アイツのことは、なんでも知ってると思ってた。

 慣れ親しんだ野球部の部室。いつもと変わらない、疲労と充実感が入り混じった部活終わりのその空間に、

「いるよ、好きな人」

 そんな一言が浮かんだ、あの時までは──。





大智(だいち)、これやる」

 昼休み。
 こうやって弁当を差し出されるのは、何十回目……いや、何百回目のことだろう。

「〝やる〟じゃなくて、〝食べてくれ〟だろー?」

 俺はこれみよがしに目を細め、左隣の男を睨みつける。
 千早(ちはや)滉大(こうだい)。スカした顔で話しかけてきたそいつは、どうもミニトマトが苦手らしい。

「なんだよ、昨日は喜んで食べてくれたのに」
「なんだよ、はこっちの台詞な」

 と言いつつ箸を伸ばしてしまうのは、自分が言い出しっぺという自覚があるからかもしれない。

 約2年前の春。苦渋に満ちた顔でミニトマトと睨めっこしていた滉大に『食べようか?』と言い出したのは、まさにこの俺なのだ。
 その時はまさか、毎日食べることになるとは思わなかったんだけど……。

「ほらよ」

 ひょい、と黒い弁当箱から真っ赤なそれを持ち上げると、満足気な顔をした滉大と目が合った。

「ありがと」

 オシャレに跳ねた焦げ茶色の髪は襟足のみ短く、前髪は目にかかるくらいに長い。そこから覗く目はパッチリとした二重で、太めの凛々しい眉がクールな顔立ちを際立たせている。

 相変わらず整ってんなーなんて思いながら、俺はミニトマトを口の中へ放り込んだ。
 弾ける酸味と甘み。……うん、美味しい。

「……なんか嬉しそうにしてんね」
「ん?」

 気づけば紙パックジュースのストローを噛むように咥えた滉大が、怪訝そうにこっちを見ている。
 俺は卵焼きに伸ばしかけた手を止め、チャンスとばかりに口角を上げた。
 
「いやーだって可愛いじゃん。ミニトマトが食べらんねえとかさ」
「……うるせー」
「照れんなって」

 フイとむこうを向いた肩をにやにやと小突く。
 滉大は拗ねた顔してるけどさ? 顔よし頭よし運動神経よし。学校一のモテ王子の弱点がミニトマトとか、親近感湧くしかねーじゃん……って!

「それ、新作ジュースじゃん」

 俺の目は、一瞬にして滉大の手元に釘付けになった。
 有名ドリンク店とコラボした、ピーチティー。最近出たばかりの期間限定商品で、実は前から気になっていたんだ。

「いいなー。なあ、俺にもひと口ちょうだい?」
「あー……ちょっとなら、まあ」
「いいの? やりー」

 向けられた紙パックを遠慮なく受け取り、ストローを吸ってみる。

「これ、めっちゃうまっ!」
「……ならもっと飲む?」
「ううん、サンキュー滉大。今度俺も買おー」

 そう言ってジュースを返したその時、正面の黒髪センターパートの男が慣れたように俺たちを覗き込んだ。

「相変わらず仲がよろしいですね〜滉大智(こーだいち)さんはよお」

 長谷(はせ)龍馬(りゅうま)──黒縁メガネがトレードマークの、俺と滉大のイツメンだ。

 俺たち3人は、同じ都立(とりつ)松璃華(まつりか)高校の野球部に所属している。
 早いもんで、部活仲間になって丸2年と少し。ともなれば、自然と気づくことも多くなる。

「そういう龍馬こそ、相変わらずその呼び方好きだよな」

 龍馬はどうも、俺と滉大のバッテリーコンビをセットで扱うのが好きらしい、とかな。

「バレた?」
「そりゃバレるだろ」

 やっぱりなと思う俺の耳に、ケラケラと楽しそうな声が響く。

「いやー、なんか監督の真似してたら愛着湧いちゃってさー」

 監督とは、野球部の鬼監督で有名な前島(まえしま)監督のことだ。

『お前らバッテリー、別々に呼ぶの面倒くさいから、今日から滉大智な』

 2年の終わり頃、そんな前島監督の一言から生まれた〝滉大智〟は、龍馬の影響か今や部活を超え、クラスにまで浸透している。
 まあ、〝千早と唯川(ゆいかわ)〟って呼ぶよりは確かに効率的っちゃ効率的だけどさ。なんていうか……。

