──ピピピピ、ピピピピ、ピッ。

「んー……」

 午前5時30分。
 いつものように、規則正しく鳴り響く電子音を手探りで止めたところから、俺──唯川大智の一日は始まる。

「……ふぁ〜」

 まだ眠いが、悠長にしている時間はない。
 一先ずシャッとカーテンを開け、半分ほどしか開いてない目を擦りながら、次はスウェットを制服に着替えて、そんで次はパンパンに詰まった鞄を肩に抱える。

 因みに、時間割は前日の夜にちゃんと合わせておくのが俺のお決まりルーティンだ。忙しい朝にバタバタと準備するより、忘れ物の心配は少ないからな。
 そういうわけで──ん?
 ふと、脳裏に嫌な予感が過った。

 ──昨日俺、時間割合わせたっけ……?

 恐怖に苛まれながら鞄を床に下ろす。おそるおそるチャックを開けると、

「マジかよ……」

 予感、大的中だった。





 人生において厄日というものが本当にあるのだとしたら、間違いなくそれは今日に当たるだろう。

 今朝のルーティンど忘れ事件は、ただの序章に過ぎなかった。弁当を忘れそうになるわ、なんでもないところで躓くわ、本日の滑り出し絶不調。
 そんな中、せめて遅刻だけは避けたいと必死で学校まで走った。なんせ俺は3年で副部長。先輩の威厳は何がなんでも死守しなきゃならない。
『先輩だってこの前遅刻してたくせに』なんて、言わせてたまるもんか。

 と、そんなこんなで息も絶え絶え、なんとか朝練開始10分前に部室に辿り着けたのは良かったんだが……。

「ちょっ、ぷっ。大智先輩、大丈夫っすか」
「うっせぇ、テメー笑うな!」

 ユニフォームの袖から頭を出しそうになったところを、たった今後輩の伊東に目撃されてしまった。

「つか伊東、なんでいんだよ」
「ああ、ちょっとタオル忘れて取りに来たんすよ」
「タオルぅ?」

 あーもう、最悪すぎる。

「いやー、先輩も可愛いとこあるんすね」
「……は?」
「あ、そだ。おはざっす!」
「…………はよ」

 グッバイ、俺の先輩の威厳。
 ガクッと落とした肩に、すかさず伊東が手を乗せる。

「因みに先輩、今日は気をつけてくださいよ〜」
「あ?」
「今日の獅子座最下位だったので」

 どうやら俺は占いにまで見放されたらしい。
 というか伊東、俺のは見なくていいんだよ。


「よお、大智。遅かったじゃん」

 グラウンドに出てすぐだった。
 俺に気づいたそいつはストレッチの動きを止め、こっちへゆっくりと歩み寄ってきた。

「……まーね」
「なに? んな暗い顔して、どうかした?」
「獅子座が最下位なんだとよ」
「ふーん」

 なにが〝ふーん〟だ。いつも通りの涼しい顔してよぉ。こっちは災難続きで果てしなく鬱だってのに。牡羊座が最下位の時、絶対慰めてやんねーからな。

「……って、なに笑ってんだよ?」

 気づけばこの男、いつの間にか顔を隠しながらくつくつと喉を鳴らしている。

「や……大智、占い好きだなあって」
「はあ?」

 俺の眉間には今、深い皺がぎゅーっとできているだろう。

「そこまで笑うことか?」
「っ、悪い悪い。……でも。そんな理由でよかった」
「……え?」

 瞬間、ぽすっと頭に乗せられた大きな手。

「悪い結果なんて気にする必要ねぇよ。都合のいい占いだけ信じてれば楽だぜ」
「……んなの、わかってるって」
「なら、元気出せよ。お前が元気ないと、俺まで調子狂うし」
「……っ」

