君時雨の夏

 翌朝。終業式当日を迎えた教室は、異様な騒がしさに包まれていた。誰も彼もが同じ話題を口にして、始業のチャイムが鳴っても皆まだ席を立っている。僕はその光景を一人、自分の机で頬杖を突きながら眺めていた。

 「一組の佐藤の姉ちゃんが、死んだってよ」
 「自宅の窓から飛び降りたらしい」
 「なんか、前から不登校だったって。やっぱり、気が触れちゃったのかな……?」

 昨晩、深礼さんが亡くなった。そしてそのことを知らない者は、もはや一人もいなかった。田舎特有の情報網のせいだろう。僕も今朝、慌てふためく両親たちから聞いて知った。
 その時だった。ガラッと勢いよく扉が開いて、教室に一人の女子生徒が現れた。薄く茶染めた髪に、短いスカート。その姿に気付いたクラスメイトは皆黙り、うるさかった教室に静寂が訪れた。

 「……世絆」

 僕は、現れた彼女に声を掛けた。世絆は僕の姿を認めると、くるりと背中を向けて廊下に出た。影に隠れて表情は見えなかったが、ついてこい、と無言で訴えられたのは分かった。クラスメイトからの視線を浴びながら、僕は彼女の後を追う。
 

 世絆が足を止めたのは、いつもの屋上前だった。着くまでに会話はなく、僕は早足で階段を昇る世絆についていくのに必死だった。

 「……お姉ちゃんが死んだ」

 呼吸を整えていると、世絆がボソリと呟いた。それから僕を振り向いた顔は、今までに見たことがないほどやつれていた。

 「昨日の夜、ママと一緒にご飯を食べてたら……突然、二階から叫び声がしたの。驚いて階段を上がったら、お姉ちゃんが私の部屋にいた。手には私のスマホを握ってて……多分、速見との証拠を見られたんだと思う」

 世絆は感情のない声で続けた。

 「半狂乱になったお姉ちゃんを、ママと二人で落ち着かせようとしたけど、無理だった。私が腕を噛みつかれて怯んでいる隙に、お姉ちゃんは、窓から庭に飛び降りた」
 「……そうか」

 僕が静かに呟くと、世絆がキッと顔に怒気を孕ませた。

 「お姉ちゃん、暴れながら叫んでた。私と速見が関係を持ってるって、電話があっただか何だかって……タク、これって、あなたがやったの⁉」

 世絆が声を荒げた。噂になっているとはいえ、世絆と速見の関係の真相を知っているのは、当事者以外で僕しかいない。当然の推理だ。

 こちらを射抜くような視線を受け止め、僕は言った。

 「そうだよ。昨日の昼休憩の後、僕が深礼さんに電話を掛けた」
 「⁉なっ……」

 世絆の顔に驚愕が滲む。僕は半笑いで肩をすくめた。

 「僕は幼馴染だから、君の家の電話番号を知ってる。それに、君の親が共働きなことも。だから、家に深礼さんしかいない平日の昼間に電話を掛けた。君と速見が関係を持っていること、そしてその証拠が君のスマホにあること。それを伝えるために」
 「…なこと聞いてないわよ!アンタ、自分が何したか分かってんの⁉」

 世絆が僕の襟元を掴んだ。そのまま壁に激しく打ち付けられる。背中に鈍痛が走った。

 「君の方こそ、自分の罪を自覚してるのか」
 「はあ⁉何わけわかんないこと言って…」
 「中学三年生、クラスの役員決め」

 僕が放った言葉に、世絆の表情が固まる。それから昔の記憶を蘇らせたのか、唇を震わせた。

 「そ、それって、あの時の……」
 「ほら、やっぱり覚えてた。僕はあの時、君に裏切られたんだ」

 僕の(まなこ)に、過去の情景が浮かぶ。檻のような教室。こちらを見つめるクラスメイト。黒板の前で、チョークを片手に固まる先生。そして、震える手で挙手をする僕。

 「僕は昔から、ストレスを感じる基準が人よりずっと低かった。誰かが放つ何気ない一言や仕草にいちいち反応して、傷付いたり、深く考え過ぎてしまう。だから、誰とも仲良くできなかった。本当はずっと友達が欲しかったし、一人は寂しかった。でも、それ以上に人と関わることが苦痛だった」

 唐突に語り出した僕に、世絆の目が丸くなる。だけど、長年抱え込んだ苦悩を口にしたが最後、歯止めが効かなかった。

 「でも僕はある時、いつまでもこんな自分じゃダメだと思った。そして、どうにかして自分を変えようと決心した。それが中学三年の二学期。ちょうど夏休み明けで、今みたいに季節が蒸し暑かった頃だ」

 そうだ。あの日も()だるような暑さだった。憎らしいほどに青い空だった。

 「二学期最初のホームルーム。そこで行われた役員決めで、僕は学級委員に立候補した。自分の殻に閉じこもるのをやめて、外の世界に足を踏み出すために。クラスのみんなは、先生含め、誰もが驚いてたね」

