僕は病室に戻り、ベッドで眠る自分を見下ろした。鏡以外で自分を見ることに違和感を覚え、まるで他人を見ているかのような気になった。
「翔也、どうしてこんなことしたのかしら……」
 弱々しい声で、母さんが言った。泣いていたのか、目と鼻が真っ赤に腫れ上がっている。
「なにか悩んでたんだろ、きっと。遺書はなかったから、わからないけど」
 青ざめた顔で父さんが言った。普段は僕に無関心の父さんも、今回ばかりはショックを受けているようだった。
「なんで気づいてあげられなかったんだろう」
 母さんが涙ながらに嘆く。父さんはベッド脇にあった椅子に座り、目もとを押さえて深く(うな)()れている。両親がこんなに苦しんでいる姿を、僕は今まで見たことがなかった。
 自殺をするのなら、やっぱり遺書くらい書いておくべきだった。父さんも母さんも、どこに怒りをぶつけていいのかわからず、ただ悲嘆に暮れることしかできないのだろう。申し訳なくて、両親の顔を直視できなかった。弟の諒也は、こんなときでも我関せずの態度でスマホをいじっている。
 画面を(のぞ)いてみると、『翔也のやつ、自殺したっぽい。かろうじて生きてるけど、やばそう』と一応心配してくれているのか誰かにメッセージを送っていた。
 僕が自殺をしようとも、家族はそこまで悲しまないだろうと思っていた。でも、そうじゃなかった。まさか三人が僕のために心を痛め、涙を流すなんて考えもしなかった。
 その姿を見て、僕は自分がとんでもないことをしてしまったんだな、とここに来て初めて自責の念に駆られた。
 居た(たま)れなくなって、僕は病室を出てふらふらと屋上へ向かった。
 外の空気を吸って、落ち着かない頭の中を整理したかった。
 屋上の扉は施錠されていたけれど、今の僕には関係ない。扉をすり抜けて、屋上へ足を踏み入れた。
 誰もいないはずの屋上に、誰かがいた。施錠されていたのに人がいるなんておかしい。僕は()(げん)に思いながら人影に近づいてみる。
 髪の長い女性だ。屋上のベンチに腰掛けて(うつむ)いている。
 背後の気配に気づいたのか、女はぐるりと首を回して僕を見た。
「うわっ」
 僕は驚いて思わず声を上げる。女は間違いなく僕を見ている。赤いパジャマに身を包んだ、うりざね顔の綺麗な女性。年齢は二十代前半くらいに見える。
「私が見えてるってことは、君も幽霊 ?」
 女は珍しいものでも見るかのような目で僕を見つめて、そう訊いてきた。君もっていうことは、この女性も幽霊なのだろうか。僕は違うけど。
「まあ、僕も幽霊みたいなものです。幽霊同士って、お互いに見えたり話したりするもんなんですね」
 まるで他人事のように僕は言った。こんな会話が成立するなんて、夢でも見ているかのようだった。パジャマを着ているのは死んだときの服装か、慣れ親しんだものなのか。僕は飛び降りたときのまま、制服を着用していた。
「姿は見えるけど、普段は会話なんてしないよ。なるべくお互いに(かん)(しょう)しないようにしてる。暗黙の了解ってやつ。まあでも、新人の幽霊はなにも理解してないから、話しかけてくることもあるよ。今の君みたいに、(おび)えながらね」
「そ、そうなんですね。お姉さんは、ベテランの幽霊さんなんですか?」
「ベテランって言っても、まだ三年くらいだよ、幽霊になってから。この世に未練があるとね、なかなか成仏できないの」
 まだ三年と彼女は言ったけれど、それが長いのか短いのか判然としない。「ああ、それと」と彼女は話を続ける。
「夜の病院はね、そこら中にうようよいるから、気をつけた方がいいよ。中にはよくない霊もいるから」
 その言葉を聞いて、背筋に冷たいものを感じた。ここへ来る途中、何人もの人とすれ違ったのを思い出した。それはいずれも、入院着を着ていた気がする。
 よく考えるとこんな遅い時間に、薄暗い院内を入院患者が徘徊しているのは絶対におかしい。どうしてそのことに気づかなかったのか。
「病院には未練を残して亡くなった人が多いからね。まあ、私もその一人だけど。とにかく、目を合わせないようにすれば大丈夫だから」
 そう言われても、ちっとも安心なんかできない。僕は昔から、ホラー映画やお化け屋敷が大の苦手だ。そんな僕が、まさか幽霊の側になるなんて勘弁してほしい。
 一刻も早くこの病院から出よう。頭の中ではそう考え始めていた。
「き、貴重なお話をありがとうございました。僕はこれで失礼します」
 普通に会話をしているけれど、目の前にいる女性は幽霊なのだ。改めてそう思うと、急に怖くなって話を終わらせた。小さく頭を下げ、(きびす)を返して出口に向かう。
「私は大抵ここにいるから、暇だったらまた来なさい。少年」
 彼女は僕の背中に語りかける。わかりました、と僕は返事をし、屋上をあとにした。
 病院の出口へと向かう途中、幽霊と思しき人たちとすれ違った。僕は俯きながら歩いていたので、足もとしか見ていない。すれ違う人は皆、靴を履いていなかった。裸足でずるずると足を引き()る人や、ひたひたと静かに歩く人もいた。
 僕自身幽霊のようなものなのに、幽霊に怯えるなんて(こっ)(けい)な話かもしれないけれど、心臓がバクバクだった。いや、この表現もおかしいのかもしれない。
 行くあてもないので、僕はとりあえず自宅へ戻った。
 途中、疲れはしないけど歩くのが面倒になって、信号待ちをしていた車にお邪魔して家に帰った。
 自宅には父さんと諒也がすでに帰宅していて、二人の会話から察するに、母さんは病院に残ったようだった。
 今日はとにかく疲れた。体に疲労感はないけれど、あれこれ考えすぎてこれ以上頭が回らない。
 自室のベッドに横になり、そのまま眠りについた。