一昨日、親友と思っていた男にキスされた……と思う(額にだけど)。
思うというのは目を瞑っていたからで、おそらく、きっと、多分、いや絶対にされたんだ。
折悪しくもすぐに母親が俺を迎えに来て、真相を確かめることはできなかったけれど。
暗闇の中軽く響いた音。
額に触れた、柔らかい温もり。
あの感触は絶対に……。
──何で?
最初に頭に浮かんだのは、大きな疑問だった。何で滉大は、俺にあんなことしたんだろう。
もしや、早く熱が下がるように願掛けでもしてくれた感じか?
いやいや、普通親友にそんなことしねえよな? 仮に龍馬が熱で倒れたとして、そりゃ早く良くなれよとは思うけど、額にき、キスなんて100%しない自信が俺にはある。
まさかアイツの家では、熱の時にそうする習わしみたいなもんがあるのか……?
いや、これも多分ない。だったらあの時『今は絶対起きんなよ』なんか言わないはず。
じゃあ──。
とその時脳裏に蘇った数日前の光景。
『その人は今、目の前にいたり……する?』
『──うん。いるよ』
すぐに冗談だったって片付けたけど、もしかしてあれは、冗談じゃなかった……?
俺は鞄を開け、中から普段はほとんど眠っているスマートフォンを取り出した。
そして、慣れない手つきで【親友 キス 理由】と検索し──すぐにやめた。
調べたところでこんなところに答えが載っているはずがない。正解は滉大の中にのみ存在するのだ。
あーあ。
爽やかな日差しが差し込む教室で一人、窓から遠くに見えるグラウンドを眺める。
人の心も、勉強みたいに簡単に答え合わせができればいいのに──。
そんな夢物語に思いを馳せていると、偶然にも今朝のHRで2週間後に控えた期末テストの説明があった。
「では、今からテスト範囲のプリントを配ります──」
体育祭の振替休日を明けたばかりの教室が、ざわざわと騒がしくなる。
学生という身分である以上、部活だけやってればいいというわけにはいかないのが切ないところだ。
「大智、これ一応飲んどけよ」
HRが終わるとすぐ、席までやってきた誰かがコトンと俺の前に茶色い瓶を置いた。
「おう。サンキュー」
俺はそう言って、目の前のビタミンたっぷりの栄養ドリンクを片手に取る。
誰か──滉大は、一昨日熱で倒れた俺のことを気遣ってくれているようだった。
「……そういや、龍馬から聞いた」
「ん?」
「保健室、滉大が運んでくれたんだってな」
「……ああ、まあな」
あの日、家に帰ってスマホを見ると、龍馬から心配のLI〇Eが届いていて。その流れで知ったんだ。
【滉大ってば、すげーかっこよかったんだぜ? 大智のこと軽々と持ち上げてさ?】
誰がどんな行動を取ってくれたのか。
「その…… 世話かけたな。ありがと」
自分より小さいとはいえ、男一人を持ち上げるなんてかなりの重労働だ。なのに滉大は真っ先に倒れた俺の元へ飛んできて、保健室まで一人で運んでくれたらしい。
自分だって、体育祭や部活で疲労してるはずだってのにさ。
「どういたしまして。……で、体調は?」
「えっ。ああ、寝たらすっかり元通り」
「ほんとかー?」
「ほっ、ほんとほんと!」
詰め寄ってくる滉大に、ニカッと笑顔を作って見せる。
「あんま無茶すんなよ」
「ははっ、わーってるって」
不本意ながら昨日まで部活を休んで丸二日静養に努めたし、今朝だって大事をとって朝練には参加しなかった。
まあ大事な時だからな。ここで無理をして大会に出られない方が、嫌に決まっている。
その甲斐あってか、実際この数日で身体は十分元に戻っていた。
元々身体が強いのが自慢の俺だ。むしろ体調不良になるほうがおかしかったんだ。
もしかすると、たくさん寝たおかげで今まで以上に元気になっているかもしれない。
……戻らないのは、ただ一つ。
「この夏は大智と俺、なにがなんでも二人揃ってだからな」
「っ、おう」
変になっちまった、心だけだ。
「……大智?」
「っ、なに」
「なんかさっきからボーッとしてない?」
「や、そんなこと」
ない、とは言えなかった。
保健室で握られた手。それから、額へと落とされたキス。
頭に住み着いた〝もしかして〟のせいで、俺はさっきからずっと、滉大の目をまともに見られずにいた。
だって、この仮説が正解なら……滉大が俺のことを、ずっと好きだったってことになるわけで──。
「やっぱまだ熱あるんじゃねーの?」
ぴとっ。
額に触れた手に、身体が小さく跳ねた。
キリッとした大きな目に、長いまつ毛、それから筋の通った高い鼻。
覗き込んできた端正な顔を不覚にも正面から思い切り浴びてしまった俺は、刹那に硬直するしかなかった。
「んー」
「……!」
な、なんだ、これ……っ。
心臓がドクドクと激しく刻まれだして苦しい。落ち着けと何度も言い聞かせているのに、少しも言うことを聞いてくれない。それどころか、全身に冷や汗のようなものまで浮かんできた。
やばい。堪らず、ゴクリと唾を飲み込んだ。
頼むから、お願いだから早く終わってくれ……!