 なんなんだよ、急に。
 大事なこと黙ってたくせに、教えてもくれないくせに。そうやって優しくはすんのかよ。

「ったく、誰のせいで……」
「ん? なんか言った?」
「別に? ただの独り言」

 なんだか無性にムッとした俺は、言葉とは裏腹に心底恨みがましい声で返してやった。

〝誰のせいで〟

 ──そう。自分がおかしくなってる理由なんて、考えなくても最初からわかっているんだ。
 昨日時間割を合わせ忘れたのも、弁当を忘れそうになったのも、躓いたのも、袖に頭通しちまったのも、全部。

『いるよ、好きな人』

 コイツが……滉大が昨日、あんなことを言ったから──。


『『えぇーっ!?』』

 悲鳴のような大声が一斉に部室中に響き渡った。

『誰誰!? 待って、初耳なんすけど!?』
『……まー、言ったことねぇし』
『ちょ、ね? 誰にも言わないからさぁ? 教えてくれよー』
『僕も聞きたい! お願い千早くん』
『なんだよ山本まで。悪いけど、お前らには絶対言わない』
『『意地悪ぅ〜』』

 そうやって龍馬ともっさんが好奇心剥き出しに食いつく中、俺はただ一人呆然と立ち尽くしていた。
 身体にぽっかりと大きな穴が空いたような、サーッと血の気が引いていくような、そんな変な感覚がして。まるで目眩がしたみたいに動けなかった。

 だってそれは俺にとって信じ難い、信じたくもない、青天の霹靂だったんだ。

 恋愛なんて興味ねーんじゃねぇの? 好きな人? いやいや、そんな奴いつからいたんだ。
 ずっとアイツは、俺と同じだと思ってた。野球が一番で、野球のことしか考えてなくて。
 なのに──。

『つーか滉大、なんだよお前! バッテリーの俺にも言わねぇとか、つれなくねぇ?』

 気づけば口が動いていた。いつもよりも数倍高いテンションで、どういうわけかそんな言葉を発していた。

『……うぐっ、ちょ、離せ大智。首締まってるって』
『俺に隠し事してるお前が悪いんじゃん』
『っ、そりゃ悪かったよ』

 悪かった?

『そう思ってるならさっさと白状しろ』
『だから、それは絶対無理だって』
『はあ!?』
『誰にも……本人にも言わないって決めてるから』

 ドクン、と胸が騒いだ。
 捉えたアイツの瞳が妙に真っ直ぐで、それ以上、言葉を紡ぐことができなかった。

 ……っと、意味わかんねぇ。
 なんなんだよ、これ。
 今でも網膜に焼き付いて離れない、見たことのない顔。思い出す度に軋む、胸の奥。

「なんで……」

 ──なんで俺がこんな気持ちになんなきゃいけねーんだよ。





 俺が滉大と出会ったのは、忘れもしない中1の春。
 今日みたいな、雲一つない晴天の日だった──。


『『よろしくお願いします!』』

 腹の底から雄叫びのような声を上げたのは、まだ少し真新しいユニフォームに身を包んだ、数十名の選手たち。所謂新入生だけの交流試合という場で、俺は滉大に敵チームとして出会った。

 南中1年チーム主将の俺と、西中1年チーム主将の滉大。対峙した瞬間、予感する。

 ──この試合、絶対ぇおもしろくなる。

『プレイボール!』

 審判の合図とともに、白熱した試合が始まった。
 互いに譲らぬ攻防戦。中でも滉大は、キャッチャーとして一際目立つ存在感があった。

『なぁあのキャッチャー、めちゃくちゃ強肩(きょうけん)じゃね?』

 見事なスローイングで阻止される盗塁。的確なサインに、立ち居振る舞いから読み取れる、圧倒的な自信。
 滉大のここぞという時の駆け引きは、敵ながら天晴れなものだった。


