世絆と自転車小屋で会った日から、一週間が経った。夏休みが着実に近づいて、クラスメイトたちの表情は日に日に浮かれるようだった。だけど反対に、僕の気分は最悪だった。
この一週間、自らの小ささを嫌というほど痛感した。何とか世絆と話したいと思う一方で、いざ彼女のクラスに向かおうとすると、足が貼り付いたように動かなかった。一度だけ教室の前まで辿り着いた時も、例のチャラい連中とつるむ世絆を見て、やっぱり物怖じした。
これが、あの時以来、人との交流を断ち続けた末路か……そう思うと、沸き上がるのは世の中に対する怒りだった。一人になることを決意させるまで僕を追い込んだ、この世界が憎かった。
だけどこの一週間、進展がないわけではなかった。世絆に関して、気になる情報を得た。
あれは一昨日、放課後に美術室を訪ねた時のこと。もう一人の噂の的である、速見から話を聞こうと思ったのだ。でも僕は、美術室に入るのも、速見に会うのも初めてだった。だから緊張して、扉に手を掛けることが出来ずにいた。
「あれ、君一年?どうしたの?」
突然、快活そうな女子に声を掛けられた。しどろもどろになりながらも、僕は事情を説明した。
「は、速見先生と、話がしたくて」
「あ~、ハヤミンなら今日はいないよ。てか、あの人最近、全然部活に顔出さないし!顧問失格だよ、マジ」
僕は呆気に取られる。教師をあだ名呼びするなんて、馴れ馴れしい人だ。いやでも、それを許す速見も同じか。そう思うと、女子生徒と付き合っているという噂が流れるのも、少し納得がいった。
「先生は、いつから部活に来なくなったんですか」
「そうだねぇ……一ヶ月くらい前かなぁ。実は一人、ウチの部から不登校児が出てね。その子が不登校になったのも、それくらいからなんだけど」
こちらが聞いてないことまで、よく喋る。でも、念のため掘り下げておこう。
「良ければ、その生徒の名前を…」
「佐藤深礼。私と同じ、二年生なんだけど」
まさかの名前に、絶句した。佐藤深礼……間違いない。世絆の姉だ。
そう。僕が入手した情報とは、かつてよく一緒にいた幼馴染の姉が、何らかの理由で不登校になっているというものだった。
*
ある日の放課後。いつもだったら帰宅するところを、僕は自転車小屋の下で人を待っていた。相手はもちろん世絆だ。偶然を装って、今日こそ絶対に話しかける。
ピークは過ぎても、気温はまだ高い。屋根で日陰になっているとはいえ、額は汗ばんで、シャツの中は蒸れていた。かれこれ一時間は待っている。世絆の自転車はあるのに、持ち主の彼女は一向に現れない。心に焦りが芽生える。
「くそ、もう限界だ……」
僕は暑さと蝉の悲鳴に耐えかねて、昇降口に向かう。入れ違いになるリスクを承知で、世絆を捜すことにした。
「おいおい。もう少し離れろ」
「えぇ~?いいじゃんセンセー、もっとくっつこうよ」
昇降口に入ってすぐ、男女の声がした。僕は咄嗟に靴箱の裏に隠れる。息を殺して、上がったところにある廊下を見た。そこには、端正な顔立ちの男性教師と、その教師に腕を絡める世絆がいた。体を押し付け、甘えるような目で見上げている。一度だけ写真で目にした速見と、目の前の男が一致する。自分でも分かるくらいドクン、と心臓が脈打った。
――あの噂は、本当だった……!
