それはまるで甘いケーキのような恋で。

 その長い指先に、触れたい。触れて欲しい。
‌‍ その、長い指が好き。綺麗だと思った。
‌‍ 午後十九時十分。
 スマホの時刻を確認すると、俺はレジ横の鏡で髪を整える。前髪をピンで分け直していると、自動ドアが開いた。
‌‍「い、い、いらっしゃいませ!」
‍ すぐに持ち場に戻って彼に笑いかけた。
‌‍ 俺の頭1個高い身長、紺の上着に緑色のネクタイは駅二つ先の名門双葉高校の制服だ。
 あのおじいちゃんが好きそうな渋い緑のネクタイはダサいって噂だったのに、彼が着たらお洒落に見える。
‌‍ 切れ長の瞳に無造作に伸ばされた黒髪。一見、あの名門高校に通っている風貌には見えない。どちらかといえばちょっと悪そう。
‌‍ ――名前、何て言うんだろう。
‌‍ 吸い込まれそうに彼を見つめていたら目が合ってしまった。
‌‍「これとこれ」
‍ 指差した長い指先を目で追ってしまう。
‌‍ 必ずケーキの名前は口にしないから、あの指を追わなければいけない。
‌‍「ミルフィーユと苺のショートケーキですね。七八〇円です」
‍ そう言うと、長財布から千円札を取り出した。
‌‍ 自分に近づいてくる指先にドキドキしてしまう。
‌‍ 俺、本当に最近、この時間が一番緊張する。
‌‍「二二〇円のお、おつりです」
‍ なるべく触れないように気をつけながら渡す。
‌‍ この瞬間、後頭部に視線を向けられている気がして、上手く顔を上げて笑顔が作れない。緊張してしまうよ。
「お持ち帰りの時間は?」
‍「三〇分で」
‍ 家、此処から近いのかな?
毎回このやりとりをするから本当は覚えてるんだけど、同じ事を考えてしまう。
「ありがとうございまし、た……」
‍ 軽く会釈した後、さっさと帰ってしまう。
‌‍ このわずか五分ぐらいの時間、ずっと無表情だし、なんか恥ずかしくて顔、見れない。
‌‍でも、指先は気になってる。あの長い指を、忘れられないんだ。
‌‍
**

「憂斗(ゆいと)ってホモなの?」
「は?」
‍ ポキッっと思わずシャーペンの芯を折ってしまった。
‌‍「酷いよ。さや」
‍ 同じ日直のはずなのに、正面でシュークリームを食べているふてぶてしい顔の女の子。
‌‍ 前髪は斜めにカットされ、俺よりも短いショートカット。
‌‍ 何でもズバスバ言ってくれるから話しやすいけど、毒舌なのは止めて欲しい。
‌‍「あんた、幼稚園から一緒にいるのに彼女作ったの見たことないし。この前、あんた目当てでケーキ屋通ってた他校の子、振ったじゃん。めちゃ可愛かったのに」
「あ、あれは、びっくりして」
‍ 駅が1個向こうの女子高の子だったけ。
‌‍ ワンピース型の上品な制服に、綺麗に巻かれた茶髪の髪、艶々の唇。可愛かったけど、俺には勿体ないほど遠くに感じられた。
「でも、そのよく来る男は気になってるんでしょ?」
「だ、だってケーキ屋に男の人って珍しいし」
「あんた目当ての女の子は、覚えられないのに?」
‍ さやがにやにやと笑って首を傾げた。
「恋愛まで発展したことないから分からないんだよ」
‌‍ 俺は中学まで身長がなかなか伸びずずっと一番前だった。そのせいか男友達や女友達からも甘やかされたというか可愛がられた自覚はある。
俺は普通科だけど俺の通う高校は、調理科や福祉科があるせいか七割が女子。さやは腐れ縁だし女子とつるんででも冷やかすクラスメイトなんていないし、男だと意識されていないことはわかっている。だから俺を好きになる存在が現れるはずがないとさえ思っている。
「理想が高いのかな、相手にされなさすぎで」
‍ 書き終えた日誌をさやに押し付けながら、項垂れてしまった。
「理想って言うか、恋に夢見てるよね」
‍ 日誌をパラパラ確認すると、さやは立ち上がり鞄に荷物を積めていく。
‌‍ 俺は突っ伏したまま動けないでいた。
「だって、あんたの家、特殊だし。シュークリーム美味しかったわよ。おばさん達によろしくね」
「特殊?」
‍ まだ会話の途中だと言うのに、さやはさっさと日誌を出しに行こうとしていた。
「早く先生に会いたいのよ。あ、今度は『双葉の君』に何か話しかけてみてよ。できれば受験のお守りに双葉高校のシャーペンも欲しいな。頼んどいて。じゃーね」
‍ そう言うと、全速力で廊下の彼方へ消えてしまった。
‌‍ 俺にすべて書かせた日誌を提出しても、どうせ字でバレるとは思うけどね。
‌‍ そう思いながら、俺も重い体を持ち上げ立ち上がった。
‌‍ トボトボ歩いて、自分の家の看板を見上げた。
‌‍ 『Doux』と書かれたピンクの可愛らしい看板。たしかフランス語で『甘い』って意味だった気がする。
‌‍ 道路を挟んで向こう側には、コンビニと十階立てのオフィスビルがある。
‌‍ 入ってるテナントは、名前を見ても良く分からない。でも二階に塾があるのは分かる。入会金が云十万だの紹介以外入れないとか入るのに条件があるけど、その代わり有名大学合格間違いなしらしい。俺みたいに毎回のテストでひいひい言っているレベルじゃない人らが沢山通っているんだろうな。
‌‍ けれど塾が終わる十九時前後は迎えに来た保護者や様々な有名進学校の制服の人らが買いに来てくれる。
‌‍ あの人は、その時に見つけたんだ。
‌‍ 道路の向こう側のコンビニで少しだけスマホをいじってから、こっちに向かって来るって。
‌‍ スマホを耳に当てながら店を見ている気がしてドキドキしたんだ。
‌‍ なんか偶にもしかして店の中確認してないかなって勘違いしてしまうぐらい、頻繁にコンビニに居るときは目が合う気がするんだよね。
「あら? 憂ちゃん? お店の前で何で百面相してるの?」
‍ 店のドアから現れたのは、俺の母親。
‌‍ ほんわりおっとりした口調で、年齢は言ったら怒るけど、20代に見える若々しい顔。
‌‍大きな瞳に、真っ赤な唇、ピンク色の頬。亜麻色の髪を1つの三つ編みに結んでいた。
「何でもないよー。着替えてくる」
‍ するりとドアを抜けると、ケーキを持った父親に出くわしてしまった。
「おかえり、憂。新作のカボチャパイなんだが」
「着替えてから食べるよー」
「あーん。博人(ひろと)さん、可愛らしいわぁー!!」
「だろ? 桜華(さくら)ちゃん。君が喜ぶと思って頑張ったんだよ!」
‍ これだ。これ。
‌‍ 未だに名前呼びで、新婚みたいにイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャ。
‌‍ これのおかげで、俺は恋愛に夢見がちなんだ。自分でも嫌になる。
‌‍ブレザーの制服をハンガーにかけながら、クローゼットの鏡に映った自分を見た。
‌‍ 母親に似て大きな瞳。亜麻色のフワフワな髪は、柔らかすぎてくし要らず。
‌‍ピンで止めなきゃ纏まらないクセの強い前髪。
‌‍ やっと百七十センチ越えたから、女の子には間違われなくなったし、告白だって本当に一度だけされたけど。
‌ 父や母みたいな大恋愛の話を聞いてしまうと、初めての恋で結ばれたいなって思っちゃうんだよなぁ……。
‌‍『恋愛』に夢を見てしまうから、ホモと勘違いされちゃうんだ。
‌‍ もっと男らしく身を引き締めよう!
「憂ちゃん、勉強しながらケーキ食べたら駄目よー」
‍ 母がシュークリームを配列させながら、レジの椅子に座る俺にやんわり言った。
‌‍「さ来週の月曜からテストなんだよ。 俺、一応受験生だからね?」
‍ もぐもぐと新作のケーキを頬張りながら、英単語張を見る。
‌‍ 今回は範囲が広いから、全部覚えられる自信は無い。
‌‍ それに、今日は金曜日。あの人が来るのは月曜と木曜と把握済み。
‌‍ 来ない時ぐらい、リラックスさせて欲しいんだよね。
「そう言えば、さやがシュークリーム美味しかったってよ」
「えー?」
‍ 厨房に居る父に大声で言ったが、洗い物をしている父には聞こえて居ないのか聞き返された。
「だーかーらー、さやがー」
「あらー、いらっしゃいませー」
‍ それと同時に、自動ドアが開いた。
「うっ」
‍ 現れたのは、『双葉の君』だった。慌てて単語帳を閉じたり、ケーキを飲み込んだり、あわあわしてしまう。
「どれにしますー?」
‍ 代わりに母がおっとりと対応してくれたので、先回りしてドライアイスと箱を準備する。
‌ ほのかに柑橘系の香りを漂わせる双葉の君は、無表情でケーキを物色している。
‌‍ 箱を組み立てながら覗き見すると、無表情な横顔が真剣にケーキを見つめている。
‌‍ ちょっと眉を寄せて、じっくり考えているみたい。
‌‍ ……鼻、高いなぁ。
‌‍ 背ぇ高いから、屈んでケーキ見てるのちょっと可愛いなぁ。
「じゃあ、これとーー」
‌‍ ボーッと眺めていると、父がタオルで手を拭きながら現れた。
「で? お前、さやちゃんと何だって? 付き合ってるのか?」
「はぁ!!?」
「――?」
‍ バットタイミングで厨房から顔を出す父に、大声を出してしまった。
 ‌‍一瞬、彼も此方を見て動きを止めた気がする。
‌‍ 慌てて口を押えるけど、ガキっぽいって飽きられちゃったかな。お店で騒ぐなんてみっともないじゃん。
「ち、違うよ! 新作のモンブラン入りのシュークリームがね」

「はい、120円の御釣りですー。ありがとうございました」
‍ 父に説明しようとしている間に、母に箱を奪われ、テキパキと渡されてしまう……。
‌‍ 俺が渡したかったのに、彼は全く俺に興味も持たずさっさと出ていってしまった。
 なんか彼の世界には俺は登場人物にすらされていないんだろうなって現実を突きつけられてしまっただけだ。
「――お父さん、嫌い」
「!?」
‍ 結局、何も分からず仕舞いだし、もうちょっと盗み見したかったのに。
「あら? これ……」
‍ 母さんが拾ったのは、双葉学園の生徒手帳。双葉の複雑な装飾がされた印が革の手帳に押されていて、高級感が漂っている。
「さっきの人のかしらー?」
「ちょっと貸してっ!」
‍ 母さんから奪うって開くと、免許証みたいに右側に写真が貼られ名前。
‌‍ 無表情な写真なのに格好いいなー。
‌‍ 雨宮 清人 AMAMIYA KIYOTO
 清人さんっていうのか。名前まで格好いい。
 って同い年なんだ。
「憂ちゃん、それ、追いかけて渡して来てくれるー?」
「へ!?」
「それがないと困るでしょ。」
「あ、うん! うん!」
‍ 名残惜しいけれど返さなきゃだよね。雨宮さん。雨宮さん。
‌‍ 俺は急いで店を飛び出すと、やや遠くに見える彼を呼んだ。
‌‍
「あ、雨宮さん!」
‍ 数秒、間を置いてから振り返った雨宮さんに、一瞬見とれてしまった。
‌‍ 無表情な切れ長の瞳が、一瞬見開いた後、すぐにまた表情を隠した。
‌‍ いつも手ばかり見てるから、こんな正面からまじまじ見るのは初めてで、なんか更にドキドキしてしまう。
「ケーキ屋の、子だよね。てか俺の名前知ってるの?」
‍ うう。声も語尾が甘く伸びて低くて格好いい。
「ああの、これ、落として、ました! 名前、見ちゃって! あの!」
「――ああ。落としてたんだ。本当だ、チェーン、切れてる」
‍ 差し出した生徒手帳を渡すと、微かに笑った気がした。
「君、名前は?」
‍ 優しく目を細めて、俺を見つめる雨宮さん。
‌‍ そんなに見つめられると恥ずかしくて直視できないよ。
‌‍ つい、目線をそらして手をもじもじしてしまう。
「あの、憂斗(ゆいと)です!  憂(うれい)と書いてゆいって読みます。よくゆうとって間違えられるんです……が」
‍ うわうわ!
 俺何を関係ない事をべらべらと。
‌‍ ダメだ。これ以上は心臓に悪い。なんで俺、こんなにドキドキしてるんだよ。
 この人は格好良くても同い年の同性だぞ。
「あの! では、失礼します!」
‍ 足早に去ろうとすると、腕を捕まれた。
「サンキュっ、憂斗」
‍ あの長い指が俺の頭を撫でた。
‌‍ 柑橘系の香水の匂いをまとったあの指が触れたんだ。
‌‍ 見上げた雨宮さんは、爽やかに笑っていた。
 ‌‍は、反則だ。普段笑わない人は、微笑むだけで反則だ。ズルい。格好いい。
「あの、いえ……。お休みなさい」
「ああ。また行くから」
‍ まるで俺に会いに来てくれるかのような、口調。錯覚してしまいそうだ。
‌‍ 彼は、俺じゃなくてケーキを買いに来るのに。
‌‍ 笑った顔を見たら、更に頭から離れられなくなる。あの手に、触られたい。
‌‍
**

「俺はホモじゃ無かった!」
‍ 新作のスィートポテトを机に叩きつけながら、さやを見下ろした。
「……あんた、声、大きいわよ」
「え!?」
‍ 昼休みだったから騒いでいたのに、しぃんと静まり返り教室中が俺に注目している。
 慌てて隠れるように椅子に座ってカバンで視線をガードしつつ真正面のさやに小声で説明する。
‌‍ 今日はだて黒縁眼鏡の、文学少女風のさやが呆れた顔でスィートポテトを掴む。
「なんか進展あったの?」
「かっこよかったんだっ」
「か?」
「ほら、俺、ずっと身長低かったし女の子に間違えられたりしてたろ? あの人が俺のなりたかった、『理想』なんだよ。憧れなんだ。しかも同い年ってさ。そりゃあ憧れちゃうよ。しかも香水とか使ってそう。柑橘系の爽やかなやつ」
「あー、このスィートポテト蜂蜜入ってるんだ。美味しい」
「……聞けよ!」
‍ 俺もスィートポテトに手を伸ばした。さやは紙パックの珈琲を飲みながらため息を吐く。
「聞いてるよ。ただ、あんた鈍感だから当てになんないの」
「だかーらー」
‍ 当てにならないってなんだよ。ただ雨宮さんが男の俺から見ても格好いいって話をしたいだ。
「でも、あんたいつも甘い匂いするよね。甘い匂いと爽やかな柑橘系の香水って正反対で良いわよね」
‍ フッと小馬鹿に笑うさやに何だか腹が立つ。
‌‍ 同い年なのに色々分かった風で喋りやがって。彼とは大違いだ。
「さやには男心が分かんないんだよ。‌‍あーあ。雨宮さんみたいに格好よくなりたかったな」
‍ ため息を吐きながらスィートポテトを食べたが、この新作旨い。
‌‍ 雨宮さんにも食べてもらいたいな。
‌‍ たった一言喋っただけで、こんなにドキドキして名前を呼ばれただけで、フワフワするんだから。
「そんな甘い物幸せそうに食べてる憂斗見てると、全然男らしさを感じないんだけど」
「なっ! さやにはもう新作やらない!」

「あら。じゃあテストのヤマ教えないから」
‍ フフンとだて眼鏡を上げながら、不適に笑う。
‌‍ 俺がさやのヤマにどれだけ助けられてるか知ってるくせに意地悪な奴だ。
‌ 顔に出ていたのか、さやは満足げに頷く。‍
「憂斗は可愛いわよ」
‍ そう言うと、スィートポテトを全部平らげてしまう。
‌‍「英語のテスト範囲、出そうなトコ、纏めといてあげる」
‍ にっこにこ笑うから、情けないけど敵わない。
「うん。よろしく」
‍ そう言うと、さやは可愛らしく首を傾げて笑う。
‌‍ さやは幼馴染みだし、何でも言い合えるし、本当に気の置けない友達だ。
‌‍ さやみたいにいっぱい喋ったら、友人みたいに距離を縮められたら、ドキドキも収まるんだろうか?
 友人や、兄弟ならば、――あの指に触れてもいいんだろうか。

 そろそろ来る時間。
‌‍ わくわくする。けど近づくテストは、わくわくしない。
‌‍
「どこが発音のアクセントだとか分からない」
「憂ちゃん、勉強するならバイトお休みしてもいいのよー?」
‍ 母さんが呆れながら此方を見る。
‌‍ お客さんが居なくなると、ノートを開いては単語を書いて読んで、覚え中。
‌‍ もちろん今日は、雨宮さんが来るまでの予定だし。来たらバイトも上がって勉強予定だ。
‌‍ だから、店の前のコンビニをさっきから見てるんだけど今日はまだ。まだ十八時前だし、ほかの制服の人らは何人か歩いてるんだけど塾の終わる時間ではない。
‌‍ でもついついコンビニを凝視していたら、自動ドアが開いた。
「あっ!」
‍ スマホをスボンのポケットへ入れながら雨宮さんが入ってきた。
 不意打ちだ。コンビニに寄ってからいつも来るのに、今日は直接塾が終わってケーキ屋に来てくれたのかな。
「い、いらっしゃいませ」
「ふっ。何驚いてんだよ。あのさ、アップルパイ頼まれてんだけど?」
‍ 雨宮さんが笑うと、伏し目がちに髪を掻きあげた。
‌‍ サラサラな髪が揺れると、今日は目が覚めるようなミントの香りがした。
‌‍ あれだ、眠気覚ましに食べるガムの匂いに似ている。
「は、はい! 母さん!」
‍ 見惚れてしまいそうで、慌てて首を振り、厨房に駆け込む。
‌‍ するとオーブンの前であわあわする母がいた。
「ごめんなさい。あと五分で焼き上がりますー」
オーブンの調子がまたよくないのかな。十年以上騙し騙し使ってるから、こうなるんだ。
‍ でも五分は此処に雨宮さんが居てくれるんだから、古いオーブンナイス。
「あー、じゃあ時間潰して来ようかな」
「えぇ!」
‍ つい口に出してしまい、慌てて口を押さえた。
‌‍ けど、雨宮さんは俺を見て、ニヤッと笑う。
「――嘘、だよ」
‍ そう言うと、クッキーやマカロンが並ぶ台の横の椅子に座った。
‌‍今の嘘って、俺に対して意地悪? もしや俺が行ってほしくないってバレてた?
「もうすぐテストだよね」
「え、あ、はい」
「テスト期間は憂斗、店から居なくなるじゃん」
 ‍俺の手に握る、英単語帳を見て、言う。
‌‍ 俺はただただ首を縦に振るしかできない。
‌‍ 視界にさえ入ってないと思ってたのに俺の事、意外と気づいてくれてたんだ。
「来週は俺も来るの止めようかな」
‍ 切れ長の目を細め、雨宮さんが微笑む。
「な…なんで?」
‍ 英単語帳に顔を半分埋めながら、恐る恐る聞くと、雨宮さんは、あの大きな手で口元を隠しながら笑う。
‌‍ごつごつし骨張ってない、スラリとした長い指先がすきだ。
「――何でだと思う?」
‍ そう、甘い声でいった。
‌‍ 声も、手も、顔も、全て格好いい雨宮さんはズルい。
‌‍ 何て答えていいか分からず、単語帳に顔を埋めてしまった。
‌‍ 雨宮さんが声を殺して笑ってるのが聞こえてくる。
‌‍ 俺、からかわれてるじゃん! でも、恥ずかしくて顔、上げられない。
というか同い年! 俺たち、タメなのになんで俺敬語で話してるんだよ。
‌‍ でも突如として、どうして良いか分からない雰囲気に、救世主たちが現れた。
‌‍「ただいまー、おにいたん!」
「いいこにしてたー? おにいたん!」
‍ ピンクのスモックに、黄色い鞄を肩から大きく揺らしながら、双子の妹たちが帰ってきたんだ。
「いらっしゃいませ。こらー、りの、しの、お店から帰って来たら駄目じゃないかー」
‍ デレデレと笑いながら、父さんも入って来た。
‌‍ 俺にしがみつくりのとしのを引き剥がしながら、苦笑している。
「ダーリン! アップルパイをお待ちよ。オーブンが温まるのに時間かかっちゃって」

「ああ、すまない。ほら、りのとしのは着替えておいで。少しお待ち下さいね」
‍ バタバタと嵐が去ると、ゆっくりと雨宮さんの方を向いた。
‌‍ 目が点になっている。イケメンの鳩が豆鉄砲を食ったよう顔はなかなかにシュールだ。
「――双子の妹まで居たんだ」
「普段はお店に来ないようにしてるしバスで帰るんですが今日はピアノがあって」
 園内でレッスンしてくれるから助かってるけど、バスに間に合わないのがネック。
 両親が忙しいときは俺が迎えに行くけど、車で迎えに行った方が早いし楽だから本当に偶にだ。
「生意気な感じがたまらなく可愛いでしょ」
 へへっと俺が笑うと、足を組み直しながら雨宮さんは甘く此方を見ていた。
「もしかして、その前髪……」
‍「はい。……妹たちのリクエストだったのがいつの間にかズルズルと」
‍ 俺の前髪は、朝妹たちが花のついたゴムで結んでくれた。
‌‍ 今、帰って来たりのとしのも、同じピンクのリボンだったりする。
‌‍ 日によってはピンだったりするけど。
「髪を結ぶのを嫌がったから、俺も結んでたらこうなりまし、た。まあふわふわのくせっ毛だから意外とまとまらなくて、結んだりピンでとめると楽なんですよね」
「似合ってるよ」
「笑いながら言われても、嬉しくありません」
「俺も妹いるからわかる。可愛いから逆らえないよな」
 ずるいなあ。
 今まで無表情な顔しか見てなかったから笑うとギャップで、心臓がバクバクする。ギャップがありすぎるのは反則だ。
「そ、そうなんです! 雨宮さんの妹さんは何歳で」
「できましたー。何等分にしますー?」
‍ 俺が質問していると、母の声で遮られた。
‌‍ 奥から良い香りも漂って来る。
‌‍ しょうがなく、俯いて会話を断念したけど、うなだれてしまう。タイミング考えてって言う方が無理なんだけどさ。
 そんな俺に、気づいたのか気づいてないのか、雨宮さんは立ち上がって、レジでボーッとしている俺の横に近づいてポンポンと頭を叩いた。
「8等分で」
‍ 熱々のパイを切り分け、箱に摘めていく。
 頭、なでられた。同い年なのに子ども扱いされてる気がする。
 色々複雑になって単語帳に顔を埋めて逃げた。
「木曜は居る?」
「はい!」
‍ そう返事をすると、目を細めて笑う。
「じゃあ、木曜は憂斗のオススメ買う」
「はいっ」
‍ 単語帳から顔を出して、何度も何度も頷くと、雨宮さんは声を押し殺して笑っていた。
‌‍ そのまま、道路を挟んで向かいのビルに入っていく。
‌ 塾で皆で食べるのかな。
「今の人、笑うと格好いいわねー」
‍ 母さんも俺の横で感心するように頷く。
‌‍ 目を細めて笑う姿は格好いいし、本当に憧れる。
 あのごつごつ骨ばっているけど長くて大きな指は、正直うらやましい。
 俺がジムに通ったり体育系の部活を何年してても絶対にあんな筋肉の付き方にはならないだろうし。本当に格好いい。
そんな憧れの人にケーキかあ。
‌‍ 俺のオススメって何が良いだろう?
 いつも見てるから、すっごい甘いのも買ってたし、そこは配慮しなくて良いのかな?
「あら、単語帳とにらめっこは止めて、ケーキとにらめっこしてるの?」
‍ ショーケースを見つめる俺に、母さんはのんびり尋ねる。
‌‍ でも今は、答える暇などない。
‌‍ オススメを選ぶなんて、単語帳を全て覚えるより難しいんだから。
‌‍
**

