは、眩しい横顔だった。優しいのに凛としていて、気を抜けば吸い込まれそうになる、そんな顔。
俺はそこから強引に目を逸らし、「そっか」と小さく返した。
──好きなやつ。
今まで俺は、滉大とは大人になっても、じいちゃんになっても、ずっとずっと親友という関係でいるもんだと思っていた。
でも滉大の想いを知った今、それはただの決め付けにすぎなかったんだと、初めてわかったんだ。
『俺は……こんなにも好きなのにな』
そんなこともうとっくに十分伝わってるよ。お前が俺のことすげえ想ってくれてるって、痛いほど感じてる。
だけどまだ……自分の気持ちがわからないんだ。
いつか答えを見つけた時、俺はちゃんと、滉大の気持ちに応えることができるのだろうか。
もし応えられなかったら……その時は俺たちの関係、崩れちまうのかな。
考えてもキリがないことを考えて、不安に襲われることもある。
でも、それでも、俺は答えを届けたいから。
だからもう少しだけ、待っててくれよな……滉大──。
「あ、先生水溜まり」
「へっ!? ちょ、もっと早く言いなさいよ優等生!」
ピシャリ足元に跳ねた水飛沫。
こりゃああとで親に怒られんなーとか肝を冷やしているうちに、いつの間にか家の前にいた。
*
──そうして、3日が過ぎた。
俺たち野球部の朝は、相変わらず早い。
「おはようございます!」
「おはよ」
挨拶してきた後輩に笑顔を返し、俺は眠たい目を擦りながら部室に入る。
今日は梅雨の合間の晴れの日。グラウンドもちゃんと使える程度に乾いているらしく、まさに練習日和と呼んでいいだろう。
「あ、俺の大好きな大智くんだ。おはよ」
「……はよ、滉大くん」
俺は先に来ていたその人を一瞥したあと、静かに荷物を棚に置いた。
滉大の俺への好き好き攻撃は、先の通りこの3日で弱まるどころか加速していた。誰がいようがそんなのお構いなしで好意を向けてくるんだ、休める暇もない。
さっきだって、俺は慌てて平然な顔を作った。というのに、
「相も変わらず仲良いかよ〜」
部員たちやクラスメイトには、冗談ぽく言われるだけとか……いや、たしかに学園の王子が本気で俺を好いてるとか、誰も夢にも思わないんだろうが。こうもバレないものなのか……? 俺にはよくわかんねえ。
と、そんなこんなで、一人謎にハラハラドキドキの毎日を送っているわけなんだけど……。
驚くのが、不思議と嫌じゃない自分がいるということ。寧ろ好意を向けられて嬉しいとか、優越感みたいなものがそこにはあって、慣れなのか、乱れる心も少しずつ落ち着いて──。
「わっ!」
「ふっ、変な顔」
なかった。前言撤回。不意打ちにはまだ弱いらしい。
「だっ、だから急に至近距離で覗き込むなって……」
「あーごめんごめん。なんか手ぇ止まってたから。考え事?」
「……まー、そんなところ?」
お前のことだよ、とは言えるはずもなく。言わないまま、俺はへらへらと笑う滉大に眉を寄せ、着替えに戻った。
そうやってなんとか着替えが済んだ時。
「なあ大智、最近ちゃんと寝てる?」
部室から出ようと伸ばした足が止まる。
「えっ、あ……徹夜で……」
俺は声の方には向かず、笑いながら答えた、のに。
「やっぱりクマできてる」
「ちょっ、触んなって」
親指に触れられ、じんわりと熱くなる目の下。意図せず、ゴクリと喉が鳴った。
気がつけばまた、二人きりだ。
「勉強もいいけど、ちゃんと寝なきゃだめだぞー」
「……わかってるよ。お前がくれたノート、めちゃくちゃわかりやすいし……なんとかなりそうではある、から」
「ねー、大智」
「ん?」
「もしかして、今俺にドキドキしてくれてんの?」
「……そりゃあ、するだろ」
好きって……言われてんだから。って、俺は少女漫画のヒロインかってーの。
無性に照れが襲ってきて、強引にむこうを向いた。滉大の顔なんて見られるわけがない。
狼狽えた状態の心で部室のドアノブに手をかけると、後ろから小さく声が響いた。
「やば、嬉し」
えっ、と目線を戻す。
そこには喜びを噛み締めてるみたいな、野球の試合で勝った時のそれとは違う、はにかんだような顔があった。
「滉大……」