 僕が共感を求めるように言うと、世絆は気まずげに目を逸らした。あの時、僕たちは同じクラスだった。だから、世絆もその場にいた。

 「結局、谷山くんも手を挙げたから投票になって、僕は落ちた。まあ彼は優等生だったし、僕は自分なりの挑戦が出来たことに満足してたから、結果はどうでもよかった。問題は、その後のことだ」
 「タク、あれは違うの…」
 「何も違わないよ。君はあの時、いつも一緒にいた頭の悪い連中と、僕のことを指さして笑ってた。たとえ繋がりは薄くとも、僕はまだ幼馴染として君を大切に思ってたのに」

 世絆の顔が青ざめる。僕はあの日受けた屈辱を思い出して、はらわたが煮えくり返りそうになっていた。

 「ご、ごめんなさい。あの時は、空気に乗らざるを得なかったの…」
 「黙れ!」

 僕は叫んだ。そして、襟元に伸びていた世絆の両手首を掴んで、強引に引き剥がした。

 「()……っ」
 「またそうやって責任逃れか!この卑怯者!お前みたいなヤツ、大嫌いだ!」

 喉を裂く勢いで叫んだ。世絆の顔が悲痛げに歪む。僕はようやく胸のつっかえが取れて、生ぬるい空気を吐いた。

 「……あの時を境に、僕は世界を捨てた。こいつらみたいなクズがいる限り、僕の努力も全て潰される。だったら、最初から何も期待しない。僕はもう、誰とも馴れ合わない。孤独な人生で充分だ」

 吐き捨てるように言った。それから、呆然と立ち尽くす世絆を見つめる。

 「でも、一つだけ諦め切れないものがあった。それが、僕を裏切った君への復讐だ」
 「……っ!」

 世絆の顔に緊張が走る。僕は笑って彼女に近づいた。

 「世絆って、昔からバカだよね。もし本当に君のことを思うなら、復讐なんて辞めさせるに決まってるじゃないか。もしかして、僕が君に協力したのは、善意だとでも思った?」
 「そ、そんな……じゃあ、タクは最初から……」

 世絆が唇を震わす。僕は勝利の快感に浸るように、口の端を吊り上げた。

 「そうだよ。はじめから、僕は君を堕とし入れる気しかなかった」

 薄明るい階段に、世絆の絶叫が響く。それは、獄炎に焼かれた罪人のそれと、よく似ていた。

 僕の愚かな幼馴染は、全てを失った。友情も、貞操(ていそう)も、最愛の姉も。だけど、それはひとえに、彼女が無駄なものに執着したからだと思う。もし、世絆が上辺だけの付き合いなんか捨てて、幼馴染の僕を大切にしてくれていたら、たぶん、僕たちにはもっと違う未来があった。もし、歪んだ復讐心になんか囚われないで、深礼さんに寄り添って、傷付いた心を癒す方向に努力していたら、少なくとも深礼さんは死なずに済んだ。

 「せっちゃんはもっと……自分にとって本当に大切なものに、目を向けるべきだった」

 髪に指を突っ込んで、頭を抱え込む世絆に言った。

 「アンタこそ、私への復讐に囚われてたんじゃないの……?」

 ぐちゃぐちゃになった顔で、世絆が問うてくる。僕は薄ら笑いを浮かべて答えた。

 「君と違って、僕は最初から世界を諦めてる。だから、今回の復讐が唯一、僕が心から成し遂げたかったことだ」

 世絆が恐怖するように息を吞む。その時、階下から足音が聞こえた。

 「おーい。とっくに始業時間すぎてんのに、何やってんだ?」

 まだ若い男の声。僕たちが振り向くと、そこには階段に足を掛ける速見がいた。端正な顔に驚愕を浮かべて、屋上前で向かい合う僕たちを見上げている。

 「世絆と……その友達か?」

 速見の声が階段に響く。当然のような名前呼びに、僕は苦笑を漏らした。

 「せっちゃん。君もこれからは、僕みたいに全てを諦めようよ。そして、自分にとって本当に大切なことに、時間と労力を費やすんだ。たとえば……」

 僕はチラリと速見を見た。


 「心から憎い相手に、トドメを刺すとかさぁ」


 世絆の表情が揺れる。カツカツと音を鳴らして、速見が足早に階段を上がる。

 「おい、一体何の話を…」

 昇り終えた速見が、僕の隣に並んだ瞬間。

 「……っ、あああああああああああああああああっ!」

 世絆が髪を振り乱して、甲高い狂声を上げた。そして、こちらを目掛けて突っ込んできた。

 「世絆……⁉」
 「そうだせっちゃん!僕らはこれから、一緒に世界を満たして…」

 喜々として叫びを上げた時。


 世絆の手が、速見ではなく、僕の体を押した。



 「………………………え?」



 突如、全身が浮遊感に包まれた。徐々に傾いた景色が、上へ上へと流れていく。そして、幸せだった頃の記憶を思い出すこともなく、僕は階段の踊り場に、頭から落ちた。

 「せっ……ちゃ……」

 赤く染まる視界に、最期に映ったのは、冷たい瞳で僕を見下ろす世絆だった。夏の校舎の床は、その瞳と同じくらいに冷たかった。
                              
        〈了〉