「辞書引きなさいよ。AcquisitionとRecaptureの意味はねぇ」
‍ タルトタタンかナポレオン、ミルフィーユはこの前買ってたしなぁ。
‌‍ ちょっとスポンジがビターなティラミスか、俺はミルクレープにジャム乗っけて食べるのが好きだけど、雨宮さんならアルカザールとかガトーショコラも絵になるしなぁ。
‌‍ でもショートケーキにプリンにシュークリームも捨てがたい。
「聞いてるの? 小テストで間違った単語、覚えるまで書いてやり直ししなさいよ」
 現実に目を向けて見れば、ぎりぎり平均いかなかった単語テストの解答用紙が机に置かれている。裏に覚えるまで書いて再提出だ。
 あんなに昨日は単語帳と睨めっこしていたのに、なんでだよ。
「駄目だ。全然単語が覚えられないよ。帰ってから書く」
「覚える気が無いんでしょ。赤点取って、指定校推薦貰えなくなれば良いわ」
 思い身体に鞭を叩き立ち上がってとぼとぼ歩く俺の横で、さやがミニテストを持って対策を考えてくれている。
‍ 今日はオレンジ色のだて眼鏡に、同じ色のマニキュア。
‌‍ さやこそ、マニキュアがバレて指定校推薦取り消されたら大変じゃん。
‌‍ とは言うものの、帰り道まで俺の単語の暗記に付き合ってくれてるんだから良い奴なんだよなぁ……。
‌‍
「なぁ、最近食べたウチのケーキで、どれが一番美味しかった?」
「――あんた、まじで覚える気ないのね。見捨てるわよ」
‍ そう言いつつも、プリントを折りたたみながら少し考えてくれた。
「あの蜂蜜入りのモンブラン」
「あー! モンブランか!」
‍ 栗の季節は、いっぱい試食させられるから忘れてたよ。
‌‍ モンブランなら確かに買うの見たことないなぁ。
‌‍ モンブラン入りロールケーキとかも美味しいにどうかな。
「あ、さや、父さんが試作品要るなら店に寄ってって」
「そりゃあ、行くけど。私を太らせてどうする気かしらね」
‍ ぶつぶつ文句を言いながら、店の前に差し掛かった。
‌‍ 信号が赤に変わり、さやはスマホを取りだした。
‌‍ 俺は振り向いて、オフィスビルを見る。
‌‍ 1階のエレベーター前に警備員も立っているし、中にははいれないんだよな。
「……今日はまあ居ないか」
「いるよ」
「いるんだってーーえ?」
‍ 見上げていた顔をそのまま後ろに仰け反ると、視界に反対向きの雨宮さんが映った。
「雨宮さん」
「今、俺のこと探してたろ?」
‍ クッと笑うと、長い指先で頬を掻いている。
「ど、どうして分かったんですか?」
「顔に書いてあるじゃん」
‍ そう言うと、雨宮さんはネクタイを掴むと少しだけ緩めた。
‌‍ なんか野性的で色気が漂ってくる。あの渋い緑色のネクタイがダサいと笑っていたやつらに見せつけたいぐらい。いや、誰にも見せたくない。
「憂斗、先に行ってるからね」
「あ、うん! 」
‍ ニヤニヤしながらさやは、なめ回すように雨宮さんを上から下まで観察し横断歩道を歩いていった。
‌‍ でも今は学校終わりの5時半。いつも雨宮さんを見るのは塾終わりでの七時ごろなのに。
「こ、んな時間に珍しいですね」
「ああ。テスト前は成績上位組は個室貸してもらえるんだ。学校も駅の近くの図書館もファミレスも人が多くてさ」
‍ そう言うと、けだるげに前髪を掻き上げた。
‌‍‌‍ いつも残り香だったけど、近くで匂うと爽やかな柑橘系の香りにちょっと甘さが漂ってる。
‌‍ でもこの甘さは知らない雨宮さんをみるようで、嫌だな。‌‍ちょっと距離を感じてしまう。
‌‍「ずっと見ないでよ。穴が開くじゃん」
「へ?」
雨宮さんが首を傾げた。
「それか俺に見惚れてた?」
‍ 見透かされたように不敵に笑われ、頭が真っ白になる。
‌‍ なんだか玩具みたいにからかわれているようで恥ずかしくなった。
「し、失礼します」
‍ そう言うと、右腕を捕まれた。
「――ごめん。意地悪だった」
‍ 掴まれた右腕が少し痛い。
「憂斗、可愛いから。――意地悪したくなるんだよ」
「痛いっ」
‍ からかってるんだ、と雨宮さんの手を振り払おうと振り返ると、困ったように笑う姿に見惚れる。
‌‍ 普段感情が乗らない整った顔が、懇願するような困り顔で俺を見ている。‌‍何を喋って良いか分からず、手を振り払うと下を向く。
‌‍ 気まずくなって戸惑う俺に、雨宮さんから話しかけてくれた。
「単語、昨日も勉強してたよな?」
「……苦手で」
「何が苦手? 暗記? 文法?」
「発音と暗記と文法」
「クッ 全部じゃん!」
‍ 雨宮さんが楽しそうに笑うから、胸がドキドキする。
「どれ? どの発音?」
‍ そう言われたから単語帳を開いて渡す。
‌「これ?」
‍ 聞き返され、一緒に単語帳を覗き込んだ。
‌‍ 近すぎる距離に緊張してしまう。
‌‍ 近づけば近づく程、甘い香水の匂いがする。この匂いは嫌い。いつもの爽やかな香りが言い。
「憂人?」
質問されていたと我に返りブンブン頷くと、雨宮さんは安堵したように笑い返した。
‌‍
「舌、出して」
「し、舌!?」
「発音のコツ、教えてやるから、ほら」
‍ なんだか恥ずかしいけど、せっかく雨宮さんが親切に教えてくれるんだから断りたくない。
‌‍ そう思って、勇気を出しておずおずと舌を出してみた。
‌‍ どこを向いたら良いか分からず、目を閉じた。
「…………ふ」
‍ 本当に微かに、雨宮さんが笑ったかと思うと、温かい何かが舌を触り次の瞬間、舌に苦味が走りミントの味が広がった。
‌‍「憂斗、顔エロッ」
「え!? てか今、舌を触ったの……」
‍  楽しげに笑う雨宮さんを見ていたら、答えてもらわなくても分かった。
さっきまでの困惑していた殊勝な姿はポーズだったのか。
「信じたのに」
‍ 一瞬、唇が触れたのかと勘違いした。キスした事ないから分からないけど無駄にドキドキさせられて悔しいのでにらみつけた。
‌‍「雨宮さんの馬鹿! 意地悪野郎!! お……オススメなんて教えませんから!」
‍ チラッと横目で見ると信号の青が点滅している。
‌‍ だから俺はそのまま雨宮さんの返事も待たずに駆け出した。
‌‍ 追いかけて来ないだろうし、どうせまた笑っているだろうし。
‌‍ ――あんなお兄ちゃんは要らないや。
‌‍ 口喧嘩しても勝てなさそう。
‌‍すぐに店に入るとさやと、二人女性客が試食を父さんから渡されていた。
「いらっしゃいませ」
‍「遅かったね」
‍ ニヤニヤするさやを睨み付けながら、女性客に頭を下げる。
‌‍ 巻き毛が綺麗な女性客二人は、雨宮さんと同じ双葉高校の制服だ。女性はチェックのリボンで可愛い。
「わー。制服姿は可愛いね」
「かっ」
「この新作のホイップクリームのプリン、キミが提案したんだってね」
‍ きゃぴきゃぴしてる綺麗な女性に囲まれて、照れてしまう。
‌‍ バニラ系の甘い香水の香りがしてくる。
‌‍ 雨宮さんと大違いだ。

「あ、清人くん。下まで降りて休憩かな」
「学年一位の余裕でしょ」
‍『清人くん』
 その綺麗な二人は、雨宮さんを下の名前で親しげに呼んだ。
 ‌‍クスクス笑いながら、二人はケーキを注文する。
 ‌‍保冷剤を取りに消えた父の代わりに俺がお会計をした。
 ‌‍領収書を発行している間、二人がこそこそ話しているのが聞こえてしまった。
‌‍
「清人くんとキスしたらミントの味がしそう」
「あはは。分かる分かる!」
‍ ‌‍確かに、さっき口の中にミントの味が広がったし苦かった。
‌‍ でもいつもは柑橘系の爽やかな香りだし本当に苦いのだろうか?
 ざらりとした感触なんだろうか?
 あんなに綺麗な女の人に囲まれた学校だし県内トップの進学校だし、雨宮さん、意地悪だけど格好いいし、恋人とか居るのかもしれない。
「う、うわぁぁ!」
‍ 何を想像してるんだよ。あんな嫌な奴に。
「何よ、うるさいわね」
「あれ、さや。まだ居たの?」
「――首閉めるわよ」
‍ 危ない危ない。
‌‍ さやの前で、一人で悶絶する所だった。
‌‍ 雨宮さんが誰かとキスするのを想像したとか絶対にバレたくない。
「格好いい人ねぇ」
‍ ニヤニヤ笑うさやからは、悪意しか感じない。
「――でも性格は意地悪だったよ」
‍「可愛い弟みたいに意地悪しちゃうんじゃない?」
‍ 弟か。その言葉、好きじゃないかも。
「まぁいいよ。それより英語、頑張るよ。分からない所はラインするから教えてな」
‍ 雨宮さんに、自分の力だけで此処まで出来たって自慢してやる。
「はいはい。じゃあまた明日ね」
‍ さやは面倒臭そうにヒラヒラ手を振りながら、お土産を持って帰って行った。
「お前、さやチャンとまだ付き合わないのか?」
‍ 父さんに出来立てのマカロンを渡されながら聞かれる。
「さやは友達って、俺は中学から何千回と言ってるよね?」
‍ふんわり柔らかいマカロンは、美味しい。色はピンクが一番可愛いなぁ。
‌‍
「はぁ。お前も早く彼女連れてこないかなぁ」
「幼馴染みと付き合うって素敵だと思うわよ」
‍ 今は親の言葉なんて無視。
‌‍ マカロンの食べる音で掻き消してやる。今はこの単語帳と、にらめっこだ。

***

‌‍ マカロン、タルトタタン、ミルフィーユ、ティラミスエクレア。
‌‍ クイニーアマン、アルカザール、ナポレオン。
‌‍ シャルロットポワールにババロアにミルクレープ。
‌‍ 頭も口の中も、甘くふわふわ包まれたい。お菓子の事を考えるだけで、甘い香りがしてくる気がする。ウチの店は、砂糖ではなく蜂蜜をたっぷり使って濃厚な甘さが売りなんだ。蜂蜜も瓶で売ってるけど、あれをスプーンで一口食べたらもう止まらないよ。
‌‍ ああ、帰ったらオヤツにしよう。
 甘いものを食べながら単語帳を開くといつもより覚えていうような気もする。
「よ、おかえり」
 ‍と、テスト前に甘いお菓子の事ばかり考えて現実逃避してた。
‌‍ そのまま、店に帰りついた。今日の出来立てのスイーツはなんだろう。
 楽しみだったんだけどなあ。
「はいはい。逃げるな。逃げるな」
‍ くるりと踵を返して店から出ようとしたのに、肩の鞄を捕まえられてしまう。
‌‍ 店の時計を見ても、まだ6時半にもなってない。
テスト前は塾も自習なのかな。
‌‍「早く憂斗のオススメ選んで?」
‍ そう言うと、雨宮さんも店の時計を見上げる。
「憂斗?」
‍ 俺を覗き込む雨宮さんの髪が揺れた。
‌‍ ミント系の爽やかな香りがする。
‌‍ 何個か香水を使い分けているのかな。
「オススメってば」
「意地悪する人には教えないって言いましたよ!」
‍ 本当は考えてるんだけどね。
「憂斗ー、帰ってるならちょっとお使い頼む。ネギ買って来てくれ」
「母さんは?」

「愛娘達とご飯の準備」
‍ 甘いケーキの妄想が、ネギによって現実に引き戻されてしまった。
「ほら、憂斗、これ御駄賃。お客さんにはサービスだよ」
‍ そう言って、シュークリームを渡される。
‌‍雨宮さんを見上げると、ん?と首を傾げてこっちを向いた。
‌‍……早く帰って貰おう。
‌‍その渋くて低い声も香水の香りも、なんだか胸が苦しくなるから。
テスト前には、全部劇薬だ。
「これと、これ」
‍ 俺はオススメをちょっとぶっきらぼうに指差す。
‌‍でも拗ねた様なガキみたいな行動に、雨宮さんは笑った。
「いっぱい考えたんです。でも一番好きなのは、やっぱり甘さを控えた生クリームに、蜂蜜をいっぱい使った甘いスポンジのショートケーキ。この店らしくてオススメです。……あと、モンブランも割るととろりと蜂蜜が出て……」
‍ 隣で相槌もないので、横の彼を睨みつける。
「……って聞いてます?」
‍ 雨宮さんは、ショーケースの上で肘を立て此方を見ている。
‌‍ いや、見守ってる?
「ああ。一生懸命話す憂斗は可愛いなぁと」

「かっ」
‍ 男に可愛いってなんだよ。言われ慣れてるけどなんだか雨宮さんには言われたくない。 悔しくて、御駄賃のシュークリームをワイルドに噛みつく。
「では、用がありますので」
‍ そう言って、むっしゃむっしゃ噛み千切るようにシュークリームを食べながら外に出た。
‌‍ あ、胡桃が入ってて食感が新しいぞ。
‌‍ やっぱり甘い甘い、ケーキが好き。
‌‍兄ちゃんみたいに憧れてたのに、弟と言われると何故か嫌になる、意地悪で雨宮さんは嫌い。嫌いだ。
「置いてくなよ」
「……もぐ」
「はいはい」
‍ 食べてるから話せませんと目線で合図すると、苦笑された。
「ありがとな、家に帰ったら食べるよ」
‍ クシャクシャと髪を撫でられる。
‌‍ 機嫌でもとってるつもりだろうか?
「もぐ」
‍ 返事を曖昧にして歩き出した。
‌‍ 一本細い道に入るとすぐに信号で止まってしまった。
 ‌‍本当は通りも少ないし、商店街までは人はあまりすれ違わないから信号はよく渡ってしまうんだけど今日は立ち止った。
「憂斗」
‍ 雨宮さんが吹き出しながら名前を呼ぶ。
「店出てからずっと、生クリーム着いてるぞ」
「え!?」
‍ すぐに手の平で顔を擦るが、クリームの感触は無い。
‌‍ 左頬、右頬を触るが手応えがなく慌ててしまう。
「違う、ここ」
‍ そう言われて見上げると、雨宮さんは真顔で見下ろしていた。
「――ここ」
‍ そう言って、唇をなぞられる。
‌‍ 俺は、なぞられた唇を少し開けて、息を溢した。
 ‌‍ゆっくり近づいてくる雨宮さんの顔と時同じく、信号が変わった。
‌‍ でも金縛りにあったかのように、身動きがとれなくなる。
‌‍「あま……!!!」
‍ しっとりした唇が、重なった。
‌‍ 目を見開いて目の前の雨宮さんを見た。
‌‍ パニクってる俺に、雨宮さんは舌を侵入させようとする。
‌‍ すぐに歯でガードしたのち、雨宮さんを突き飛ばした。
‌‍ 今、キスされた? 
「……あっ」
「憂斗!」
‍ 点滅する信号を渡り、すぐに細道の壁に隠れる。
‌‍ 裏道に詳しくなければ雨宮さんは追って来れないはず。
‌‍ 胸が痛くて、服を掴む。心臓がぞくぞくする。
‌‍心臓じゃない、身体のもっと奥が痛い。体中が心臓になったみたいだ。
‌‍びっくりしたけど、けど、ミントの味、しなかったなぁ。
‌‍ 微かに奥が苦い感じがしたけど。
‌‍ なんか着色料のある水みたいな? うがいしたのかな?
「って何で俺、冷静に色々分析してるんだよ!」
‍そんな余裕、無いのに。
‌‍でも、でも、でも、この前の指の方が、苦かったのは本当だ。
‌‍なんで、なんで俺なんかにキス、したんだろう?‌‌

 雨が降る月曜日。学力テストが始まってしまった。
 英語は苦手だから暗記に賭けるしかなかったんだけど、今回は期待できない。
 勉強すればするほど雨宮さんを思い出して集中できなかった。
‌‍「憂斗、テストどうだった?」
‍「お前、朝から顔が死んでたよな」
‍ 弁当と椅子を引きずりながら、友達たちが集まって来る。
‌‍ 外は、窓を閉める必要が無いぐらいの細い雨。じとじとする教室で、弁当を広げながらため息を吐く。
‌‍「駄目。‌‍全然集中できなくて」
‍「おいおい、大丈夫か? このテストで評価決まるらしいぞ」
‍「あー、でも憂斗は専門学校の指定校狙いだよな。二年の時に目標評点超えてたんだろ」
‍ パンの袋を空けながら友達たちもため息を吐く。
‌‍ 俺のクラスは、私立文系クラスだから他の国立を狙うクラスよりは受験に緩い。
‌‍ ただ、このテスト結果で私立の推薦か指定校推薦かが決まるから試験がまだ先の国立クラスより気合いは入っていた。
‌‍ でも俺のため息はテストや志望校の事じゃない。
‌‍ いや、あんな事が無ければ、みんなとテストでひーひー言えてたのに。
‌‍「差し入れ食べる?」
甘いものでも食べなきゃやってられないと、昨日親にお願いしてスイーツを大量に詰めて貰っていた。
‍「食う食う!」
‍ 保冷剤を積めたケーキの箱から覗いたのは、一口サイズのシュークリーム。
‌‍よりによって、このタイミングでシュークリームかよ。
‌‍「……全部あげる」
‍ あーあ……。大好きな甘い物なのに。
‌‍ 食べたら考えないようにしているあの事を思い出してしまう。
‌‍ 胸が爆発しそうだ。
‌‍ てか、俺のファーストキス。
 ‌‍あ、いやファーストキスは母か幼稚園時代にさやのはずだけど意識したキスは初めてだ。
‌‍ 雨宮さんは、男の俺なんかにキスして気持ち悪くなかったろうか?
 口についたクリームを舐めるほど、甘い物が好きなんだろうか?
「なぁ、憂斗、お前この前、告られたらしいな。聖マリア女学院の女の子に」
‍ 美味しそうにシュークリームを口に投げ入れながら言われた。
‌‍ さやの仕業だな。黙っていたのに。
「うん。断ったけど」
「どんな子? 可愛い?」
‍ 雨宮さんを忘れる為に必死で思い出す。
‌‍ 真っ赤な顔、潤んだ瞳、艶やかな唇。声も指先も綺麗で、住む世界が違いそうな子だった。圧倒されて断るのがやっとだった。
「俺には不釣り合いなぐらい美人だった」
‍ そう言うと、『おぉー』だの、『よっしゃー』だの興奮した叫び声が上がる。
‌‍「紹介しろよ! 聖マリア女学院なら受験無しで付属の短大か大学に行くだろうし!」
「え、同い年かも分からないよ?」
「駄目だなぁ。キープしとけよ!!」
‍「きっ? なんて失礼な言い方なんだ。俺には不釣り合いだから断ったのに」
「あー文化祭、侵入してみてー」
「あそこ、身内以外参加できないはずだぜ」
‍ ガヤガヤと騒がれて、ちょっと鬱陶しくなってきた。
‌‍ 受験にテストに、恋愛に、本当に毎日忙しそうとか他人事のように感じてしまう。
 というか友達だけど、価値観の違いに距離を感じてしまう。
 それとも惚れた相手の文化祭には忍び込みたいのが男心なのか。それが普通なのか。
 皆の話を聞いてももやもやしか残らなかった。

***

 午後からのテストはまあ可もなく不可もなく。
 さっきまでえげつない恋愛観を話していた友人たちはもうテストの答え合わせでそのことも忘れ、さっさと勉強をしにファミレスへ向かっていった。
 俺はどうしても一緒に行く気分になれず、妹たちのお迎えがあるからと適当なことを言い、理系クラスのさやの帰りを待った。
‌‍「俺、さやと居た方が安心する」
「全然ときめかないのは何でかしら?」
‍ さやに睨まれながらも、単語帳を見ながら歩く。
「てかテスト期間なのに何で俺んちにさやも向かってんの?」
 確かに帰りを待っていたけれどいつもなら通りすぎるはずの俺の店に、さやは遠慮なく入っていく。
「いっつも試食ばかりだからね。テストの御褒美に予約してんのよ」
‍ テスト1日目のご褒美?
そう思いながら店に入り、電話の横に置かれたタブレットから予約の確認する。
‌‍「あ……」
『雨宮 様 誕生日ケーキ』と書かれていた。
‌‍ 取りに来るのは明日だ。
‌‍ 明日が雨宮さん、誕生日なのか。
‌‍ テスト期間で会えないからお祝い言えないけど。
‌‍ いやテスト期間じゃなくてもどんな顔して会えばいいのか分からないし、なんで俺はお祝いしようとしてるんだよ。
 相手は人の許可も取らずにキスしてくる人だぞ。
‌‍「あら、憂斗たち。おかえりなさい」
「なぁ、この『雨宮様』って、火と木に来るあの雨宮さん?」
‍ 母さんは、さやが予約していたケーキを箱に入れながら首を傾げる。
「多分、違うと思うわよ。電話は女性だったもの」
‍ 女性……?
「じゃあ知ってる人? 電話予約は知らない人、お断りだよね?」
「そうなんだけど、『いつも美味しく頂いてます』って言われたから、断らなかったのよー」
‍ ……駄目だ。
‌‍ ふわふわ、おっとりな母さんじゃ話にならない。
‌‍ まあでも別に、いつも来る火曜の予約だから気になっただけだし他に雨宮さんって客が居るのかもしれない。
‌‍ 気にしないでおこう。どっちにしろテストに集中できなくなる。
 単語帳を開きながらさやが帰るのを待つ。
‌‍「ケーキや甘いお菓子の名前ならすぐに覚えられるのになぁ……」
‌‍ ローマ字の羅列が俺を眠りに誘う。
‌‍ よし! 英語は最終日だし歴史と数学を覚えよう。
「憂斗~。金曜はテスト最終日なら二人のお迎えお願いして良い?」
「いいよ! テスト御褒美に俺もホールケーキ作っていい?」
「ええ。いいわよー」
‍ めっちゃくちゃ生クリームたっぷりにするか、飴細工でお洒落にするかビターチョコのケーキでもいいな。ストレス発散にとびっきり時間かけてケーキを作りたい。
「わーい! 私も食べるー!」
「私もー!!」
‍ 妹たちがピョンピョンと俺の回りを飛び回る月曜日。
‌‍ 今日はまだ平穏な方だったんだ。

***

‌‍ 火曜日の本日はくもり。
‌‍ 歴史の選択問題と、数学の証明に確かな手応えを感じ、幸せいっぱいに帰った。
 ‌‍――帰ったのに。 
「凄く、綺麗な女の方だったわ。雨宮さん」
‍ 母がオーブンとにらめっこしながら、テストの手ごたえを聞くより先にそんなことを言ってきた。
「え……?」
「花柄のワンピースの綺麗な女性だったわ。
‌‍でもロウソクが大きいの一本と小さいの八本だから、彼女の誕生日ケーキじゃないかもね」
「え……?」
‍ 十八本ならば俺と同い年。雨宮さん用ってこともあるのかな。
「あら、やだ! 個人情報を私ったら」
 母にそれ以上追求できるわけもなく、お陰で次の日の水曜の国語と古文は散々だった。
 動揺してる自分が理解できない。

