──ピピピピ、ピピピピ、ピッ。
「んー……」
午前5時30分。
いつものように、規則正しく鳴り響く電子音を手探りで止めたところから、俺──唯川大智の一日は始まる。
「……ふぁ〜」
まだ眠いが、悠長にしている時間はない。
一先ずシャッとカーテンを開け、半分ほどしか開いてない目を擦りながら、次はスウェットを制服に着替えて、そんで次はパンパンに詰まった鞄を肩に抱える。
因みに、時間割は前日の夜にちゃんと合わせておくのが俺のお決まりルーティンだ。忙しい朝にバタバタと準備するより、忘れ物の心配は少ないからな。
そういうわけで──ん?
ふと、脳裏に嫌な予感が過った。
──昨日俺、時間割合わせたっけ……?
恐怖に苛まれながら鞄を床に下ろす。おそるおそるチャックを開けると、
「マジかよ……」
予感、大的中だった。
*
人生において厄日というものが本当にあるのだとしたら、間違いなくそれは今日に当たるだろう。
今朝のルーティンど忘れ事件は、ただの序章に過ぎなかった。弁当を忘れそうになるわ、なんでもないところで躓くわ、本日の滑り出し絶不調。
そんな中、せめて遅刻だけは避けたいと必死で学校まで走った。なんせ俺は3年で副部長。先輩の威厳は何がなんでも死守しなきゃならない。
『先輩だってこの前遅刻してたくせに』なんて、言わせてたまるもんか。
と、そんなこんなで息も絶え絶え、なんとか朝練開始10分前に部室に辿り着けたのは良かったんだが……。
「ちょっ、ぷっ。大智先輩、大丈夫っすか」
「うっせぇ、テメー笑うな!」
ユニフォームの袖から頭を出しそうになったところを、たった今後輩の伊東に目撃されてしまった。
「つか伊東、なんでいんだよ」
「ああ、ちょっとタオル忘れて取りに来たんすよ」
「タオルぅ?」
あーもう、最悪すぎる。
「いやー、先輩も可愛いとこあるんすね」
「……は?」
「あ、そだ。おはざっす!」
「…………はよ」
グッバイ、俺の先輩の威厳。
ガクッと落とした肩に、すかさず伊東が手を乗せる。
「因みに先輩、今日は気をつけてくださいよ〜」
「あ?」
「今日の獅子座最下位だったので」
どうやら俺は占いにまで見放されたらしい。
というか伊東、俺のは見なくていいんだよ。
「よお、大智。遅かったじゃん」
グラウンドに出てすぐだった。
俺に気づいたそいつはストレッチの動きを止め、こっちへゆっくりと歩み寄ってきた。
「……まーね」
「なに? んな暗い顔して、どうかした?」
「獅子座が最下位なんだとよ」
「ふーん」
なにが〝ふーん〟だ。いつも通りの涼しい顔してよぉ。こっちは災難続きで果てしなく鬱だってのに。牡羊座が最下位の時、絶対慰めてやんねーからな。
「……って、なに笑ってんだよ?」
気づけばこの男、いつの間にか顔を隠しながらくつくつと喉を鳴らしている。
「や……大智、占い好きだなあって」
「はあ?」
俺の眉間には今、深い皺がぎゅーっとできているだろう。
「そこまで笑うことか?」
「っ、悪い悪い。……でも。そんな理由でよかった」
「……え?」
瞬間、ぽすっと頭に乗せられた大きな手。
「悪い結果なんて気にする必要ねぇよ。都合のいい占いだけ信じてれば楽だぜ」
「……んなの、わかってるって」
「なら、元気出せよ。お前が元気ないと、俺まで調子狂うし」
「……っ」
なんなんだよ、急に。
大事なこと黙ってたくせに、教えてもくれないくせに。そうやって優しくはすんのかよ。
「ったく、誰のせいで……」
「ん? なんか言った?」
「別に? ただの独り言」