「へぇ、大智は俺とそう呼ばれるの嫌なんだ?」
「……っや、別にそういうわけじゃないけど……」
「けど?」

 正直、どこかの漫才コンビみたいで恥ずかしい気持ちはあります。……とは流石に言えない。
 ひとまず「まだ慣れねえんだよ」と滉大に返した俺は、さっき食べ損ねた卵焼きを口に運んだ。





「……ったく、どこ行ったんだよ」

 放課後になり、生徒たちがそれぞれに動きだす。部活動に向かったり、友達と喋ったり、日直の仕事をしたり。
 掃除当番だった俺は、役目を終えてから部活に向かう……はずだったんだけどなあ。

 教室で待っているはずの滉大の姿がどこにも見当たらない。かれこれここにきて10分になるというのに、だ。
 もう諦めてグラウンドへ向かおうか──そんな考えが頭に過った時。

「大智」

 後ろから名前を呼ばれ、振り返った。

「滉大、お前なにしてたんだよ」
「や、わりー。ちょっと急用で」

 急用? と自分より背の高い滉大を見上げて首を捻ったのも、一瞬だった。
 ああ、なるほど──5秒も経たずして〝それ〟に辿り着いた己の脳がなんとも憎らしい。

「ん、じゃあ行くぞ」

 短く言い切ると同時に、俺は止めていた足を再び動かし始めた。
 それから程なくして辿り着いた、靴箱前。

「……で? また告白でもされてたの?」

 俺がなんの脈絡もなくぽつりと発した質問に、平行二重のキリッとした目が漫画みたいに丸くなった。

「なんだ、知ってたのかよ」
「まさか」
「は?」
「……フッ。滉大くん、俺の灰色の脳細胞を舐めてもらっちゃ困りますよ」

 そう言って俺は、見えない口髭をそろりと指でなぞった。

「なんだそれ、某外国の名探偵のつもり?」
「おー正解。結構似てただろ?」
「ぜんっぜん」
「はー? ならお前がやってみろよ」

 言いながら、ケタケタと笑う。

「や、俺は遠慮しとく」
「ちぇっ、ノリ悪ぃなー」
「俺は真面目なんですぅー」
「どこがだよ」

 食い気味にツッコみを入れると、空に「ふはっ」と滉大の笑い声が響いた。
 おかしそうに顔をくしゃっとさせて、小刻みに肩を震わせている。

 ──やっぱり、笑ってるほうがいいな。
 俺はアイツにバレないように、こっそりと微笑んだ。

 滉大は告白されたあと必ず、決まってどこか上の空みたいになる。
 多分、自分では気づいていないんだろうけど、俺にはそれがなんとなくわかるんだ。

 モテるやつにしかわからない悩みでもあるんだろうか──。
 いずれにせよ、生まれてこの方告白なんてされたことのない俺にとっちゃ羨ましくて堪らない話なんだけどな。
 ……つっても、今俺が死ぬほど欲しいのは、彼女なんかよりも断然、甲子園へ切符の方だけど。

 つーかこいつ、マジでまつ毛長ぇ。

「ん、何?」
「……別に。お前、絶対ぇまつ毛美容液いらねーよなって」
「は? なんだそれ」
「お前の姉ちゃん使ってねーの?」

 そうやって他愛のないやり取りをしているうちに、気づけばもう部室前だった。


「滉大智せんぱーい!」

 ドアノブに手をかけたその時、ふとハツラツな声に呼ばれて振り返る。
 声の主は、ユニフォーム姿でぶんぶんと大きく腕を振り、こっちへ駆けてきた。

「うっす! 今日もお二人仲良くお出ましですね」
「よお、伊東(いとう)

 隣で滉大が爽やかに手を挙げる。
 一方俺はというと、対照的にムッと眉間に皺を寄せた。

「お出ましってなんだよ。つーか、先輩まとめて呼ぶんじゃねーよ」

 そうやって放った言葉が意味をなさないのは、重々承知だった。だけど言わなきゃ気が済まない、というそれだった。
 案の定〝伊東〟は、1mmも堪えてない様子でヘラヘラ笑う。