「大丈夫そうだな」
ぽつりと落とされた言葉とともに、俺はようやく解放された。
「だっ、だから元気だって言っただろ」
即座に笑顔を作って返す。
滉大はそんな俺の肩を軽く叩いて、「ならよかったよ」と呟いた。
*
知りたくて知りたくて堪らなかった答えに、まさかの選択肢が生まれた時。人は動揺し、混乱に陥る。
俺の脳内はまさに今、それを物語るかの如く、複雑に絡み合った鳥の巣だった。
千早滉大の好きな人=?
この〝?〟に当てはまる答えが本当に〝俺〟だったとして、俺はこれからどうすればいいんだろう。
いや、別に告白されたわけじゃないんだ。今まで通りにできるのが一番。なのは、わかっているのだけれど……。
簡単にはいかないのがつい先程証明済みだ。
──どこかにいい名案落ちてねぇかなあ? なんなら降ってこねぇかなあ?
ぼんやり願ってみるも、当然そんなものが落ちているはずも、降ってくるはずもなく。
気づけばもう、3時間目になっていた。
本日の家庭科の授業は、4時間目も使っての2時間連続調理実習。
それぞれ男女混合4~5人の班に別れ、デミグラスオムライスを作る予定なのだが──。
「わあ、千早くんすごーい! 王子様みた〜い♡」
始まって早々、俺の悩みの種がここぞとばかりに持て囃されている、らしい。
俺は声に促されるように、斜め前のテーブルに目をやった。
スタイリッシュなチャコールのエプロンに、三角巾。見るとそいつは、どこかのお料理番組にでも出てきそうな爽やかな出で立ちで、手慣れたように包丁を鳴らしていた。
「普段から料理やってるのー?」
「んー。まあ、たまにかな」
「「へ〜、かっこいい〜」」
「全然。でも、ありがとう」
ピキッと額に青筋が浮かんだ気がした。なんだその、爽やかアイドルみたいな返答は。
そりゃあ俺があの時起きてたなんて、お前は夢にも思わないんだろうけど? ここまで〝私、何も知りません〟みたいな顔されると、今すぐにでもこの頭ん中から鳥の巣取り出して、見せつけてやろうかという気持ちになる。
そもそも不器用なくせに、こういうモテスキルだけは問題なく熟せる──いや、それ以上にできるなんて、おかしくないか? 不器用なくせに。悔しいから何度でも言ってやろう。不器用なくせに。
そうやってほとんど睨みつけるように観察をしていた最中、ふと隣で耳慣れた声が響いた。
「やっぱ料理男子ってモテるよなあ」
声の主は、たまたま俺と同じ班になった龍馬だ。カーキのエプロンがなかなか似合っている。
「なあ大智、俺らも料理始めない?」
「え俺も?」
「旅は道連れ、世は情け。君もモテモテになりたいだろ〜?」
「だろーと言われても」
黒縁メガネをキランと光らせる龍馬に、俺はうーんと苦笑いを浮かべる。
また龍馬の悪い癖だ。三日坊主なくせに、すぐに真新しいことに飛びつく。
「やりたければ止めないけど……」
「けど、なんだよお」
俺は、見るからに不機嫌そうなそいつの肩にポンと手を乗せた。
「お前は料理できなくても、かっこいいよ」
「……大智!」
龍馬の扱いには慣れている。
ニコッと眩しい眼差しを送れば、たちまち輝き始めた瞳。
「お前、いいやつだなあ」
「……まあな?」
「よっ、我らがエース!」
……なんて、茶番を繰り広げていると、
「ちょっと唯川くん長谷くん、手止まってるよ?」
「「……すんません」」
二人して仲良く女子たちに怒られてしまった。
*
「いただきます!」
調理開始から約50分。待ちに待ったこの時が、ついにやってきた。
目の前にあるのは、班のみんなで協力し、一から作ったオムライス。卵がいい感じにとろっとろで、見るからに美味しそうな出来になっている。
加えて、熱々の証拠である湯気に乗って漂うデミグラスのいい匂いに、さっきからお腹が鳴りそうなのを我慢していたんだ。
ということで……。では早速、とスプーンを右手で掴む。
まずはサラダから? いーや、やっぱりここはオムライスからでしょ。
「唯川くんって、料理できたんだね」
一口分すくい上げたところで、女子の一人がそんなことを言い出した。
「卵で包むの上手でびっくりしちゃった」
「私もー」
え、もしかして俺褒められてんの?