……お前、そんな顔で笑うんだ。
初めて見る表情だった。
なんでも知ってると思ってたのに、まだまだ知らないこと、たくさんあったんだ──。
*
「ストレッチから始めるぞー」
監督の呼び掛けに、「はーい」と部員たちが集結する。
今から行うストレッチは、二人一組のペアでやるものだ。早速俺はメガネのそいつの肩を叩き、「一緒にやろーぜ」と声をかける。
しかし、
「滉大はいーの?」
なぜかそんなことを言われてしまって言葉につまった。
「えっと、なんで滉大?」
「いつも一緒にやってんじゃん」
「そ、そうだっけ?」
じぃーと突き刺してくる龍馬の視線に耐えきれなくなった俺は、誤魔化すようにハハハと笑った。
〝頭の整理をするから、待っててほしい〟
その言葉通り、俺はここ数日滉大の気持ちに向き合ってきたつもりだ。
俺は滉大をどう思っているのか、その気持ちは恋愛感情なのか、はたまた別の物なのか、自分なりに考えてきた。
でも今まで野球に専念していたせいで、そもそも恋愛というものがよくわからない。
ドキドキするのが恋だというけど、本当にそう?
ドキドキするのは、胸が痛いのは、アイツにいきなり好きだと言われて変に意識してしまってるだけなんじゃないか。
……そう、思っていたのがついさっき。
『やば、嬉し』
あの表情を見てから、今までは暫くしたら治まっていたはずの胸の痛みが、消えない。それどころか、心を、侵食していく。
この意味はいったい──?
「ありゃー。大智が浮気するから滉大のやつ他んとこ行っちゃったぜー?」
誘われるように目を向けると、既に滉大が2年の榎並とストレッチを始めていた。滉大を慕ってる、投手のそいつとだ。
「浮気じゃねーから。ほら、俺らもさっさとストレッチやるぞ」
「へいへい」
何か言いたげなその男を無理やり座らせ、背中を押す。
龍馬の推察通り、俺はさっき気まずさから逃げた。
今滉大と一緒にいたら、自分が自分じゃなくなってしまうみたいで怖かったんだ。だから、滉大を誘えなかった。
なのにこの時俺は、理不尽にもこんなことを思ってしまった。
……俺以外にもそんな顔見せんのかよ。
背中を押されて痛そうに叫ぶ榎並を、容赦なくぐいぐいと押すアイツ。この目に映ったその顔は、どこか楽しげに見えて……もやもやとした何かが、腹の中でとぐろを巻く。
なんというか、ものすごく、気持ち悪い──。
「っ痛い! 痛いって大智!」
「……あっ、ごめん」
無意識のうちに力が入りすぎていたようだ。慌てて手を離し、それからすぐ目の前の背中をさすった。
「大丈夫か?」
「もー。俺はお前と違って身体硬いんだから、手加減してくれよなあ」
「ほんと悪ぃ」
練習中に上の空だなんて、最低だ。
〝集中しろってーの〟
俺はそう自分に言い聞かせるよう口の中で唱え、パシッと心の頬を叩いた。
「バッテリーはピッチング練習、その他の者は守備練習を行う」
「「はい!」」
全員が一連を終える頃、監督から新たな指示が出された。大きく返事した部員たちが、一斉にそれぞれの場所へと散っていく。
「あっ、大智先輩! 投球練、久々っすねー」
練習場所に着くと、先に到着していた捕手のそいつ──伊東が明るく声を飛ばした。
伊東もこの前のメンバー発表で名前を呼ばれた、ベンチ入りメンバーだ。その自覚がちゃんとあるのか、最近はより一層、練習に励んでいるのが目に見える。
「つーかお前、俺のとこ来るのはいいけど、榎並はいいのかよ」
「いいんすよ。そういう大智先輩だって、さっきキャプテン置いて龍馬先輩と組んでたじゃないっかあ」
「……え、なに。お前見てたの?」
「ええ、もちろ──」
「ほーんと、酷ぇよなあ」
──ドキッ。
「こ、滉大!」
驚いてほとんど叫んでいた。
突然後ろから声をかけられたんだ。そりゃあ、びっくりもする。というより、早くどうにか弁解しないとだ。
「や、あの時は……えっと……」
「なんてな」
「……へ?」
「別に気にしてねえよ」
にしっ、と滉大が悪戯に笑って見せる。
俺は拍子抜けすると同時、なんと口にしていいかわからず黙り込んだ。
本当か? 本当に気にしてないのか……?