***‌‍

 散々だったテストを思い出しフラフラになりながら帰宅した。流石にさやとも話す気力はなく、そそくさと出てきてしまった。
 甘いものを食べて元気出さないと。
「雨宮くん!」
‍ コンビニの前でスマホをいじっている雨宮さんを見つけてしまった。
‌‍ 俺はすぐに壁の後ろに回り込み、雨宮さんが去るのを待つ。
‌‍ 同じ高校の人だろうか。ピンク色の綺麗な唇が色っぽい女性と話している。
「テスト前に余裕ね。でも今回だけだからね。はい」
‍ 女の人は、雨宮さんにショップ袋に入った何かを渡していた。
「サンキュ。女の子の香水とか買うの面倒でさ」
「でも買うなんて優しいわね。でも雨宮くんの方が香水は詳しいでしょ」
‍ クスクスと笑う女の人は綺麗で、見てる俺さえドキドキしてしまう。
「欲しい欲しいうるさいから。本当に甘い絵上手でさ」
「でも可愛いんでしょ」
「……まあ」
‍ 雨宮さんヘ微笑んでその女性は帰っていった。。
‌‍ それ以上は雨宮さんも何も言わなかった。
‌‍ ケーキ屋に来てくれたこの前の二人も綺麗だったし、あんな綺麗な人ばっか居るのに、雨宮さんはクールで表情1つ変えない。
‌‍ それは、その香水をあげる女性が大切だから、他の人には目もくれないのだろうか?
 ‌‍じゃあなんで俺にキスなんかしたんだろう。
 有名進学校のおぼっちゃまが手あたり次第摘まみ食いしてるっていうことか?
 俺の今日のテストの結果を返してほしい。そのまま道路を渡って彼と接触せずケーキ屋へ戻ろうと駆ける。
「憂斗っ」
‍ ‍雨宮さんがあんなに大きな声を出すとは思わずに、でも振り返る事もできずに店の裏口から二階の自分の部屋へと入った。
‌‍ カーテンから覗くと、まだ雨宮さんはこっちを見ていた。
‌‍
 あの日のキス、あの女の子用の香水。そしてケーキ。
 それから導き出す答えも証明式も分からない。数学よりもこっちの方が難しい。
‌‍ 頭を叩いても、揺さぶっても、かきむしっても、答えなんて分からない。
‌‍
***

「面白いほど百面相してたね、加賀くん」
‍ テスト終了後、さやを下駄箱で待っていた時だった。
「檜山(ひやま)先生」
‍ 苦笑しながら話しかけてきた眼鏡の先生は、さやの大好きな英語先生で、俺のクラスの副担だ。
「そんなに数学難しかった? 明日の英語、大丈夫ですか?」
‍ どんな生徒にも敬語を崩さないし、口許の黒子が色っぽいらしくて、さやみたいに女の子から人気が高い。今もこうして俺を心配してくれてる。
 俺は男のくせに可愛いってよく言われるのが苦手だったんだけど、先生も中性的で綺麗だと言われるのが嫌だと不満を言っていて、勝手に親近感を持っている。
「ありがとうございます。リスニングだけは頑張ります……」
「リスニングだけですか?」
‍ どっと檜山先生が笑うと同時に、さやがトイレから出てきた。
「檜山先生!!」
‍ さやの目がハートになってる。
‌‍ 普段サッバサバして俺より男らしいのに、顔が女の子になってる……?
「前嶋さん。明日のテスト頑張って下さいね」
「先生のテストなら頑張ります! ヒント下さいよー」
「ヒントは教科書から出すってぐらいですかね」
「やだー」
‍ バシバシ可愛らしく叩いてるつもりかもしれないけど、先生、前につんのめってるよ?
「そういえば、前嶋さんがこの前くれたシュークリーム、加賀くんの家のらしいですね」
‍「食べたんですか?」
‍ 俺が聞くと、先生は優しく笑った。
「はい。美味しかったです。甘いもの、好きですから今度自分で買いに行きますね」
「やーん。私が買ってきますよー!」
‍ 美味しかったです、か。
‌‍ 雨宮さんからは言われた事、ないや。先生からでさえこんなに嬉しくなるんだ。
‌‍ きっと、もっと嬉しいんだろうな。
‌‍ 俺が選んだオススメは、美味しかったって言ってくれるかな?
 そもそももう話すタイミングもどんな顔で話していいのかわからないけど。

***

「あ」
「げっ」
‍ 店から出てきた女の子を見て、声をあげたら相手も嫌そうに声をあげた。
‌‍ そしてすぐに右手で口を押さえた。
‌‍ 綺麗に隙なく巻かれた髪、やや茶色の髪は地毛なのか柔らかそう。
‌‍ リップを塗った艶やかな唇、気の強そうな大きな瞳。
‌‍ この子、覚えている。俺に告白してきてくれた子だ。
‌‍ 私服でもやっぱり綺麗な子だな。
「あ、ひ、久しぶりだね。もう来てくれないかと思ったよ」
‍ 気まずげに視線を反らされたけどめげずに話しかけてみた。
「だって、ケーキは好きなんだもん」
‍ ……『もん』。
‌‍ しゃべり方が大人びた彼女に似合わなくて可愛くて笑える。
「良かった。俺も自分の店のケーキが一番好きなんだ」
‍ 俺も素直に安心して笑うと、女の子もやや気まずさは残るものの笑ってくれた。
「あの、君って名前は?」
「雨宮さん! おつり、忘れてますよ」
‍ 俺の質問と同時に、母が店から出てきた。
‌‍ 雨宮、さん……?
「君って『雨宮』って言うの?」
‍ そう聞くと、凄くムッとされた。
「毎日通ってたのに! 私の名前も知らなかったの!?」
「あ、ご、ごめんっ。お客様の個人情報を聞いたら失礼なのかなって」
‍ キッと睨んだ女の子は、少し考えてから腕を組んだ。
「『雨宮』は、私の彼氏の名前よ。いつも週2は来てるから分かるでしょ?」
‍ 私の彼氏――?
「貴方みたいな子供っぽい人は止めて、大人と付き合う事にしたの。彼ったら、私の代わりにケーキも買ってきてくれるし、欲しい物は何でも買ってくれるし、私にはとびっきり優しいんだから」
‍ フフンと勝ち誇ったように顎を上げた後、母さんの方を振り返り、受け取り忘れたらしいお釣りを受けとる。
「彼がこの店に来るのはね、私が貴方と会わなくて済むためよ」
‍ フワリと振り返った時に香った香りは、雨宮さんがあげた香水なんだろうか?
 バニラエッセンスみたいな甘い、甘い香りだ。
 バニラエッセンスは甘い香りはするけれど、たくさん入れたら苦くなる劇薬だ。
‌‍ 雨宮さんの彼女、か。
‌‍ 目の前に居るのに、ふわふわと非現実の様で、実感が湧かない。
‌‍ こんなに綺麗な彼女に、雨宮さんは全然負けてないぐらい格好いいし。
‌‍ 俺にき、キスしたのはきっと、口についたクリームを舐めたかっただけだ。
‌‍ 甘いものが欲しかっただけだ。
‌‍
「そうだ。良いこと教えてアゲル」
‍ 女の子はそう言うと、雨宮さんの秘密を教えてくれた。
‌‍‌‌ 
 英語どころじゃない。彼女の言葉は、俺を不安にさせた。英語も漢文も地理も、最悪だ。

「テストお疲れ様!」
‍ バンッと背中を叩かれて、道路までふらついてしまう。
「……そうだな」
‍ さやの力で今俺は木っ端みじんになってしまうぐらいひ弱だ。
「暗いわねぇ。檜山先生のテスト駄目だったの?」
「いや、健闘したよ。……多分」
 でも今は何も考えたくない。
 いまはただただ帰ってから作るケーキの事だけ考えたい。
‍ 砂糖250gに、卵……何個だったっけ?
「今からホールケーキ作るんだよね? 出来上がりにお邪魔して良い?」
「今日は美味しく作れそうに無いよ」
‍ そう返事をして保育園へ向かう。さやが追いかけてこない気配だけ察するのが精いっぱい。今は他の人のことまで考える余裕はない。
‌‍ 保育園のママさん達と挨拶を交わしながらも、あの子の言葉が脳裏を過る。
「おにいちゃん、しのはチーズケーキ!」
「りのはザッハトルテ!!」
‍ 二人と手を繋ぎながら、全然集中できなかった。
「兄ちゃん、今日はテストで疲れてるんだ。紅茶シフォンと紅茶クッキーに変更だ」
‍「きゃーっ」
二人はピョンピョン跳ね回って嬉しそうだった。
‌‍ 花や蝶やら見かけると、いちいち指差して立ち止まるし、店までの距離が長く感じられる。今はさっさと帰って無性にケーキだけ作っていたい。
「あ、おきゃくさま!」
「いらっしゃいませー」
「…………っ!?」
‍ 店に入らず、店の壁に立っている人。
‌‍ 今日は、金曜日だから現れるはずない人。
「――よう」
‍ 会いたくない人が、俺を待っていたんだ。
「こ、こんにちは」
「――目、そらすなよ」
‍ そう言われても、まともに顔なんて見れないし。
‌‍ どんな顔して良いかも分からないし。
「妹たちの世話があるんで、失礼します」
‍ そう言って、裏に回ろうとしたが、腕を捕まれてしまった。
‌「避けるな」
‍ なんでちょっと不機嫌そうなのだろうか。
それに俺もむっとしてしまう。怒るなら俺の方だろ。
「おにいちゃん、先におきがえしてくるよ?」
「こむぎこだして、たまごをじょうおんにもどしておくね」
「あ、いや、行くな! ここに!!」
‍ そう思ったのに空気を読んだ二人は家に入って行った。
‌‍ 店先じゃ、親に見つかるしこの場所から移動できない。
「キス、嫌だった?」
‍ 衝動的に手が動いたが、慌てて反対側の手でつかんでその衝動を抑えた。‍
あんなに色々悩んでテストにも手がつかなかったのに、雨宮さんはストレートに、直球ど真ん中に、俺にそれを聞くのか?
「気持ち悪かったか?」
‍ そんなワケ無いけど、そんな簡単になびく男だと思われたくもない。
「なんでキスしたんですか?」
‍ そう聞く事しかできなかった。
 怒りとか悲しさとかそんな簡単に答えのでる感情ではない。
 今、俺が彼に抱いている感情は複雑でそして自分でもわからない。
「なんでって、まじか」
‍ 大げさに溜め息を吐くが、溜め息を吐きたいのは俺の方なのに
「お前が可愛いと思ったからだろ」
 この一週間悩んだ俺に、最初から答えを知っているといわんばかりの飄々さで話すのはやめてほしい。
「美味しそうにシュークリーム食べてるの見たら、止まらなかった。いきなり悪かったな」
‍ そう言うと、照れくさそうに口を押えた。
 俺がいつも見ていたゴツゴツした長い指先に目を奪われる。
‌‍「……俺、男だし。別に可愛いって言われても嬉しくないけど」
‌‍ とか言いながら今更ながら恥ずかしくなってきた。
‌‍ 胸が痛くなって、身体中熱くなってきた。
‌‍ でも、でも――……。
「そこまで赤くなられたら、俺も照れるんだけど?」
‍ そう言って首を触る雨宮さんは、表情1つ変えてない。
‌‍「俺が選んだケーキ、美味しかったですか?」
「あ? ああ。悪くなかった。美味しかっ……」
「嘘つきだね」
‍ 自分でも驚くほど冷たい声が出て、気づいたら雨宮さんを睨み付けた。
「昨日彼女さんに全部聞きましたよ。雨宮さんって甘いもの、嫌いって。食べれないんですよね」
「ああ。それは」
‍「彼女さんにケーキを買ってあげてたんでしょ? 毎回毎回。なのに、なのに俺にキスするなんて不誠実ですね。順番もおかしい」
 キープしろよって笑っていた友達たちと一緒だ。
「俺が選んだケーキも、彼女にあげたんでしょ? 彼女に俺と会わせたくなくて代わりに買ってあげてたんですよね」
‍ 自分で言って、益々惨めになってきた。
‌‍ 彼女が居るのに、キスされて、甘い物嫌いなくせに俺のオススメ聞いて、意地悪で優しくない。
「嘘つきは嫌いです。失礼しますね」
‍ そう言って、店の裏の家の入り口へと走った。
‌‍ こんなに叫んだんだから、きっともう雨宮さんも会いに来ないだろうし。
「おい!」
‍ ドアノブを掴むと同時に、また俺は雨宮さんに捕まえられた。
‌‍ 壁に押さえつけられて、見上げた雨宮さんは、ひどく冷たい瞳をしていた。
「あのさ、嘘じゃねえよ? 嘘だったら、こんな事、しねぇ」
 ‍そう言って、雨宮さんは俺に顔を近づける。
 ‌‍反射的に目を閉じる。
 ‌‍怒って殴られるかと思ったのに、俺の鼻をくすぐったのは、甘くて爽やかなミントの香り。
「え?」
‍ 見開いた目から見えたのは、獰猛な獣みたいな雨宮さんの瞳。
‌‍ 鼻が当たらないように顔を傾けて、俺の両手を壁に押し付けながら、人生二度目のキスをした。
「雨み……んぅ!」
‍ 何か言おうとしたら角度を変えて、更に深く口づけされた。
‌‍ ‌‍ 殴ってやりたいのに、壁に押し付けられた手を動かそうとするが、全然びくともしない。
‌‍ こんなキス、全然、甘くない。
‌‍ 無理矢理、体温だけを感じる、苦い味がするだけのキスだ。
‍ 俺の異変に気づいた雨宮さんがやっと唇を離した。
「憂……斗?」
「……か!」
‍ 怯んだ雨宮さんの顔目掛けて頭突きをお見舞いした。
‌‍ 怯んだ雨宮さんから手を振りほどいて、距離を取る。
‌‍ 口を手の甲で拭きながら、鼻を押さえる雨宮さんをただただ睨み付ける。
殴ってやりたいがボウルや泡だて器以上の重いものを持ったことのない俺は殴ってやらない。でも嫌いだ。これ以上は嫌いになってやる。
「雨宮さんの馬鹿。もう知らない。順番もめちゃくちゃだし不誠実だ。なんで」
 唇を何度も何度も手の甲で拭くと、傷ついた顔になったが気づかない。
「なんで言葉を何もくれないんだよ」
 俺は周りから色んな話を聞くし、情報は入ってきても何も聞いてないよ。何も雨宮さんからは聞いてない。
 聞こうとしたらキスするなんて、俺のことをなんだと思っているんだ。
「……泣くなよ」
「泣いてないが、話をする気がないなら俺は会いたくないよ」
‍ 再び伸びてきた手を叩き落として、後ろ手でドアノブを掴んだ。
「もう、雨宮さんとはあれだ」
「――あれ?」
「絶交だ! 不誠実変態野郎!」
‍ 言うだけ言って、家に飛び込んだ。
‌‍ ずるずるとドアに体重を預けながら、座り込む。
‌‍ 雨宮さんが分からない。
‌‍ 彼女が居るのに、甘い物嫌いなのに、あんな、あんなキスをするなんて。
‌‍ ザラっとした舌の感触は、甘くない。
‌‍ 苦い、苦い、キス。
「……ふっ」
‍ 溢れる涙の理由はよく分からないけど、苦く、塩辛く、最悪なキスだ。
「おにいちゃん?」
「じゅんび終わったよ?」
‍ 着替えた二人が、お揃いのエプロンを装着して現れた。
‌‍ ポケットがビスケットとチョコレートになっている可愛いエプロン。
「たいへん! おにいちゃん、まえがみ外れてるよ」
「え?」
「本当だ! さんにんおそろいのゴムだったのに」
‍ やべ。さっきの頭突きで外れたのかも。
‌‍ 涙を拭きながら、溜め息を吐いた。
「よし。兄ちゃん、着替えたらやっぱザッハトルテとチーズケーキと紅茶シフォンケーキ作るぞ」
‍ ‍作って作って、嫌なこと忘れてやる。二人は靴を脱ぐ俺の後ろで小躍りを始めた。
「さ、まずはかみをむすんであげなきゃね」
「おいで。おにいちゃん」
‍ この二人には心配かけられねぇしな。

***

‌‍ 疲れた……。
「おにいちゃん、生クリームはこれぐらい?」
「つのが立ったよー」
‍ ケーキを3つ、テスト明けの眠気が襲う中、完成させた。
‌‍ 後は寝かせていた生地でクッキーだけだが、明日に回そうかな。
‌‍ ちょっと横になりたい。
「おにいちゃん、さとういっぱい無くなったね」
「ああ。3つも作ればな」
「もうチョコのケーキはたべていい?」
「母さんに聞いておいで」
‍ 二人が母の元へ走っていくのを確認してから、小麦粉が舞うテーブルに突っ伏した。
‌‍ 無心で作ったケーキでも食べて、早く忘れたい。
‌‍「憂斗、お客様来てるわよー大変よー」
「さや? あー。適当にケーキ切り分けてやって」
「違う違う! 檜山先生よ!」
‍ 先生……? 本当に来たんだ。
‌‍ エプロンのまま妹二人と店に出ると、スーツ姿の先生が右手を上げた。
「いらっしゃい、先生」
「テスト終わってケーキ3つ作るなんて、若いとやっぱりパワフルですね」
‍ にこにこ笑いながら、先生は味見用のクッキーに手を伸ばす。
「んー。蜂蜜の甘さはほどよくて美味しいですね」
‍ 本当に美味しそうに食べてくれるなぁ。こっちまで、なんか嬉しくなる。
「おにいちゃんのせんせい?」
「このチーズケーキも食べてー」
 ‍二人がお皿に盛ってきたのは、紅茶シフォンケーキ。
‌‍ 自分たちで生クリームを泡ただせたのを食べて貰いたいらしい。
‌‍ 先生は屈んで、二人のお皿から一口、ケーキを口に入れた。
‌‍ 先生の笑顔が一瞬だけ固まった。
「これは……美味しいですね」
‍ 二人に先生は笑顔を絶やさないが、先生の口の中はジャリジャリ言っている。
「あまさひかえめだから、生クリームといっしょにたべてー」
「これねー、ドーナツみたいな型でつくったんだよー」
‍ 二人にうんうん頷く先生から、俺は急いで皿を取り上げる。
‌‍ そして一口食べて、目を見開いた。
‌‍ 砂糖の味しかしねぇ。
「先生、保冷剤が持たないよ! 急いで帰らなきゃ! 送るから!!」
‍ 慌てて先生の背中を押しながら外へ追いやる。
「ケーキは、紅茶シフォンケーキ以外を食べろよ! シフォンケーキはさや宛だから」
‍ 母さんと妹二人がぽかんとする中、俺は外の自販機まで先生を誘導した。
‌‍「あの、すみません。ケーキ、多分砂糖の分量間違えました」
‍ 自販機から無糖珈琲を取り出しながら言う。
きっと俺が入れてしのも入れてなのもいれて、砂糖が三倍になったんだ。
「あはは。だと思いました。テストで疲れたんですかね? でもあれぐらい甘いケーキでも平気ですよ」
「良いですよ。無理しないで下さい」
‍ そう言うと、檜山先生はやんわりと珈琲を押し戻した。
「本当です。私は、極度の甘党です。ですから無糖珈琲は飲めません。すみませんね」
‍ 優しく笑う先生に、少しだけ救われた。
「先生、そんなに格好良いのに、無糖珈琲飲めないんだ」
‍「笑うなんて、失礼ですよ。その余裕は今日のテストが良かったからですか?」
「ひー。それは言わないで下さいよ」
‍ 仕方なく、俺が口直しに珈琲を開けて飲む。
‌‍ うひゃあ。苦い苦い。
「では、罰として、先生と前嶋さんに何か作って来てください」
「えー? さやにも?」
「男の子が先生に手作り渡すのは、回りに見られたくないでしょ?」
‍ フフっと優しく笑う先生は策士だ。さやをだしに、甘い物をゲットしようとしてる。
「オッケー。じゃあ月曜にすっげぇ甘いお菓子、持っていきます」
「はい。楽しみにしてますね。ではおやすみなさい」
‍ 先生が駅の方へ去っていくのを、珈琲を片手に見つめていた。
‌‍ さやが先生を好きなのは、納得できる。
‌‍ 優しくて、欲しい言葉をくれる。不安になんかさせない。
 俺もこんな大人になりたいよ。
「おい」
‍ だから、こうして、俺を不安にさせる奴とは違うんだ。
「今から店に突撃しようと思ってたんだ」
‌‍ 格好いいと思ってた。
‌‍ いつもケーキをえらぶ時の低い声とか長い指先とか。
‌‍ 可愛いと言われてしまう俺と違って堂々としてて大人の雰囲気を出していて憧れた。
 ‌‍兄ちゃんみたいに、憧れてたんだ。
‌‍ だからキスされて驚いた。
 でも今は違うよ。本当に会いたくなかった。
‌‍
「お前が誤解してるのは分かったから。言葉をやるよ」
‍ そう一歩踏み出され近づかれたので、一歩退く。
「絶交って言いましたよね?」
「好きだ」
‍ 好き?
隙だ? 隙ありみたいな必殺技か?
「同い年なのに俺と違って毒もないし性格もひん曲がってなくて、素直そうで、その可愛いと思ってしまった。嫌だったら申し訳ないし気持ち悪いかもしれないけど、でも好きだ」
‍ もう一歩近づこうとしたので二歩下がると、雨宮さんは傷ついたように一歩引きさがった。
「謝ったし気持ちも伝えたし、許せよ」
「はあ?」
‍ 飲みかけの珈琲を、思いっきり顔目掛けてフルスイングで投げつけた。
‌ でも雨宮さんは、手でガードして少しだけネクタイへかかった程度。
‌‍ カラカラと落ちた缶から珈琲が流れ出す。
‌‍ 苦い香りが辺りを埋め尽くす。
「雨宮さんとのキスは苦い! 胸が痛い!」
‍ 甘くとろけるお菓子と違う。
‌‍一口食べたら、幸せになる甘いお菓子とは違う劇薬。
‌‍ 苦くて苦しくて、痛いキス。
‌‍「彼女がいるなら、キスなんてして欲しくなかった!」
‍「いや。あれ妹だから」
 妹?
‍「取り合えず、全部言う。憂斗を不安にさせた事、全部伝えるから」
‍ そう言って、缶を拾い上げた。あたりにごみ箱がないか探して歩きだすので、付いていく。
「だから、まずは人の話を聞け」
‍ ‌‍薄暗い、淡い電灯しかない路地裏。
‌‍ 月が、綺麗に灯っている。
‌‍「妹がフラれたけど、憂斗の店のケーキが食べたいって言うから、塾の帰りに買ってただけ。甘い物は苦手だが、憂斗がオススメしてくれたのは食べた。甘かったけど、食べた」
‍ ‍じりじりと後ろへ退いた。まだ完全には信じてない。
 告白だって、なんでそんな簡単に言えるはずがない。ましてや同性へだ。簡単に言えないからこそ、『好き』って言葉は大事で重たい発言なんだ。
‌‍‌‍ さやの言葉が急に脳裏に蘇る。
‌‍『あんたってホモなの?』
 首をぶんぶん振って否定する。俺はホモじゃない。雨宮さんには憧れてただけだ。
「自慢じゃないが、素直ではないが妹はなかなか可愛いと思ってた。だから妹を振った奴を観察してやろうと思った。――最初は、な」
‍ 珈琲の缶を、見つけたゴミ箱へ捨てる。
‌‍「親の迎えの車が来るまで、いつもバイト中の憂斗を見てた。表情はくるくる変わるし、素直だし元気良いし、全然悪い奴じゃなかった。最近は、俺が塾を終えて外に出ると、鏡でチェックしたり髪結び直したり、意識してたろ?」
「な、なんの事でしょうか?」
‍ プイッと横を向きながら冷静さを装うけど、心臓はドキドキしてる。
「とぼけんな。憂斗が先に意識し出したんだから」
反省って言葉をこの人は知らないのかな。もう不敵な笑みを浮かべている。
‌‍「お前も俺が好きだろ?」
「俺は、その、兄ちゃんみたいで憧れてて……」
「悪いが、兄ちゃんになる気は全く無い」
‍ きっぱりと言った雨宮さんの目はちょっとだけ怖い。怖いというかもしやちょっと焦っているのかな。
‌‍ 告白をされた事は別に初めてじゃないし、雨宮さんの妹さんの前だって何度かある。
‌‍ でも理想の恋人像が邪魔して、一歩踏み出せなかった。だって俺の両親は永遠の新婚かってぐらいお互いに愛情をぶつけあって幸せそうだ。あの二人を超えるカップルを俺は想像できない。
‌‍ 今だってそう。
「キスが先なのはいやだった」
‍ 順番というか、せめて彼女ではなく妹だと教えてもらえていたら、あのキスは少しは苦くなかったかもしれない。
「不誠実変態野郎では無いが、馬鹿かもな」
‍ ふてぶてしい雨宮さんが憎らしい。
‌‍「俺、理想があるんです。俺の父と母は、大恋愛の末に結ばれていて。イタリアでパティシエの修行中の父の、初めて作ったケーキを食べたのが母でした」
‍ 何回も何回も、繰り返し聞かされた物語。
「その時、御互い一目惚れだったのに、会話しただけで何もできなかったらしいです。でも、日本であの店をオープンさせて初めて買いに来たのが母だったらしいです」
‍ 何度聞いても憧れる。この広い世界で初めて出会ったのが海外で、再会が日本なんて素敵だ。
「母さんの家はちょっと古くさいというか良家って感じだから、父さんとの結婚に反対したり大変だったみたいだ」
‍ だからこそ、二人で乗り越えたから絆は深くて。
‌‍ 今の馬鹿みたいな熱々ラブラブでいられるんだと思う。
‌‍ 運命の相手なら、何度別れようと、また引き合うんだ。そう思うと、なぜかすごく憧れた。だから俺もそんな恋愛に理想を追い続けていた。
「だからいきなりキスなんて、酷いです。もっと順番とか、順序とか、ムードとか、大事にして欲しかったのに」
「――ふぅん」
‍ 頭をポリポリかきながら、雨宮さんが何か納得したのか頷く。
「ムードとか順序とか、憂斗が返事くれるなら守ってやるよ」
「え?」
‍ 雨宮さんが余裕ある表情だったのに少し唇を尖らせて俺を睨む。
「俺、さっきから告白してんだろ?」
「う……」
‍ 謝るついでの告白だったけど、でも告白は告白なのかな。
「ムード作って告白しなきゃ駄目なんだっけ? 抱き締めていい? 膝まづいて手の甲にキスしていい?」
‍ 漫画の表現みたいにほっぺが熱くなる。
 ‌‍でも、そう言う雨宮さんの目が、獰猛に光っていて、近づいてくるのがちょっと怖かった。じりじりと近づいてくる雨宮さんは、獲物を仕留めようとする獣みたいだ。
「俺! 無理です!! 男だし、高校生だし受験生だしすぐに返事なんて出来ません」
‍ 憧れてるけど、好きだけど、けど、でも、そんな関係になるには、まだ早いと思う。
‌‍「あまりに御互いを知らなすぎるから、あの友達からで……」
‍「――へぇ、両思いなのに?」
‍ その長い指先が、髪をかきあげた。その長い指先が、好き。
‌‍ ネクタイを緩めたりショーケースの中を指さしたり、最初のきっかけは俺にはないその綺麗な指先。格好いいと思った。
‌‍ 触れてみたいって、触れたいって思ったけれど、それだけだ。
 雨宮さんの中身なんて全く知らなかった。
 だから両想いなんて認めたくない。認めたくないのに。
 キスされてからずっと胸が痛かった。苦しかった。
 彼女がいるって知って初めての感情が芽生えた。うまく伝わらないけれど、複雑な感情が芽生えた。
 その彼女のために、この世界一美味しいケーキを買いに来てたと聞いたら憎いとまで思いそうだった。
 苦いキスしかくれないならば、甘い言葉が欲しいのに本人は意地悪だし。
「ごちゃごちゃ理由言ってるけど、憂斗の顔は、友達からって言ってねーよ?」
「そんな」
‍ 触りたい、触って欲しい。
‌‍ そう思った指先が、俺の唇をなぞった。
 否定したかったのに、声を奪われてしまう。
「キスしたいか、キスしたくないか」
‍ ――お前が選べ。
‌‍ 甘い吐息のような声で、そう雨宮さんは囁いた。
‌‍ 唇を触る指先は、もう何度も嗅いだミントの香り。甘いものが苦手なのだとしたら納得の香り。
‌‍ ――嫌なら、止める。
‌‍ 雨宮さんは、そう言うけれど、俺は、その長い指先に触れられたら逃げられない。
‌‍ 絶対頭がおかしくなるんだ。
‌‍ 胸が高鳴って、目眩がするほど胸が痛くなって、狂ってしまいそうに切なくなる。
‌‍ じりじりと追い詰められた俺は、狂いそうな気持ちを必死に抑えて、その手をとった。
‌‍ 左手を両手で握る。ごつごつしているのに、すらりとした大きな手。
‌‍ 雨宮さんの体温。全て、全てが俺をおかしくするんだ。
「意地悪な雨宮さんは、嫌いだよ。大嫌い」
 全然優しくない。こんな人、俺の周りにいなかったよ。
 言葉を頂戴と言っているのに、すぐに態度で誤魔化そうとする。
「駄目だよ。雨宮さんも俺みたいに、ぐるぐるして心臓が痛くなってくれなきゃいやだよ」
 欲しいのはキスじゃないよ。
 貴方が俺のせいで焦ったり照れたりする、俺への気持ち。
「くそ」
‌‍ 乱暴に右手を壁にたたきつける。
‌‍ 痛そうだと目で追っていた右手が俺の首を撫で、顎を持ち上げる。
‌‍「好きだと思ったら、衝動が止まらなかった。悪かった」
「うん」
「好きだしキスしたいし抱きしめたいし、お前は?」
‌‍ 苦しげに雨宮さんは吐き出す。俺へ向ける余裕のない雨宮さんの態度は、甘くて大好きかもしれない。
‌‍ 苦しそうに俺を見るその瞳は、ムードや順序や、理性を破壊させた。
「俺に雨宮さんのこと、教えてくれますか?」
‍ 雨宮さんはただただ静かに、唇の端をあげた。
「全部知って。全部、俺のすべてを」
 強く抱きしめられるので、おずおずとその背中を抱きしめ返した。
‌‍‌‍‌‌
 順番はおかしかったが告白されキスした。
 あまりにも苦しげに愛おしげに俺を見るから、抱きしめ返した。
 ‌‍じゃあ、この次ってこれってどうなんの?