「ばいばいセンセ。また明日」
「ああ、気を付けろよ」
足音が別れた。速見が廊下を去り、世絆が昇降口に降りる。こんな形で彼女を見つけて、喜びよりも衝撃が大きかった。すぐそばで世絆が靴を履き替える。僕はゴクッと唾を飲んで覚悟を決めた。
「世絆」
僕は先に姿を現した。すると、世絆は大きく目を開いた。幽霊にでも会ったように、信じられないという表情で立ち尽くしている。
「もしかしてタク……見てた?」
速見にすがっていた時とは別人のように低い声で、世絆が訊ねた。僕がコクリと頷くと、世絆の顔から血の気が引いた。すぐに無言で走り出そうとする彼女に、僕は思い切り叫んだ。
「せっちゃん!」
ビクッと世絆の動きが止まる。彼女はおずおずと振り向いた。
「今……なんて……」
顔を驚愕に染めて、世絆が言った。僕は声を震わせながら、彼女と真っ直ぐ目を合わせた。
「もし今、せっちゃんが何か悩みを抱え込んでいるなら……僕に、相談してほしい」
二度と口にすることはないと思っていた幼馴染のあだ名は、何だか不思議な響きがした。
*
「はい、これ」
そう言って、駅の待合室で座る世絆に、自販機で買ったカルピスを渡した。
「あ、ありがと…」
世絆は驚いた顔でカルピスを受け取った。僕は彼女の隣に腰を降ろす。
ベンチが一つ置いてあるだけの待合室は、狭くて薄暗かった。木造の壁には列車の時刻表と、ぼろぼろのポスターが貼られている。夕方の無人駅は閑散としていて、僕たち以外は誰もいない。つまり、直射日光と人目を同時に防げるこの場所は、内緒話には最適だった。
「あのさ、せっちゃん…」
「ちょっと。その呼び方やめてよ。子どもみたいで恥ずかしい」
世絆に睨まれた。僕は慌てて言い直す。
「ご、ごめん。じゃあ、世絆…」
「タクはさ、私と速見ができてるって噂、知ってたの?」
世絆が気まずそうに言った。僕のことはあだ名で呼ぶのか、という言葉を飲み込んで、ゆっくりと首肯する。
「はぁ……これだから田舎は。外の流行には疎いくせに、中のゴシップはすぐ広まる」
世絆は苛立たしげに髪を指に巻く。それからカルピスを一気飲みした。白くて細い喉元が、音と共に上下する。彼女の好きな飲み物を覚えていて良かった。
「やっぱり本当なのか、あの噂」
僕の追及に、世絆がぷは、と唇を離した。
「ええ、本当よ。私はアイツと……正確にはまだだけど、男女の仲にある」
世絆はあっさり認めた。口元には自嘲気味な笑みを刻んでいる。僕はその様子に違和感を覚えた。
「好きなのか、速見のこと」
「はっ。好きなワケないじゃない、あんなクズ。むしろ、殺してやりたいほど嫌いだわ」
思いがけない過激な言葉に、僕は少し狼狽えた。
「じゃあ、なんで…」
「…………」
世絆は黙り込んだ。険しい表情で床を見つめている。
彼女は昔からこうだ。隠し事をして誰かに問い詰められると、いつも必ず黙秘する。嘘や作り話は絶対に話さない。もしこれが、言ってはいけない誰かの秘密を守っているのなら、立派な態度だと思う。だけど彼女の場合、単に弱音を吐く自分を見られるのが嫌で、、黙り込んでしまうことが多かった。だけどそれは、自分で自分の首を絞めているのと同じだ。無茶な意地を張り続けても、いつか必ず限界が来る。
「せっちゃん」
「だから、その呼び方はやめてって!」
メコ、とペットボトルが握り込まれる。世絆の爪を飾るネイルが、夕闇の中で光った。
どうやら、彼女は迷っているようだ。僕に悩みを打ち明けるべきか。なら、ここは僕の方から話を促してみよう。
「……違ってたらごめん。世絆が速見と仲良くしてるのって、もしかして、深礼さんが関係してる?」
僕は慎重に訊ねた。すると、世絆の顔が露骨に歪み、どうして、という視線を向けられた。これは間違いない。ビンゴだ。