『『ありがとうございました!』』
 
 結果、チームは惜しくも敗れた。
 延長戦までもつれ込んだ最後、滉大にホームランを決められてしまったのだ。
 悔しかった。もう少しで勝てたのに……。

 けれどそんな後悔の念とは別に、その時俺の中で相反する感情が蠢き暴れていた。

 ──世の中にはこんなすごいやつがいんの?
 ──まだまだ俺も、強くなりたい。

 身震いした。ぞくぞくとやる気がみなぎる、不思議な感覚。俺自身、こんなにもワクワクとした試合は初めてだった。
 だからきっと、こんな感情が芽生えたんだ。

 ──あんなやつと一緒にプレーできたら、絶対ぇ楽しいだろうな。

 この日から、より一層練習に力を入れるようになった。
 部活はもちろん、自宅に帰ってからも、休みの日も。
 そうしている間に時は流れ──俺は、高校生になった。

『『あ』』

 登校初日。靴箱で前触れもなくぶつかった視線に重なった声。

『あれ、西中の千早くんじゃん!』

 すぐにわかった。
 結局あの試合から一度も滉大と再戦することはなく……といっても、大会で見かけたことくらいはあったが。実質これが、俺と滉大の初めての再会だったというのにな。

『あんたはたしか……』
『俺は唯川大智。大智でいいよ。つーか、同じ高校だったんだなぁ!』

 俺は運命なんてロマンチックなものは一切信じない。
 でもこの時ばかりは本当に運命なんじゃないかって、柄にもなくそう思った。
 同じ学校で、ましてやクラスも3年間同じとか。そんな偶然、奇跡以外に考えられる?

 暫くして、入部希望用紙に野球部と記し、今度は滉大と同じチームの一員になった。
 そんな俺たちがバッテリーを組むのは、すぐのことだった。
 
 ──スパーン。

 初めてアイツのミットを鳴らした音を、俺は今でも鮮明に覚えている。
 18.44m先。吸い込まれるように中心に届いた球。快感、興奮、衝撃。なんとも言えない感動が全身を駆け巡り、脳を刺激した。
 
『なあ滉大。俺さ、お前と甲子園行きたいんだよね』
『んなの、当然だろ? 行こうぜ、甲子園』

 俺たちは野球を通して少しずつ仲を深めていった。
 クールで何でもできると思っていた滉大は、実はちょっと不器用で、見かけよりも遥かに情に厚いやつだった。

 やがて迎えた高校初めての夏。滉大と共に控え選手としてベンチ入りした、甲子園への予選大会。
 予期せず起きたある事件を皮切りに、俺と滉大の関係が一気に変化することとなる──。

『うっ……あ……』
『誰か、担架持ってきて!』

 順調に決勝へと駒を進めていた矢先のことだ。当時3年で先発投手(エース)だった渡辺(わたなべ)先輩が、試合中に肩を負傷しプレー続行不可となった。

〝今年は優勝間違いなしだな!〟
 
 渡辺先輩がいるから、みんなが安心して試合に臨めた。渡辺先輩がいるから、甲子園出場確実だって誰もが疑わなかった。
 それほどまでに圧倒的信頼感を得ていたエースの故障。

 夢が、砕け散った瞬間だった。
 刹那にして漂う敗戦ムード。そんな中、1年の俺になにができる……?

『『監督!』』

 どうやら、俺は独りじゃなかったらしい。

『千早に唯川、揃ってなんの用だ?』

 俺は図らずとも〝そいつ〟と目線を合わせ、動くままに口角を上げた。

『あのっ』

 たった数秒、眼を見ただけでわかった。
 
 ──ああ俺たち今。

『『俺たちを試合に出させてください!』』

 ──おんなじこと、考えてる。


 結果、準決勝敗退というところで初めての夏は幕を下ろした。
 悔しくて、不甲斐なくて、涙が止まらなかった。それだけ、本気の心で挑んでいたからだ。
 だからこそ俺たちは、悔しさをバネに誓ったんだ。
『甲子園に行くまでは、野球のことだけ考えようぜ』
 と。
『んでもって絶対、優勝しような』
 と。

 俺は今までその約束を守ってきた。大切にしてきた。なのに……。

「それなのによォーーーーッ!」

 カキーン!