「あれ? 何してんの? 帰るわよ」
‍ 靴箱で傘置き場に腰をかけてたら、さやがやってきてしまった。
「帰りたくない」
「そ。じゃ行くよ」
‍「ぐえっ」
‍ 俺の斜め掛けの鞄を引っ張り無理矢理立たされた。
「加賀くん、前嶋さん」
‍ ズルズル引きずられている俺とさやに声をかけたのは、檜山先生だった。
「うわ」
‍ 俺を放り出してさやは先生の元へ駆け付けた。
「どうしたんですか?」
「あ、いえ。指定校の提出期限を張り出しましたって報告を……加賀くん、死んでませんか?」
‍ 地面に顔から転んでいる俺を見て、先生が立たせてくれた。
‌‍ 苦笑する先生の顔はやっぱり整ってて羨ましくなる。
‌‍ これぐらい男として魅力があれば、俺も自信が持てたのかな?
「二人とも英語は良かったですから評点も問題無いですしね。でも加賀くん」
「はい?」
‍ 檜山先生は両手を出した。
「約束の甘い物は?」
「え? 何それ! ズルい!」
‍ にこにこ尋ねてくる先生に、溜め息しか出ない。
‌‍ いや申し訳ない気持ちも沢山あるんだよ。
「胸が痛くて、作れなかったんです」
‍ お箸でご飯を掬ってもほっぺに当たるぐらい、胸が痛くて悩んでたら作れなかったんだ。
「深刻な悩みですか……?」
‍ 先生の顔が心配そうに曇る。けど、すぐにさやが肩を叩いた。
「それは恋わずらいだっーての。処方箋なんてないんだからお菓子作ってたら良くなるって」
「だって相手は甘い物、嫌いなんだよ」
‍ さやみたいに何でも食べる人じゃないんだ。
‌‍  あの日、あの指がうなじから背中をなぞった。
‌‍ あの指が俺の体に触れるとぞくぞくして、狂おしくなる。
‌‍ そして、雨宮さんはそんな俺を見て意地悪そうに笑ったんだ。
‌‍ 言葉は貰った。順序やムードは無かったけど、キスした。
‌‍ キスしたら、もう雨宮さんしか考えられなくて、回りなんてどうでもよくなった。
‌‍ これは恋?じゃあ俺と雨宮さんは恋人……?
 そう考えると胸が痛くて悩んでしまう。お菓子を作るのに、レシピが頭に入ってこないんだ。
‌‍「加賀くん、相談なら私が」
‍「大丈夫大丈夫! 私が話を聞きますんで。じゃーさよーならー」
‍ さやに再び引きずられながら、校門まで走った。
‌‍「で、アンタやっぱホモだったの?」
‍ そう言われて軽口さえ叩けなかった。
‌‍「さやは、先生が好き?」
‍ 依然としてさやに腕を捕まれ、引きずられるように歩きながら、聞いてみた。
‌‍「うん。好き。でも生徒である限り、あの先生じゃ恋人になれないよねぇ」
‍ 溜め息を吐く後ろ姿は、間違いなく恋する女の子だ。
「恋人になったら何すればいいんだ? てか俺は、付き合ってるのか??」
‍「ええ!? 何があったの!? テスト明けでなんで付き合ってるのよ!? 双葉の君!?」
‍ ぐわんぐわんと胸ぐらを捕まえられて、問い詰められる。
‌‍「あ、いやその、両思いならもうその時点で『付き合ってる』事になるの? その、順序的にキスってどれぐらいでするもんかなぁ…とか……思ったり」
‍「あー。‌‍あんた、恋に夢持ってるもんね。‌‍順序とか色々考えてたら損よ?」
‍「損?」
‍「だってキスしたいぐらい相手の仕草や言葉が愛しかった時に、『まだ付き合って数日だから』とか『こんなムードがない場所で』とか思ってキスしないなんて馬鹿だし損よ」
‍「……さや。‌‍意外としっかり考えてるんだな」
「馬鹿にすんなってーの。‌‍私だって、色々考えてるんだよ。‌‍私が憂斗なら、ガンガン攻める! チャンスは逃さない」
‍ そう言うと、引きずられていた腕を、カップルみたいにギュッと組んできた。
‌‍「何が不安なのか分からないけど、こんな風に相手に甘えてみなさいよ」
‍「ええ!?」
‍「あんた、どーせ夢見てるから、自分の気持ち、ちゃんと伝えてないでしょ? ちゃんと言いなさいよ」
‍「うわ! だから違……」
 ‍核心をつかれて、バッとさやの絡んでいた手を離した。
‌‍「う………ぁ……」
さやと夢中になってたから、家付近まで来てたのに気づかなかった。
‌‍ 塾のあるビルへ入ろうとしていた雨宮さんが立っていた。ずっとこっち、見てる。
‌‍「ほら、じゃーね」
‍「え、さや」
‍ あのキスからまだ三日しか経ってないんだぞ。でも、でも確かに俺、まだ何も雨宮さんに気持ちを伝えてない。今後の話しとか連絡先とか何もかも知らない。
‌‍「こ、ここんにちは」
‍ 顔を見るのが照れ臭くて、首下辺りを見つめてしまう。
‌‍「…………ああ」
‍「あ、の、お店で待ってま……すね?」
‍「――ああ」
 ‍そう言うと、雨宮さんは振り向きもせずビルの中へ入っていった。
‌‍ ‌‍なんかちょっと機嫌が悪いのかな?
 やっぱ、後悔してるのかな?
 背中が離れていくのが怖くなる。‌‍気持ちを伝えるのが、怖くなる。‌‍声なんて出ない。‌‍胸が、痛い。

**

‌‍「ごめんね、憂斗。‌‍エプロン全部、クリーニングに出しちゃって」
‍ いつもは、黄色の無地のエプロンなんだけど、今日は家で使ってる、りのとしのとお揃いのピンクのエプロンだ。‌‍ポケットが左がチョコレートと右がビスケットになってる。
‌‍ 家で使うなら気にしないけど、お店で着るなら可愛すぎて恥ずかしいじゃん。‌‍雨宮さんも来るのに、本当に今日はついてない。‌‍さやが来なくて良かった。
 雨宮さんの塾が終わるまでに一枚ぐらいクリーニングから返ってこないかな。
「母さん、ケーキ作りたいからバイト代から材料費抜いといて」
 先生へとびきり甘いケーキを作って色々考えるのをやめよう。
 今回は砂糖の量を三倍にしないようにして、美味しいケーキを作りたい。モンブランをホールで作ってもいい。自分で食べたっていいんだから。

‌‍「あら、イケメンさんが来たわよ」
 飴細工の飾りを作っていた手が止まる。
 時計を見れば十九時をとっくに過ぎていた。もうそんな時間だったか。
‍ 慌ててビニール手袋を外し前髪をピンで止め直した。
‌‍「い、いらっしゃいませ」
‍「ママー」
‍「ジュースこぼしたー」
‍ 本当に俺の可愛い妹たちはタイミングがいい。
‌‍ 父は予約されたケーキの仕上げとクッキーに名前を書いている。
‌‍ なるべくショーケースに体を隠して、誤魔化しながら雨宮さんを見た。
‌‍「……憂斗」
‍ ちょいちょいと指でこっちに来いと合図する。
‌‍「な、何ですか?」
‍ さっき拒絶されたような背中とは違い、無表情だが心なしか機嫌が良いように見えた。
‌‍ショーケースの上から身を乗り出したらシャッター音がした。
見るとご機嫌な雨宮さんが俺を盗撮していた。‌‍
「本当は冷たくした事を詫びようと思ってたのに、可愛いエプロンしてるから、つい‍お前、あのボーイッシュな子とイチャイチャしすぎ」
‍「ボーイッシュって、さや?」
今日は確かにごつめの伊達メガネかけてたけど、さやは普通に可愛い女の子だと思う。口と態度が悪いだけで、お洒落で奇抜なファッションが似合う自慢の幼馴染だ。
‍「そ。‌‍俺、独占欲強いんだよ。‌‍見た目と裏腹に」
‍「なんですか。‌‍見た目と裏腹って‍そんな硬派そうにも見えませんよ」
‌‍「あんなに腕に密着してたら、ちょっと苛々した」
‍「あんなのいつものことだけど」
「嫌だ。見たくない」
 そんな仁王立ちで言うセリフだろうか。
‍ 同じ男なのに、雨宮さんの気持ちが良く理解できないな。‌‍全然親密になれてない。
‌‍それどころかあまり喋らないくせに、喋ったら意地悪な印象だし、こんな人に気持ちを伝えてちゃんと両思いになったら、もっと意地悪になりそうだ。
‌‍「じゃ、このティラミスと俺でも食べれそうな甘さ控え目のある?」
‍「『じゃ』の意味が分かりませんが、雨宮さん、蜂蜜とか餡の甘さも苦手ですか? 苦手じゃないならこっちのつぶ餡入りのロールケーキか、蜂蜜プリンとか」
‍ そう言って、指で次々さしていくと、雨宮さんの長い指も後を追う。‌‍嗚呼、でも指、やっぱ格好いいなぁ。‌‍その指に触れたくて、ドキドキしてしまう。
‌‍「じゃあ蜂蜜プリン、試してみるか」
‍「はい。‌‍ありがとうございます」
‍ 何も言われなくても、三十分用にドライアイスを詰めていく。
‌‍ 雨宮さんの指は、じゃなくて雨宮さんは、レジに肘を置き此方を見ている。
‌‍ 肘をついたら、手に血管が浮かんできて格好いい。平静を装いながらも心の中は、雨宮さんの主に指先でいっぱいだ。
‌‍「なぁ、土日、どっちか暇? 映画とボーリングどっちが良い?」
‍「ボーリング?」
‍ 速答してしまった。
‌‍ けど、ボーリングなら雨宮さんの指、ずっと見られる。
‌‍ でも雨宮さんなんか腹を押さえて笑ってる。
‌‍「割引券あるから行こー?」
‍ 絶対子供っぽく思われた。また即答するのは嫌だったから、口をとがらせる。
‌‍「俺一応受験生だし、その木曜にまた連絡を……。‌‍あ」
‍ プリンを受け取りながら、雨宮さんは動きを止めた。
‌‍「アドレス交換しなきゃ、火と木以外も憂斗を独り占めできないな」
‍ そう言いながらスマホを取り出した。

***

『同い年だろ? 敬語止めね?』
 風呂上がりにスマホを確認したら、雨宮さんからメッセージが来ていた。
 まあ、それはそうだ。見た目がかなり年上に見えようが俺が幼かろうが、同い年には変わらないか。
『別にいいけど』
 素っ気ない返事になってしまったが、男友達ならばこれぐらいが普通だろう。
 メッセージぐらいで意識するのも変だし。
「ドライヤーってどこ?」
「あら、ごめんね、リビングかも」
 いつも妹たちが走り回るからドライヤーは脱衣所に置きっぱなしなんだけど、今日はリビングまで逃げたようだ。
 母さんと妹たちは二階で寝かしつけ、父さんはオーブンの掃除。
 俺は素っ気なく返事したせいで返信が止まったことに若干不安を覚えつつも髪を乾かしていた。
『じゃあ決まり。勉強のご褒美に蜂蜜プリン食べてるよ』‌‍
 本当に食べたのかな。甘いの苦手だろって思っていると写真が送信されてきた。
 プリンを食べてピースしている写真。
 スプーンを持つ指が、やっぱり格好いい。
『まあ俺の店のスイーツは全部美味しいからな』
 写真の奥、でっかい参考書と電子辞書とノートが見える。
 俺は今から寝ようとしてたけど、まだ雨宮さんは勉強しているのか。
 いや雨宮さんじゃない。雨宮。雨宮はあの双葉高校だもんな。勉強の邪魔しては悪いし、返信せずにベッドへ向かう。
『プリン食べたら憂斗のケーキ食べてみたくなった』
『受験生は勉強してなよ』
『たかが一日自主勉しないだけで俺の学力は下がらない』
 余裕な事で。でもまあほぼ毎日塾へ行っているようだし、そんなものなのかな。
 俺は製菓の専門学校に受験予定だから共通テストの大変さが分からないし、彼がどれほど頭いいのかもわからない。
 結局俺と雨宮さんは、どちらが先に寝るかを意地はって、夜遅くまでメッセージを送り合ってしまった。
‌‍ 高速で返事が来たり、面白いスタンプが来たり、ちゃんとプリンを食べた証拠写メが来たり。‌‍その度に胸が踊り出す。
‌‍ 俺、分かってる。‌‍認めなきゃならない。‌‍俺も雨宮さんが好きだって事を。
‌‍

‌‍**

 それからも塾終わりに顔を出してくれたりメッセージで連絡したりと約束の日曜までは順調だった。
 お互い呼び捨てで呼ぶことになったから、雨宮さんから清人呼びになったのはちょっとまだ慣れないけど、それぐらい。
 当日の朝も天気はいいし前日から決めていた服装も変じゃないし、今日は遊びに行くからお店も手伝えないってきちんと伝えていた。
問題はなにもないはずだった。
「いやぁぁぁぁ!」
‍「おにーちゃんのばかぁぁぁ!」
‍「だから、ごめんって。‌‍今日は帽子なんだって!」
‍「いやぁぁ!ばかばか!あほー」
‍「きらいきらいきらいきらい!」
‍ 壁の時計を見ると、もうすぐ迎えに来てくれる時間だ。
‌‍ 頑張って髪を立たせようとしたんだけど、猫っ毛の俺の髪じゃ決まらなくて仕方なくキャップを被って誤魔化そうとしたのに、髪を結びたい二人に捕まってしまった。
‌‍ でも髪はもうワックスついてるから結べないって。
‌‍ 足にしがみつかまれて途方にくれてたら、お客様が入ってきた。
‌‍‍ 清人は店の中を覗いて笑った。そして、入ってきて、俺の様子を見る。
‌‍「何してんだ?」
‍「妹二人が髪の毛を……」
‍ 恥を忍んで告白したら笑われた。お揃いじゃないのがこんなに嫌だとは思わなかった。
‌‍「よし。‌‍俺のなら結んで良いぞ」

