体を起こしてベッドの上で胡座(あぐら)をかき、これからどうするべきか、改めて真剣に考えることにした。
 今さら僕がどう足掻(あが)いたところで死は免れない。僕が望んだことなのだ。これに関してはどうしようもない。問題は、やはりそのあとになる。僕が死んだあとの話だ。
 エンドーさんが言うように、この世の未練を断ち切り、成仏することが僕に残された道なのだ。今の状態では僕は成仏できず、永遠に彷徨うことになってしまう。そうなれば、きっと今のように自由に歩き回ったりできないのかもしれない。
 あの学校の屋上にいた少女を想起する。やっぱり、このままではだめだ。父さんや母さんのことを思うと、胸が痛んだ。息子が自殺した上に成仏できず彷徨っていることを、両親が知ったらどう思うだろうか。知る(すべ)はないにしても、あまりに心苦しく、文字通りこのままでは死んでも死に切れない。だから僕は、なんとしてでも残りの二十日間で未練を断ち切ることを決めた。
 とりあえず家を飛び出して、この日も僕は歩き続けた。
 なんとなく学校に向かうとちょうど昼休みだったらしく、僕の教室はいつも通り騒がしかった。
「神村のやつ、いつ学校来るんだ? あいつ殴らねえと調子狂うな」
 肩を回しながら遠山がそんなことを口にしていた。僕は遠山を睨みつけたあと、教室を見回す。
 自分の席に座っていた鈴森さんと数秒目が合うと、彼女は席を立って長い髪を揺らしながら教室を出ていく。僕は壁をすり抜けて彼女のあとを追う。
「なにしに来たの?」
 廊下を歩きながら鈴森さんは小声で言った。
「別に……家にいても暇だから」
「そう。それで、これからどうするの?」
「どうしたらいいのか、逆に教えてほしいくらいだよ」
 僕がそう言っても鈴森さんは黙ったまま歩き、今度は中庭へ出た。たくさんの花が植えられた中庭には、僕らの他に生徒は一人もいなかった。
「どうしたらいいって、未練を断ち切ればいいんじゃないの?」
 鈴森さんは中庭のベンチに腰掛けて怠そうに言った。
「そんな簡単に言われても……。正直、あんまりピンとこないんだ」
「なにが?」
「今の僕が、幽体だってことがだよ。なんか、感覚としては普段となにも変わらないんだ。いくら歩いても疲れないのと、お腹が空かないってことを除けば、通常通りなんだよね」
 ふうん、と鈴森さんは興味なさげに頷いた。
「それに僕はいつも皆から無視されてるから、誰にも気づかれないだとか、話しかけられないだとか、そういうのは慣れっこなんだよね。だから、今の状態に全然違和感がなくて……」
 一息に言い終えると、虚無感に襲われ、なんだか馬鹿らしくて笑えてきた。悲しいことに、むしろこの体になってからの方が人と話す機会が増えたくらいだ。
 結局僕には、生きていても死んでいても、どこにも居場所なんてないのだ。
 自由を求めて飛び立ったはずなのに、僕の求めた自由はどこにも存在しなかった。
「それはそうかもしれないけど、でも、このままだとまずいんじゃないの?」
「……まずい、と思う」
 だったらさ、と言いながら鈴森さんは立ち上がる。
「私も協力してあげるよ。あんたの未練、なんだったのか一緒に考えてあげる」
「え……」
 僕は鈴森さんを見る。彼女は優しく微笑んでいた。僕はこのとき、初めて彼女の笑った顔を見た気がした。気のせいかもしれないけれど、少しだけ、ほんの少しだけ胸がときめいた。
 直後に聞き慣れた鐘の音が聞こえてきた。昼休みの終了を告げるチャイムで、僕ら学生にとっては聞きたくないものだ。同じ音なのに、授業の終わりに聞くチャイムとは、まるで違う。それは鈴森さんも同じようで、チャイムが鳴った途端、彼女の笑顔は消えた。
「じゃあ、私教室に戻るけど、神村はどうする?」
「授業が終わるまで、適当に時間つぶしてるよ」
「そっか。わかってると思うけど、屋上には……」
 行かないよ、と鈴森さんが言い終わる前に僕は言った。彼女は再び頰を緩めて、校内へと戻っていった。
 僕はベンチに腰掛け、空を見上げる。雲はなく、清々しい青空が広がっていた。

「神村? 寝てんの?」
 その声で目が覚めた。鈴森さんが僕の顔を覗き込んでいた。目を擦りながら体を起こす。どうやら僕は、いつの間にか中庭のベンチで眠ってしまったらしい。
「ごめん。寝てたっぽい」
「見たらわかるよ。とりあえず帰ろっか」
 すでに授業は終わったらしく、鈴森さんは僕に背を向けて歩き出した。