 勢いよく振ったバット。それのど真ん中にボールが当たり、場外ホームランとなった。

「うおー、大智やべーー!」

 近くで見ていた龍馬たちが、パチパチと拍手をする。

「へっ。こんなもんよ」

 まあ、まぐれだけど。





「ねぇ唯川くん」

 教室に入り、重たい荷物を机に下ろした時だった。
 突然耳に届いた高い声に、ん? と顔を向ける。

「……どうかした?」

 最初に目に入ったのは、ボブカットの矢代だった。それから少し後ろに目をやれば、彼女といつもつるんでいるポニーテールの女子──横田(よこた)の姿もある。

「あ、えっとね。唯川くんはさ、何の種目に出るかもう決めた?」
「あー」

 種目……そう言えばそうか。
 今矢代に言われて思い出したが、今日の1時間目は、あと2週間ちょっと後に控えた体育祭の種目決めをするんだった。

 よく見ると、黒板には種目名がずらりと並んでいる。体育委員のやつが授業開始に間に合うよう、前もって書いておいたんだろう。

「まだ決めてねーや」
「そっかー」
「で? 矢代と横田は決めてんの?」
「んー、私たちはどうしようかなって」
「「……ねえ」」

 …………はーん。なるほど? なんか二人して妙にソワソワしてんなと思ったら、そういうことね。
 これは滉大(アイツ)に一番近い俺に探りを入れて、あわよくば同じ競技に出られたらいいなーっていうアレってわけだ。

 んなまどろっこしいことせず、本人に直接聞きゃあいいのに。
 そう思いチラッと視線を動かすと、ちょうど前の席の男と話すアイツの横顔が目に入った。それも、憎たらしいほど楽しそうに笑っている。

 ……あー、なんかアイツの顔見てるとまたムカムカしてきた。

「唯川くん?」
「へっ」

 矢代の不思議そうな目と目が合い、瞬時に目を覚ます。
 ああーー、ダメだダメだ。落ち着け俺。深呼吸。

「大丈夫……?」
「ああ、なんとも。それより二人とも(わり)ぃな。俺も滉大が何に出るのか知らねーんだよ」
「えっ! や別に、そんなっ!」
「えっと、私はその……」
「いーって、いーって。なんなら、聞いてきてやろうか?」

 直接聞くのが恥ずかしいとかいうんなら、代わりに俺が。と思って提案したつもりだったんだが。

「ううん、大丈夫。ありがとう唯川くん。行こ、りりちゃん」
「うんっ」

 なんだよ、遠慮しなくていいのに。
 逃げるように立ち去った二人に、俺はうーんと唸りながら首を捻った。

 知りたいのか、知りたくないのか。女子ってやっぱ、よくわからねえや。





 話し合いの結果、俺はイツメン2人と一緒に4人一チームの〝スウェーデンリレー〟に出ることに決まった。いや、決まってしまった、と言った方が正しいかもしれない。
 龍馬のやつが勝手に俺と滉大の名前を出して、流れのままに黒板に苗字を刻まれていたのが、事のあらましだ。

 スウェーデンリレーとは、100、200、300と順に走る距離が増えていくリレー競技なんだが、その中で俺はアンカーを任され400mを走る。
『お願い大智くん……♡』と超うるっうるの4つの瞳に見つめられたら、誰だって承諾せざるを得ないだろ?

 ……とまあ、半分押し付けられたみたいで多少は不服な気もするが、走るのはもとより得意でね。スタミナと脚にはちょっと自信があるもんだから、正直嫌ではなかったりするのが本音だ。
 ほんとに嫌なら、そもそも全力で拒否ってるしな。

 そんなこんなで迎えた、休み時間。
 まずはと向かったのは、先程俺らイツメンと共にスウェーデンリレーに出る運命になった、背の高いひょろっとした男の席だった。

「よう、中田(なかた)
「ゆ、唯川くん……」
「これから、リレーの練習とかよろしくな」

 俺は軽く挨拶を済ませたのち、中田の目の前に右手を差し出した。
 同じチームたるもの、親睦を深めておきたいところじゃん?
 そんな想いを胸に笑顔を向けると、すぐに「こちらこそ……!」と握手で応えてくれた。