‍***

「ぷぷぷぷぷ」
‍「お前、いつまで笑ってんだよ」
‍「だって、ぷぷっ」
‍ 赤い水玉模様のポンポンのゴムで前髪を結んでもらった清人、全然似合ってない。
‌‍ グレーのジャケットにデニムを合わせたラフで素敵な格好なのに、笑ってしまう。
‌‍「‌‍もう店から離れたし外して良いですよ」
‍ 清人の髪に触れると、ギロッと睨まれた。
‌‍「お前、後でその口塞ぐ」
‍「え!?」
‍「何身構えてんだよ」
‍「へ?」
‍「本気にした?」
‍「酷……」
‍「まぁ、本気だけど」
俺のキャップを取ると、‍キャップで口元を隠しながら、歩道橋を歩く人たちに隠れるように、唇が重なった。
「……馬鹿!」
‍「さぁて、行きますか」
 最初からこんな調子なら俺はデートが終わるころにはタコ焼きに入っている湯でタコみたいになっているに違いない。
 ボーリング場に着くと、清人は何事も無かったかのように、俺に笑いかけた。
‌‍「いつまで茹でタコになってんだ。‌‍ほら、行くぞ」
‍ 気に入ったのか、未だに前髪を結んだままの清人が言う。
‌‍「足、何センチ?」
‍ 手続きが終わり、シューズとボールを選びながら言う。
‌‍「26」
‍「じゃあ、まだ身長伸びるかもな」
‍ 俺の頭をくしゃくしゃしながら、清人は28センチのシューズを選ぶ。
 ‌‍伸びても清人は越えられない気がする。
「清人はよくボーリング行くの?」
‍「いや、数年ぶり」
‍ 内心ガッツポーズしてしまった。俺は友達とよく行くし家族の中で一番うまいから。
‌‍「勝負! もし俺が勝ったら何でも言うこと聞いてもらう!」
‍「――じゃあ俺も」
‍ そう言うと、清人は俺に耳打ちした。
‌‍ 俺が勝ったら、もっと甘いキスさせろ
「や、やっぱ勝負無しで!」
‍「ふぅん。口だけか」
‍ 挑発に簡単に反応してしまう自分の単純な思考が嫌いだ。
 こうなったら意地でも勝ってやる。勝って、絶対に服従させてやる。
‌‍ なのにストライクやスペアばっかり俺は取り零しがちらほらあるのに。
‌‍ あ、でも指、腕、ヤバい。
‌‍ 投げる瞬間の浮き出る血管がなんか格好いい。
‌‍ フォームもなんか格好いい。
‌‍ もうなんか居るだけでかっこ良く見えてきた。
‌‍ これは何としても阻止しなくては。
‌‍ ‌‍ 徹底的に投げる邪魔をしようと俺は、決意した。
‌‍「清人、隙有り!」
‍ 後ろから脇腹を触ると、驚いた清人はボールを落とした。
‌‍ そして、そのボールはガーターへ。
‌‍「よしっ」
‍「よし、じゃねーだろ。‌‍こらっ」
‍ 仕返しに清人が脇腹を狙ってきたから避けた。
‌‍ 避けたのに羽交い締めにされて、セットに失敗した髪をわしゃわしゃされる。
‌‍「やーめーてー」
‍「うるさい!」
‍ ギャーギャー、ワーワー騒いでいると後ろから声が聞こえてきた。
‌‍「何あれ。‌‍楽しそう」
‍「友達? 兄弟かな? 可愛い」
‍ ――兄弟?
 それを聞いて、すっごく凹んでしまった。
‌‍ こんなに俺は胸がドキドキしてるのに、回りには兄弟にしか見えないんだ。
‌‍「憂斗?」
‍ 様子に気づいてくれた清人が顔を覗き込む。
‌‍ だけど……。
‌‍「再び隙有り!」
‍ 緩んだ手から逃れ、再びガーターへ。
‌‍「ふっ。‌‍何をしてでも勝つ!」
‍「面白い。受けて立とう」
‍ 今は耳を塞いで、考えない。
‌‍ 今考えるのは、清人に勝つことのみだ。
 卑怯な手を駆使し、俺は勝った。
「お前、覚えとけよ」
‍ 清人からどす黒いオーラが見えるけど、気にしない。
‌‍「汚い手でも、勝ちは勝ち。まずはもう俺を馬鹿にするのはやめてもらおう」
‍「馬鹿にした事はない。‌‍可愛がってるだろ?」
‍「その言い方が」
‍「――二人の時しか言わねぇよ」
‍ フッと笑うと、またくしゃくしゃと髪を触られた。
‌‍
 二時間以上白熱した戦いもおなかの音と共に終わり、俺たちはボーリング場の隣のファーストフード店へ向かった。
「意外。こんなの食べるの?」
「俺を何だと思ってんだよ」
 ポテトを摘まんだ指に見とれつつも、やっすいハンバーガーも炭酸飲料水も似合っていない。
「なんかコース料理とか常に食べてそう」
「偏見やめろ」
 でも双葉高校って幼稚園から大学まである名門校だし、私立で金持ちばっか通っている印象だ。さやもあそこは体操服でさえ有名ブランドのオーダーメイドって言ってたし。
「清人の学校はお金持ちとか頭いいやつしか通えないじゃん。というか、こんな風に遊んで大丈夫なの? 受験生じゃん」
 あんなに塾通って、土日も朝から夕方までずっと塾のある二階は電気ついてるからずっと勉強しているんだろうし。
「んー。俺は一日や二日休んだぐらいで揺らぐ学力じゃないよ」
 炭酸飲料を飲みながら表情一つ変えずにそう言うと、清人は外通りに目をやる。
「部活と両立している人も凄いし、部活終わってから成績上げる人もいるけど、俺は色んな人が成績上げても全然焦らないようにずっと勉強してきたからね。どちらかというと全教科満点とか自分の限界を更新していく方が忙しいし楽しいし、戦っているし」
 よくわからないけど次元が違う世界で戦っているんだ。
 そこまで勉強できるなら、一日ぐらい息抜きしても平気なのか。
「そんな勉強して行きたい大学があるの?」
「んー。悩むよな。ずっと研究室に籠って勉強だけしたいし、憂人を一日中眺める仕事も探してみたいし家の会社継ぐのも面白そうだし。無限大」
「なんか間に変な仕事はいってたぞ」
 つまり趣味が勉強なんだ。テスト前になってひいひい勉強している俺と違って歯を磨く並みに勉強するのが普通なんだ。
「でもまあそれだけ勉強が好きで結果がついてるなら、そりゃあ職業の選択も沢山あるかあ」
 感心するけど、見習えるか分からない。俺は英語の勉強は本当に苦手だ。
「憂斗は家のケーキ屋継ぐの?」
「まあね。一学期のテストもまあまあ良かったし行きたい専門学校の指定校推薦貰えそうだし俺も余裕だよ」
 一応普通科で私立文系クラスは指定校や推薦が貰いやすいって教えてもらって高校を選んだからね。受験勉強だけは頑張った。ほかの理系三クラスと国立文系クラスは土曜もテストや補講で忙しそうだけど、私立文系コースは指定校受かり次第免許を取りに行ったりバイトも許可が出ている。 
「じゃあ良かった。俺は余裕だけど毎日遅くまでメッセージ送っても悪いかなって心配してたんだよな」
 心配?
 浮かれていたから俺は心配してなかったのに、清人は流石だな。
「この後どうする? 浮かれてゲーセンまで行く?」
気づけば清人は完食していて、あとは飲み物だけだった。
「行く」
 妹たちに両手を引かれていくゲームセンターとは違って、友達とうろうろするのゆっくり出来て楽しいんだよな。
 俺も急いで完食して清人のあとを追いかけた。


***

 確かに俺は清人にちょっとだけ偏見があったかもしれない。
 あんな有名進学校の学年首位がゲームセンターに行くわけないとか思っていたかもしれない。
 でも目の前の学年首位は一緒にカーレースも銃を撃つゲームもバスケットボールを入れるゲームさえも楽しそうにしてくれる。全部、指先の動きが好きなゲームばかりで俺チョイスになってしまった。
「お、可愛い」
 ジュースを飲みながらクレーンゲームを見て回っていたら、キャンディとケーキの巨大クッションを見つけてしまった。
 妹二人にあげたら喜ぶかな。いや、同じのじゃないと喧嘩になるか。
 というか可愛いから俺の方が欲しい。
‍「それ、欲しいの?」
 色々考えたが素直に頷いた。
‍‍「じゃ、さっきの罰ゲーム、これ捕ったらチャラで良い?」
‍「へ? とれるの」
‍ 財布からお金を取り出して、入れていく。
‌‍「分からないけど何回かやれば法則が分かるはず」
‍ そう言って優しく笑ってくれる。
‌‍ 意地悪だけど、すぐ困る事ばかり言うけど、俺、この人の笑顔を独り占めしたい。
‌‍ 好きで好きで、胸が痛くなる。誤魔化せないんだ。
‌‍ 無邪気に右からや上から、慎重にぬいぐるみを狙う。
‌‍ その姿が、いつもの大人っぽい清人と違って可愛い。
‌‍ そのままアームが降りて、ぬいぐるみが持ち上がる。
‌‍ ゆっくり、ぬいぐるみが落ちていくのに、目が離せなかった。
 落ちた。落ちたんだ。いや、俺はもうデートの前からとっくに落ちてたんだ。
 そう、目の前で落ちたのを確認してみればもう誤魔化せない。
 落ちている。
「ほら、これ」
「……ありがとう」
 清人はなんと二個とも取ってくれたんだ。

***

‌‍『じろじろ見られるから恥ずかしい』
 俺はそう言って、公園につれてきて貰った。
‌‍ 巨大なぬいぐるみを抱っこして歩いてたら、女の子たちにクスクス笑われたから恥ずかしかったのは本当だ。
‌‍ ジョギングコースもある大きめの公園だったけど、噴水の回りは寒いからか人が居なかった。
‌‍ 清人が噴水の縁に座り、俺はぬいぐるみを挟んで座りそれを見る。
 突然キスをされて、きちんと告白をされて俺も抱きしめられた時にあの背中を抱きしめ返した。
 でもきちんと恋人になろうって言葉や形にはせずに今日まで来た。
 ‌‍これなら言える。言おう。
‌‍ さっきみたいに友達に見られたり兄弟に間違えられる不安な気持ちも、清人への気持ちも、全部。‌‍そうじゃなきゃ、俺は清人にとても不誠実だ。
‌‍「清人」
‍「あれ? 雨宮くんじゃん」
‍ ジョギングコースから声がしたので見ると、この前香水を頼まれていた女性が立っていた。私服だから大人っぽくて一瞬わからなかった。
‌‍「この子、あのケーキ屋の子じゃない」
‍ ‍俺が頭を下げると、ふんわりと笑ってくれた。
‌‍ お化粧はしてないのか分からないけど、こっちの方が緊張しない綺麗さがある。
「二人は何してるの? ぬいぐるみなんか持って」
‍ そう言われて俺が焦って清人を見ると、清人はいつも通り、表情1つ変えずに言った。
‌‍「デート」
‍ その瞬間、俺は固まった。
‌‍ 冗談かもしれないし、相手の女性も笑ってくれてる。
‌‍ けど、俺がさっきまでうじうじ悩んでたのが馬鹿らしくなるぐらい、清人は真っ直ぐで。‌‍俺だけが雨宮さんに対して卑怯だった。
‌‍ 女性は手を振るとまた、ジョギングコースに戻っていった。
‌‍「清人!」
‍ 震える手を、ぬいぐるみを抱き締めて誤魔化した。
‌‍ 喉の奥からカラカラ乾いてくる。自分の体じゃないみたいにフワフワする。心臓が、痛い。
‌‍「あの! 今なら、今ならまだ俺とのキス、今なら無かった事にできるっ」
‍「は?」
‍「お、男同士なんて不毛だし、後ろ指指されるかもだし、反対されたり、祝福なんてされないかもしれない! 清人だって、俺の事気持ち悪いって思う日が来るかも」
‍「――それ以上喋るな、憂斗」
‍ 明らかに不機嫌になった清人が睨みつけてくるが俺は怯むことなく睨み返した。
‌‍「黙らない。‌‍俺は俺は、清人が好きだから!」
‍ 頬を伝う温かい物が涙だと気づくのに時間がかかった。
‌‍ でも譲れない。
‌‍「俺、誰にも言えなくても、祝福できなくても、母さん達みたいに皆が憧れる恋愛じゃなくても、良い。意地悪なのは困るけど、でも俺、」
‍ 清人が良い。
‌‍ そう言うと、嗚咽さえ出てきてしまった。
 なんでただ告白するだけなのに、こんな涙が出てきてしまうんだろう。
 相手に好きと言ってもらえているのに、伝えるのが怖い。伝わるのも言葉にするのも怖い。
‌‍ でも人をこんなに好きになるのは初めてなんだ。‌‍だから清人には重いかもしれない。
‌‍ 今ならまだ無かった事にして忘れて、キス前に戻れる。
‌‍ まだ傷が浅いうちに。‌‍そう思うと涙が流れた。
‌‍「憂斗」
‍ 優しい清人の声に、体が震えた。‌‍
「回りの雑音なんて関係ねーよ。‌‍俺は気にしないし、お前が傷つくなら俺が全部、代わりに背負う」
‍「清人」
‍ 顔を上げると、清人はとろけそうな甘い笑顔を浮かべていた。
‌‍「憂斗がこんなに考えてくれてたなんて、すっげ嬉しい。‌‍泣かせて、悪い」
‍ 涙を指先で掬った後、強く強く抱き締めてくれた。
‌‍「だけど、俺は今さら無かった事にはできない。‌‍絶対にしない。‌‍お前が怖がったら嫌だから抑えてだけど、一生離す気は無い」
‍ 頭を撫でながら言ってくれた。
‌‍ 夕暮れに差し掛かり、辺りは犬の散歩やジョギングの人がまばらになってきた。
‌‍ でも清人は人目なんて気にしないで、俺が泣き止むまでずっとずっと抱き締めてくれた。
‌‍ そして、色んな話をしてくれた。
‌‍ 歳は十八歳。
 もうすぐ誕生日らしい。先日予約していたケーキは双子の妹のケーキ。誕生日が一緒のせいでケーキが一回しか食べられないのが嫌らしく、週をずらしてケーキでお祝いするらしい。双子の妹がいる。
‌‍ 178センチで好きな物は、ドライフルーツと珈琲。
 妹さんが毎日お菓子を作って食べさせられて、甘いものが苦手になった事、塾の窓から俺の店がよく見える事、いつ話しかけようか、きっかけを探していた事。
 妹とは趣味やすきなものが似ているので、今回先に告白されて悔しかったらしい。
 妹は可愛いし大事にしているけれど、今回ばかりは譲れなかったと安堵していた。
‌‍ そして、俺の事。
‌‍ 表情がくるくる変わって見ていて飽きない事、照れて下を向く姿が可愛い事、真っ直ぐでばか正直で危なっかしい事、柔らかい髪の毛が気持ち良い事。
‌‍「何だ? お前、照れてんの?」
‍ 聞いてたら、涙なんか乾くぐらい体温が熱くなってきた。
‌‍ それに清人が、耳元で吐息みたいに甘く囁くように言うから。
‌‍「で、憂斗は?」
‍ そう言われて、覚悟を決めて清人を見上げる。
‌‍ 初めは、指先。
‌‍ 綺麗で骨ばっているのに、スラリとした指先に釘付けになった事。
‌‍ こんなに格好いいのに甘いものが好きなんだ、と毎回見るようになった事、香水の香りが、大人の男の人みたいで憧れた事、キスされるまで、自分でもこの感情の名前が分からなかった事。
‌‍ 意地悪だけど優しいし、その苦い香りが癖になる事。
‌‍
「――へぇ。‌‍意地悪ねぇ」
‍ 不敵に笑う清人。
‌‍ ……そんな所が意地悪なんだよ。
‌‍「俺の指と香りが好き、かぁ。‌‍でももう1つあるだろ?」
‍ そう言って、俺の髪を耳にかけてくれた。‌‍
「なに?」
‍ 真っ赤になりながら視線を反らすと、顎を指先で捉えられた。
‌‍「甘いキス」
‍「あまっ……んっ」
‍ ああ、駄目だ。
‌‍ 目の前に清人の顔がある。‌‍サラサラと揺れる前髪が、気持ち良い。
‌‍ 髪にも、体にも、唇にも、その香りを移して欲しい。
‌‍ 頭がくらくらして気持ちが良いんだ。
‌‍ 頭がクラクラしたり、胸がドキドキしたり、たった一言や、表情1つであたふたしたり、これが恋と言うならば、どんなケーキやお菓子より甘くて、そして胸いっぱいになる。
‌‍「ん……」
‍ そして、苦くてぞくぞくするこのキスは、お菓子の甘さより癖になる。
‌‍体温1つで幸せになれる。
‌‍ 甘い甘い初恋の味。
 さやにも言ってない。‌‍いや、言えない。‌‍
 親には何故か目も上手く合わせられなくなってきた。‌‍だから、誰にも相談できない。‌‍けど、けど、悩んでるんだ。


‌‍
「どうしました? 憂斗くん」
‍ ブラウニーをジャリジャリ頬張りながら、先生は心配してくれている。
 ‌‍蜂蜜を使わず、砂糖ばかりのカロリーが恐ろしいこのブラウニー。先生のリクエストだ。
‌‍ さやは全力で拒否して食べなかった。
‌‍「何か悩んでますか?」
‍ 3つ目のブラウニーに手を伸ばした檜山先生を見て、何故か俺まで胸焼けしてしまう。
‌‍「な、何でそう思うんですか?」
‍ 進路指導室にて。
‌‍ 指定校推薦についての話があるという理由で来たのに、実は只のお菓子試食会だったりする。‌‍
「いえ。‌‍君みたいな真っ直ぐな人は、罪悪感を持つと人に相談できませんからね。家族も仲が良い、友達も多い、指定校推薦も決まった。‌‍そんな君が何に悩んで溜め息ばかり吐いてるんですか?」
‍ カロリーの固まりを全て平らげた先生は、指を丁寧に舐めとりながら首を傾げた。
‌‍さすが、『先生』だ。
‌‍ 俺が悩んでるなんて、よく分かったよな。溜め息なんて自分でも気づかなかったよ。
‌‍「成程。受験や就職時期に罪悪感を感じる悩みか。‌‍加賀くんは恋に悩んでるんですね」
‍「ちがっ」
‍ つい大きな声が出てしまった。そんなの肯定とほぼ同じようなものだ。
‌‍「でも、誰にも言えないから悩んでるんですよね?」
‍ぐっ
「前嶋さんにさえ言えない相手なんですね」
‍「……帰ります」
‍ 扉に向きを変えたら、檜山先生は引き下がらなかった。
‌‍「本題を忘れていました。‌‍これです!」
‍ パンフレットを此方に向けると、静かに微笑んだ。
‌‍

***

「ふぅん。‌‍専門学校のオープンキャンパス、ねぇ」
‍「学祭も兼ねてるんだって。一年はクッキーやら焼き菓子系で二年がオリジナルケーキ、OBが出店」
‍ 去年のオープンキャンパスをまとめたパンフレットでは、クリスマス間際だったから切り株の形のビュッシュ・ド・ノエルのオリジナルケーキの写真がいっぱいあったり、四段のケーキやお菓子の家やらいっぱいある。‌‍見てるだけでわくわくしてきた。
‌‍「一人で行くの?」
‍ 口の中が甘くなるようなパンフレットから一変、清人の香水の香りで現実に引き戻された。‌‍清人がいつも乗る駅の前の公園で、俺だけはしゃいで恥ずかしい。
‌‍「あ、まあ」
さやを誘おうと思ったが俺は自由に見て回りたいしさやも一人行動が好き。一緒に行っても現地解散にありそうだったし、それなら一人で行こうかと思っている。
‍「俺は誘ってくんないの?」
‍「え!? でも、あの、甘いものばかりだよ」
‍「お前を一人で行かせるわけねーだろ」
‍「え? でも俺けっこう一人で色々見て回りたいタイプだし」
‍ 子ども扱いされてしまいちょっと剥きになってしまったけど、でも清人は過保護というか、俺も同じ男だから心配することはなにもない。
「あっそ。‌‍迷惑なら行かない」
ちょっと不貞腐れたように言うので、可愛いと思ってしまった。
‍「迷惑は絶対ないよ」
‍ 大声を出すと、‌‍清人はニヤッと笑った。
‌‍「じゃあ、決まり」
‍ 頭をポンポン叩かれて、‌‍清人を見上kげた。
‌‍「意地悪」
‍「じゃあ意地悪ついでにもう1つ」
‍ 頭に置かれた手を、ゆっくり耳を撫で、うなじに触れる。
‌‍「キスしてもいいならするけど、人がいっぱいいるよ?」
‍ そう言われ見回すと、カップルがベンチを全て占領していた。
‌‍ 噴水がある為、この時期にはライトアップしてデートスポットらしい。
‌‍「む、無理」
‍ 話に夢中で回りに気づかなかった自分が悔しい。
‌‍「じゃ、次は違う場所で待ち合わせしなきゃな」
‍ そう笑うと、駅に向かう清人を見送った。
‌‍ 男女のカップルだったらキスをねだっても、あの場所でできたかもしれない。
‌‍ それでも俺も清人を選んだんだから、我慢。
‌‍ 両思いになった方が苦しいなんて、本当に笑ってしまう。
‌‍ だから我儘は言わない。気持ちが通じあっただけで幸せだ。
‌‍ 幸せなんだ‌‍とは思いつつも、ちょっと足取りは重い。
‌‍ トボトボ歩いていたら、俺の店から出てくるカップルがいた。
 手には白い箱を持っていて幸せそうだ。ケーキを買った後の幸せそうな顔って本当に俺は大好き。
‌‍「ここのシュークリーム美味しいんだよぅ」
‍「いや、俺、甘いもの苦手だから」
‍「えー! 食べてみてよーぅ。‌‍本当に美味しいよぉ?」
‍ こんな参道でイチャイチャできるカップルが羨ましすぎた。
‌‍ いや希望すれば清人はやってくれそう。
‌‍「この前作ってくれたあのクッキーなら、甘さ控えめで美味しかったけど」
‍「本当ぉ?」
‍「うん。‌‍本当! また作ってよ♪」
‍ 男の方が女の人の手を握りながら、微笑んでいた。
‌‍ 甘さ控えめのクッキーか。それなら清人も食べやすいかな。
 でも甘いからこそ美味しいんだよ。考えても、お菓子のレシピを見ても首を傾げてしまう。‌‍甘くないクッキーなんて、俺は魅力を感じないらしい。
 清人は先ほどのカップルには目もくれずさっさと店に入ってお菓子を吟味している。でもやっぱ甘さ控えめなマカロンやプリンを見ているようだ。
 帰宅して早々だが、父も母も忙しそうなので俺がカウンターへ回る。
‌‍「清人、何が好き?」
‍「何って抽象的だな。‌‍じゃ憂斗」
「ばか」
‍ マカロンをお買い上げの清人に、お釣りを渡す時に然り気無く聞こうとしたけど、分からなかった。
‌‍ ドライフルーツ好きって言ってたけど、逆に俺がお菓子作りで使ったことがないんだよな。スコーンとかチョコに使ったぐらいかな。
‍「あ、サンドイッチは好きかも」
‍ 突然突拍子もなくて驚いたけど、清人ぽいといえば清人っぽい。スイーツじゃなくて「オープンキャンパス。‌‍憂斗のお弁当とか食いたい」
‍「学校にお弁当持っていくの恥ずかしいじゃん」
‍「なんだよ。期待させて」
 ちょっと拗ねたのち、マカロンの箱を受け取ると嬉しそうに微笑んだ。
 俺が作ったお菓子も食べてそんな顔してほしい。たとえスイーツじゃなくてもこの際、いい。
「具は何が好きなの」
「卵」
 嬉しそうに言われればもう作る以外の選択は考えられなかった。
‌‍

***

‌‍ 甘くないクッキーに、オープンキャンパス用のお弁当に、英語の小テスト。
 俺の苦手な三銃士はどれも属性がばらばらで攻め方も違うから苦労する。
‌‍ それから来週からは指定校の自己推薦文と面接の練習も始まるんだっけ。
‌‍ 頭の中を清人だけにしたいのに、受験生にはする事がいっぱいだ。
‌‍「早く大人になりたい」
‍「ぶっ」
‍「大丈夫?」
‍ 清人が飲み干そうとしていた珈琲を吹き出した。
‌‍ ハンカチを渡しながらため息が出そうだった。
‌‍ 最近の定番デートは、俺の店から駅まで清人を送っていくコース。
‌‍ 短いんだよー。でも早く帰らなきゃご飯の時間もあるし一緒に食べなきゃ、うちの双子が拗ねるから時間は長くならない。
‌‍「いや、悩みか?」
‍ 優しい瞳で俺を見つめてきたけど、甘い瞳に照れてしまう。
「うーん、ただ思っただけ」
‍ 顔を近づけられただけでこの心臓の音。
‌‍ 俺、恋人になったはずなのに、こんなに近づかれても未だに慣れないなんて。
‌‍ はやく慣れないだろうか。
‌‍ そうしたらもっといっぱい抱き締められるのに。
‌‍ 背中とか触ってみたいのに。
‌‍ あの綺麗な指だって、もっと触れるのに。
 駅前で別れてからは寂しさに悩みもプラスされ最大のため息が零れた。


‌‍「母さん、格好いいお弁当箱無い!?」
‍「あらー? しのとりのしかお弁当作らないからねぇ」
‍ 台所を漁っても、ウサギやひよこのお弁当箱しかなかった。
 俺の弁当はいつも使い捨てのランチボックスなんだけど、親にお弁当を作ってもらう習慣がないさやのための大きいのだし、可愛いのばっかなんだよな。
 一番無難なのさえ清人には似合わないピンクのチェック柄。ぎゅうぎゅうにサンドイッチ詰めたら隠れてくれるかな。
‌‍「じゃあ、母さん、明日のオープンキャンパス用にお弁当作るから手伝ってよ」
‍「あらあら。‌‍お母さんが作ってあげるわよ?」
‍「あ、いや、その、俺が作るから、味とか見てくれるだけで良いんだ」
‍ そう言うと母さんは首を傾げた。
‌‍「ふぅん? 誰かに食べさせるのねー。‌‍博人さん 憂斗に彼女みたいよー」
「違う違う」
‍ 言い訳すればするほど誤魔化せなくなるので、結局母を追い出して自分だけで作ることにした。