「知り合いから聞いたんだ。深礼さんが学校に来てないって。しかも彼女は美術部員で、その妹の世絆が、美術部顧問の速見と絡んでる。常識的に考えれば、何か関係ありそうだ」
「……っ」
世絆は愕然としていた。またもや沈黙が流れ、弱々しい蝉時雨が壁から溶け込んで待合室を満たした。
「変なとこで鋭いの、昔から全然変わってない」
世絆が溜息を吐く。その表情からは、いくらか険が抜けていた。
「僕はずっと同じだよ。いつまで経っても実らない、青くて小さな芽のままだ」
「何その表現。よくわかんない」
今日はじめて世絆が笑った。こんなに近くで笑顔を見るのは、一体何年ぶりだろう。
「タク、何も言わずに聞いてくれる?」
僕は頷いた。すると世絆は深呼吸して、瞳に冷たさを戻した。
「私は、復讐のために速見と付き合ってる」
「……復讐?」
思わず聞き返した。まさか世絆の口から、その単語が出てくるとは。
「そう。あの男は、お姉ちゃんの未来を奪った。だから、私が代わりに復讐する」
それから世絆は、怒りに肩を震わせて語り出した。
「お姉ちゃんが不登校になったのは、全部アイツのせい。アイツはお姉ちゃんに目をつけて、部活が終わった後も、デッサンの指導がどうとか言ってお姉ちゃんだけ残らせた。実際は、二人きりになるためだけど」
じわ、と嫌な予感がのぼる。僕は黙って続きを待った。
「タクなら分かると思うけど、お姉ちゃんって優しいから、他人を拒絶し切れないとこあるじゃない?速見はそこにつけこんで、毎日のようにお姉ちゃんを残らせた。それである日、ついに、アイツはお姉ちゃんに手を出した」
世絆はまだ中身のあるカルピスを握り締めた。
「それからお姉ちゃんは、精神を病んで、学校に行けなくなった。今はずっと、自分の部屋に閉じこもってる。ご飯の時にも降りて来ないし、心配するママたちにも何も言わない。でも、私にだけはこっそり教えてくれた。途中で泣き崩れて、話が支離滅裂になってたけど……」
胸が張り裂けそうだった。いつも優しく微笑んでいた深礼さんが、そんな状態になっていたとは……そして同時に、速見に対する嫌悪も湧いた。さっき昇降口で目にした顔を、思い切りブン殴ってやりたい。
「お姉ちゃんは、私なんかよりずっと、幸せになる権利があった。そのくらい優しくて立派な人だった。なのに、あのゴミ野郎のせいで人生をメチャクチャにされて、明るかった未来が全部台無しになった。アイツは、お姉ちゃんの芽を摘んだ。だから私は、絶対にあの男を許さない……!」
世絆が奥歯を嚙み締める。瞳には真っ赤な怒りと、真っ黒な憎悪が映っていた。
「じゃあ、君が速見と付き合っているのは…」
「そりゃあ、アイツに弱みを作らせるためよ。写真や動画で記録した上で、私にも手を出させるの。そうすれば、教師と生徒がそういうことをしてるっていう、アイツにとって最悪の証拠が手に入る。そしたら、あのゴミを生かすも殺すも、私次第になるってわけ」
世絆の口元に邪悪な笑みが浮かぶ。憎い相手の破滅を想像して、楽しんでいるのだろう。だけど、彼女の計画に僕は納得できなかった。
「速見を追い込むのが目的なら、深礼さんが傷付けられた事実を、学校や警察に相談すべきだ。深礼さんは嫌がるかもしれないけど、君が犠牲になるよりはずっとマシだ」
「無理よ。アイツは狡猾だから、お姉ちゃんとのことで物的な証拠は一切残さなかった。それに、アイツの罪を公表したところで、全然復讐にならない。社会的に殺すことは出来ても、精神的には殺せない。あの男には、もっと相応しい罪の償い方がある」
世絆は冷酷に言った。もっと相応しい罪の償い方……具体的にどんなものを指すのかは不明だが、口ぶりから察するに、速見の精神をとことん追い込むつもりだろう。
「世絆……」