なんだか無性にムッとした俺は、言葉とは裏腹に心底恨みがましい声で返してやった。
〝誰のせいで〟
──そう。自分がおかしくなってる理由なんて、考えなくても最初からわかっているんだ。
昨日時間割を合わせ忘れたのも、弁当を忘れそうになったのも、躓いたのも、袖に頭通しちまったのも、全部。
『いるよ、好きな人』
コイツが……滉大が昨日、あんなことを言ったから──。
『『えぇーっ!?』』
悲鳴のような大声が一斉に部室中に響き渡った。
『誰誰!? 待って、初耳なんすけど!?』
『……まー、言ったことねぇし』
『ちょ、ね? 誰にも言わないからさぁ? 教えてくれよー』
『僕も聞きたい! お願い千早くん』
『なんだよ山本まで。悪いけど、お前らには絶対言わない』
『『意地悪ぅ〜』』
そうやって龍馬ともっさんが好奇心剥き出しに食いつく中、俺はただ一人呆然と立ち尽くしていた。
身体にぽっかりと大きな穴が空いたような、サーッと血の気が引いていくような、そんな変な感覚がして。まるで目眩がしたみたいに動けなかった。
だってそれは俺にとって信じ難い、信じたくもない、青天の霹靂だったんだ。
恋愛なんて興味ねーんじゃねぇの? 好きな人? いやいや、そんな奴いつからいたんだ。
ずっとアイツは、俺と同じだと思ってた。野球が一番で、野球のことしか考えてなくて。
なのに──。
『つーか滉大、なんだよお前! バッテリーの俺にも言わねぇとか、つれなくねぇ?』
気づけば口が動いていた。いつもよりも数倍高いテンションで、どういうわけかそんな言葉を発していた。
『……うぐっ、ちょ、離せ大智。首締まってるって』
『俺に隠し事してるお前が悪いんじゃん』
『っ、そりゃ悪かったよ』
悪かった?
『そう思ってるならさっさと白状しろ』
『だから、それは絶対無理だって』
『はあ!?』
『誰にも……本人にも言わないって決めてるから』
ドクン、と胸が騒いだ。
捉えたアイツの瞳が妙に真っ直ぐで、それ以上、言葉を紡ぐことができなかった。
……っと、意味わかんねぇ。
なんなんだよ、これ。
今でも網膜に焼き付いて離れない、見たことのない顔。思い出す度に軋む、胸の奥。
「なんで……」
──なんで俺がこんな気持ちになんなきゃいけねーんだよ。
◇
俺が滉大と出会ったのは、忘れもしない中1の春。
今日みたいな、雲一つない晴天の日だった──。
『『よろしくお願いします!』』
腹の底から雄叫びのような声を上げたのは、まだ少し真新しいユニフォームに身を包んだ、数十名の選手たち。所謂新入生だけの交流試合という場で、俺は滉大に敵チームとして出会った。
南中1年チーム主将の俺と、西中1年チーム主将の滉大。対峙した瞬間、予感する。
──この試合、絶対ぇおもしろくなる。
『プレイボール!』
審判の合図とともに、白熱した試合が始まった。
互いに譲らぬ攻防戦。中でも滉大は、キャッチャーとして一際目立つ存在感があった。
『なぁあのキャッチャー、めちゃくちゃ強肩じゃね?』
見事なスローイングで阻止される盗塁。的確なサインに、立ち居振る舞いから読み取れる、圧倒的な自信。
滉大のここぞという時の駆け引きは、敵ながら天晴れなものだった。
『『ありがとうございました!』』
結果、チームは惜しくも敗れた。
延長戦までもつれ込んだ最後、滉大にホームランを決められてしまったのだ。
悔しかった。もう少しで勝てたのに……。
けれどそんな後悔の念とは別に、その時俺の中で相反する感情が蠢き暴れていた。
──世の中にはこんなすごいやつがいんの?