***

 夜遅くまで頑張って作った甘くないお菓子とサンドイッチ。
 眠いし全然可愛く作れなかったし、ボロボロだ。疲れて今すぐベッドにダイブしたい。‌‍
「憂斗」
‍ いや。
‌‍ 疲れたと思ったけど、疲れなんてぶっ飛んだ。清人が、俺を見つけて微笑んでくれている。こっちに向かってきてくれるだけで癒される。
‌‍ 手を振る腕に、ゴツい腕時計があってなぜか胸が締め付けられた。腕時計とあの指が似合いすぎてて、すっげぇ格好いい。
‌‍いつもお見送りしかしなかった駅で待ち合わせってなんかいいな。俺も駆け寄って二人で電車に乗り込んだ。
‌‍
「専門学校って、家から駅4つって事は家から通う予定?」
‍「そのつもりだよ」
朝一時間早く起きなければいけなくなるのと、妹二人の朝の支度を手伝えなくなるのだけが心配だけど、最近は我儘も言わず自分たちで支度できるから大丈夫かな。
‍「俺が一人暮らしする予定の駅の方が近いから、一緒に住もうか?」
‍「へ!?」
‍「って思っただけ。‌‍妹が一緒に住もうってうるさいから断る理由にもなるんだけどな」
‍電車に揺られながら、清人の言葉にも、心が揺れてしまう。
‌‍一緒に住めたら、それは嬉しいかもしれないけど、けど毎日意地悪されそうだしなぁ。
‌‍「真剣に悩む憂斗、可愛いな」
‍ からかわれてムッとなる。
‌‍ いつか、もっと大人になったら俺だって清人が困るような言葉でからかってやりたい。
「お、パンもあるじゃん」
‍「え?」
‍ 学校に着くと、すぐに入り口でパンフレットを渡された。
 専門学校は体育館ぐらいのこじんまりした建物で、学校とは違って広い運動場や入り口はない。教員用の駐車場にテントを張ってオープンキャンパス参加者の受付をしているぐらいだ。
 受付に置いてあったパンフレットを見た清人が甘くないパンを発見していた。
‌‍ 体育館ぐらいしかない小さな製菓専門学校だったから知らなかったけど、別館に調理科もあったらしい。
‌‍ 知らなかった。俺、どうしよ。
‌‍ 三階立ての、鉄筋コンクリートの殺風景な建物の一階。
‌‍ 一階は製菓科一年生のクッキーやら焼き菓子系と調理科一年生のパン屋が並んでいた。
‌‍
「ふーん。‌‍たこ焼きパンだって、すげー」
‍ 清人が、普段見せない無邪気な姿を見せてくる。
‌‍ けど、けど、俺、パン焼いて来たんだよ。サンドイッチ作ったんだよ。
もしこっちを食べられたら、俺の出せない。‌‍発酵が上手く行かなくてなんかちっちゃくなったし‌‍ベーコンは焦がしたし。
‌‍こんなふっくら美味しそうなパン見た後には出せないじゃん。
‌‍忘れたって言おうかな。
‌‍「憂斗、どした?」
‍「あ、ううん」
‍「真っ青だけど? 向こうに休憩所あるから座る?」
‍「ああ! こっちのクッキー美味しそう」
‍ 心配されないよう、清人の腕を掴んでぐんぐん進んだ。
‌‍「このサンタのクッキーとか双子にどう?」
‍「本当だ。‌‍喜びそう」
‍ 本格的なアニメキャラから、絞ったクッキーや、売ってるクッキーを自分たちの手で味を再現させてたり、見てたら確かに面白いし美味しそう。
‌‍ 結局いっぱい買ってしまった。
‌‍「確か体験学習でクッキー焼けるらしいです」
‍「付き合うよ?」
‍「でもクッキーならいつも作ってるからなー」
‍ 一応、体験学習は授業で使ってる調理室でしているみたいだから、どんな調理室か興味があるけどなんか今日の俺、間が悪すぎる。
‌‍「じゃあ、お弁当食べようか」
‍「あ」
‍「あ?」
‍ 心なしか清人の目がきらきら輝いている気がする。
‌‍ これは期待されてる?
「実は、俺……」
‍ 斜めにかけたバックを握り締めて、固まった時だった。
‌‍「早く食べたい」
‍「で、もちょっと膨れ方失敗した」
‍「良い良い」
‍「玉子だって殻が入ったかもしれないけど」
‍ 清人は足を組み変えると肘をついて笑う。
‌‍「憂斗が頑張って作ったって所が大事なんだよ。‌‍食いたい。‌‍てか食わせて欲しいんだけど?」
‍ おねだりするように首をかしげられたら、昨日の寝不足が吹っ飛んだ。
‌‍ 今なら重箱でおせちが作れそうだ。
‌‍「どうぞ」
‍ 結局、うちの店のケーキの箱に入れられたのはサンドイッチ。
‌‍ 食パンとバターロール。
‌‍ 中にアボカドと海老、卵にハム。シンプルというか簡単な奴にした。
‌‍手作りハンバーグとか卵焼きとか、手が込んでて重いとか思われそうだったし。
‌‍ 清人は箱の中身をのぞき込むと、急いで自分のカバンから携帯を取り出した。
「清人?」
‍ スマホで夢中になって写真を撮ってる。
‌‍「食べるの勿体ないな。‌‍やべー」
‍ 大事そうにサンドイッチを取り出して、甘く甘く微笑んだ。
‌‍「ありがとう。‌‍頂きます」
‍ 俺こそ今の笑顔、写メに撮りたい。‌‍撮りたいよー。
‌‍ 清人が笑顔で食べる中、俺はフワフワ緊張するだけで、サンドイッチの味なんて全くしなかった。あとサンドイッチにしたのには、ちょっとだけ考えがあったりする。
‌‍「ん?」
‍ 指についたアボカドをペロっと舐めとる清人。
‌‍ それなんだ。その長い指先が動いたり、舐めたり、よく見えるのはやっぱサンドイッチだよね。
‌‍ うん。鼻血出しそう。
‌‍「めちゃくちゃ美味しい」
‍‍ またペロっと指を舐める清人に言われて慌てて現実に戻る。俺ってば何を考えてるんだよ。
 でも美味しいって言われたら嬉しすぎて、‌‍なんて答えて良いか分からずにキスしたくなる。
‌‍ 慌てて邪念を払い除ける為に首をブンブン振ると、清人はケタケタと腹を抱えて笑っていた。
‌‍ どうしたらこの人のこの余裕を壊せるんだろう。
‌‍ 俺も清人も、ケーキをそれぞれ選んでから専門学校を後にした。
‌‍ 始終甘い香りが漂うオープンキャンパスは、俺にとっては幸せだったけど、いつもより長く一緒にいるのに短く感じる。
‌‍ 後は、昨日徹夜で作ったこれを渡すだけなんだけど……。
‌‍「来週の金曜日、俺の家、来ないかな?」
‍ 暗くなった帰り道をゆったり歩きながら、清人は言った。
‌‍「聞いてみないと。‌‍でも多分大丈夫と思う」
‍「ちょうど塾が清掃入るのと妹が友達の家に泊まるらしくて一人なんだよな」
‍ 双子の妹か。あれ以来会っていないので気まずいからいない方が助かるけど、二人?
両親もいないってことかな。
「いや?」
‍「ううん。邪魔しようかな」
‍「じゃあ、来いよ」
‍ ‍トントン拍子でなんか凄い事が決まった気がするけど、違う違う。
‌‍ 俺は、今日1日、清人に会話もデートも全てリードして貰っただけ。
‌‍ 全然、甘えられてないんだから。もう1回信号を渡ったら駅前の道に出る。
‌‍そうしたら人や車が増えてしまう。
‌「清人! ままだ帰りたくない!」
‍ 俺は勇気を出して清人の服の裾を掴んだ。
‌‍ 清人は彫刻のように固まった。
‌「俺、俺、」
‍「あー……。‌‍くそっ」
‍ 苦しそうな泣きだしそうな声が色気あるなって思っていたら、清人の裾を握りしめた俺の手を、握り返した。
‌‍「帰したく、ねぇ」
‍ そう言って、俺を引っ張って行く。
‌‍「わっ」
‍ 駅に続く線路沿いにある細い道。
‌‍ 清人は俺を抱き締めると、フェンスに俺を押し付けてきた。
‌‍ 清人の体とフェンスに挟まれて、痛い。
‌‍「清人?」
‍「ちょっと今、理性と戦ってる」
‍「りっ!?」
‍「このまま、部屋に連れ帰りたくなったのを耐えてんだよ」
‍うー……、と唸る清人。
‌‍ 必死な彼が可愛くて俺はおずおずと抱き締められた腕を、抱き返してみた。
‌‍「デートも好きでだけど、俺、もっとこう、い、イチャイチャしてみたい」
‍「イチャイチャって、お前なぁ」
‍「気持ち悪いよな。でも俺、なんかドキドキして幸せで」
‍ ――俺も、このまま連れて帰って欲しい。
‌‍ そんな大胆な事は恥ずかしくて言えず、代わりにグリグリと頭を埋めてみた。
‌‍「なんか、まじ、愛しいな」
‍ 頭を撫でて貰うのが気持ち良い。
 夢中になって抱きしめている手に力を入れていると、斜めがけのカバンが肩からするりと落ちて、音を立てて地面に叩きつけられた。
‌‍ あっ
‍ 足元に視線を落とした。
‌‍ カバンの中には渡していなかったクッキーが入っていたが、お亡くなりになった音がした気がする。‌‍
「どした?」
‍「何でもない!」
‍「……後ろに何を隠した?」
‍「隠してないよ。‌‍あ、もう帰らなきゃ」
‍「――憂斗?」
‍ ‌‍ けど、これは見せられない。
‌‍ 落ちた時に踏んだ気もするし、割れてる。
‌‍「何でもない」
‍‌‍上手に笑えたつもりだったんだけど清人は誤魔化されてくれない。
「言うまで‌‍此処でキスされてぇの?」
‍「さ、……されたいかも」
‍‍ 清人は、少し照れたのか目が優しくなった。
‌‍ それは本音だけど、うまくクッキーを隠せたならいいや。
清人が俺の背中をなでたと思うと、気づけば背中に回して隠していたカバンに手を入れられていた。
「お、なにこれ」
「あああっ」
‌‍‍ 清人が取り出したのは粉々のクッキー。やっぱ落としてきたときにカバンごと踏んでしまったか。‌‍
「……か、返して」
‍「これ、クッキーじゃん。‍俺に作ってくれたの?」
‍「でも間違えて踏んだから」
‍ ぎゅっと目を閉じて首を振った。
‌‍「頂戴。‍なんかこれ、良い薫りがするし」
‍「駄目。作り直す」
‍ 清人は小さな声で『やっぱ俺のじゃん』と笑うと、クッキーを開けて食べ出した。
‌‍「うっま。‌‍ドライフルーツ入ってんの?」
‍「前に好きって言ってたから」
‍「あ、全部食べちゃった」
‍ 粉々になった部分まで袋から取り出して食べてくれた。
‌‍「ご馳走様 ありがとう。また食べたい」
 本当にうれしそうに笑ってくれたから、照れてしまった。
 清人の笑顔はどれほど砂糖を使ったスイーツであっても負けてしまいそう。
 それほど俺を蕩けさせる甘さがある。
‍ その後、何度も通りすぎる電車を見ながら、俺と清人は、終電までイチャイチャしてしまった。
‌‍ クールに見えていた清人は同年代のただの意地悪で格好いい良いやつで、優しくてそしてただ単に俺に甘い。
‌‍ 甘いケーキより、俺はそんな清人が好きみたいだ。
‌‍ 家に帰ると、オープンキャンパスのお土産を楽しみにしていたりのとしのは眠っていたから少しだけ申し訳なくなった。
 でもたまには自分優先で楽しい時間を過ごすことを許してほしい。

‌‍   ***

「加賀くん、放課後は進路指導室に」
‍ オープンキャンパスも終わり、いよいよ面接練習が始まった。‌‍
 面接練習は担任や暇な先生に時間を作ってもらって放課後にする。国立コースの担任や教科はなるべく下げ、一年や二年の学年主任とか5教科以外の先生に頼むことが多いんだけど、さやは‌‍檜山先生に頼んでいて自分ひとりじゃ恥ずかしいからと俺まで頼んでいた。
 なので俺も今週から面接練習を始めることになった。
 ただ‍俺、頭浮かれてて、何も返答とか考えてなかった。
‌‍「前島さんは問題ないけど、加賀くんは次の木曜も面接しましょうか」
「木曜?」
「なにかテストや面接より大事なことがありますか?」
‍ ジロリと睨まれて、縮こまってしまった。
‌‍ 今日も木曜も、清人が来る大切な日なのにまあ指定校のテストの対策を全くしていなかった俺が悪い。
‌‍ 清人に曜日をずらして貰おうかな。塾は毎日来ているから会えるのは会えそうだし。
‌‍「良いですか? 試験日は二週間後ですよ? これから毎日放課後は試験対策してください」
‍「二週間もこれから?」
‍「学生が勉学に勤しめないなら、バイトも恋人に会うのも慎みなさい」
 こっ。
 俺ってやっぱ浮かれているというか顔に出やすいのかな。浮かれてふわふわしている自覚はちょっとだけあった。隠すのが下手なのも要因だろう。
‍「それが嫌なら、勉強も日頃の行いもしっかり文句を言われないように頑張りなさい」
‍「はい」
‍ 俺が全面的に悪いんだしな。
 俺は清人みたいに普段からこつこつ周りを安心させるように動いていない。面接練習や自己紹介文なんて書いてないし練習もしていない。付け焼き刃でやるにしても練習期間が長くあれはあるほど自信につながる。
‌‍ 放課後は今後面接練習、自己紹介文の作成。自己紹介文をもとに面接をする場合もあるらしく、自己紹介文は檜山先生以外からもチェックが入る。なので担任、学年主任、檜山先生に休み時間や放課後に確認してもらわないといけない。
‌‍ 確かにバイトなんて行く暇ない。面接と自己紹介文の書き方を指導してもらうだけ気づけば部活終了時間まで学校に居残りしていた。
 空はすっかり暗くなっていて、いつも清人が店に来るぐらいの空の色に染まりつつあった。

***

‌‍「清人!」
‍ 真っ暗な空を眺めて、スマホを取り出した時だった。塾の下のコンビニに清人を見つけた。
‌‍「今、メッセージしようとしてた。大変だな、受験生は」
 同じ受験生のはずの清人が余裕ぶった笑顔でまぶしい。
 これは現代のウサギと亀だ。俺は何もやっていない亀の方で清人は勤勉なウサギだけどさ。
 二週間帰りが遅くなると連絡していたけど、塾が終わって今メッセージを確認したらしい。
「俺が悪いんだよ。何も対策考えていなかったし。でも、会える時間が減っちゃうし」
‍「んな顔するなよ。‌‍試験終わればちょっとは解放されるし」
‍「で、土曜はどうする? 家で大人しく勉強しとくか?」
‍「やだ! 遊びに行く」
‍ 土曜日まで試験対策してたらストレスで甘いもの爆食いしてしまいそうだ。‌‍
‍‌‍「じゃあ、土曜までは頑張って勉強するんだぞ」
‍「子ども扱いするなよ。当たり前だろ」
‍ そう言い返したら、ククッと声を抑えて笑われた。
‌‍ ‍ビルの隙間から見える綺麗な月を見ながら、ため息が零れた。
 そろそろ駅に向かわなければ、清人が帰るの遅くなってしまう。
 今日、清人と会えたのはほんの数分だ。
‌‍「憂斗」
‍「ん?」
‍ 本当に刹那。一瞬清人が屈むとキスしてきた。
‌‍ バッと口を隠して辺りを見回す。
‌‍ 誰にも見られてないよな?
「清人っ」
‍「誰も見やしないって。人は、案外他人を見てないよ」
‍ そう清人は笑うけど、心臓がバクバクする。
 俺のケーキ屋からも頑張って窓を覗き込めば見れる位置だし、塾帰りの生徒はコンビニの裏にある駐車場で待つ人らが大半らしいし、周囲に人がいなかったのは俺も確認してたけどさ。でも、‌‍そんな簡単な事じゃないと思うんだ。
‌‍ もし、もしバレたら……。
‌‍「悪かった。‌‍気を付ける。お前が帰りたくなさそうな可愛い顔するからさ」
‍ ポンポンと頭を叩かれたけど、不安は消えない。
‌‍ 誰に反対されても今さら清人の気持ちは止まらない。
‌‍ けど、誰にも邪魔されたくないんだ。
‌‍ ‍誰にも知られず、悪いことでもないのに、俺はそんなにイケナイ恋をしてるのだろうか?
 俺もキスは嬉しかったのにちょっとだけ気まずい雰囲気を作ったまま別れてしまった。



帰宅すると父さんは奥で道具を洗っている音がする。
「あら。‌‍遅かったのはデートじゃなくて追試だったの?」
母が双子の妹にオムライスを食べさせながら、首を傾げた。
‍「デッ!?」
‍「でーと?」
‍「でーと?」
‍「母さん! 二人の前で言うなよ。‌‍違うよ。‌‍試験日まで面接の練習とかすんの」
‍ 唐揚げがいっぱい入った皿から1個口に放り込むと、洗い物を終わらせ自分のオムライスを持ったままリビングへ入ってきた父さんも口を出した。
‌‍「さやちゃんも言ってたぞ。‌‍お前が最近彼女できたって」
‍「か!?」
‍「かのじょー?」
‍「かのじょー?」
‍「か、のじょは居ないよ」
母さんから渡されたオムライスにはケチャップで『祝』と書かれていて疲れが一気に襲ってくる。
‍ ポテトサラダの中のウサギ型の人参を見ながら冷や汗が止まらない。
‌‍「話せない事なら無理に聞かないけど、受験前にハメをはずしちゃ駄目よ」
‍「そうだぞ。‌‍さやちゃんにも誤解を解いとけよ?」
‍「う、うん」
‍ ヤバい。
‌‍ ‌‍家族に秘密なんてもった事なかったけど、どんどん秘密が増えていく。‌‍胸が苦しい。
うちの両親ならとくに反対も説教もないだろうけど、どうしても言えない。

 土曜日。
 なんと清人の誕生日らしい。
 こっそり清人の生徒手帳を写真撮っていたのを眺めていたら発見した。
 そういえばもうすぐとは言っていたけど、日にちは聞いていなかった。
 本当ならば誕生日ケーキを作って持って行きたいけど、清人は甘いものが苦手。
 金曜も自己紹介文の添削してもらった後に面接練習してから家に帰ってケーキはギリギリだ。土日はいつもよりケーキやシュークリーム多くつくるから調理室借りられないし作るなら家のキッチンだけど、妹二人が欲しがりそうだし。
 甘くないケーキなんてケーキじゃない派の俺は何を作ればいいのかわからない。
チーズを何種類か混ぜてドライフルーツも混ぜてとなると調べて練習もしたいし時間が足りない。そもそもドライフルーツはクッキーで使ったしワンパターンかな。
 いっそケーキみたいなちらし寿司みたいなご馳走の方がいいんじゃないかな。
 でもお菓子作りは好きだけど料理はほぼ経験がない。双子の妹のお弁当を作ろうとしたら、あまりに小さなお弁当箱でおにぎりしか詰められなかった経験がある。
 試験が終わってからあとで誕生日会をやってもらった方がまだ時間をかけられる。
 一学期に指定校が決まり、二学期は免許取りに行ったりバイトしたりと時間取れるらしいし、今だけなんだ。今だけの辛抱だ。
十月からはクリスマスケーキの恐ろしい準備期間が始まる。
 保存が効くクッキー系から大量に作っていき、十二月はスポンジスポンジスポンジのスポンジ地獄と生クリームホイップ地獄が待っている。だから今は俺の時間。
 試験さえ終われば、しばらくはゆっくりできるはずなんだ。
‌‍
‌‍
 今日は自己紹介文のチェックを学年主任に頼んでいたのに、主任が忙しかったからと教頭先生がチェックしていた。
 職員室に取りに行ったら、教頭が不機嫌に待っていてこんな稚拙な文は駄目だと書き直しさせられそうになったが、古典のような古い言い回しの添削に真っ青になった。
 俺は自分のことを『某は』とか『云ふ』とか書かない。教頭が根性を叩き直してやると地毛の茶色っぽい髪の毛まで文句言いだしてきたので、急いで逃げてさやと檜山先生の援護の元学校から脱出した。
 流石に試験二週間前に古典まで習いたくない。


「ただいまー」
‍ 店から入ると、調理場の方で父さんがチョコに文字を書いていた。
ほっとする。やっと現代に戻ってこれたファンタジーの主人公の気分だ。
「おかえり、ハニーが帰ってくるまでちょっとだけ店みててくれ」
「ほーい」
‍ レジ横に座り、パソコンが置かれた机の上のパンフレットを手に取る。
‌‍ 父さん達近くのパティシェ同士で、お互いのケーキを見せ合って高め合う、毎年恒例の勉強会の時のケーキ。
‌‍ それをパンフレットにして毎年まとめるんだけど、清人にあげるケーキの参考になれば、と思いわくわくしながらページを開く。
‌‍ 俺、生クリームを絞って、白くまみたいにデコレーションケーキ作ったり、かまくらみたいに好きなだけ生クリーム塗るのが好きなんだけど、清人ならチーズケーキかビターなチョコケーキとかの方が良い気がする。
‌‍ 生チョコケーキのチョコをカカオ多めにしたらどうだろう。
「……る?」
 甘いものが苦手なだけでプリンとか美味しいと言っていたもんね。
 甘いものが食べれないわけではない。
‍「……聞いてる?」
‍ 少しずつ甘さを増やしていって舌を慣らしていくってのはできないんだろうか。
「あの、さっきからずっと呼んでるのに聞いてます!?」