僕は今までとは全く別の意味で、世絆に対して距離を覚えた。彼女はもう、僕の知ってる彼女じゃない。ドス黒い復讐に囚われた、一匹の悪鬼だ。
……いや、僕は何を言ってるんだ。世絆が自分から遠のいた?それはむしろ逆だ。
僕と世絆は、今、これ以上ないほど近くにいる。小学生の頃とは比べ物にならないほど。知り合って十数年、はじめて、僕と世絆は同じ世界にいる気がした。
「……深礼さんは、このことを知ってるのか」
「なわけないじゃない。私がこんなことしてるって知ったら、お姉ちゃんは発狂するわ」
世絆は怒ったように言った。まあ、自分のために妹が犠牲になっていると知ったら、ショックどころじゃないだろう。しかも相手が、自分を傷付けた男とあれば。
「……ねえ、タク」
不意にか弱い声がした。顔を上げると、世絆が縋るようにこちらを見ていた。
「なに?」
「その……お願いだから、止めないで。私は私のやり方で、アイツを裁きたいの」
待合室に声が響いた。いつの間にか蝉の音が止んで、辺りは静けさに包まれている。僕はベンチを立って外に出た。太陽は沈み、夜の帳がおりていた。目の前に敷かれた線路には闇が蟠っている。夏の夜風が心地良かった。
「タク?」
突然外に出て伸びをし始めた僕を、世絆が不安そうに見つめた。徐々に近づく列車の音を聞きながら、僕は笑って唇を開いた。
「僕は、君を止めないよ」
「え……?」
世絆が息を吞んだ。ガタタタン、と背後を列車が過ぎて、待合室にいる世絆が淡く照らされた。僕は後ろ髪に風を浴びて、もう一度言った。
「君が速見に復讐するのなら、僕は止めない。むしろ、僕にも復讐を手伝わせてほしい」
世絆の顔に驚愕が浮かぶ。だけどそれは一瞬のことで、すぐに不敵な笑みを浮かべ直した。
「意外だわ。絶対止められると思ってた」
世絆も待合室を出た。短いスカートを揺らして、僕の隣に並ぶ。
「わかったんだ。僕と君は、同じ景色を見てるって」
「何それ。どういうこと?」
小首を傾げる世絆に、僕は曖昧に笑った。
「ところで」
僕は横目で世絆を見た。
「世絆って、こんなにチビだっけ」
「はあ?アンタが勝手にデカくなっただけでしょ」
むが、と歯を出して怒る世絆に、僕はクスリと破顔した。すると世絆は顔を逸らして、「ま、ちょっとは男らしくなったんじゃない」と小さく呟いた。
この一週間、自らの小ささを嫌というほど痛感した。何とか世絆と話したいと思う一方で、いざ彼女のクラスに向かおうとすると、足が貼り付いたように動かなかった。一度だけ教室の前まで辿り着いた時も、例のチャラい連中とつるむ世絆を見て、やっぱり物怖じした。
これが、あの時以来、人との交流を断ち続けた末路か……そう思うと、沸き上がるのは世の中に対する怒りだった。一人になることを決意させるまで僕を追い込んだ、この世界が憎かった。
だけどこの一週間、進展がないわけではなかった。世絆に関して、気になる情報を得た。
あれは一昨日、放課後に美術室を訪ねた時のこと。もう一人の噂の的である、速見から話を聞こうと思ったのだ。でも僕は、美術室に入るのも、速見に会うのも初めてだった。だから緊張して、扉に手を掛けることが出来ずにいた。
「あれ、君一年?どうしたの?」
突然、快活そうな女子に声を掛けられた。しどろもどろになりながらも、僕は事情を説明した。
「は、速見先生と、話がしたくて」
「あ~、ハヤミンなら今日はいないよ。てか、あの人最近、全然部活に顔出さないし!顧問失格だよ、マジ」
僕は呆気に取られる。教師をあだ名呼びするなんて、馴れ馴れしい人だ。いやでも、それを許す速見も同じか。そう思うと、女子生徒と付き合っているという噂が流れるのも、少し納得がいった。
「先生は、いつから部活に来なくなったんですか」
「そうだねぇ……一ヶ月くらい前かなぁ。実は一人、ウチの部から不登校児が出てね。その子が不登校になったのも、それくらいからなんだけど」