 中田は普段、吹奏楽部でトランペットを吹いているらしい。思いっきり文化部の彼がなんでリレーなんかに出るのかって? 
 答えは、簡単。なかなか決まらなかった第一走者(あと一人)を決めるじゃんけんに負けたからだ。

 走るのもあまり得意じゃないみたいだし、なんだか気の毒だよなあと、頭の隅でちょっと哀れんでいると、

「心配すんな、中田くん!」
「そうだぜ? どんな順位で帰ってきても長谷と俺がカバーするし、大智が絶対最後には1位で戻ってくっから」

 熱い声をかけながらわらわらと集まってきた、よーく見慣れた顔たち。

「長谷くん、千早くん、ありがとう」
「ま、だから中田は気楽にな」

 そう言ってにっと笑って見せた滉大が、ぽんと中田の肩を叩いた。
 途端に、なんとなく強ばっていた中田の顔がゆっくりと和らいでいく。

「うん! 俺も俺なりに全力で頑張るよ」
「おう。一緒に頑張ろうな」

 ──ああ、そういうとこ。
 ほんとなんつーか、こいつらしいや。

 わかってやってんのかどうだか、そんなのは知らねーが。心の機微を敏感に察して、その人が今一番欲しい言葉を的確に与えてくれる。背中を叩いて『大丈夫』と寄り添ってくれる。

 試合中、そうやって肩の荷を半分背負ってくれるお前に、何度だって救われてきた。

 そういうお前だから、俺は──。

「なんだよ、大智ー。俺の顔見つめちゃって」
「はっ?」

 気がつくと、滉大の口元がにやにやと弧を描いていた。
 俺としたことが、知らぬうちに滉大をガン見していたらしい。

「そんなに見つめられると照れんだろ?」
「ばっ……!」

 俺は焦ったままに叫んだ。

「気色悪いこと言うんじゃねえよ!」

 なんなんだその変な冗談は。お前の顔ならいつも穴が空くほど見てんだろうが。……って、ああもう!
 頭の中で素早くツッコんでいると、再びアイツに対するイライラが込み上げてきた。
 普段ならこのくらいでイラつくわけないのに、今日は信じられないくらいの短気だ。

「やー、ごめんね中田くん。喧嘩してるように見えるけど、滉大智コンビこれでも超絶仲良しだから」
「……う、うん」

 謎に龍馬がフォローを始めたが、そんなの知らねえ。

「別に仲良しなんかじゃねーよ」

 苛立ちに任せ、淡々と言い放つ。

「えぇー? 俺は大智と仲良しだと思ってたんだけどなー」
「そりゃ残念でしたー」
「ちょっ、なんだよお前。今日ちょっと冷たくねえ?」
「それはお前が──」

 はっと、口を噤んだ。しかし、既に手遅れだったらしく。

「俺が、なんだよ」

 形のいい唇をムスッと歪めた滉大に、じいっと顔を覗き込まれる。

「……や、なんでも」
「大智」
「だから、なんでもねーって──」

 言い終わる前に、グイッと掴まれた腕。

「ちょっと来て」

 気づけば俺は滉大に連れられ、教室の外へ出ていた。


「俺、なんかした?」

 開口一番。俺と二人きりになったアイツが放ったのは、そんな一言だった。
 目に映るのは、本当になんにもわかってないみたいな、そんな顔。
 あー、ムカつく。こっちはお前のせいでモヤってんのに、なんで被害者みてーな顔してんだよ。

 カッとなった俺の脳はもう、動く口を止められなかった。

「……からじゃん」
「は?」
「お前が……俺に隠し事すっからじゃん」
「隠し事……?」
「だから、お前が好きなやつ教えないからだって」

 ヤケクソに口にした瞬間、滉大の口がぽかんと開かれた。

「……そんなこと?」
「は? そんなことだと?」

 拗ねたように反発すると、滉大の瞳が見るからに焦ったように左右に振れた。

「いや、さ。そんな気になる? 俺の好きな人」
「なるよ」

 だからこうして悩んでんじゃん。心の中で呟いて、一歩距離を詰める。
 くらえ、とっておきの切り札だ。

「教えなきゃ、もうミニトマト食べてやんないからなー」
「は? それはずりーだろ」
「ずるくない。嫌なら教えればいいだけだ!」
「あのなあ……」
「なんだよ」

 そうやって悪態をつきながらも、本当はわかっていた。これは、ただの俺のエゴなんだって。
 バッテリーだからって、野球に関係ないプライベートなことまで逐一報告する義務はねーもんな。でもさ。