そうやって疑うようにそっと覗いていると、
「じゃ、始めるか大智」
ぽん、と弾むように叩かれた肩。
その瞬間、どくんっと身体の中で血液が跳ねた。
こんな感覚、初めてだった。
滉大の相手は俺──当たり前のことなのに、当たり前のそれがなんだか無性に嬉しくて。
「大智先輩? 何にやけてんすか」
「ばっ! にやけてなんかねえよ」
……いや。悔しいが伊東の指摘は間違いじゃない。俺の口元は多分、相当緩んでいたと思う。
「だーいーちー!」
「っ、おう!」
声。表情。意識。今この時この瞬間、アイツの全ては俺だけに向けられている。
そう思うと、さっきまで腹の底で燻っていた感情がすーっと解けていく。
「いつでも投げていいぜ」
視界のど真ん中に、いつの間にか構えられていたキャッチャーミットが飛び込んできた。
俺はぎゅっと、右手の中にあるボールを握る。
次に素早くアイコンタクトをし、アイツから飛ばされたストレートの合図に、うんと頷いた。
そうだ、滉大。
お前はそうやって、俺のことだけ見てればいいんだ。
他の誰でもない。俺だけのことを──。
「……っ!?」
えっ、と思った瞬間、ボールは指から離れ勢いよくむこうへ飛んでいった。
──やばい、思いっきり暴投かましちまった……!
「ご、ごめん!」
叫んだのは紛れもない、俺だ。
この手から放たれたボールは、滉大の頭上でなんとかキャッチされた、のだけれど。
頭はそれどころじゃない。
自分の中にあった、真っ黒い何か。嫉妬という名の、独占欲。奥底から姿を見せたもう一人の自分に、指先の感覚が失われていく。
俺はすぐに滉大の元へ駆け寄った。
こんなの、俺らしくもない。
「悪い滉大、次は……」
「……」
「滉大……?」
なぜか黙ったままのその人。
「なあ──」
「伊東」
突然、遮るように大きく響いた声に、俺はびくりと肩を震わせた。
「なんっすかー?」
「お前、今から俺と交代な」
「……え?」
ドクンと全身に嫌な音が響く。
……交代? 今、確かにそう言ったよな?
「大智の球受ける練習、してえだろ?」
「えっ、はい! でもいいんすか?」
「ああ。お前もいつ試合出るかわかんねえからな」
「ちょ、なんだよ急に。何勝手に決めて──」
「ごめん」
ぽつり、取り乱す俺の耳元に落とされた一言。
そして──。
「────────」
「……っ!」
続けざまに聞こえた言葉に、脳が激しく揺れた。
一点にできたモヤは黒みを増し、一瞬のうちに全身を染め上げる
「大智先輩、よろしくお願いしまっす!」
「……っ、おう! よろしく」
ゆらり、陽炎が立つ。
揺蕩う光のその奥へ、ゆっくり進んでゆく後ろ姿。
俺はそれを、目の端で黙って見送る。
『──俺がこの前言ったこと全部、忘れてくれていいから』
なあ滉大。いったい、どういう意味なんだよ。なんで急にそんなこと──。
ふと見上げた空は、皮肉にも雲一つもない青色だった。