こちらが聞いてないことまで、よく喋る。でも、念のため掘り下げておこう。
「良ければ、その生徒の名前を…」
「佐藤深礼。私と同じ、二年生なんだけど」
まさかの名前に、絶句した。佐藤深礼……間違いない。世絆の姉だ。
そう。僕が入手した情報とは、かつてよく一緒にいた幼馴染の姉が、何らかの理由で不登校になっているというものだった。
*
ある日の放課後。いつもだったら帰宅するところを、僕は自転車小屋の下で人を待っていた。相手はもちろん世絆だ。偶然を装って、今日こそ絶対に話しかける。
ピークは過ぎても、気温はまだ高い。屋根で日陰になっているとはいえ、額は汗ばんで、シャツの中は蒸れていた。かれこれ一時間は待っている。世絆の自転車はあるのに、持ち主の彼女は一向に現れない。心に焦りが芽生える。
「くそ、もう限界だ……」
僕は暑さと蝉の悲鳴に耐えかねて、昇降口に向かう。入れ違いになるリスクを承知で、世絆を捜すことにした。
「おいおい。もう少し離れろ」
「えぇ~?いいじゃんセンセー、もっとくっつこうよ」
昇降口に入ってすぐ、男女の声がした。僕は咄嗟に靴箱の裏に隠れる。息を殺して、上がったところにある廊下を見た。そこには、端正な顔立ちの男性教師と、その教師に腕を絡める世絆がいた。体を押し付け、甘えるような目で見上げている。一度だけ写真で目にした速見と、目の前の男が一致する。自分でも分かるくらいドクン、と心臓が脈打った。
――あの噂は、本当だった……!
「ばいばいセンセ。また明日」
「ああ、気を付けろよ」
足音が別れた。速見が廊下を去り、世絆が昇降口に降りる。こんな形で彼女を見つけて、喜びよりも衝撃が大きかった。すぐそばで世絆が靴を履き替える。僕はゴクッと唾を飲んで覚悟を決めた。
「世絆」
僕は先に姿を現した。すると、世絆は大きく目を開いた。幽霊にでも会ったように、信じられないという表情で立ち尽くしている。
「もしかしてタク……見てた?」
速見にすがっていた時とは別人のように低い声で、世絆が訊ねた。僕がコクリと頷くと、世絆の顔から血の気が引いた。すぐに無言で走り出そうとする彼女に、僕は思い切り叫んだ。
「せっちゃん!」
ビクッと世絆の動きが止まる。彼女はおずおずと振り向いた。
「今……なんて……」
顔を驚愕に染めて、世絆が言った。僕は声を震わせながら、彼女と真っ直ぐ目を合わせた。
「もし今、せっちゃんが何か悩みを抱え込んでいるなら……僕に、相談してほしい」
二度と口にすることはないと思っていた幼馴染のあだ名は、何だか不思議な響きがした。
*
「はい、これ」
そう言って、駅の待合室で座る世絆に、自販機で買ったカルピスを渡した。
「あ、ありがと…」
世絆は驚いた顔でカルピスを受け取った。僕は彼女の隣に腰を降ろす。
ベンチが一つ置いてあるだけの待合室は、狭くて薄暗かった。木造の壁には列車の時刻表と、ぼろぼろのポスターが貼られている。夕方の無人駅は閑散としていて、僕たち以外は誰もいない。つまり、直射日光と人目を同時に防げるこの場所は、内緒話には最適だった。
「あのさ、せっちゃん…」
「ちょっと。その呼び方やめてよ。子どもみたいで恥ずかしい」
世絆に睨まれた。僕は慌てて言い直す。
「ご、ごめん。じゃあ、世絆…」
「タクはさ、私と速見ができてるって噂、知ってたの?」
世絆が気まずそうに言った。僕のことはあだ名で呼ぶのか、という言葉を飲み込んで、ゆっくりと首肯する。
「はぁ……これだから田舎は。外の流行には疎いくせに、中のゴシップはすぐ広まる」
世絆は苛立たしげに髪を指に巻く。それからカルピスを一気飲みした。白くて細い喉元が、音と共に上下する。彼女の好きな飲み物を覚えていて良かった。
「やっぱり本当なのか、あの噂」