──まだまだ俺も、強くなりたい。
身震いした。ぞくぞくとやる気がみなぎる、不思議な感覚。俺自身、こんなにもワクワクとした試合は初めてだった。
だからきっと、こんな感情が芽生えたんだ。
──あんなやつと一緒にプレーできたら、絶対ぇ楽しいだろうな。
この日から、より一層練習に力を入れるようになった。
部活はもちろん、自宅に帰ってからも、休みの日も。
そうしている間に時は流れ──俺は、高校生になった。
『『あ』』
登校初日。靴箱で前触れもなくぶつかった視線に重なった声。
『あれ、西中の千早くんじゃん!』
すぐにわかった。
結局あの試合から一度も滉大と再戦することはなく……といっても、大会で見かけたことくらいはあったが。実質これが、俺と滉大の初めての再会だったというのにな。
『あんたはたしか……』
『俺は唯川大智。大智でいいよ。つーか、同じ高校だったんだなぁ!』
俺は運命なんてロマンチックなものは一切信じない。
でもこの時ばかりは本当に運命なんじゃないかって、柄にもなくそう思った。
同じ学校で、ましてやクラスも3年間同じとか。そんな偶然、奇跡以外に考えられる?
暫くして、入部希望用紙に野球部と記し、今度は滉大と同じチームの一員になった。
そんな俺たちがバッテリーを組むのは、すぐのことだった。
──スパーン。
初めてアイツのミットを鳴らした音を、俺は今でも鮮明に覚えている。
18.44m先。吸い込まれるように中心に届いた球。快感、興奮、衝撃。なんとも言えない感動が全身を駆け巡り、脳を刺激した。
『なあ滉大。俺さ、お前と甲子園行きたいんだよね』
『んなの、当然だろ? 行こうぜ、甲子園』
俺たちは野球を通して少しずつ仲を深めていった。
クールで何でもできると思っていた滉大は、実はちょっと不器用で、見かけよりも遥かに情に厚いやつだった。
やがて迎えた高校初めての夏。滉大と共に控え選手としてベンチ入りした、甲子園への予選大会。
予期せず起きたある事件を皮切りに、俺と滉大の関係が一気に変化することとなる──。
『うっ……あ……』
『誰か、担架持ってきて!』
順調に決勝へと駒を進めていた矢先のことだ。当時3年で先発投手だった渡辺先輩が、試合中に肩を負傷しプレー続行不可となった。
〝今年は優勝間違いなしだな!〟
渡辺先輩がいるから、みんなが安心して試合に臨めた。渡辺先輩がいるから、甲子園出場確実だって誰もが疑わなかった。
それほどまでに圧倒的信頼感を得ていたエースの故障。
夢が、砕け散った瞬間だった。
刹那にして漂う敗戦ムード。そんな中、1年の俺になにができる……?
『『監督!』』
どうやら、俺は独りじゃなかったらしい。
『千早に唯川、揃ってなんの用だ?』
俺は図らずとも〝そいつ〟と目線を合わせ、動くままに口角を上げた。
『あのっ』
たった数秒、眼を見ただけでわかった。
──ああ俺たち今。
『『俺たちを試合に出させてください!』』
──おんなじこと、考えてる。
結果、準決勝敗退というところで初めての夏は幕を下ろした。
悔しくて、不甲斐なくて、涙が止まらなかった。それだけ、本気の心で挑んでいたからだ。
だからこそ俺たちは、悔しさをバネに誓ったんだ。
『甲子園に行くまでは、野球のことだけ考えようぜ』
と。
『んでもって絶対、優勝しような』
と。
俺は今までその約束を守ってきた。大切にしてきた。なのに……。
「それなのによォーーーーッ!」
カキーン!