正直こういうのは慣れていなくて、どう返すのが正解かわからない。
そわそわするというか、くすぐったいというか。ちょっとニヤけてる自分を自覚し、何とも言えない気持ちになる。
「……んな、大したことねーよ」
俺はひとまず気恥ずかしさを誤魔化すようにそう言って、パクッとオムライスを口に運んだ。
──実を言うと、俺にとって料理は一応、できる部類に入るものだったりする。
俺が幼い頃、両親は共働きで。急な仕事で二人とも帰りが遅くなる日は、俺が晩ご飯を作るなんてこともあった。歳の離れた妹と、俺の分。そのおかげで、自然と簡単なものは作れる程度になった、というわけだ。
……でも、本当にそれだけというか──。
なあ? と右隣に振ろうとして、やめた。
〝裏切り者〟
そんな文字が、メガネの奥の瞳に滲み上がっていたからだ。
「なんで言わなかった」
「……別に、特技ってほどでもねーし」
「したことありませんって顔してた」
「してねーよ」
「してましたー」
わーんと泣き真似をする龍馬につい苦笑いを浮かべる。
だいたい、このレベルでできるとか言ったら恥ずいじゃん。せめて、滉大くらいじゃねぇと──。
「……っ!」
ばちっと火花が散ったみたいだった。
おそらく一瞬ぶつかり合った視線。
──今、滉大もこっち見てた?
乱れる頭の上に「へぇ」と声が落とされる。
「たしかに大智のオムライス綺麗じゃん」
え──?
滉大!? と思わず叫びそうになったのを、すんでのところで呑み込んだ。
振り向けば濃い茶髪の男が覗き込むような形で俺の皿を見つめている。
──なんで来たんだ?
驚いているそのうちに、龍馬が「だろー」となぜか自慢げに答えた。
俺は咄嗟に後に続いて口角を上げる。
「まあ、滉大よりは劣るけどな」
「いや、俺のより美味そう」
「それは盛りすぎな」
……よかった。なんとかいつも通り返せた。
笑みを浮かべながらほっと一息ついた、その時。
「唯川のオムライスヤバいってマジ?」
「俺にも見せろよ大智ー」
「俺も俺もー」
どこからかあがった声に呼応するように、複数の男子生徒たちが半円状態で囲い込んだ。
俺の、食べかけのオムライスを。
なんとも滑稽な状況だが、さすがは男子高校生の悪ノリ。ノリがノリを生んでノリノリになる。
「いや〜まず卵の艶が違うねぇ」
「見事な造形美」
「唯川シェフ渾身の一品!」
そんな料理評論家ごっこが終わったかと思えば、今度はこれだ。
「俺、唯川みたいな奥さんほしーわ」
「わかるわ〜」
どこがだよ。俺だったらもっと可愛い奥さんがいいよ……!
堪らぬ羞恥心に口を開いたものの、他の誰かに先を越されて反論できなかった。それも、今一番参戦してほしくないあの人に。
「残念。大智は誰にもやんねーよ」
「ちょっ……!」
おい滉大、お前は出てくるんじゃない!