僕の追及に、世絆がぷは、と唇を離した。
「ええ、本当よ。私はアイツと……正確にはまだだけど、男女の仲にある」
世絆はあっさり認めた。口元には自嘲気味な笑みを刻んでいる。僕はその様子に違和感を覚えた。
「好きなのか、速見のこと」
「はっ。好きなワケないじゃない、あんなクズ。むしろ、殺してやりたいほど嫌いだわ」
思いがけない過激な言葉に、僕は少し狼狽えた。
「じゃあ、なんで…」
「…………」
世絆は黙り込んだ。険しい表情で床を見つめている。
彼女は昔からこうだ。隠し事をして誰かに問い詰められると、いつも必ず黙秘する。嘘や作り話は絶対に話さない。もしこれが、言ってはいけない誰かの秘密を守っているのなら、立派な態度だと思う。だけど彼女の場合、単に弱音を吐く自分を見られるのが嫌で、、黙り込んでしまうことが多かった。だけどそれは、自分で自分の首を絞めているのと同じだ。無茶な意地を張り続けても、いつか必ず限界が来る。
「せっちゃん」
「だから、その呼び方はやめてって!」
メコ、とペットボトルが握り込まれる。世絆の爪を飾るネイルが、夕闇の中で光った。
どうやら、彼女は迷っているようだ。僕に悩みを打ち明けるべきか。なら、ここは僕の方から話を促してみよう。
「……違ってたらごめん。世絆が速見と仲良くしてるのって、もしかして、深礼さんが関係してる?」
僕は慎重に訊ねた。すると、世絆の顔が露骨に歪み、どうして、という視線を向けられた。これは間違いない。ビンゴだ。
「知り合いから聞いたんだ。深礼さんが学校に来てないって。しかも彼女は美術部員で、その妹の世絆が、美術部顧問の速見と絡んでる。常識的に考えれば、何か関係ありそうだ」
「……っ」
世絆は愕然としていた。またもや沈黙が流れ、弱々しい蝉時雨が壁から溶け込んで待合室を満たした。
「変なとこで鋭いの、昔から全然変わってない」
世絆が溜息を吐く。その表情からは、いくらか険が抜けていた。
「僕はずっと同じだよ。いつまで経っても実らない、青くて小さな芽のままだ」
「何その表現。よくわかんない」
今日はじめて世絆が笑った。こんなに近くで笑顔を見るのは、一体何年ぶりだろう。
「タク、何も言わずに聞いてくれる?」
僕は頷いた。すると世絆は深呼吸して、瞳に冷たさを戻した。
「私は、復讐のために速見と付き合ってる」
「……復讐?」
思わず聞き返した。まさか世絆の口から、その単語が出てくるとは。
「そう。あの男は、お姉ちゃんの未来を奪った。だから、私が代わりに復讐する」
それから世絆は、怒りに肩を震わせて語り出した。
「お姉ちゃんが不登校になったのは、全部アイツのせい。アイツはお姉ちゃんに目をつけて、部活が終わった後も、デッサンの指導がどうとか言ってお姉ちゃんだけ残らせた。実際は、二人きりになるためだけど」
じわ、と嫌な予感がのぼる。僕は黙って続きを待った。
「タクなら分かると思うけど、お姉ちゃんって優しいから、他人を拒絶し切れないとこあるじゃない?速見はそこにつけこんで、毎日のようにお姉ちゃんを残らせた。それである日、ついに、アイツはお姉ちゃんに手を出した」
世絆はまだ中身のあるカルピスを握り締めた。
「それからお姉ちゃんは、精神を病んで、学校に行けなくなった。今はずっと、自分の部屋に閉じこもってる。ご飯の時にも降りて来ないし、心配するママたちにも何も言わない。でも、私にだけはこっそり教えてくれた。途中で泣き崩れて、話が支離滅裂になってたけど……」
胸が張り裂けそうだった。いつも優しく微笑んでいた深礼さんが、そんな状態になっていたとは……そして同時に、速見に対する嫌悪も湧いた。さっき昇降口で目にした顔を、思い切りブン殴ってやりたい。
