僕の家を出てから一時間ほど歩いただろうか。大男は時々僕がついてきているか確認するために振り返るだけで、なにも言わずにひたすら歩き続ける。
 大男は赤信号を無視して、ずんずん進んでいく。僕は躊躇(ためら)いつつも、赤信号を渡り彼についていく。かなり長い距離を歩いたはずなのに、不思議と疲れはなかった。
「あの、どこへ向かってるんですか?」
 なかなか目的地へ辿(たど)り着く気配がないので、僕は思い切って大男の背中に声をかけた。
「もうすぐだ。黙ってついてこい」
 大男は振り返らずにそう言った。
 そこからさらに十分歩いて花屋を通りすぎ、とある病院の前で大男は立ち止まった。
 まさか、と僕は思った。大男はなにも言わずズカズカと病院内へ入っていく。
 薄暗い通路を進み、四階まで階段で上がる。大男は集中治療室の前で立ち止まった。
「ここだ。入れ」
 促され、僕は中へ入った。
 中には父さんに母さん、諒也もいた。
 そしてベッドで眠っていたのは、紛れもなく僕だった。人工呼吸器が装着され、頭にはぐるぐると包帯が巻かれて、痛々しい姿で横になっていた。
「ほらな、死んでねぇだろ」
 驚きのあまり声を発せずにいた僕の背後から、大男は声をかけた。彼の言う通り、確かに死んではいない。目の前で横たわっている僕は浅い呼吸を繰り返し、かろうじて生きているようだった。
「……死んでないなら、僕は一体なんなんですか? 壁をすり抜けたり、長時間歩いても疲れたりしないし、僕は一体誰なんですか?」
「今、そこで死にかけてるお前が肉体で、死んだら霊体 となる。そして今のお前は、肉体から抜け出した幽体だ。肉体でも霊体でもない、中途半端な状態だな」
「……はあ」
 なにを言っているのかさっぱりわからない。よく聞く幽体離脱のようなものだろうか。とりあえず、僕は死んでいないということだけははっきりとわかった。
「えっと、つまり、そこで眠っている僕が目を覚ましたら、今喋ってる僕が消えて、肉体に戻れるってことですか?」
「まあ、そういうことになるな。幽体は目を覚ませば肉体に戻れるが、死ねば霊体となる。だが残念だが、お前が目を覚ますことはない。頭を強く打ちすぎて、もう助からない。もってあと二十二日ってところだ。容態が急変して、お前は死ぬ」
「……そうですか」
 二十二日後に死ぬ。そう言われてもショックだとは思わなかった。目を覚ましたとしても、また辛い毎日に戻るだけだから。
「えっと、おじさんは……一体何者なんですか? 天使ではないですよね」
 僕は恐る恐る訊ねてみた。僕は死んでいないというのに、なぜ彼は現れたのか。そして何者なのか。見当もつかない。
「天使なわけねーだろ。俺はただの案内人だ。お前みたいな中途半端な魂専門のな」
「はあ……」
「まだよくわかってないみたいだな。簡単に言うと、幽体は幽霊のような状態で、霊体は幽霊そのものだ」
その言葉を頭の中で何度も反芻する。たぶん、彼の言う中途半端な魂が今の僕──幽体ということらしい。人間でも幽霊でもない、どっちつかずな存在。なんとなく霊体との違いがわかりかけてきた。
「自殺した魂っていうのは、未練が強すぎてなかなか成仏できないんだ。お前、死ぬ前になにか願わなかったか? その願いが強すぎると、お前は死んだあともあの世へは行けず、永遠に彷徨(さまよ)うことになる」
「なにか願ったかな……」
 飛び降りる直前のことを思い出す。そういえばなにか願ったかもしれない。けれど、それがなんだったのか思い出せない。
「えっと、つまり、それを思い出せれば、僕は死んだあと、成仏できるんですね」
「端的に言えばそうだ。お前は運がいい。死ぬまでの二十二日間で未練を断ち切れれば、肉体が力尽きたあとにすんなりあの世へ行ける。とにかく思い出せ」
 そんなこと言われても、とげんなりした。
「あ、でも、それって死んでからでもいいんですか? 今はまだ生きてるけど、二十二日後にちゃんと肉体が死んでから未練を断ち切れれば、結局同じじゃないですか? 」
「残念だが、そうはいかない。死んじまったら未練がさらに強くなり、断ち切るのが難しくなる。自殺の場合は特にな。だからまだ肉体が生きてる 二十二日の間に、未練を断ち切るんだ。やはり、お前は運がいい。たまにいるんだ、お前みたいに死に切れなくて、体から飛び出した中途半端な魂がな」
「……その人たちは、未練を断ち切れて成仏できたんですか?」
 大男は深いため息をついた。
「残された時間は 人それぞれだからな。一日しかないやつもいれば、死ぬまで十年もあったのに断ち切れず彷徨ってるやつもいたな。だから、やっぱりお前は運がいい。二十二日なんて、ちょうどいいじゃねぇか。十年もあったらだらけちまって逆にだめなんだ」
 果たしてちょうどいいのだろうか。十年間未練が断ち切れず彷徨っている人がいるというのに、たったの二十二日間で、僕にできるだろうか。
「じゃあ、説明は終わりだ。なにかあったら、いつでも呼べ」
 大男はのそのそ歩き、病室から出ていった。
 僕は彼のあとを追いかけ、「どうやって呼べばいいんですか? それと、おじさん名前は?」
 どう考えても説明不足なので、立て続けに質問をぶつけた。
「念じれば俺に届く。名前はエンドーだ」
 大男は振り返らずに名乗った。
(えん)(どう)さん?」
「違う。エンドーだ」
 そう言い残して、エンドーさんは去っていった。()(じゃ)()だろうかと思った。人生の最後に現れるからエンドーなのか。そうだとしたらくそつまらない。