勢いよく振ったバット。それのど真ん中にボールが当たり、場外ホームランとなった。
「うおー、大智やべーー!」
近くで見ていた龍馬たちが、パチパチと拍手をする。
「へっ。こんなもんよ」
まあ、まぐれだけど。
*
「ねぇ唯川くん」
教室に入り、重たい荷物を机に下ろした時だった。
突然耳に届いた高い声に、ん? と顔を向ける。
「……どうかした?」
最初に目に入ったのは、ボブカットの矢代だった。それから少し後ろに目をやれば、彼女といつもつるんでいるポニーテールの女子──横田の姿もある。
「あ、えっとね。唯川くんはさ、何の種目に出るかもう決めた?」
「あー」
種目……そう言えばそうか。
今矢代に言われて思い出したが、今日の1時間目は、あと2週間ちょっと後に控えた体育祭の種目決めをするんだった。
よく見ると、黒板には種目名がずらりと並んでいる。体育委員のやつが授業開始に間に合うよう、前もって書いておいたんだろう。
「まだ決めてねーや」
「そっかー」
「で? 矢代と横田は決めてんの?」
「んー、私たちはどうしようかなって」
「「……ねえ」」
…………はーん。なるほど? なんか二人して妙にソワソワしてんなと思ったら、そういうことね。
これは滉大に一番近い俺に探りを入れて、あわよくば同じ競技に出られたらいいなーっていうアレってわけだ。
んなまどろっこしいことせず、本人に直接聞きゃあいいのに。
そう思いチラッと視線を動かすと、ちょうど前の席の男と話すアイツの横顔が目に入った。それも、憎たらしいほど楽しそうに笑っている。
……あー、なんかアイツの顔見てるとまたムカムカしてきた。
「唯川くん?」
「へっ」
矢代の不思議そうな目と目が合い、瞬時に目を覚ます。
ああーー、ダメだダメだ。落ち着け俺。深呼吸。
「大丈夫……?」
「ああ、なんとも。それより二人とも悪ぃな。俺も滉大が何に出るのか知らねーんだよ」
「えっ! や別に、そんなっ!」
「えっと、私はその……」
「いーって、いーって。なんなら、聞いてきてやろうか?」
直接聞くのが恥ずかしいとかいうんなら、代わりに俺が。と思って提案したつもりだったんだが。
「ううん、大丈夫。ありがとう唯川くん。行こ、りりちゃん」
「うんっ」
なんだよ、遠慮しなくていいのに。
逃げるように立ち去った二人に、俺はうーんと唸りながら首を捻った。
知りたいのか、知りたくないのか。女子ってやっぱ、よくわからねえや。
*
話し合いの結果、俺はイツメン2人と一緒に4人一チームの〝スウェーデンリレー〟に出ることに決まった。いや、決まってしまった、と言った方が正しいかもしれない。
龍馬のやつが勝手に俺と滉大の名前を出して、流れのままに黒板に苗字を刻まれていたのが、事のあらましだ。
スウェーデンリレーとは、100、200、300と順に走る距離が増えていくリレー競技なんだが、その中で俺はアンカーを任され400mを走る。
『お願い大智くん……♡』と超うるっうるの4つの瞳に見つめられたら、誰だって承諾せざるを得ないだろ?
……とまあ、半分押し付けられたみたいで多少は不服な気もするが、走るのはもとより得意でね。スタミナと脚にはちょっと自信があるもんだから、正直嫌ではなかったりするのが本音だ。
ほんとに嫌なら、そもそも全力で拒否ってるしな。
そんなこんなで迎えた、休み時間。
まずはと向かったのは、先程俺らイツメンと共にスウェーデンリレーに出る運命になった、背の高いひょろっとした男の席だった。
「よう、中田」
「ゆ、唯川くん……」
「これから、リレーの練習とかよろしくな」
俺は軽く挨拶を済ませたのち、中田の目の前に右手を差し出した。
同じチームたるもの、親睦を深めておきたいところじゃん?
そんな想いを胸に笑顔を向けると、すぐに「こちらこそ……!」と握手で応えてくれた。
中田は普段、吹奏楽部でトランペットを吹いているらしい。思いっきり文化部の彼がなんでリレーなんかに出るのかって?