「お姉ちゃんは、私なんかよりずっと、幸せになる権利があった。そのくらい優しくて立派な人だった。なのに、あのゴミ野郎のせいで人生をメチャクチャにされて、明るかった未来が全部台無しになった。アイツは、お姉ちゃんの芽を摘んだ。だから私は、絶対にあの男を許さない……!」
世絆が奥歯を嚙み締める。瞳には真っ赤な怒りと、真っ黒な憎悪が映っていた。
「じゃあ、君が速見と付き合っているのは…」
「そりゃあ、アイツに弱みを作らせるためよ。写真や動画で記録した上で、私にも手を出させるの。そうすれば、教師と生徒がそういうことをしてるっていう、アイツにとって最悪の証拠が手に入る。そしたら、あのゴミを生かすも殺すも、私次第になるってわけ」
世絆の口元に邪悪な笑みが浮かぶ。憎い相手の破滅を想像して、楽しんでいるのだろう。だけど、彼女の計画に僕は納得できなかった。
「速見を追い込むのが目的なら、深礼さんが傷付けられた事実を、学校や警察に相談すべきだ。深礼さんは嫌がるかもしれないけど、君が犠牲になるよりはずっとマシだ」
「無理よ。アイツは狡猾だから、お姉ちゃんとのことで物的な証拠は一切残さなかった。それに、アイツの罪を公表したところで、全然復讐にならない。社会的に殺すことは出来ても、精神的には殺せない。あの男には、もっと相応しい罪の償い方がある」
世絆は冷酷に言った。もっと相応しい罪の償い方……具体的にどんなものを指すのかは不明だが、口ぶりから察するに、速見の精神をとことん追い込むつもりだろう。
「世絆……」
僕は今までとは全く別の意味で、世絆に対して距離を覚えた。彼女はもう、僕の知ってる彼女じゃない。ドス黒い復讐に囚われた、一匹の悪鬼だ。
……いや、僕は何を言ってるんだ。世絆が自分から遠のいた?それはむしろ逆だ。
僕と世絆は、今、これ以上ないほど近くにいる。小学生の頃とは比べ物にならないほど。知り合って十数年、はじめて、僕と世絆は同じ世界にいる気がした。
「……深礼さんは、このことを知ってるのか」
「なわけないじゃない。私がこんなことしてるって知ったら、お姉ちゃんは発狂するわ」
世絆は怒ったように言った。まあ、自分のために妹が犠牲になっていると知ったら、ショックどころじゃないだろう。しかも相手が、自分を傷付けた男とあれば。
「……ねえ、タク」
不意にか弱い声がした。顔を上げると、世絆が縋るようにこちらを見ていた。
「なに?」
「その……お願いだから、止めないで。私は私のやり方で、アイツを裁きたいの」
待合室に声が響いた。いつの間にか蝉の音が止んで、辺りは静けさに包まれている。僕はベンチを立って外に出た。太陽は沈み、夜の帳がおりていた。目の前に敷かれた線路には闇が蟠っている。夏の夜風が心地良かった。
「タク?」
突然外に出て伸びをし始めた僕を、世絆が不安そうに見つめた。徐々に近づく列車の音を聞きながら、僕は笑って唇を開いた。
「僕は、君を止めないよ」
「え……?」
世絆が息を吞んだ。ガタタタン、と背後を列車が過ぎて、待合室にいる世絆が淡く照らされた。僕は後ろ髪に風を浴びて、もう一度言った。
「君が速見に復讐するのなら、僕は止めない。むしろ、僕にも復讐を手伝わせてほしい」
世絆の顔に驚愕が浮かぶ。だけどそれは一瞬のことで、すぐに不敵な笑みを浮かべ直した。
「意外だわ。絶対止められると思ってた」
世絆も待合室を出た。短いスカートを揺らして、僕の隣に並ぶ。
「わかったんだ。僕と君は、同じ景色を見てるって」
「何それ。どういうこと?」
小首を傾げる世絆に、僕は曖昧に笑った。
「ところで」
僕は横目で世絆を見た。
「世絆って、こんなにチビだっけ」
「はあ?アンタが勝手にデカくなっただけでしょ」
むが、と歯を出して怒る世絆に、僕はクスリと破顔した。すると世絆は顔を逸らして、「ま、ちょっとは男らしくなったんじゃない」と小さく呟いた。