「えぇー、いいじゃないっすかぁ〜!」

 元気が人の形をして存在してるみたいなこの男は、一つ下の後輩だ。
 人懐っこく、パーソナルスペースが激狭。天性の愛嬌のおかげで先輩からは可愛がられ、ついこの間入ったばかりの後輩には、光の速さでもう懐かれているらしい。
 かくいう俺も、伊東の小悪魔パワーにまんまとやられた一人だったりする。

「そうだ、大智先輩! 今日は俺に球受けさせてくださいよ」
「んっ?」

 突如ガシッと腕を掴まれたかと思えば、眩しいくらいにキラキラとした大きな瞳がじぃっとこっちを見ていた。
 普段、179cmの滉大と177cmの龍馬──デカイやつとつるんでいるせいか、172cmの俺は見上げることの方が多い。だけど伊東は俺より随分と小柄だ。慣れない上目遣いで見つめられるのは、どうにも弱い。

「あー……」
「お願いします!」

 どうしようかと返事を渋っていると、伊東はパチンと懇願するように両手を合わせた。
 そういや最近、こいつと組んでなかったもんな……。

「そうだな、たまには──」
「だーめ」
「「っ!?」」

大智(こいつ)は俺の専属投手なんで」

 ドクン、と心臓が大きく鳴った。
 俺の首元には滉大の腕が回っていて、後ろから抱きしめるみたいに体重をかけられている。

「ケチー!」
「ケチじゃないのー」
「1回だけ! ね、1回だけでいいっすからー」

 ……やっべぇ。
 ぎゃーぎゃーと滉大に噛み付く伊東を横目に、俺は緩やかに上がる口角を大いに自覚した。

〝俺の専属〟

 ああ言われて喜ばないわけがない。
 投手で副部長の俺と、捕手で主将の滉大。お互い憎まれ口を叩きながらも、俺らの関係は深く固い信頼で出来てるんだ。

 1年でバッテリーを組んでからずっと。
 お互いがお互いの一番で、お互いがお互いを誰よりも理解している。当然、目を合わせればすぐそれだけでなんだってわかる。

 言うなれば、最強の相棒。……だよな?

「悪いな伊東。そういうわけだ」
「えぇー、大智先輩までぇ」

 俺は泣きついてくる伊東をひらりと躱し、「またいつかな」と口パクだけして部室へと入っていった。





「……なんだあれ」

 翌日。朝練を終え、3年1組の教室に入って早々のことだった。
 思わず呟いてしまったのは、目の前に妙な光景が広がっていたせいである。
 妙な光景──とある一席の周りにできた、得体の知れない人だかり。わいわいがやがやと騒がしいあれは一体、なんなんだ。

双葉(ふたば)ちゃん昨日見たよー!」
「すごいバズってたよね」
「もう双葉ちゃん有名人じゃん」
「いやいや全然、そんなことないよ……!」

 バズってた……?

「大智、わかる?」
「……さっぱり」

 隣にいた滉大に振られるも、俺だって未だちんぷんかんぷんのままだ。思わず二人で顔を見合わせたその直後、いきなりズシッと後ろから重みがのしかかってきた。

「うぐ、ちょっ、なんだよ龍馬!」
「ねえ。なーんで君らおじいちゃんみたいな反応してんの?」
「「はあ? 誰がおじいちゃんだよ!?」」
「まあまあ、息ぴったりなのはいいけど、二人とも抑えて抑えて。アレの理由なら、今から俺がちゃあんとわかるように教えてやるからさ」

 群衆の中心にいるのは、矢代(やしろ)双葉。さらさらの短いボブカットで背はそこそこに高く、スラッとしていながらもどことなく柔らかい清楚な雰囲気を持っている、このクラスの女子だ。
 なんでも龍馬によると、その彼女が昨日SNSに投稿した動画が100万再生を超える話題を呼んでいる、とのことだった。