そんな願いも虚しく、遊び心に火がついたらしい滉大は止まらない。
「コイツの恋女房は俺って決まってるからな」
そう言って滉大が俺の肩を抱くと、途端にひゅ〜と歓声が巻き起こった。きゃーっという悲鳴も聞こえたような気もする。
「な、大智?」
本来ならば、ここで「やだ、人前で〜」とか言って乗っかるべきなのだろう。いつもの俺ならきっとそうしてた。
だが、できなかった。
「……っ、うん」
さっきからまた、心臓が壊れだしたんだ。
「そうだった、こいつらバッテリーじゃん」
「よっ滉大智夫婦」
「末永くお幸せに!」
落ち着け、俺。
こんなんよくある野球ジョークじゃねえか。
変なとこノリいい滉大のことだし、きっと今回もそれなんだとはわかってる。
だけど、
『大智は誰にもやんねーよ』
今そんなこと言われたら、どうしても思ってしまう。
大切なものを守るみたいに肩に触れられたら、すぐには打ち消せなくなる。
──やっぱり滉大は俺のこと、好きなんじゃないか? って。
鳴り止まない鼓動と、続く囃子の音。
このあと食べた残りのオムライスの味がしなかったのは、言うまでもない。
*
今日は一段と時間が経つのが早かった。
気づけば6時間目の授業が終わっていて、今や放課後。これから例の如く部活に向かうというのになんだかすでにもうぐったりだ。
「いや〜春だねぇ」
靴箱に手を伸ばすとすぐ、龍馬が隣でしみじみと言った。
もう夏だよ、なんてすかさずツッコんでいるはずの俺はどこかで迷子になっているか寝ているらしい。
代わりにちらりと横を見ると、なにかあったと聞いてほしそうな顔と視線がぶつかったので、俺はそのまま「なにかあった?」と尋ねた。
「へぇー、やるじゃん」
どうも龍馬は、後輩の女の子から手紙を渡されたみたいだった。
おそらく先日の体育祭での活躍を見てのことだろうが、掃除終わりに声をかけられたのだそう。
「やっぱ見てる人はちゃんと見てるってことなんだよ〜」
「だから言っただろ、俺は龍馬かっこいいと思うよって」
チームの精神的支柱である四番バッター。
逆転ホームランで何度もチームを助けてくれた、お前なんだから。
「もー大智くんたらぁ照れるじゃん」
まあ、調子に乗りやすいのが玉に瑕だが。
「いやーついに俺にもプチモテ時代到来かー」
「プチなのな」
ちょっと謙虚なところが憎めないやつなんだよな、ほんと。
ふっと小さく笑ったそんな時、龍馬が思い出したかのようにこっちを見た。
「そういや、滉大は?」
「あー、用があんだって」
といっても今日は告白なんかではなく、監督から直々に呼び出しを受けているらしい。
この時期に呼び出しといえば、思い当たるのは一つだが……それより今はちょっと気まずいので、いきなりその名前を出すのはやめてもらいたい。
「なんだ、喧嘩でもしたのかと思ってた」
「なっ」
龍馬は意外と鋭いやつだ。自由に見えて、人のことをよく見ている。
「なんか今日ぎこちないじゃん、と思ったんだけど?」
「んなわけっ。オレラズットナカヨシ」
焦ってロボットみたいになってしまった俺に、「だったらいいんだよ」と龍馬が笑う。
嘘はついてない、と思う。だって俺たちは全く喧嘩はしてなくて。目があっただけなのに妙に緊張したり、いつもの冗談を冗談で返せなかったり。俺が普段通りにいられなかった、だだそれだけなんだ。
*
時は俺一人のために待ってはくれない。それが証拠に、なんとなくもやもやが晴れないまま、もう数日が経った。
まあね、俺もアイツに〝俺のこと好きなの?〟とか訊けばいいんだろうけど、当然そんな勇気はないし、訊いたところでまたはぐらかされるに決まってる。
だから真相は謎のまま、もやもやと共に生きることにしたんだ。
といっても、さすがに多少は慣れてきている。授業中とか部活中とか、集中している時ならまず問題ない。そう、集中している時なら。
うん……まあ、あれだ。一つだけ言うとすれば……。不意打ちのドアップだけは、ほんとマジ勘弁してください。
「大智ぃ」
「ひっ!?」
って、言ったそばからいきなり覗き込むのはやめてくれえ!
「ちょ、なんだよ滉大!」
「悪ぃ、そんな驚いた? 早く部活行こうぜ」
「お、おう」
ほんっと、このイケメン捕手様だけは……。人の気持ちをもっと考えてくれってーの。
心臓飛び出るかと思ったし、おかげで放課後早々の教室に大声響かせちまったじゃねえか。
なんとか深呼吸して、席を立つ。
しかし、そんな時だった。
しまい忘れていたらしい筆箱が、ぽろり地面に落下する。
俺は即座にそれを拾い上げようとした、のだけれど。
「あっ」
ピタリと重なった手と手。
「ご、ごめっ……滉大」
「……こちら、こそ?」
「……」
「……」
……いやいやいや!