答えは、簡単。なかなか決まらなかった第一走者を決めるじゃんけんに負けたからだ。
走るのもあまり得意じゃないみたいだし、なんだか気の毒だよなあと、頭の隅でちょっと哀れんでいると、
「心配すんな、中田くん!」
「そうだぜ? どんな順位で帰ってきても長谷と俺がカバーするし、大智が絶対最後には1位で戻ってくっから」
熱い声をかけながらわらわらと集まってきた、よーく見慣れた顔たち。
「長谷くん、千早くん、ありがとう」
「ま、だから中田は気楽にな」
そう言ってにっと笑って見せた滉大が、ぽんと中田の肩を叩いた。
途端に、なんとなく強ばっていた中田の顔がゆっくりと和らいでいく。
「うん! 俺も俺なりに全力で頑張るよ」
「おう。一緒に頑張ろうな」
──ああ、そういうとこ。
ほんとなんつーか、こいつらしいや。
わかってやってんのかどうだか、そんなのは知らねーが。心の機微を敏感に察して、その人が今一番欲しい言葉を的確に与えてくれる。背中を叩いて『大丈夫』と寄り添ってくれる。
試合中、そうやって肩の荷を半分背負ってくれるお前に、何度だって救われてきた。
そういうお前だから、俺は──。
「なんだよ、大智ー。俺の顔見つめちゃって」
「はっ?」
気がつくと、滉大の口元がにやにやと弧を描いていた。
俺としたことが、知らぬうちに滉大をガン見していたらしい。
「そんなに見つめられると照れんだろ?」
「ばっ……!」
俺は焦ったままに叫んだ。
「気色悪いこと言うんじゃねえよ!」
なんなんだその変な冗談は。お前の顔ならいつも穴が空くほど見てんだろうが。……って、ああもう!
頭の中で素早くツッコんでいると、再びアイツに対するイライラが込み上げてきた。
普段ならこのくらいでイラつくわけないのに、今日は信じられないくらいの短気だ。
「やー、ごめんね中田くん。喧嘩してるように見えるけど、滉大智コンビこれでも超絶仲良しだから」
「……う、うん」
謎に龍馬がフォローを始めたが、そんなの知らねえ。
「別に仲良しなんかじゃねーよ」
苛立ちに任せ、淡々と言い放つ。
「えぇー? 俺は大智と仲良しだと思ってたんだけどなー」
「そりゃ残念でしたー」
「ちょっ、なんだよお前。今日ちょっと冷たくねえ?」
「それはお前が──」
はっと、口を噤んだ。しかし、既に手遅れだったらしく。
「俺が、なんだよ」
形のいい唇をムスッと歪めた滉大に、じいっと顔を覗き込まれる。
「……や、なんでも」
「大智」
「だから、なんでもねーって──」
言い終わる前に、グイッと掴まれた腕。
「ちょっと来て」
気づけば俺は滉大に連れられ、教室の外へ出ていた。
「俺、なんかした?」
開口一番。俺と二人きりになったアイツが放ったのは、そんな一言だった。
目に映るのは、本当になんにもわかってないみたいな、そんな顔。
あー、ムカつく。こっちはお前のせいでモヤってんのに、なんで被害者みてーな顔してんだよ。
カッとなった俺の脳はもう、動く口を止められなかった。
「……からじゃん」
「は?」
「お前が……俺に隠し事すっからじゃん」
「隠し事……?」
「だから、お前が好きなやつ教えないからだって」
ヤケクソに口にした瞬間、滉大の口がぽかんと開かれた。
「……そんなこと?」
「は? そんなことだと?」
拗ねたように反発すると、滉大の瞳が見るからに焦ったように左右に振れた。
「いや、さ。そんな気になる? 俺の好きな人」
「なるよ」
だからこうして悩んでんじゃん。心の中で呟いて、一歩距離を詰める。
くらえ、とっておきの切り札だ。
「教えなきゃ、もうミニトマト食べてやんないからなー」
「は? それはずりーだろ」
「ずるくない。嫌なら教えればいいだけだ!」
「あのなあ……」
「なんだよ」
そうやって悪態をつきながらも、本当はわかっていた。これは、ただの俺のエゴなんだって。
バッテリーだからって、野球に関係ないプライベートなことまで逐一報告する義務はねーもんな。でもさ。
「なんで教えてくんねーの」
「だから、それは」
「俺ら親友じゃん……」
ポツリと落として掴む、目の前のシャツ。
「本当に〝仲良し〟だって思ってんなら、それくらい教えろや……っ」
俺はあの時、滉大に置いていかれたみたいで寂しかったんだよ。
「おい、なんとか言えよ」
半分開いた廊下の窓の隙間から、風の音だけが聞こえる。
二人だけの変な時間。滉大は、黙り込んだままだった。
「あのー、滉大さん?」
とはいえ流石に沈黙が長すぎる。長すぎて、急にさっきの発言が恥ずかしくなってきたくらいだ。
『俺ら親友じゃん』
とかさ。あんなの、黒歴史じゃねーか。
って、あれ……?