「矢代さん可愛いからいつかバズると思ってたんだよな〜」

 ……へぇ。

「そんなアプリ初めて知ったわ」

 うっとり目を輝かせる龍馬を前に、なんだか浦島太郎気分になる。
 スマホだって持ってることには持ってるけれど、連絡手段くらいにしか使っていないし、中学で本格的に野球を始めてからというもの、ほとんどテレビだって観なくなった。
 流行りに疎いとは、まさにこのことだな。

「なあ、お前らもやってみる?」
「「……え?」」
「ティック〇ックだよ。誰でも投稿できんだぜ」

 応答する間もなく俺と滉大の前にはスマホ画面が掲げられる。その中で、スワイプする度に色んな年代の男女たちが踊ったりメイクしたり、様々な芸事をしている。
 中でも学生の姿が多く見受けられるが──もしや。

「龍馬、お前もこれやってんの?」
「や、違うよ? 俺は観る専だって!」

 なんだ、残念。せっかくノリノリで踊ってる姿を拝んでやろーと思ったのに。
 ちぇっと心の中で口を尖らせると、龍馬が「だから……」と口の端を吊り上げた。

「滉大智のお二人でどうかと!」
「「は?」」

 声が二重に宙へと浮かんだ。

「ペアダンスとかペアチャレンジとか、仲良い二人組の動画が結構流行ってんだよね〜」

 だよね〜と言われても。全く理解が追いつかない。
 そもそも、ティック〇ックとやらの存在も今しがた初めて知ったばかりだってのに、初心者コンビがそう易々とやれんのか?

 ……ってあれ、滉大早速食いついてんじゃん! 当惑しているうちに、「ふーん」とか言いながら龍馬のスマホを覗き込む滉大が目に入って、少し焦りを覚える。
 こういうとこノリがいいのはまあ、知ってたけどさ。

 対する俺は、明るい髪に、少しやんちゃな見てくれ(他人曰く)。何かと目立ちたがり屋に勘違いされやすいが、意外と裏方の方が性に合うタイプなのだ。
 それなのに、投手(ピッチャー)という野球の花形ポジションをやってるのも相まってか、いつも大概信じてもらえない。

「大智、やってみる?」

 そうはいっても、ウチのイケメン捕手様に誘われりゃ話は別だ。
 気が進まないながらも首を縦に振るや否や、龍馬が待ってましたと言わんばかりに「これとかどう?」と画面を見せてきた。

「最強バッテリーな君たちにピッタリだと思わない?」

 それは、黒板を見ないで真ん中から半分ずつ、二人で一つのハートを描いていく、といったチャレンジ動画だった。綺麗な形になれば成功。ならなければ失敗。という、単純なルールだ。

「いいじゃん。これだったら、俺らでもすぐできそうだし」
「だろー?」

 ますます乗り気になったらしい滉大に、龍馬が得意げに鼻を鳴らした。

 そういうわけで、早速チョークを片手に黒板の前に立つことになった、俺と滉大。
 そんな俺たちの前で、楽しそうに龍馬がスマホを構えている。

「大智、俺らの息の合ったとこ見せてやろうぜ」
「おう! 絶対綺麗なハートだかんな」

 グッと拳を見せた俺は、滉大のチョークの先端と自分のそれをしっかりと合わせた。
 こうなるのは想定外だったが、やると決めたからには、やる。それが俺という男だ。

「んじゃあいくぞー」
「「りょーかい」」
「3、2、1……スタート!」

 龍馬の合図を皮切りに、チョークが黒板を滑りだした。
 ドキドキが急に襲ってきた。でも大丈夫。息を合わせるのは俺たちの得意分野だ。バッテリー歴はもう2年。お前の動きくらい余裕で──。

「えっ!?」

 な、なんだこれ。
 いつまでもチョークが重ならないと思ったら、
 
「ちょっ、滉大デカすぎだろ!」

 俺のハートは3倍くらいの大きさのそれに、飲み込まれていた。

「そういう大智こそ、俺への愛が足りてないんじゃねえのー?」
「はァ!?」

 足りてない。そんな言葉にカチンときた俺は、動画もそっちのけで滉大に詰め寄った。

「愛は大きさだけじゃねえんだよ。〝密度〟が大事なの」
「へぇ、なら密度は俺より上って言いたいわけ?」
「当たり前だろ。だから俺の愛のが絶対重い!」

 多分、はたから見たらこんなことで言い合うとか意味不明なんだろうな。俺も意味わかんないもん。
 でもこの時ばかりは負けず嫌いが発動して、どうしても譲りたくなかったんだ。