なんだこの変な空気はあああ!!!!
まさか手と手が触れ合ってドキッだなんてベタな展開を、この俺が経験することになろうとは。
なんか滉大と見つめ合ったみたいになっちゃったし。
そもそも、なんでドキッなんてしてのかもわかんねえし……。
ええい、とにかく! 今は早急にこの気まずさをなんとかしないとだ。
「おい、滉大」
「ん?」
「早くしねえと置いてくぞ」
淡々と宣言した俺は、「えー」と文句を言う滉大を背に、すたすたと教室を後にした。
──そんなわけで今日もやってきた、野球の時間。
いつもと変わらぬ時間。だけどちょっとだけ、違った。
「今から大事な話をする」
残り時間もわずかになった頃、監督から招集がかかった。一瞬にして、漂う空気が引き締まったものに変わる。
「お前らもわかっているとは思うが、夏の予選まで約3週間だ。……そこで今日、この夏のベンチ入りメンバーを発表したいと思う」
──ああ、ついにこの時がやってきたんだ。
ドックン、ドックン、と激しく心臓が騒ぐ。
自然と力が入り握った拳には、じんわりと汗が滲んでいた。
「まずは──」
嬉しくて歓喜する者、悔しくて泣く者。様々な感情を持った者たちが、それぞれの想いで今、このグラウンドに立っていた。
1年18人、2年16人、3年15人。その中で監督の口から言い渡された名前は、たったの20人分。この瞬間、名前を呼ばれなかった部員は試合に出ることができないと、同時に決まったんだ。
そして、選ばれなかった3年にとっては、実質引退を告げられたも同然のことだった。
そんな中で俺は──。
『1番──唯川』
エースナンバーを託された。
震え上がるほど嬉しかった。叫び出しそうなくらい興奮した。俺の前に呼ばれたのが滉大だったからこそ、余計に。
……だけどそれと同じだけ、苦しさも覚えた。
『頑張れよ、大智』
『俺の分まで頼んだぜ!』
明るい笑顔で、涙声で肩を叩いたのは、1年の頃から一緒に練習に励んできた仲間たちだ。
背中に背負う数字の重みを、これまでで一番に痛感した瞬間だった。
「大智ー、元気ないじゃん」
「……あ? んなことねーよ」
帰り道。ついさっきまでの光景を思い出しながら歩いていると、急に隣のそいつが声をかけてきた。
先程監督から正捕手の証──背番号2を託された、滉大だ。
夕焼けの空の下、こうして駅までの道のりを二人きりで歩くのは、なんだか久しぶりな気がする。
いつもは龍馬もいるし、後輩が混ざってきたりも少なくない。なのに今滉大と二人なのは、部活終わりに監督から二人して呼び出されたからである。
『唯川、千早。さっき伝えた通り、今年の夏はお前らバッテリーに任せる。いいな』
『『はい!』』
『お前たちならきっと、最後まで全力で闘ってくれると信じている。だから……仲間の分まで、なんとしてでも繋いでくれ』
いつもの何倍も力のこもった声だった。それを浴びた瞬間に、察した。監督もきっと、俺たちと同じような気持ちなんだと。
誰かを選ぶということは、選ばれない人間を作るということで。だからこそ、選ぶ人間もまた、違う意味で苦しい思いをしているんだ。
そう、肌で感じた想いにグッと拳を握った、その時。
『俺と大智で……みんなで、必ず甲子園へ行ってみせます』
『滉大……』
まっすぐ前を見据えたアイツが堂々と言ってのけた言葉に、俺は震えた。そして続けた。
『ああ、俺だって同じ気持ちだ。監督の想い、俺たちが絶対に無駄にはしません』
『……頼んだ』
甲子園へ行くのは自分だけの夢じゃない。
これは、託された夢でもあるんだ。
だから俺は──。
「……大智」
「ん?」
「大智くん」
「ん?」
なんだよさっきから──。
「唯川大智ーーっ!!」
「わーーーっ! てめっ、なにすんだよいきなり!」
突如耳をつんざいた大声。俺は驚くままに両手で耳を押さえ、声を荒らげた。
ぼーっとしていたとは言え、思いきり耳元で叫ぶとかありえねえ。鼓膜破れたらどうすんだよ。
「はっはっはっ!」
「おい、何笑ってんだ」
「だって大智、わーーっ! って」
「てめぇ、喧嘩売って──むぐっ」