何故かバグりだした視界。靄がかかったみたいに、目の前が揺れ始める。
なにこれ。なんで俺、泣きそうになって──。
「わかったよ」
……え?
「……マジ?」
徐に顔を上げる。
「マジ」
「うそ……」
呆ける俺に、滉大が素早く釘を刺す。
「ただし名前以外な。それ以外の情報なら教えてやる」
「うん、それでいい! 全然いい!」
俺は目を輝かせながら、「ありがとー」と滉大に飛びついた。
「じゃあまず……」
こほん。
軽く咳払いをした後、早速本題に取りかかる。
訊きたいことは山ほどあるが……。
「その子って、可愛い?」
まずはこれだよな~と思いながら質問すると、滉大は、は? と露骨に眉を顰めた。
「なにそれ」
「いやーやっぱ一番気になるところじゃん。なぁ、どう思ってんの?」
前のめりになって尋ねてみる。
しかし、
「……そりゃまあ、かわいい、よ」
「ふ、ふーん?」
思わぬ打撃を食らった俺。しかも、今にも瀕死状態。
だって急にこんな甘ったるい空気になるとか聞いてな……っ。
「おい、変な顔すんならもうやめるぞ」
「ご、ごめんって! ちゃんとするから!」
「ったく……」
俺は慌てて背筋を伸ばすと、パシッと顔面を両手で叩いた。
さて、気を取り直して。
「じゃあ、ロングヘアですか? ショートヘアですか?」
「……ショート、かな」
ショートね。
心のノートにばっちりメモし、今度は少し踏み込んだ内容を頭に浮かべてみる。
「その人は、同じクラスにいますか?」
ドキ、ドキ、ドキ。
漂う緊張感の中、ついにその時がやってきた。
「……いる」
「いっ!」
「なんだよ」
「なっ、なんでも」
いるんだ~~~~っ!
叫びたい心を必死に抑え、俺は誤魔化すようににっこりと笑った。
しかしながら、これだけでだいぶ候補が絞れてきた気がする。
同じクラスで、ショートヘアで、可愛い人、だろ? ぱっと思い浮かぶのは、矢代……か?
「出席番号は? 前半後半どっち?」
「後半」
「背は160cm超えてる?」
「超えてる」
やっぱりそうだ。
滉大のやつ、矢代のこと──。
「大智、もう終わりでいい?」
「待って!」
咄嗟に叫ぶとともに、俺は滉大の腕を掴んでいた。
「最後に一つだけ。……その人の、どこが好き?」
自分でもどうしてそんな質問をしたのかわからない。
ただ、口をついて出た言葉だった。
滉大は暫し考える様子を見せてから、ゆっくりと窓の外に目をやった。
「……明るくて、一生懸命で、いつも頑張ってるところ、かな」
「へぇ……」
いつも頑張ってる……か。たしかに矢代のやつ、ティック〇ック頑張ってるもんな。
求めていた答えが、ようやく今判明した。……というのに、心は晴れないままだった。
どうしたんだろう、俺。
あんなに、知りたいと思っていたくせに。
「あとはまあ、馬鹿で鈍感でお人好しで」
──え?
