翌日、目を覚ました場所は家ではなく、近所の公園だった。散々歩き回った挙げ句、僕はベンチに横になり、そのまま眠ってしまったらしい。固いベンチで眠っていたが、当然体に痛みはなかった。雨も降っていたけれど、僕の体は雨にさえ存在を無視され、ベンチだけが濡れていた。
 今日はどうしようか。立ち上がったものの、次の一歩が出ない。僕に残された時間は、あと約二週間。早川さんが四十九日を迎えるまでは、もう二週間も残されていなかった。
 今日も早川さんに会いに行こうかと思ったけれど、僕は僕が入院している病院へ向かった。
 バスに乗って空いている座席に腰掛け、ぼんやり窓の外を眺めた。雨粒が窓に張り付き、視界がボヤける。
 しばらくそうしていると、僕の座席に老人がゆっくりと近づき、そして腰掛けた。僕はびっくりして立ち上がる。体がぶつかることはないけれど、未だに慣れない。仕方なく、バスガイドさながらに運転席の横に立って、到着を待つことにした。
 病室には今日も母さんが来ていた。花瓶の水を入れ替えて、窓際のサイドテーブルに置いているところだった。病院のすぐそばに花屋があるので、そこで買ってきたのだろう。
 僕は自分の寝顔を見つめた。人の気持ちも知らないで、僕は呑気に眠っている。やはり自分を直接見ることに違和感を覚え、すぐに目を逸らした。自分ではない、別人のようにも見えた。
「昨日諒也がね、英語のテストで百点取ったんだって。翔也も負けてられないね」
 母さんはしきりにベッドの僕に話しかける。こんなときにも母さんは、僕と諒也を比べるような発言をする。無意識なのかもしれないけれど、その発言に僕はいつも苦しめられていた。
 病室を出て階段を上がり、屋上へ出る。
 ここの病院の屋上はガーデニングが施されており、気分転換には最適な場所だ。先ほどまで降っていた雨は上がり、散歩をしている入院患者や、付き添いの看護師に車椅子を押されながら笑顔を見せる患者の姿もあった。
 僕は首を巡らせて辺りを見回す。やっぱり、今日もいた。赤いパジャマを着た幽霊らしくない明るい女性だ。あまりに馴染んでいるので、気分転換に屋上へやってきた患者にしか見えない。僕は彼女に近寄り、ベンチの端っこに座った。
「お、少年。また来たか。その顔は、なにか悩んでるな?」
「……まあ、悩んでるというか、なんか、どうしたらいいのかわからなくて」
「お姉さんが聞いてあげるよ。なんでも話してみなさい」
 少し迷ったけれど、僕は彼女に早川さんのことを話した。照れくさかったので、初恋の人だったということは伏せておいた。
「なるほどねぇ。なんで最近の若い子は、簡単に自殺なんてするんだろうねぇ。もったいないと思わない?」
 同意を求められ、僕は「そうですね」と頷いてみせた。実は僕も自殺したんです、とは言えない。
「自殺した人はなかなか成仏できないって聞くけどねぇ。まあ、あとはその子次第だから、見守るしかないと思うよ」
「はあ、そうですか」
 僕は俯いて、力なく返事をした。やっぱり、僕にできることはないようだ。早川さんだけではなく、僕やこの明るい女性だって、自分次第なのだ。成仏するためには、自分でどうにかしなくてはならない問題なのだ。
「あの……お姉さんは、未練とかあるんですか?」
 彼女はクスッと笑い、「あるから、ここにいるんじゃない」と答えた。
 訊いていいものか悩んでいると、彼女は自分から話を始めた。
「私ね、結婚してたんだけど、病気で死んじゃってね。ずっと彼のことが心配なんだ。もう諦めてさっさと成仏できたら楽なんだけどね」
 彼女は笑い飛ばすように、明るい口調で話す。どこか無理をしているような、そんな笑顔も見せた。
「……それが、未練なんですね」
「まあ、そういうことだね。ありがちな未練でしょ? あまり参考にならなくてごめんね」
 確か彼女は亡くなってから三年になると言っていた。 三年間も愛した人を気にかけ、彼女は成仏できないでいる。恋人ができたことのない僕には、上手く想像ができなかった。
「そういえば、君はなんで亡くなったの?」
 唐突に、彼女は僕を見てそう訊いてきた。それは今の僕にとって、一番されたくない質問だった。
「……なんでって、事故ですよ、事故。ボケッと歩いてたら、うっかりはねられちゃったんです。まったく、ついてないですよ」
 嘘がバレないように、僕は努めて明るい口調で言った。自殺だと正直に話したら、彼女に叱責されそうな気がした。生きたくても生きられなかった彼女の前で、自ら死を選んだなどと言えるはずもなかった。
「ふうん、事故かぁ」
 彼女は僕の顔を覗き込む。ばつが悪くて僕は顔を背けた。
「本当は、事故じゃないでしょ」
 その言葉にドキリとした。僕は慌てて「じ、事故ですよ」と笑ってみせた。少し、不自然な笑顔になったかもしれない。
「別に、私に気を遣わなくていいんだよ。最近多いもんね、若い子の自殺。君も、そうなんでしょ?」
 僕は答えられず、沈黙を選んだ。彼女もそれ以上はなにも訊いてこなかった。
「あの……僕、そろそろ帰ります」
 居た堪れなくなり、彼女に一礼してから背を向ける。帰るとは言ったものの、僕には帰る場所などどこにもないのだけれど。
「ねえ、生きることって、なんだと思う?」
 背中越しに彼女の声が届く。僕は振り返って答える。
「さあ、考えたこともないです。生きる意味とか、そういうのって考えるだけ無駄な気がして……」
「無駄ってことはないと思うよ。そうやって自分と向き合う時間も、ときには必要だと私は思う」
 はあ、と僕は力なく答える。死んでから生きる意味について考えるなんて、それこそ意味のない行為に違いない。そんな僕の気も知らず、彼女は続ける。
「晴れた日は晴れを愛し、雨の日には雨を愛す。楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ」
「……なんですか、それ」
「私の座右の(めい)。人生はどんなにいいことや辛いことがあっても、その状況を常に楽しもうってこと。私は病気になったときも、幽霊になってからもそんな自分のことを愛して、楽しんでるよ」
 はあ、と僕はまた気の抜けるような(あい)(づち)を打つ。彼女の言っていることは、僕には到底理解できるものではなかった。いじめられている自分や、弟に勝てない自分を愛して、その状況を楽しむなんて馬鹿げていると思った。
「また暇なときにでもおいでよ。まだしばらくここにいると思うから」
「……はい」
 踵を返し、来た道を戻る。
 屋上を出たあとは、僕が眠っている四階に下りて、病室には寄らず談話室の窓際の椅子に腰掛けた。なにをするでもなく、ただ椅子に座って途方に暮れていた。