ハッと夢の世界から現実に戻ると、セーラー服を着た美人な女の子がーー。
「あっ」
 違う。清人の妹さんが仁王立ちしていた。
‌‍「あ、雨宮さん! すみません。‌‍いらっしゃいませ」
‍ にへっと笑って誤魔化すが、妹さんはツンッと横を向くとチラシを差し出してきた。
 よく考えればいきなり告白されてお断りしてからずっと会っていなかった。
 少しだけ空気が重い気がする。必死で気にしていない雰囲気で接するけど、居たたまれない。
‌‍「ケーキの予約、よろしいかしら? これ」
‍「はい! ありがとうございます!」
 父が去年パティシエ仲間と作ったチョコケーキだ。期間限定で販売するんだけど、ブログかSNSで見てきてくれたのかな。
‍ チラシの予約の記入覧を、ウキウキと切り取り線になぞって切る。
「――貴方、最近私の兄と仲がいいみたいですね」
‍「あっごめんね、その」
 振られた相手と兄が仲良くしてたら嫌だよね。
 彼女の気持ちなんて全く考えていない行動は確かに申し訳ない。
‍ 綺麗で、女の子の中の女の子のように、小さくて細くて、白くて綺麗な女の子。
‌‍ 清人と似てはないけど、なんか存在感かある所はさすが兄妹だ。」
「ふん。急いで色々辻褄合わせたり嘘、言わなくてもわかるわよ」
‍ 予約が完了した領収書を渡すと、妹さんは領収書を引ったくった。
 呆然と見ていると、彼女が俺のつま先からゆっくりと顔まで見てきて、そして冷たい瞳で睨んできた。
「人が見ているコンビニの前で、気持ち悪い。何を考えてるの?」
コンビニの前――。
 それって昨日の不意打ちのキスの事?
 眩暈でよろけそうになったが踏ん張ると、彼女は予約したチラシを見せびらかしながら俺をあざ笑った。
‍「誕生日は家族でこのケーキを食べるから。邪魔しないで」
‍ そう言って、さっさと店から出て行った。
‌‍ ‌‍壁に背中を押し付けながら、ズルズルと床へと座り込む。
 一番見られたらいけない人にみられてしまった。
 ‌‍‌‍‌‍こんな事態は予測してたし‌‍バレる事もあるだろうと思ってた。
 でもそんなのは今はきっと問題ではない。
 一番問題なのは、振られた彼女をさらに傷つたことだろうな。
‌‍『――気持ち悪い』けど、実際に言われたらそこまでダメージはない。
‌‍ 本当に俺が清人を好きになる事って、その思いが叶って恋人になることって、身内から見たら気持ちが悪いって事だろう。
‌‍ 仕方ないけど、現実は甘くない。
‌‍ じゃあどうするか?妹
さんに迷惑をかけないようにするには彼女と接触しないようにしか考えられない。
‌‍ でも雨宮さんを諦められるほど、まだ大人にはなれないし、そんなふうに物分かり良い人になりたくない。
「よし!」
‍ 勢いをつけて立ち上がると急いで店を出た。
‌‍「雨宮さん、待って!」
‍ 早足で歩く妹さんを呼び止めたが、止まる気配はない。
‌‍ それどころか振り返りもせずに、早足で歩き出した。
‌‍「雨宮さん……。本当にごめんな。君を沢山傷つけるつもりはなかったんだ」
‍ 早足で歩く妹さんに追い付くと、横について歩き出す。
‌‍ けど、俺の方を見てもくれない。謝り過ぎるのも無神経なのかな。
‌‍「俺、妹さんが俺みたいな平凡な奴を好きになるなんて釣り合わないって怖くて振ったけど、その、その、ガキだった。妹さんの気持ちとか恋心とか理解してなかったんだ」
 清人の事も恋愛として好きと自覚もなかったし、一度でも誰かを好きになったり振られれたら、妹さんの気持ちも理解できたかもしれないのに、ガキすぎて申し訳ない。
「でも、気持ち悪いかもしれないけど簡単な気持ちで好きになったワケじゃない。
‌‍迷ったし悩んだし、けど止められなくて」
‍ 妹さんの足が止まり、下を向くと肩が震えていた。
「最低」
「え?」
「最低って言ったの。無神経。最低よ、貴方」
‍ 左頬に、痛みが走った。彼女の爪が頬に刺さる感触が残る。
‌‍「な、んで、なんで私にその話をするの……?」
‍「あ、……まみやさん」
‍ 白く綺麗な頬を、涙が伝っていた。彼女は俺の頬を見て視線を逸らしたが、肩はまだ怒りで震えていた。
「薫。私の名前は薫よ。なんで、なんで私は名前も覚えてないのに」
‍ ぐずっと鼻をすする薫さんにポケットからハンカチを差し出すと、手で叩き落とされた。
‌‍「なんで、なんでお兄ちゃんなの?」
‍「――ごめん」
‍「女にとられたんならまだ納得できた。‌‍私、フラれてからも、貴方の笑う姿や、ケーキを幸せそうに見る姿が忘れられなくて。‌‍は、初めて、初めて好きになったのに、こんなの酷い。‌‍不毛すぎるわ」
‍ ケーキの引換券を両手で、クシャクシャにしながら、薫さんは泣いた。
‌‍
「目で追いかけてたから、貴方がお兄ちゃんを好きなのはすぐに分かった。‌‍でも、女のプライドはズタズタだし、お兄ちゃんは嫌いになれないし」
‍ クシャクシャにした引換券を俺に投げつけながら、その瞳は酷く沈み、酷く悲しんでいた。
‌‍「――貴方を嫌いになるしかないの」
‍ そう走り去る薫さんを今度は追いかける事はできなかった。
‌‍ ‌‍まだわかり合うには時間がかかるだろう。
‌‍ でも叩かれた左頬は、ズキズキと痛み、腫れは引かなかった。
‌‍ 甘い恋の代償の、この痛みは。
‌‍‌‌

土曜日が清人の誕生日だと知ってから楽しみだった。
 清人が泊まりにいていいよって言ってたのも楽しみだったが、意外にも両親に伝えたら難色を示されてしまった。
「憂斗は指定校推薦をもらっているからいいけど、この時期の土日は大事なのよ」
「さやちゃんみたいにご両親や志望校知ってる相手ならまだしも他校の最近できた友人だろ? 会ってお祝いするぐらいにしときなさい」
 友人じゃなくて恋人と伝えたところで反応は一緒だと思う。
 両親に清人がどれぐらい勉強できるか説明するのも大変だし、それに。
「わかった。ありがとう」
 それに俺も土曜日に会うのに断る理由を探していたから、助かった。
 両親にそう言われると薄々分かっていて相談した気もする。
「にいに、いたい?」
「ひやす?」
 妹二人が俺の前髪のゴムを決めるときに、左頬に走る赤い線を心配げに見つめる。
「大丈夫だよ」
 薫さんに頬を叩かれたときに爪が当たってしまったんだ。抉る感じではなく頬をひっかくように走った赤い線。
 母さん達には野良猫を抱き上げたら引っかかれたと説明したけど、清人にうまく誤魔化せる気がしなかった。
 それに薫さんが家族で誕生日を過ごしたいというならば、彼女の誕生日でもあるし遠慮するのは俺の方だ。
 綺麗で俺にもったいないとか適当な理由で薫さんをふった癖に、清人との交際は認めてもらえるなんて思えない。
 色んな考えが頭を支配する中、土曜ではなく俺の試験が終わってから改めてお祝いしようって提案するつもりだ。
 指定校推薦の自己紹介文は何十回も書き直したけれど、今回の誕生日デートを断るメッセージを考える方が何十倍も難しく、何十倍も苦しかった。
 金曜日の朝、何回も書き直して送ったメッセージを見て悲しくなった。
 でも全部過去の自分の行いが帰ってきただけだから。
『清人! ごめん! 今日は面接の練習やら試験の準備で遅くなるから塾のあとは俺のことを待たずに帰っていいよ。
 あと土曜日なんだけど、泊まりは受験前に親が相手に悪いからと説得しても納得してくれなくてさ、あとあまりに面接とか試験勉強が疎かになっているから、試験が終わってから改まってお祝いした方が俺もゆっくりできるかなって思ったんだ。
 急で悪いっけど土曜日は家族で誕生日を過ごすのはどうかな。
 薫さんだって俺が家に来たら嫌だろうし、家族でお祝いされたいかもじゃん。
 なかなか言い出しにくくてギリギリに言ってごめんな。またデートの日にちは改めて決めよう』

 言い訳ばっかで自分擁護でひどい内容だ。
 誕生日前日にこんな内容のメッセージをもらった清人はどんな気持ちなんだろうな。
 申し訳なくて胸が苦しい。今すぐ抱き着いて、お祝いしたいぐらいなのに。
「なあ、誕生日のプレゼントって今の時期何が嬉しいの? 受験お守り?」
「重い。あんたならケーキだけでも大満足よ」
 そのケーキが苦手な相手なんだよなあ。
 今日はカラコンして爪にお花のビーズをつけようと悪戦苦闘しているさやは、服飾関係の専門学校に行くらしい。いつも奇抜だけどお洒落で自分に似合った化粧や小物を使っているさやにはとっても似合っている。
 ただ大好きなブランドのパタンナーが最終的な目標らしく、険しい道のりらしい。
 いつか海外に行ってしまうってことでもあるから、今は幼馴染として傍でお互いの進路を見守っていたい。
「誕生日ねえ。肌身離さず持っていたいなら筆箱とかシャーペンとかでも全然嬉しいんだよね、私」
「え、そうなの? ブランド品のアクセサリーとか鞄じゃないの?」
「そんな高いものは親がくれるから。好きな人には最低限でいい、鏡でもいいしパターン引く時に使う文鎮とか嬉しいかも」
 文鎮?
 文鎮をもらって喜ぶ清人が全く脳内に浮かんでこない。
 でも学校行って塾行って勉強してって生活だからシャーペンとかいいな。
「そういえばこの前オープンキャンパス行ったときに手作りの定規とシャーペンのカスタマイズできるお店教えてもらったよ。自分で色を選ぶやつなんだけど」
「えー教えて教えて」
 さやがメッセージで公式ホームページを送ってくれたので早速見る。
 予約必須でオーダーメイドは出来上がりが一週間以上先だから土曜には間に合わないけど、別日にお祝いするなら間に合う。でも電話で空いてたら当日お店で作れるみたいだ。
「まあ双葉の君なら文房具喜びそう」
「なっ」
 さやには誕生日の相手はとっくにお見通しなんだ。
 さやの差すとが終わり次第、どうなったか教えてもいいと思っているけど、言わずとももう分かってそう。
「庶民的なプレゼントが嬉しいタイプじゃない?」
 確かに持っているものや服はブランド品ばっかだけど、ファーストフードやゲームセンターも好きそうだった。
 ケーキを作ってあげたい気持ちは押し付けになりそうだし、プレゼントも用意しよう。
「で、その頬の傷は彼からの暴力ではないんだ?」
「そんなことするわけないだろ。猫に引っかかれたんだ」
「猫がひっかくときは複数の傷が付くのよ」
「えっそうなの?」
 じゃあ親にも嘘だってばれたかもしれない。
 やっぱり清人にはこの傷が目立たなくなるまで会えない。
「うっそ。あはは、その慌て方からしてあんた嘘つけないよ」
 爆笑しているさやには悪いけど、嘘をつけないの分かっているからこうして誕生日前日に会えないって選択を選んだんだぞ。
 そんなこと言えるわけもないけど。
「そんな悲しそうな顔しないでよ。何も言いたくないんだろうけどさ、あんたはそこがいいんだから」
 嘘をつかないまっすぐな性格が、あんただよ。
 さやにそう言われ、両手に力が入った。
 嘘はつきたくない。それは俺もそうなんだ。
 でも一番相手が傷つかず、解決する方法を俺は考えなければいけない。
 これが分からなければ試験なんて受けている場合ではないと思った。
 頬の傷を触る。痛みは全くないし時間が経てば目立たなくなる傷だ。
 でも今も彼女はきっと傷ついたままなんだろうな。
「ありがとう。さや、俺、何とか解決してみる」
「……誕生日の話しじゃなかったの?」
 不思議そうに首を傾げたさやに俺はあいまいに笑って誤魔化した。
 どうせ誤魔化してもバレるんだろうけど。

***

 俺を励まそうとしてくれたんだから、俺も頑張らなければと動くことにしてみた。
 薫さんは駅二つ離れた聖白百合学園に通っていること以外の情報はない。
 というのも清人が通う双葉学園が有名進学校だとすると白百合学園はお嬢様学校という情報しかない。箱入り娘しかいないとか旧華族や政治家、社長令嬢が通う学校。昔の名残らしいけど、校門前に噴水の奥にロータリーがあり車送迎必須だったとか。今も駅には学校関係者が他校の生徒に絡まれないように立っているらしいし、女性車両以外には乗れない。男女交際禁止って噂もある。うちの学校の男友達たちは下品な感じで騒いでいたから嫌だったけれど、大切にされてる女の子が通っているイメージだ。
 そんな学校の前で待ち伏せしたら教師とか出てきそうだな。この時期に彼女も進路があるだろうし騒いで迷惑かけられない。でも会ってきちんと話がしたい。
 駅で待ち伏せしてみようかな。
‌‍ そもそも反対されるのは分かってた。
‌‍ だったら、回りに迷惑かけないでこの恋を育むのは無理なのかもしれない。
‍‌‍ 理解してもらえなくても、伝わるまで行動でも態度でも気を付ける。今は彼女の傷がいえるのが優先だ。
‌‍ ‌‍駅から見える校舎は、教会やらエレベーターつきの校舎やら、設備からして俺の通う公立とは格が違う。‌‍確か付属だから短大やら大学もあるんだよな。‌‍正に女の園だ。
‌‍「あの制服、どこかしら?」
‍「さぁ? でも可愛い制服ね」
‍ ‌‍なんか視線が痛い。
‌‍ ‌‍ 男子トイレに立て込もって、薫さんが駅に入ってくるのを見張ってようかな。かなり怪しいよな。
 面接の練習をキャンセルにしてまでここに来たんだ。今更怖気づいてしまうわけにはいかない。どうにかして会いたいんだけどな。
 トイレに駆け込んで対策を考えようとしたら、出てこようとする人と肩がぶつかりそうになった。
「すみませ」
「……憂斗?」
‌‍ 意外な人の登場に目を見開いてしまう。
 やばい。
 頬を隠すために口を手で隠したが間に合わなかった。
「清、人……」
 なんでこの駅にいるんだ。この駅を使う学生なんて聖マリア女学院の生徒ぐらいのものなのに。
 なんでここに清人がいるんだ。
「今日は面接の練習で遅くなりそうってメッセージ貰ってたけど」
「え、あう、うん。そう、これから学校に戻ろうと……」
 嘘で誤魔化して取り繕ろうとして、清人の顔が見れなくて視線が地面に落ちていく。
 誕生日前日に恋人に嘘をつかれるなんてどんな気持ちになるだろう。
 俺は清人に不誠実で嫌なやつだ。
「憂斗?」
「薫さんと話がしたくて。その、……彼女にいい加減な言葉で振ったから気まずいママが嫌だった。きちんと解決してからじゃないと清人と恋人になれないと思って」
 勇気を出して顔を上げると、清人が困ったような怒ったような複雑な表情をしていた。
 そのあと首を触りながら、唸るように首を傾げた。
「うーん。そうだよな。相談もしにくいかあ、うん」
「ごめん」
「でも確かに嫌だ。複雑だ。でもここで会えるとは思わなかったからラッキーだ」
 妹と恋人が微妙な関係だというのは嫌だよな。
 なるべく頬を隠すために清人の右側に立ったが、どうか何も触れないでくれ。
「俺は何ができる?」
「えーっとここで薫さんを待っていても怪しまれないかな? 怪しまれるならしばらく隣に並んでいてほしいぐらい」
「なるほど。いいよ。で。その左頬、どうした?」
 うわ。
 ばっちり気づかれていたか。
 どうか神様、これだけはウソがばれませんように。
「猫に引っかかれたからあまり見ないで」
「ふうん」
 納得していないような相槌にふいっと横を向くとちょうど信号の向こう側に聖マリア女学院の制服を着た女性が沢山歩いてきているのが見える。
 淡い水色のワンピースに水色のスカーフの上品な制服。
 その集団の中心で綺麗な髪を風で乱れないように抑えながら歩いている薫さんの姿が見えた。
「最近、後輩たちがなかなか剥がれないって困ってたから迎えに来たんだよ、俺」
「へえ、人気者なんですね」
 じゃああの薫さんの周りにいる生徒は後輩たちなのか。
「薫」
 清人が俺を背に隠すように一歩出ると、薫さんが此方を向いた。
 他の生徒は他校の制服を確認すると海の波のようにさああっと引いていく。
「お兄ちゃん。ふふ、お迎えが来たから失礼するわね」
 薫さんが皆に手を振りながらこちらに向かってくる。
‍‍‌ 背に俺がいるのは分かってそうなのに俺には全く反応しない。‌‍
「遅かったな」
「生徒会が長引いたの。‌‍引継ぎだけなのになかなか解放してくれないの」
「薫は俺と違って愛想があるし頼られてしまうのかもな」
 生徒会長かあ。
 凛としてハキハキしゃべる薫さんは確かにぴったりだ。
 三年なのに拘束されてしまうのは同情してしまう。
「お兄ちゃんみたいに要領よくないもん。でも幻滅させるのも申し訳ないし」
「お前は自慢の妹だ。幻滅するような奴は許さん」
「お兄ちゃん!」
‍ 完全に二人の世界じゃん。俺をわざと眼中に入れないようにも見える。
 でも確かに。俺には薫さんは華奢で綺麗で近寄りがたい上品さのある女の子だけど、同じ女子高に通う育ちのいいお嬢さま達からすれば凛として格好いい薫さんはあこがれの対象なんだろうな。アイドルにキャーキャー騒ぐのが楽しいだけ。それを受け止めて格好いい憧れの先輩を演じてあげる薫さんは優しい。演技だけでなく素の部分も素敵だからファンが出来るんだろう。
「で、憂斗が薫と話したいらしい」
‍ 本当に『ギクッ』って効果音が出そうなぐらい体が揺れてしまった。
 油断していたところで俺の話題に誘導してきたので驚いてしまった。
「さぁ? 私じゃないんじゃないの? だって私はフラれたんだし」
‍ シャッターが閉められる音がした。俺へ心を閉ざしていく音。
 なので一歩俺から近づいて、閉められる前に無理やり足をねじ込む。
「いや、薫さんに用事があって来たよ。君も嫌だと思うけど、話がしたい。その、君のお兄さん抜きで」
‍ 埒があかないから正直にそう言う。
‌‍ でも清人が俺の隣で、ますます不機嫌になる。
‌‍「俺は関係ないって言いたいのか?」
‍「そう言うわけじゃないけど……」
‍「話なら聞かない。‌‍私の気持ちは変わらないもの」
‍「うーん」
‍ どうしよう。正直、とっても話しにくい。隣で清人に聞かれたくないから言いにくいけど仕方ない。‌‍
「ごめんな。‌‍薫さん。‌‍俺からは清人と別れたりしないし、恋人だから会いたいし、その……本気で好きになったんだ。‌‍薫さんは、俺、綺麗すぎてびっくりして断ったけど、本当に俺には勿体無いって思ってるんだ。‌‍だから、俺は、薫さんを嫌いになれない。‌‍泣いてたら慰めてあげたいけど、抱き締めてはあげられないんだ」
‍ 息継ぎなしでそう言った。
‌‍ 強気な事を言っても、本当は二人の反応が怖かったから。
‌‍ どこを見て良いか分からず、自分のぎゅっと握った手を見つめる。
‌‍ 女の子の気持ちも分からず、簡単にフッてしまったけれど、人を好きになって分かったよ。
‌‍ この甘い気持ち。
‌‍ そして『好き』って言葉を言うのがどんなに勇気がいるのかも。
‌‍ 相手を思って苦しくて、ギュッと胸が甘く痛んで、伝えないと苦しくて、でも伝えてるのが怖くて。
‌‍
「やっぱり、薫さん! ちょっと二人で話そう!」
‍ バッと勢いよく手を握りしめた。
‌‍ そしてそのまま、薫さんの手を引いて駅まで歩く。
‌‍ ほかの女の子たちの視線を浴びながらも、二人っきりになれる場所を探す。
‌‍「ち、ちょっと!」
‍「清人も居たら、俺嘘バレちゃうんだ。‌‍薫さんに叩かれたの、清人にバレたく、ない」
‍ 薫さんも俺の頬に傷を残すのは不本意だったろうし、それで二人が喧嘩するのも嫌だ。
「……ありがとう」
‍「あは。‌‍なんでありがとうなの? 薫さんが怒るのは仕方ないんだから」
‍「うん」
‍ 少しだけ薫さんの表情が和らぐと俯いてしまった。
‌‍ 改札口を通り、薫さんと同じ制服が溢れるなか、電車に乗り込んだ。
‌‍ 電車の中は、サラリーマンや女子高生、仕事帰りのOLさんで賑わっていた。
‌‍「あの、加賀くん、手……」
‍ 頬を染めた薫さんに言われて、未だに手を繋いだままだったのを思い出した。
‌‍「うわっ ごめん!」
‍ 学園の憧れの生徒会長が俺みたいな平凡野郎と手を繋いでたら嫌なうわさが広がっちゃうかもしれないし、迂闊だった。
「なんか俺、謝ってばっかだね」
‍「そうですね」
‍ やっと微かに、薫さんが笑ってくれたような気がした。
‌‍「こうしてると、カップルに間違えられるかもしれませんね」
‍ 満員になりつつある電車で、なんとか壁際の薫さんを守ろうと踏ん張っていたら、ポツリと言われた。
‌‍ 本当は、踏ん張るのがやっとなんだけど、格好つけて笑ってみせた。
‌‍ でも、薫さんは深刻そうな顔をしている。
‌‍「加賀くんと、こうして帰り待ち合わせしてデートしたり、手を繋いだり、……私を好きになって欲しかったの」
‍ こちらに背を向けて、外の景色を見ながらそう言う。
‌‍ こんなに髪を綺麗に巻いて、甘い香水を薫らせ、綺麗で儚げな背中の美人な女の子。
‌‍清人と出会っていなかったら、俺はこの背中を抱き締めてあげられただろうか。
‌‍ 俺は首を振って傷の残った頬を強く叩いた。俺が揺らぐな。俺が終わらせるんだ。
「綺麗だし、守ってあげたいって思う。‌‍けど俺、君に告白された時、まだ初恋も知らないガキだったから傷つけてしまったね。‌‍今ならもっと真摯に薫さんの気持ちと向き合えたと思う」
‍ 誰かを好きになることも知らず、ただただ綺麗過ぎで釣り合わないと状況から逃げてしまった俺を許さなくていい。
「――でも、お兄ちゃんなんでしょ?」
‍ 手すりをもつ薫さんの手が震えていた。
‌‍「うん。‌‍清人が好きだ」
‍ こんなに電車に人が乗っているのに、目の前にこんなに綺麗な女の子が俺を想ってくれているのに、俺の気持ちは、ただ一人。
‌‍ なんでだろうね。
‌‍ ただ見てるだけだったのに。
‌‍ 憧れだったのに。
‌‍ 触れられたら止まらなくなっちゃったんだ。
‌‍「そこまで偏見は無い……つもりよ。‌‍でも大好きなお兄ちゃんと片想いしてた人なら話は別」‍
「うん」
‍「時間はかかるかもしれないけど、ちょっと心の整理ができるまで近づかないで」
‍「……うん」
‍ 揺れる電車の中、現実が胸に突き刺さる。
‌‍ けど、薫さんは優しい。
‌‍ 俺が薫さんの立場なら相手を理解しようなんて思わなかったかも。
‌‍ こんな子に好きになってもらえたなんて、俺は生涯ずっと誇ったほうがいい。
‌‍「でもあなたを傷つけたくて気持ち悪いって言葉を選んだのは、ごめんなさい」
「ん。平気。薫さんの立場ならそうなるのわかるよ」
その言葉に傷ついたというより、清人の大切な薫さんを傷つけたままのこの状況が嫌だったんだ。
俺のことは嫌いなままでも、それこそ気持ち悪くてもいいから、薫さん自身が幸せになるために一歩踏み出せるならそれでいい。
「じゃあ、私はこの駅なんで」
「うん。またね、あっ」
 ポケットに入れておいた袋を取り出す。
 ラッピングしてもらったのにしわくちゃになっていて、リボンなんてよれてしまっている。
「これ、明日誕生日なんでしょ。おめでとう」
 気持ち悪いって拒否られると思ったけれど、薫さんは目を見開いて呆然としていた。
「あ、その全然大したものじゃないんだけど、うちの学校で流行ってるんだ。他校の記念シャーペン」
 購買で購入できる数百円の安いやつなんだけど、うちの高校のシャーペンはちょっと有名なデザイナーがデザインしたらしい。有名というか最近有名になってうちの高校のシャーペンがオークションで転売されるようになったとか。
「受験勉強で他校のシャーペン使うと受かるって迷信なんだけど、流行ってて、その単純だけどやる気が上がるなら使った方がいいじゃん」
 俺も双葉高校のシャーペンをさやに頼まれたから持ってる。聖マリア女学院はそもそも作ってあるのかわからない。
 最近人気漫画の実写ドラマでもやってて全国に広がりつつあるおまじないだし、高等部だからそのまま短大か大学の内部進学かもしれないけど、でも流行りのものを嫌う女の子は少ないし、お嬢さまには珍しいかなって思ったんだ。
「……ありがとう」
 ブランド品とか沢山持っている薫さんに数百円のシャーペンなんて、ファンがみたら怒るかもしれない。
 でも、本命でもないのにブランドバッグや手作りケーキは違うしね。
「ありがとう」
 電車が閉まる瞬間、もう一度お礼を言うと薫さんはそのよれよれになったプレゼントの袋を抱きしめて泣いていた。
 ガキだった俺がとても傷つけてしまった相手。
 これで許されるとは思わないけど、彼女の傷が早く癒えますように。