「要領悪いのに諦めが悪くて」
「ちょっ」
いきなり悪口?
段々濃くなる靄の中に、ぽつぽつと落とされた淡々とした声。
意味がわからない。急にどうした。
慌てる俺なんて置いてけぼりで、滉大は喋りを続ける。
「口が悪いけどびっくりするくらい素直で、純粋で、他人思いで」
「……っ」
ごくりと息を呑んだ。
ゆっくりと優しげな笑みに変わっていった、その横顔。なぜかはわからないけれど、そこから目を離すことができない。
「それから……」
きゅっと上がった口角に、ドクンッと身体が跳ねる。
「いつも近くで一番に俺のことを信じてくれる、そんなところ」
「……そっ、か」
滉大の目は、いつの間にかこっちを見ていた。
なんだろう。さっきから、心臓がおかしい。
〝いつも近くで一番に俺のことを信じてくれる〟
そんなのさあ……。
「滉大、あともう一つだけいい?」
「なに?」
「その人は……」
やめろ。そんなこと、訊くな。
頭ではわかってるのに、身体が言うことを聞いてくれない。
俺はこっちを向いたその目をしっかり捕らえた後、赴くままに、こんなありえないことを口にしていた。
「その人は今、目の前にいたり……する?」
同じクラスで髪はショート。
可愛くはないが、出席番号は後半だし身長も160cmを超えてる。
それに──俺は、いつだってコイツの一番近くにいる。
「「……」」
一瞬の間の後、ゆっくりと動きだした唇。
「うん。いるよ」
「……っ」
次の瞬間には、体温が急上昇を始めていた。
「えっと、その……」
ドクン、ドクン。
鳴り止まない鼓動に定まらない視線。
どうすりゃいい?
「おっ、俺、いきなりだから、その」
「なーんてな」
ん?
「それよりさ、俺らそろそろ戻んないとまずくない?」
んんん?
それより? なーんてな?
何言ってんだ、こいつ。
すぐには理解できなかった。程なくして気づいた。
これってもしや──。
「からかったな!」
騙された。考えればすぐにわかることだというのに、俺はまんまとコイツに翻弄されたんだ。
「……もーやだ。俺お前のそういうとこ嫌い」
「なら俺の片想いか」
「だからそーゆーとこだよ」
相変わらずのスカした顔を睨みつける。
「俺の純情を弄びやがって」
「……弄ばれたんだ」
「うっせー。俺はお前と違って、そういう経験ないんだよ」
自分で言っておきながら、なんか悔しい。ムッと感情のままに口を尖らせると突然、教室の方から聞き慣れた叫び声が届いた。
「おーい滉大智ー! 俺を除け者にして、いつまでも二人でイチャついてんじゃねぇぞーー!」
「はは、長谷に怒られちったな」
龍馬を一瞥するや、そうやって悪戯に笑う演技派俳優(仮)、千早滉大。
「行くか大智」
そいつはぽんと俺の肩に手を置いたかと思えば、くるりと背を向けて歩きだした。
……意味わからねぇ。なんなんだよ、ほんと。
湧き上がる衝動に任せ、ぐしゃっと自らの短い髪を片手で握る。
ったく、嘘ならあんな顔すんなよな。
あんな……俺のこと本当に好きって言ってるみたいな、甘い顔。
そのせいで、俺──。
「……本気かと思っただろーが」
「ん?」
「っ、なんでもねぇよ! 行くぞ」
俺は乱雑に返すや否や、混沌とした胸中を隠すように、追い越したそいつの腕を強引に引っ張った。