「なんで教えてくんねーの」
「だから、それは」
「俺ら親友じゃん……」

 ポツリと落として掴む、目の前のシャツ。

「本当に〝仲良し〟だって思ってんなら、それくらい教えろや……っ」

 俺はあの時、滉大(お前)に置いていかれたみたいで寂しかったんだよ。

「おい、なんとか言えよ」

 半分開いた廊下の窓の隙間から、風の音だけが聞こえる。
 二人だけの変な時間。滉大は、黙り込んだままだった。

「あのー、滉大さん?」

 とはいえ流石に沈黙が長すぎる。長すぎて、急にさっきの発言が恥ずかしくなってきたくらいだ。

『俺ら親友じゃん』

 とかさ。あんなの、黒歴史じゃねーか。

 って、あれ……?
 何故かバグりだした視界。靄がかかったみたいに、目の前が揺れ始める。
 なにこれ。なんで俺、泣きそうになって──。

「わかったよ」

 ……え?

「……マジ?」

 徐に顔を上げる。

「マジ」
「うそ……」

 呆ける俺に、滉大が素早く釘を刺す。

「ただし名前以外な。それ以外の情報なら教えてやる」
「うん、それでいい! 全然いい!」

 俺は目を輝かせながら、「ありがとー」と滉大に飛びついた。


「じゃあまず……」

 こほん。
 軽く咳払いをした(のち)、早速本題に取りかかる。
 訊きたいことは山ほどあるが……。

「その子って、可愛い?」

 まずはこれだよな~と思いながら質問すると、滉大は、は? と露骨に眉を顰めた。

「なにそれ」
「いやーやっぱ一番気になるところじゃん。なぁ、どう思ってんの?」

 前のめりになって尋ねてみる。
 しかし、

「……そりゃまあ、かわいい、よ」
「ふ、ふーん?」

 思わぬ打撃を食らった俺。しかも、今にも瀕死状態。
 だって急にこんな甘ったるい空気になるとか聞いてな……っ。
 
「おい、変な顔すんならもうやめるぞ」
「ご、ごめんって! ちゃんとするから!」
「ったく……」

 俺は慌てて背筋を伸ばすと、パシッと顔面を両手で叩いた。
 さて、気を取り直して。

「じゃあ、ロングヘアですか? ショートヘアですか?」
「……ショート、かな」

 ショートね。
 心のノートにばっちりメモし、今度は少し踏み込んだ内容を頭に浮かべてみる。

「その人は、同じクラスにいますか?」

 ドキ、ドキ、ドキ。
 漂う緊張感の中、ついにその時がやってきた。

「……いる」
「いっ!」
「なんだよ」
「なっ、なんでも」

 いるんだ~~~~っ!
 叫びたい心を必死に抑え、俺は誤魔化すようににっこりと笑った。

 しかしながら、これだけでだいぶ候補が絞れてきた気がする。
 同じクラスで、ショートヘアで、可愛い人、だろ? ぱっと思い浮かぶのは、矢代……か?

「出席番号は? 前半後半どっち?」
「後半」
「背は160cm超えてる?」
「超えてる」

 やっぱりそうだ。
 滉大のやつ、矢代のこと──。

「大智、もう終わりでいい?」
「待って!」

 咄嗟に叫ぶとともに、俺は滉大の腕を掴んでいた。

「最後に一つだけ。……その人の、どこが好き?」

 自分でもどうしてそんな質問をしたのかわからない。
 ただ、口をついて出た言葉だった。
 滉大は暫し考える様子を見せてから、ゆっくりと窓の外に目をやった。

「……明るくて、一生懸命で、いつも頑張ってるところ、かな」
「へぇ……」

 いつも頑張ってる……か。たしかに矢代のやつ、ティック〇ック頑張ってるもんな。

 求めていた答えが、ようやく今判明した。……というのに、心は晴れないままだった。
 どうしたんだろう、俺。
 あんなに、知りたいと思っていたくせに。

「あとはまあ、馬鹿で鈍感でお人好しで」

 ──え?
 