「……俺の妹を泣かせたな」
「ひっぃっ」
 振り返ると不機嫌そうな清人がいた。
 なぜか同じ電車に乗っていた。
「え、あ、え? 降りなくてよかったの?」
「こっそり違う車両から乗り込んだのに、一緒に降りたら気まずいだろ」
「そうか。……ごめんな、いろいろ」
俺は逃げたんだ。
薫さんがケーキ屋の前で掃除していた俺にラブレターを渡してきたときに、耳まで真っ赤になって震える手で手紙を差し出してきたときに、薫さんの気持ちと向き合うのから逃げた。こんな綺麗な女の子が俺にって罰ゲームかもと思ったし、受験だってあるし、恋愛ってなんだ? そんなのよりケーキのほうが好きだって頭の悪い俺は逃げたんだ。
傷つけたくせに、恋愛なんてわからないって逃げたくせに双子の兄と恋人になっていたら、いくら彼女が綺麗な性格であってもどす黒い気持ちがわいてしまうかもしれない。
「いやだ」
 ぼすんと俺の肩に頭を乗せてすりするとすり寄ってきた。甘えてくる清人は珍しくて、つい車両のまわりが気になった。
 少し混んでいた駅は、彼女が下りた駅でだいぶ人が少なくなった。
 座って眠っているサラリーマンが数人と本を読んでいる女性がいるぐらい。
 なので俺は恐る恐る甘えてきた清人の頭を撫でた。
「妹は大切だが、俺はお前も大切なんだよ。なにかあんなら相談しろよ」
 だから言えないよ。彼女が俺を叩いたと知ったら、俺が彼女の告白から逃げていたと知ったら、二重に傷つくのは清人なんだから。
「嫌だからな。次に妹関係の事で悩むなら絶対に俺に相談しろよ」
 でもこんな風に傷つく清人も見たくないので、うまい塩梅を探していこう。
 揺れる電車の中、清人の髪をなでながら夕焼け色に染まる窓の外を眺める。
 窓に映る清人の大きな背中が、丸く猫のように俺にのしかかっているのが可愛く見えた。
‍‌‍「俺、恋愛なんてしたことないから、一人で燃え上がってるんだ。‌‍んで周りが見えなくて、勉強が疎かになったり、知らないうちに人を傷つけたり。‌‍だから、俺せめて試験が終わるまでは清人と会わないって決めたのに」
‍ 見たら側に居たくて。‌‍側に居たら触れたくて。
 同性なのに圧倒的に敵わない、存在感。
‌‍ 自分にないものを持ってるから惹かれてしまうあの衝動。
‌‍ 自分でもブレーキが効かなくなるんだ。
‌‍ これが恋愛だと言うならば、俺はこんな思いもう清人だけで充分だ。
‌‍「で、一人で悩もうとしたわけか?」
‍ 少し低い声で清人は言った。
‌‍ 窓の外は、俺の家に向かっているいつもの町並み。
‌‍「恋愛に不慣れなら相談して欲しいけどな。俺は、お前とキスするだけの関係じゃねーぞ?」
‍‌‍「うう……。‌‍清人」
 俺だってキスだけの関係じゃないことぐらいわかってる。だから苦しいんだって。
「薫がごめんな。……頑張らせて悪い」
‍ そう言うと、強く強く、抱き締めてくれた。
‍ ミントの匂いが、抱き締められた服の中からする。
‌‍ 俺、この匂いが中毒になってる。
‌‍ 清人だって俺を心配してくれたのに、から回ってばっかりだ。
‌‍「この頬の傷、ちょっと頬も腫れてないか」
‍「虫歯だって。‌‍清人への甘い恋で虫歯ができてんだよ。‌‍確かに痛いんだ。‌‍病院行くのだって怖いよ。‌‍まわりの声にいちいち不安になってるけどさ」
‍ 顔を上げ、頬に触れようと伸びてきた腕を握り返した。
‌‍「こうやって清人が分かってくれるから、俺は、幸せだ。‌‍すっごい幸せだ。‌‍もう一生虫歯でも良いぐらい」
‍「憂斗」
‍ 赤い腫れが引かなかった頬を愛しげに触ってくれた。
‌‍「虫歯の治療、してやるよ」
‍‌‍ 清人は唇を舌で舐めながら、妖しく笑った。
‌‍ 俺も上着を脱ぐと、‌‍清人の首に抱きついた。
‌‍この体温も、この腕も、この唇も、甘く締め付ける恋の痛みや悩みも、全部全部、俺のものだ。
‌‍ 口を啄むような軽いキスがおでこ、鼻、頬に降り注ぐ。
‌‍ でも俺は、そんな軽いキスが欲しいわけじゃ、ない。
‌‍「約束しろよ。‌‍泣きたくなったり辛くなったら、俺に相談するって」
‍「うん」
‍「俺もお前が言えなくても気づけるように、もっと憂斗を見とくから」
‍「ありがとう」
‍‌‍ どれぐらい大人になれば、清人を好きでも回りに迷惑をかけないんだろう。
‌‍ どれぐらい大人になれば、清人を好きでも回りを傷つけなくて済むんだろう。
‌‍ 好きで、好きで、好きで。
‌‍ キスだけじゃ足りないぐらい好きで。
‌‍ 相手をこんなに求めてしまうのは、この溢れる思いを言葉だけじゃ伝えられないからなんだ。
‌‍「……やべ。‌‍帰りたくない」
‍ 俺もだよ。でも言わない。だって俺に甘い清人は次の駅で俺を下ろしてくれなくなるから。
「来週の試験が終わったら、ケーキ作る。ケーキ作ったら俺の家でお祝いしよう」
‍「結果発表は待たなくていいの?」
‍「待てない」
‍ 土曜に試験があって専門学校へ受けに行って、結果はいつ来るのか知らない。月曜に来るとしても、待てないよ。
「――お前も、親御さんに嘘つくのは胸が痛むだろ」
‍「それは……」
‍  ‌‍薫さんみたいに両親が傷つくのは胸が痛む。
‌‍「だろ? 今、憂斗がすることは、試験を無事に終える事だけでいい」
‍‍ 清人は俺の頭をポンポンすると、目元を優しく細めた。
‌‍「‌‍で、俺も薫の気持ちが落ち着いたら話し合ってみる。で、‌‍俺は別にこの先も憂斗と居たいから、お前の親御さんに挨拶に行く気持ちもあるし」
「挨拶?」
‍ 話が飛躍し過ぎて口からお昼に食べたお弁当が飛び出してくるかと思った。
俺だってまだ清人のご両親に会ったこともないのに。
「でも急ぐ必要はねぇ。‌‍何年先でも行く。‌‍まずは、憂斗の目の前にある課題を頑張ろうな?」
‍「うん」
‍「じゃあ、試験まで俺からは連絡しないから」
‍ 駅が近づくアナウンスが流れ、俺も掴んでいた清人の服の裾を離した。
‌‍ 親とか兄妹とか、甘くない現実はちょっとだけ忘れて少なくても試験が終わるまでは忘れよう。
‌‍ 人を好きになる事って楽しいだけじゃない。
‌‍ 片想いの時は両思いになる事が目標かもしれないけど、恋人をスタートさせたばかりの俺たちは何が目標になるんだろう。
‌‍‌‍ 胸が痛い。
‌‍ ただ俺は、人を好きになっただけなのに。
‌‍ 

 母さんに試験までケーキ屋の手伝いが出来ないことを告げた。
 面接と試験勉強を頑張りたいからだ。
 両親は応援してくれて、妹たちのお迎えやお世話も気にしなくていいと言われた。
 清人たちの塾が終わる十九時は、もう体が覚えているのかつい窓の外を見てしまうが、清人も我慢してくれているので俺も見ないように努力した。
 ストレスの発散にもなるしリフレッシュもできるので甘いものは偶に大量に作った。

**

「加賀くん」
‍ 靴箱で靴ヒモを結んでいたら、後ろから檜山先生に覗き込まれた。
‌‍「授業態度も真面目、面接練習も完璧、そして試食用のお菓子も忘れない。‌‍――学生の本分を思い出して来たようで関心ですね」
‍試食用のお菓子も学生の本分かってツッコみたいのに、俺は微笑を唇に浮かばせる事しかできなかった。
‌‍「余裕ですね。‌‍明日の試験も心配なさそうで」
‍「うん。‌‍受かる前提の指定校推薦だしね。‌‍次から次へと問題が出てくる試験よりは楽だよ」
‍ ギュッと靴ヒモを結び終わり立ち上がると、丁度廊下の向こうからさやが向かってきていた。
‌‍「でも問題をどんどん解決していけば、その問題のレベルは上がっていきますね」
‍「確かに。‌‍漫画でもボスキャラの上にまたボスキャラがいたりするもんね」
‍「でも加賀くんは頑張っていますよ。‌‍ボスキャラに応じてレベルが上がっています」
‍ ポンと叩かれた肩は優しくて暖かかった。
‌‍ そうなんだよ。
俺のレベルが上がるたびに、見えていなかった問題が立ちはだかっているだけ。試験を乗り越えれば乗り越えるほど、俺たちの関係も揺るがなくなるんだ。
「――なんの話?」
‍きょとんとした顔で現れたさやに、檜山先生は優しく笑う。
‌‍「甘いケーキの話だよ」
‍そうはぐらかすと、先生とさやは首を傾げた。

**

‌‍
‌‍ 試験は土曜の午後からだった。専門学校の授業が終わったぐらいの時刻。
「びっくりした……」
‍ 指定校推薦で面接会場の専門学校の校門前に、清人を発見した。
‌‍ 約二週間ぶりに会う清人に抱き着きたくなったけれど、我慢した。
でも嬉しい。終わったら一番に会いたかったから嬉しい。
「お疲れ様。‌‍どうだった?」
‍「楽勝だよ!」
‍ そもそも指定校推薦は、向こうから必ず入れますよっていう人数の提示だから、何も失敗しなきゃまず大丈夫だ。
‌‍ 試験会場はオープンキャンパスで見学した校舎の中。
通された教室には先生が二人。
‌‍簡単な自己紹介と得意なお菓子とか、家がケーキ屋だからその話とかで盛り上がっただけ。‌‍自己紹介文なんてほぼ読まれなかった。
‌‍
「なんで清人がいるの?」
‍「薫に聞いた。薫がお前の幼馴染に試験の日程とか聞きに行ったんだと」
 さやに?
 わざわざ聞きに来てくれたんだ。
 一歩どころか数歩前進した気がして安堵する。
 さやは俺が一番信用している幼馴染だ。さやが彼女に伝えたということは,信頼できたんだと思う。
「ちょっと待って。先に学校に電話するね」
‍ 学校は毎週土曜日に全国模試かある。丁度HRが終わるぐらいの時間だし、試験がある場合は公休扱いで、試験に合格すれば土曜の全国模試は免除になる。
 今日は俺と他に何人か試験があったので、担任が終わったら連絡をもらうために学校で待機しているはずだ。
‌‍ 会えてうれしいけど、でもなんか、ちょっと清人の様子がおかしい。
‌‍ 優しいのは優しいけど、いつもよりクールというかピリッとしてる。
‌‍ 学校に電話して、檜山先生と話し終えて緊張しながら清人に話しかけた。
‌‍
「清人、その、何かあったの?」

「あった。‌‍憂斗に何日も会えなかった」
‍ ‍ポンポンと頭を撫でられると、清人の瞳が力強く揺れていた。
約二週間会わなかったのは初めてのことだもんな。
試験を終えた開放感がじわじわと浸透してきて俺も寂しかったんだと感情が噴出してくる。
‌‍「優しい性格の憂斗に、この先ずっと悩ませるのは嫌だなってずっと悩んでた」
‍「へ?」
‍「嘘吐いてまで俺の家に泊まらせたり恋人の有無をはぐらかしたりって憂斗は苦手だろうし、俺が全て責任をとる。‌‍それが嫌ならお前が成人するまで待つ」
‍「と、突然どうしたの?」
‍「送っていくから、親御さんに挨拶していいか?」
‍ 清人の瞳には嘘は無かった。
‌‍ それは俺も覚悟を決めていた事だったし、ちゃんと俺が伝えなきゃって悩んでいた事だった。
‌‍「お、俺が先に説明するから」
‍ そう言った後、足が震えて倒れそうになった俺を、力強く引き寄せてくれた。
‌‍ 大丈夫。怖くない。


***
‌‍
「おかえり。‌‍憂斗どうだったのー?」
‍「帰るの速かったな」
‍いつもはのんびりな母さんもバタバタ走って出迎えてくれた。
‌‍ 父さんも奥から顔を覗かせる。
‌‍ 家ではなく店の方に顔を出した。
‌‍ スポンジを焼いている匂いが店中に満たされている。まだしのとりののお迎えまで時間があった。爆弾を落とすなら今しかない。
大きく息を吸い込んで笑顔に務めた。
‌‍
「清人に送ってもらったんだ」
‍ 震える声でそう言うが、母さんは気づかずに笑う。
緊張した表情の清人が店の中に入ってきたのに、呑気な両親は笑顔だ。
‌‍「あらー。‌‍すみません。‌‍最近、なついてるみたいで」
‍「あ、いや、なついてるんじゃないんだ。‌‍――こ……」
‍「こ……?」
‍ 両親が揃って首を傾げた。
‌‍ 母さんも父さんも、散々反対されて結婚した。
‌‍ それがどんなに辛かったかは本人じゃないから言えない。
‌‍ 二人は俺が恋人を連れてきたら反対しないで祝福しようって考えなのはずっと分かってた。
それが俺の中で恋愛に対して憧れや理想が詰まってハードルが高くなってしまった部分はあるかもしれない。でも、その理想や憧れを吹き飛ばすほど好きな人が出来たんだ。
‌‍ さやとやけにくっつけさせようとしてたし喜ぶ報告をしてあげたかったんだけど。
‌‍ ――怖い。
‌‍ 情けなく手が震えた。
そんな俺の震える手を握り、一歩踏み出してくれたのは清人だった。
‌‍「憂斗くんとお付き合いさせて頂いています。雨宮清人です」
‍ あ……。
‌‍ 下を向いて震えるだけだった俺は、恐る恐る顔を上げた。
‌‍「お仕事中にすみません。‌‍ですが、憂斗くんと今後もお付き合いさせて下さい」
‍ 見上げた清人の顔、メチャクチャ格好いい。
‌‍ 思わず見とれてしまったし、凄く嬉しい。
‌‍ 同じ気持ちなんだなって。
‌ 怖いのに、真っ直ぐ親を見てる。
‌‍「俺も、清人が好きなんだ。‌‍この前、試験の前に泊まって誕生日をお祝いしたかった相手で、大切な人なんだ」
‍ ガシャンカララララン
母さんはお盆を、父さんは砕いていた胡桃が入ったボールを落とした。
‌‍ 見開きすぎた目と、どんどん開いていく口が怖い……。沈黙が居心地悪い。
‌‍「えーと……?」
‍ 母さんが俺と清人を交互に見ながら首を傾げる。
‌‍ 本当に何度も何度も何度も。
‌‍「そんな大切な話をこんな簡単に言っていいの?」
‍「え?」
‍「憂斗は同姓愛者なのかしら?」
‍まじまじと見つめられて、ストレートに聞かれると困ってしまう。
さやや薫さんを筆頭に女性は可愛いし守ってあげたくなるし、大切にしてあげなきゃっていう使命感はある。でも恋愛感情ではない。
‌‍「分からない。‌‍けど清人しかこの先も好きにならないよ」
‍「……なるほどねー」
‍ のんびりと頷くと、ぼーっと石化したままの父さんの服をつつく。
‌‍「博人さんはどう……?」
‍「――孫が」
‍「うん?」
‍「孫が見たかった……」
‍「あらあら」
‍ ガクンと肩を落として項垂れた父さんを見て、母さんはクスクスと笑った。
‌‍「私たちも両親に孫を見せるために反対されても結婚したわけじゃないし。それに孫は無理でも素敵な息子は増えるかもよ」
‍「俺が今結婚して幸せなのは、確かに誰のためでもないな」
‍ 気のせいじゃなければ、母さんと父さんはイチャイチャし始めた。
でもそれは毎日そうなので、日常に戻ってしまっただけだ。
「あの、いいの? 俺」
‍ イチャイチャしている親に尋ねると、二人は見つめあって笑い合った。
‌‍「反対したら止められるのー?」
‍「後悔して別れても、それがお前の人生だろ。‌‍決めたんなら、一生大切にしろ」
‍「えっと……もっとびっくりするかと」
‍ 本当に肩の力が抜けて、へなへなと座り込んでしまった。
‌‍「びっくりしてるわよー。‌‍心の中は複雑よ? でも一番苦しいのは貴方たちだって、私たちが一番理解できるから」
「俺らより厳しく周囲からは冷たい道だからな」
‍ だから、誰が反対しても、俺たちだけは反対しないでいようと決めたんだ。
‌‍ そう言われたら、もう涙が溢れて止まらなかった。
‌‍ 溢れて溢れて、鼻水も嗚咽も止められなかった。

***

‌‍「お前、泣き方は男らしいな」
‍「う、うるひゃ……っうぅ」
‍ 止まらない鼻水を、何度も何度も清人の服で拭く。
‌‍ 清人は嫌がらずに、背中に顔を埋める俺を受け止めてくれた。
‌‍ ――初、俺の部屋で。
 机の上には半分食べてクリップで止めたクッキーや、開いたままのノートに消しゴムのカス、ベッドには妹たちが置いていった隈と  ウサギのぬいぐるみと充電コード、さやが押し付けてきた全二十巻の少女漫画も壁際に積んである。
 来るとわかっていればもう少し片付けていたんだけど、今は片付ける余裕もない。
‌‍「あ、あんな寛大に言ってくれたけど、きっと本当は色々思ってるんだっ。……くそっ」
‍「じゃあ、心配をかけさせずに幸せになるしかないな。‍責任持って、一生幸せにするからさ」
‍ 泣いている俺の目を、こすらないようにと代わりにキスを落としてくれた。‌‍
「幸せを感じてくれよ、憂斗」
‍ 清人が、背中に押し付けすぎたせいでメチャクチャになった前髪をかきあげてくれた。
‌‍
「うん。‌‍き、清人」
‍ 名前を呼ぶ。‌‍涙を拭いて、おでこにキスをくれる。
‌‍「言っても言わなくても辛いか?」
‍ 清人にそう言われて、鼻水を拭きながら首を横にふる。
‌‍「清人は、薫さんにバレてどうだったの?」
‍「すっげぇ泣かれた」
‍「やっぱり……」
‍「でも別に、理解されなくてもしょうがねーだろ? 俺は別に多少の嘘をついても平気だから。‌‍憂斗を守れるなら」
‍ 真っ直ぐだ。清人は俺にキスしたときからずっと考えを変えず真っ直ぐ俺に愛情を向けてくれる。だからこそ、俺も嘘をつきたくなかったし嫌だった。
「清人……」
‍「お前は真っ直ぐだから嘘は辛いんだろ? 薫にも誠実にぶつかってたしな。‌‍だからお前の気持ちを軽くしてやりたかったんだ。‌‍親御さんも複雑なのに、優しくて良かったな」
 優しいな。そして俺より大人だ。だからこそ、俺は清人に甘えられる。素直に言える。
‍「うん。‌‍もう離してやんねー。‌‍親公認なんだから、未成年だろーが知らねー。俺は清人の恋人だってもう隠さないぞ」
「あ、え? お??」
‍ 自慢して歩くつもりはないが、今後は聞かれたらきちんと恋人がいる、好きな人がいるって言える。
 両親よりもイチャイチャしてやる。恥ずかしいから人がいない場所でだけど。
「今は若さ故の暴走でも、この先もしかして好きな女ができたり、男を好きになって後悔しても、お前は手離さないから」
「俺だって、清人が別れたいって言っても別れないし! 惨めったらしくすがり付くからな!」
‍ 見上げた清人に両手を伸ばした。
‌‍ すると、清人は甘く笑って、その腕を自分の首もとに絡ませる。‍
 ‍首を引き寄せながら、清人の唇を指でなぞった。
‌‍ 自分の部屋で、1階の店には親がいるけど。
‌‍ この幸せな気持ちを早く伝えたいんだ。
‌‍ 清人のミントの爽やかな香りが恋しい。
‌‍‍ 清人はまたおでこの髪をかきあげると、キスの雨を降らした。
‌‍ 額、目蓋、頬、――そして唇。
‌‍ 優しいキスも嫌いじゃないけど、今の俺の気持ちを伝えるには足りなかった。
‌‍ もっともっと奥まで侵入するような、激しいキスが欲しい。
‌‍ 二人が解け合えるような激しい……。
‌‍「好きだよ、憂斗」
‍「俺、も」
‍ 抱き締められた体は、清人の重さで沈んでいく。
‌‍ 抱き締められた熱で、俺の体に火傷を作って欲しい。
‌‍ ‌‍キスだけじゃ、もう足りなくなってた。
‌‍ キスだけじゃ、深く近く、清人を感じられない。
‌‍ だから恋人は、抱き締め合うんだな。
‌‍‌‍ そう思いながら、角度を変えて何度も何度もキスをした。
 ベットが二人の重さで軋んだ瞬間、‌‍タイミングよくドアをノックされた。
‌‍「憂斗、泣き止んだらご飯に降りてきてー。‌‍雨宮さんも誘って」

***

‍ 俺の大好きな唐揚げと、俺の大好きなポテトサラダと、俺の大好きな清人が揃う食卓で、俺は大好きなはずの清人を睨み付けていた。
俺の事好きだと甘い言葉をささやいたくせに、この男。この男は、母さんがノックしたのにキスをやめようとしなかったんだ。
危うく見られる寸前で離したけれど、俺の家で変なスリルを味わせやがって。
‌‍「まぁまぁ。‌‍そんなに雨宮さんを見つめて」
‍「ち、違うよ! 俺は怒ってんだよ!」
‍「唐揚げ、美味しいですね」
‍「無視すんなっ」
‍ 俺のプリプリを無視して、しのとりのは清人にべったりだし、母さんも料理を褒められて上機嫌だ。
‌‍父さんは、明日の仕込みの準備中らしくまだ店だし。
‌‍「あら。‌‍じゃあ雨宮さんは甘い物が駄目なのね」
‍「今は結構、憂斗のお陰で平気です。‌‍昔は生クリームを見るのも嫌でした。‌‍本当に憂斗くんに出会えて感謝しています」
これはこの場の雰囲気を台無しにしない嘘だとすぐに分かった。清人は最近プリンのおいしさに気づいたレベルだからな。
‍‌‍「でもフルーツの果糖は平気なのねー。‌‍フルーツ系のケーキなら食べれるのかしら?」
‍ 母さんにそう言われて、目を見開いた。
‌‍ そ れ だ。
‌‍ 甘い物苦手だけど、食べたいという雨宮さんへのケーキ決まったもんね。
‌‍「清人が帰ったら、早速作ろう!」
‍「ケーキ?」
‍「うん。‌‍楽しみにしてろよ!」
‍ 唐揚げを頬張りながらそう言うと、清人が目を細めて笑ってくれた。
‌‍ 凄く優しい笑顔。
‌‍ 俺、清人笑った顔も凄く好きだ。
‌‍ てか全部好きだ。
‌‍「期待してる」
‍「やっぱハードルあげないで」
‍ 俺と清人のやりとりを見て、母さんはクスクスと笑ってくれた。

‌‍ タルトタタン、ミルフィーユ、ティラミス、エクレア、クイ ニーアマン、アルカザール。‌‍ケーキにクッキーにタルト。
‌‍ 色んな形で色んな甘い味で、全部全部、大好きだ。
‌‍ でも、清人と出会って、雨宮さんを好きになって、些細な事でもときめいたり更に好きになったり、清人との恋は、今まで食べたケーキのどれよりも甘い。
‌‍ そして色んな経験をくれる。
‌‍ 甘いだけじゃないけど、苦さも含めて清人との恋は好き。
‌‍ それをケーキで表せたら良いな。
‌‍ 甘い、恋のケーキを。
「うん、これだな」
‌‍ 一人、黙々とレシピとにらめっこ。
‌‍このケーキなら、きっと雨宮さんも無理なく食べれる。
‌‍ 早く早く月曜にならないかなぁ。