「悪いけど、滉大には絶対勝ってるから」
「……それ、本気で言ってんの?」
「ああ、本気に決まって──」

 ドンッと耳に聞こえたその瞬間、俺の口は無意識にも止まった。
 後ろの黒板に伸びた、滉大の腕。
 真正面からこっちを見つめる、冷たい瞳……?

「じゃあ見せてみろよ」
「……っ」
「大智の重い愛ってやつ」

 なんだこれ……。何で俺、滉大に壁ドンなんかされてんの。
 さっきまで詰め寄っていたはずが、完全に詰め寄られている。

「えっと、あの……」
「ほら、はやく教えろって」
「ちょっ、耳元で喋んのやめっ」
「へえ……そっか大智、耳弱いんだ」

 てコラ、余計にやんな!
 吐息混じりに囁いてくる滉大の声に、身体がぴくりと跳ねて仕方ない。

 ……くっそ、絶対ぇこいつおもしろがってやがる。

「てめぇ、そろそろいい加減に──」

「はいはーい、痴話喧嘩はよしなさ〜い」

 とその時、龍馬が俺と滉大の間に割って入ってきた。
 同時に身体はピタリと止まり、我に返る。
 いつの間にか、俺と滉大は教室中の視線を掻っ攫っていた。

「ご、ごめん滉大。俺、ムキになりすぎた」
「……いや。俺の方こそ悪かった」
「いいって。そうだもう1回! 次は中間くらいの大きさでいこうぜ。な?」

 纏わりつく羞恥心をかき消すべく、慌てて言葉を並べる。
 その直後、不意に落とされた声に思考が遮られた。

「ねぇ、私も一緒に撮っていい……?」

 さっきまで話題の中心にいた、矢代の声だった。
 そんな彼女に続いて、何人かの女子が「私もー」と声を上げる。
 一緒に? 一瞬心が弾みそうになったが、即座にぶん殴って落ち着かせた。喜んで乗っかったところで、どうせぬか喜びになるに決まっている。
 そうやって言い聞かせていると、隣のメガネの瞳が急に活気づいた。

「あの、それって俺もアリですか?」

 おい、と声が出そうになった。観る専という話はどこに消えたんだ。
 女子に話しかけられた喜びをまるで隠しきれていない龍馬を呆れながら見つめていると、目の端でついに矢代が動きだした。

 控えめにその袖を掴み、

「ねぇ私、千早くんと──」

 しかしそれは叶わなかった。

 ──キーンコーンカーンコーン。

「おーい、席につけよー」

 鳴り出したチャイムとともに、先生が生徒たちを促す。
 気づけば、時計の針は8時40分を指していた。
 ……もう、そんな時間か。

「えっと、じゃあまた今度」

 女子たちは口早に言い残し、残念そうな顔で自分の席へと戻っていった。





 辺りはすっかり薄暗くなっていた。
 まだ新緑の美しい5月の下旬に入ったばかりだというのに、部活終わりのユニフォームは汗でべっとりだ。

 にしても、疲れたな〜。
 着替えながら、左右交互にアキレス腱を伸ばしてみる。脚と腕が鉛のように重いのだから、堪らない。
 今日は生憎の雨……ということで、室内で筋トレばっかやってたせいだろう。