 校門を出たあと、僕は振り返って屋上を見上げた。あの不気味な少女が、またしても僕を見下ろしていた。よく見えないけれど、薄っすらと微笑(ほほえ)んでいるように見える。その姿にゾッとして、僕は早歩きで彼女の視線から逃れるようにその場を離れた。
「なにか、やり残したこととかないの?」
 下校する生徒の群れが減ってきた辺りで、鈴森さんは小声で言った。
「やり残したこと?」
「うん。なにかやり残したことがあるなら、それが未練なんじゃないの?」
「うーん、ないと思う。強いて言えば、まだクリアしてなかったゲームがあるくらいかな。あ、それと連載中の漫画の続きが読めないのは心残りかも。ちょうどいいところで終わったんだよなぁ。今思えばあの漫画が読めなくなるのはかなりショック」
 言い終わると、鈴森さんは蔑むような目で僕を見ていた。
「それだけ?」
「うーん、他になにかあるかなぁ。すぐに思いつくのは、それくらいかなぁ」
 鈴森さんはうんざりしたようにため息をつく。
「あのねぇ、それが原因で成仏できないなら、今頃そこら中に幽霊がうろうろしてると思うよ」
 それは心外だ。鈴森さんはきっと漫画やゲームに(うと)いから、僕の気持ちがわからないのだ。大好きなゲームや漫画の続きが一生読めないなんて、僕にとっては、いや、世界中の漫画好きゲーム好きの少年少女にとって、これ以上の辛いことはないだろう。わかってないなぁ、と僕は肩をすくめた。
「そんなこと言われてもなぁ。本当に、他にはなにも思い浮かばないんだ。……でもさ、僕はまだ死んだわけじゃないんだし、もしかしたら死んだあと、普通に成仏できるかもしれないよ」
 まったく根拠のないことを、僕は早口で(まく)し立てた。けれど、僕が成仏できないという話自体、まったく根拠のない話なのだ。
「でも、遠藤さんっていう人に言われたんでしょ? このままだったら、お前は成仏できないって」
「ああ、エンドーさんね。その話も本当かどうかわからないけどね。だってさ、僕が未練なんかないって言ってるんだよ。本人が言ってるんだから、間違いないよ」
 他の誰でもなく、僕自身がそう言っているのだ。疑いようがない。
「本当にないの? 心の奥底では、死にたくないって思ってるもう一人の神村がいるんじゃないの?」
 鈴森さんの言葉が、チクリと胸を刺した。確かに心の奥底では、本当は死にたくないと僕は思っているのかもしれない。もう一度やり直したい。そう思っているもう一人の僕がいるのかもしれない。でも、あの辛い毎日には戻りたいとも思わなかった。
「やっぱりそうなんでしょ」
 返答に窮した僕の心を見透かすように、鈴森さんは呟いた。
「私、今日はもう帰るから、もう少し真剣に考えてみて。なにかやり残したことはなかったか、飛び降りる前に、なにか願わなかったか」
 じゃあね、と鈴森さんは片手を上げてバス停の方へ歩いていった。
 気づけばずいぶん遠くへ来ていた。話に夢中になっていたから気づかなかったけれど、彼女はきっと、なるべく人がいない場所へ向かって歩いていたのだろう。(はた)から見れば彼女は、一人でぶつぶつ呟きながら歩いているヤバいやつ、というふうに見えているのだ。同じ学校のやつらに見られたら変な噂を流されるかもしれない。
 そんなリスクを背負ってまでなぜ僕に協力してくれるのか、彼女の意図がわからない。去っていく彼女の背中を見つめながら、僕は(ぼう)(ぜん)と立ち尽くしていた。
 帰宅後、外飼いにしているペットのコロ吉の頭を()でた。犬には僕の姿が見えているようで、近づくとコロ吉は尻尾を振っていつもと変わらない反応を見せた。
「散歩、もう連れてってやれなくてごめんな」
 コロ吉は舌を出しながら、不思議そうに首を傾げる。触ることはできないけれど、もう一度頭を撫でて、家に入った。
 部屋に入ると、すぐにベッドに倒れるように寝転んだ。鈴森さんに言われたように、もう一度真剣に考えてみた。
 僕の未練とはなにか。やり残したことはなにか。飛び降りる前に、なにか願わなかったか。
 確かに一つだけ、引っかかっていることがあった。
 僕は学校の屋上から飛び降りる直前、あることを願っていたのだ。でも、それがなんだったのか思い出せない。思い出せないということは、きっと大したことではないのかもしれない。死ぬ前に、コーラを飲んでおけばよかった。死ぬ前に、携帯のデータを消去しておけばよかった。たぶん、そんなところだろう。
 他になにかないだろうかと考えているうちに眠りに落ちて、朝を迎えた。