そこまで言って、俺の声はピタリと止まった。ついでに、動かしていたはずの足も。
「やーっと目ぇ合ったな」
「……っ」
言葉通り、今俺の目は滉大のそれと完全にぶつかり合っていた。
顔を背けようにも、滉大のごつごつとした両手によってがっちりと固定されているため動かせない。
そう──滉大はいきなり俺の顔を掴み、強引にも自分の方へ向かせたんだ。
それから数秒後、遅れて緊張のようなものが全身を走った。
どうしよう。今までどんな顔してこの黒を見ていたかなんて、忘れてしまった。
何も言えずにただ目線を彷徨わせているとぽつり、そんな俺にアイツが尋ねるように言った。
「……なあ。元気ないの、俺のせい?」
「え?」
「答えて」
ずいっと顔を近づけられる。
「俺のせい?」
さっきまでとは違う、真剣な声だった。
けれどその瞳は、強く詰め寄ってきたくせにどこか不安げに揺れている。
もしかしてこいつ、俺の態度がおかしいことに気づいて……。
「ちげーよ。……ただ、最後の夏だってことを改めて実感しただけ。ナイーブなんだよ、俺は」
あえて明るく笑い飛ばすような調子で答えた。なんとなく、安心させたかったのかもしれない。
実際に、嘘でもないしな。滉大のことでモヤモヤとした日々を過ごしてはいたのは事実だが、それとこれとは話が別。
「……なんだ」
小さな呟きのような声とともに、俺の顔を掴んでいた手が離れていった。
「たしかにお前、意外と繊細だもんな。意外と」
「意外とは余計だよ」
「冗談だって、そんな怒んなよ」
「はいはい。つーか、早く帰んぞ」
にぃっと悪戯っぽく口角を上げる滉大に、なんとなくぶっきらぼうな口調で返す。
再び歩き始めた俺は、こっそりと安堵の溜め息をついた。
しかし、それも束の間。
「でもよかったよ。お前があの時起きてたのかと思って、ちょっと焦った」
「……え?」
「……ん?」
一難去ってまた一難。
ぶわっと一気に毛穴という毛穴から汗が吹き出した。
「ああああ、あの時って?」
「知らないならいーんだよ」
「そ、そっか……」
いやいや、どもりすぎだろ俺。これじゃあ怪しさ満点じゃないか。
ここは知らないふりを決め込むのが得策だ。うん。絶対そう。
「それよりさー、明日の抽選会──」
「なあ大智」
ドクン、と心臓が跳ねた。
いつの間にか掴まれていた腕に、自然と歩みが止まる。
「なんだよ」
「そこに荷物全部置いて」
「……は?」
「いーから、そこ。置いてってば」
いきなりなにを言い出すのかと思ったら、意味がわからない。今度は一体、何をするつもりなんだ……?
「……置いたけど?」
俺は頭上にハテナを浮かべながら、言われた通り、道端にあった石のベンチにリュックとエナメルバッグを置いた。
得体の知れない緊張感の元、窺うようにそっと視線を送る。するとすぐ、滉大が同じように自らのそれをベンチに置き──。
「……っ!?」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
ただ突然、身体が何かに包まれて。
「大智……」
耳元を掠めた、低い声。
瞬間──理解した。
「なっ……に、して」
俺の身体を包み込んだのは、滉大だった。
──滉大に今、抱きしめられている。
理解したと同時に、俺の中で何かが爆発した。
心臓がバクバクと鳴り始め、カッと一気に体温が上がっていく。
「……やっぱりな」
「え?」
「お前、嘘下手なんだよ」
何もできずにただ固まっていた俺に届いたのは、不敵な低音だった。
「あーあ。本気で言うつもりなかったんだけどな……。バレちまったんなら仕方ないか」
いつのまにか、解放されていた身体。
滉大は呆然とする俺の目を一直線に見つめて、言い放った。
「俺は……大智が好き」
「っ!」
「だからあの時、お前にキスした」
夕陽のオレンジが全身を包む。
そのせいか、いつもより血色のよく見える頬。
「男にこんなこと言われて、引く?」
「そ、んなことは……」
「ならもう隠さないから。覚悟しといて」
……は?
目の前がチカッと光ったのが最後。そこから俺の記憶は、儚くもぷつりと途切れた。