「はぁ、惜しかったなあ」
「惜しかった?」

 ふと顔を上げる。
 発信源は、俺の右隣で着替えをする龍馬だ。

「もう少しで女子とティック〇ック撮れそうだったのに〜」

 あー、あなたまだ朝のそれ引きずってんのね。

「じゃあ自分から撮ってーって誘うのは?」
「無理だよ。今朝のは滉大がいたからこその棚からぼたもちであって……」
「それは、なあ……」
「だろ〜?」

 うんと答える代わりに、苦笑いを浮かべておいた。実際、ほとんどの女子は滉大目当てだろうしな。
 ……って、なんか考えてるだけで虚しくなってきたんですけど。

 因みに、俺と滉大の動画というとボツになった。あれだけ喧嘩をしてしまったんだから、当然だろう。

 でもまさか、あんな言い合いになるとはなあ。
 滉大のやつ、いつもはテキトーに流して引くのに。

「ん? どうした大智」
「ううん、なんでも」

 ま、そんな時もあるよなとズボンのベルトを締めたその時、ガチャと音がした。

「あれ、大智と長谷二人だけ?」

 突如ゆっくりと開いた扉から姿を現したのは、先程声を響かせた滉大と、同じ3年の〝もっさん〟こと山本だった。二人はさっきまで監督からの呼び出しを受けていたらしい。

「げ、ほんとだ。もーみんな着替えんの早すぎなあ」
「いや、大智が遅いんだよ」

 むーっと口を尖らせる俺に、滉大が笑ってツッコむ。
 そういえば、以前も何度か部室の施錠が俺の着替え待ちなんてことも、あったり、なかったり……。
 考えずとも浮かんできた数々の記憶を辿っていると、ロッカーに置かれたもっさんのエナメルバッグから、ぽろっと白いなにかが滑り落ちるのが見えた。

「おい、もっさん。なんか落ちたぜ」

 俺はそう言って拾い上げる。

「ほらよ」
「お、ありがと」

 ボール?
 フェルトの生地でできたそれは、よく見ると野球ボールの形をしており、上部にはストラップが付けられていた。おそらく、手作りの……。

「「御守り?」」

 意図せず龍馬と声が重なった。
 ちらっと〝必勝〟という文字が見えたから、きっと間違いない。

 へぇ、もっさんも本気で頑張ってるもんな。
 自然と頬が緩むのを感じていると、龍馬がもっさんの返事を待たずに、「あ」と声を響かせた。

「これってまさか、彼女に作ってもらったとか?」

 キラリ、黒縁メガネが鋭く煌めく。

「なあ、どうなんだよもっさん〜」

 おいおい、よくもそんなずけずけと……。
 その強引さに少しばかり焦る俺だったが、どうやら龍馬の勘は的中したようだ。
「実は……」と言い終える途中で、もっさんの耳はボンっとりんごみたいに真っ赤に染まった。
 
「「そっかぁ〜」」

 手作りの御守りかあ。青春だなあ。
 てか俺、もっさんに彼女いるの今知ったんだけど。

 そこからは根掘り葉掘りの大合戦だ。

「いつから付き合ってんの?」
 とか、
「学校一緒なの?」
 とか。
 好奇心むき出しの龍馬の質問攻撃が、毒牙の如くもっさんに襲いかかる。

「じゃあ、次は──」
「はっ、長谷くんたちは? 好きな人とか、いないわけ?」

 質問10個目。というところで、ついにもっさんが反撃に出た。
 まさかこっちに振ってくるとは。
 けれど残念。俺には彼女どころか好きな人もいない。

「んー、俺は野球一筋かな」

 そうまず答えたのが、俺。
 次に龍馬だったが、

「俺は気になってる人ならいるよ。まずは2組の齋藤さんでしょ? で3組の瀬賀さん。あとは──」

 気が多いにも程がある。
 そして、最後。

「千早くんは?」

 もっさんが興味津々に訊ねる。
 わかるぜ、その気持ち。学校一のモテ男の恋愛事情、気にならないわけないもんな。
 でもこれも残念。

「滉大もいねーって。てか、いるわけねーよな?」

 俺は滉大の肩に手を回し、自信たっぷりに口角を上げた。
 前に二人きりの時言ってたんだ。
『甲子園に行くまでは、野球のことだけ考えようぜ』
 って。

「な、滉大?」

 滉大のことならなんだってわかる。俺が一番、よく知っている。たとえ言葉がなくたって、いつだって通じ合える。
 だって俺は、アイツの唯一の専属投手なのだから。
 そう、今朝のハートはたまたま合わなかっただけで──。

「いるよ」

 え。

「いるよ、好きな人」

 ………………は?

 その時聞こえた声は、幻か本物か。
 今の俺には、正しく判断する力が残されていなかった。