「要領悪いのに諦めが悪くて」
「ちょっ」

 いきなり悪口?
 段々濃くなる靄の中に、ぽつぽつと落とされた淡々とした声。
 意味がわからない。急にどうした。
 慌てる俺なんて置いてけぼりで、滉大は喋りを続ける。

「口が悪いけどびっくりするくらい素直で、純粋で、他人思いで」
「……っ」

 ごくりと息を呑んだ。
 ゆっくりと優しげな笑みに変わっていった、その横顔。なぜかはわからないけれど、そこから目を離すことができない。

「それから……」

 きゅっと上がった口角に、ドクンッと身体が跳ねる。

「いつも近くで一番に俺のことを信じてくれる、そんなところ」
「……そっ、か」

 滉大の目は、いつの間にかこっちを見ていた。

 なんだろう。さっきから、心臓がおかしい。
〝いつも近くで一番に俺のことを信じてくれる〟
 そんなのさあ……。

「滉大、あともう一つだけいい?」
「なに?」
「その人は……」

 やめろ。そんなこと、訊くな。
 頭ではわかってるのに、身体が言うことを聞いてくれない。
 俺はこっちを向いたその目をしっかり捕らえた後、赴くままに、こんなありえないことを口にしていた。
 
「その人は今、目の前にいたり……する?」

 同じクラスで髪はショート。
 可愛くはないが、出席番号は後半だし身長も160cmを超えてる。
 それに──俺は、いつだってコイツの一番近くにいる。

「「……」」

 一瞬の間の後、ゆっくりと動きだした唇。

「うん。いるよ」
「……っ」

 次の瞬間には、体温が急上昇を始めていた。
 
「えっと、その……」

 ドクン、ドクン。
 鳴り止まない鼓動に定まらない視線。 
 どうすりゃいい?

「おっ、俺、いきなりだから、その」
「なーんてな」

 ん?

「それよりさ、俺らそろそろ戻んないとまずくない?」

 んんん? 
 それより? なーんてな?
 何言ってんだ、こいつ。

 すぐには理解できなかった。程なくして気づいた。
 これってもしや──。

「からかったな!」

 騙された。考えればすぐにわかることだというのに、俺はまんまとコイツに翻弄されたんだ。

「……もーやだ。俺お前のそういうとこ嫌い」
「なら俺の片想いか」
「だからそーゆーとこだよ」
 
 相変わらずのスカした顔を睨みつける。

「俺の純情を弄びやがって」
「……弄ばれたんだ」
「うっせー。俺はお前と違って、そういう経験ないんだよ」

 自分で言っておきながら、なんか悔しい。ムッと感情のままに口を尖らせると突然、教室の方から聞き慣れた叫び声が届いた。

「おーい滉大智ー! 俺を除け者にして、いつまでも二人でイチャついてんじゃねぇぞーー!」
「はは、長谷に怒られちったな」

 龍馬を一瞥するや、そうやって悪戯に笑う演技派俳優(仮)、千早滉大。

「行くか大智」

 そいつはぽんと俺の肩に手を置いたかと思えば、くるりと背を向けて歩きだした。

 ……意味わからねぇ。なんなんだよ、ほんと。
 湧き上がる衝動に任せ、ぐしゃっと自らの短い髪を片手で握る。

 ったく、嘘ならあんな顔すんなよな。
 あんな……俺のこと本当に好きって言ってるみたいな、甘い顔。
 そのせいで、俺──。

「……本気かと思っただろーが」

「ん?」
「っ、なんでもねぇよ! 行くぞ」

 俺は乱雑に返すや否や、混沌とした胸中を隠すように、追い越したそいつの腕を強引に引っ張った。