幼馴染の佐藤世絆が、美術教師の速見と付き合っている、という噂を耳にしたのは、七月に入ってすぐの頃だった。いつも通り教室で読書をしていると、ふと、クラスメイトの囁きが耳に入ったのだ。
「佐藤って、あの一組の派手な?」
「そうそう。放課後の美術室で二人きりだったとか、駅前のモールで手を繋いで歩いてたとか、怪しい目撃情報が沢山あるんだよ」
ショワショワという蝉の鳴き声の合間を縫って、男子たちの会話が聞こえてくる。僕は自分でも驚くほど集中して、彼らの話を盗み聞きしていた。できれば今すぐにでも席を立って質問したいが、あいにく彼らとは接点がない。男友達の一人くらいは作っておくんだったと、この時ばかりは後悔した。
やがて教室に人気が増えてきた。昼休憩が終わりに近づき、生徒たちが戻ってきたのだ。世絆について噂していた男子も、そのタイミングで話を打ち切る。僕はもう少し聞き耳を立てていたい欲求に駆られながら、引き出しから現国の教科書を取り出した。
放課後。帰宅ラッシュの昇降口を抜けると、生ぬるい西日を浴びた。すぐに首筋が汗ばみ、自宅の冷凍庫で眠るアイスが恋しくなる。早いとこ家に帰ろう。そう思って自転車小屋に足を向けた時。
「あ……」
思わず声が漏れた。なんと、そこには世絆がいた。薄く脱色した髪をくるくると巻き付けながら、チャラい雰囲気の男子たちと話している。この距離だと会話の内容は分からないが、あまり平穏な空気ではなさそうだ。「んだよ、ノリ悪りーな」と背の高い男子が叫んだ。それから世絆を置いて、そいつらは自転車で帰っていく。僕は昼間に聞いた噂を思い出して、どうしたものかと立ち止まっていた。すると、一人になった世絆が僕の方に目を留めた。
「タク」
自転車小屋の屋根の下で、世絆の唇が動いた。それが僕、原田卓司を指すあだ名であることは、当然すぐに分かった。ただ、そのあだ名の響きは僕にとってあまりに懐かしくて、衝撃を受けたようにその場に立ち尽くしてしまった。
「世絆…」
乾いた唇がようやく開いた時。カシャン、と金属音がした。世絆が自転車のスタンドを上げた音だ。ぬるい風を浴びながら自転車を漕ぎ出した彼女は、すれ違いざまに一言呟いた。
「またね」
「……」
僕の返事を待つこともなく、世絆は自転車を走らせた。水面に映る影のように、ゆらゆらと遠くに消えていく彼女を、僕は瞬きもせずに見送った。
*
僕と世絆は、かつてよく一緒に遊んでいた。同じ幼稚園だった僕たちは、母親同士がいわゆるママ友で、その影響で互いの家を行き来するようになった。今思えば、原田家も佐藤家も共働きだったから、子どもたちが一人にならないよう固めておこうという、親たちの考えがあったのだろう。特に、佐藤家には深礼さんという僕たちの一個上のお姉さんがいた。だから僕の母親は良い息子の預け先が見つかったとでも思っていたのだろう。
そんな大人たちの思惑通り、小学校に上がるまで、僕と世絆と深礼さんは毎日のように三人で遊んだ。大抵はどちらかの家でゲームか、近くの公園で球技や縄跳びをした。たまに、探検と称して歩いて町まで出た。この探検では、世絆が見栄を張って知らない道をズンズン進み、やがて本格的に迷って僕が泣き出し、見かねた深礼さんが助けを呼ぶ……というのがお決まりのパターンだった。強引でワガママな世絆と、心配性で泣き虫の僕と、温和で頼りになる深礼さん。今思い返すと、絶妙にバランスが取れていた。
だけど、そんな日々も精々小学校四年くらいまでだった。きっかけは多分、僕の家が別の地区に引っ越したことよりも、僕と世絆の人間性の違いが明確になったことの方が大きかった。つまり、いつも教室の隅にいる僕と、クラスの中心に君臨する世絆とで、カーストにはっきり差が開いたのだ。当然、僕と世絆の関わりが薄まれば、そもそも学年の違う深礼さんとの繋がりもなくなる。
そうして、僕と佐藤姉妹が共に時間を過ごすことは減った。中学に上がり、思春期に入ってからは言葉も交わさなくなった。いや、正確に言うなら、言葉なんて掛けられなかった。地味で友達のいない僕からすれば、恵まれた容姿とキラキラとした仲間を持つ世絆は、どこか遠い存在になっていた。
だけど、中学三年の時、僕と世絆は同じクラスになった。そしてそこで、心が抉られるような辛い経験をした。それが原因で、僕は二度と世絆とは話せなくなった。だから、何の因果か同じ高校に入学して、また「タク」と昔のあだ名で呼ばれるなんて……
「暑い……」
夜、僕は自室のベッドの上で寝返りを打った。冷房を付けているのに、この暑さ。多分、熱いのは空気じゃなくて僕の体だ。今日、世絆とわずかでも言葉を交わしたことで、胸の奥にしまっていた激情が再燃した。
早く、この気持ちをどうにかしたい。脳裏に世絆の顔を思い浮かべるたび、そんな思いに駆られた。だけど僕は今日、衝撃的な話を聞いてしまった。世絆と、美術教師の速見が付き合っているという噂。この燃えるような感情をどうにかするには、まずはあの噂の真偽を突き止めることが先だ。
「佐藤って、あの一組の派手な?」
「そうそう。放課後の美術室で二人きりだったとか、駅前のモールで手を繋いで歩いてたとか、怪しい目撃情報が沢山あるんだよ」
ショワショワという蝉の鳴き声の合間を縫って、男子たちの会話が聞こえてくる。僕は自分でも驚くほど集中して、彼らの話を盗み聞きしていた。できれば今すぐにでも席を立って質問したいが、あいにく彼らとは接点がない。男友達の一人くらいは作っておくんだったと、この時ばかりは後悔した。
やがて教室に人気が増えてきた。昼休憩が終わりに近づき、生徒たちが戻ってきたのだ。世絆について噂していた男子も、そのタイミングで話を打ち切る。僕はもう少し聞き耳を立てていたい欲求に駆られながら、引き出しから現国の教科書を取り出した。
放課後。帰宅ラッシュの昇降口を抜けると、生ぬるい西日を浴びた。すぐに首筋が汗ばみ、自宅の冷凍庫で眠るアイスが恋しくなる。早いとこ家に帰ろう。そう思って自転車小屋に足を向けた時。
「あ……」
思わず声が漏れた。なんと、そこには世絆がいた。薄く脱色した髪をくるくると巻き付けながら、チャラい雰囲気の男子たちと話している。この距離だと会話の内容は分からないが、あまり平穏な空気ではなさそうだ。「んだよ、ノリ悪りーな」と背の高い男子が叫んだ。それから世絆を置いて、そいつらは自転車で帰っていく。僕は昼間に聞いた噂を思い出して、どうしたものかと立ち止まっていた。すると、一人になった世絆が僕の方に目を留めた。
「タク」
自転車小屋の屋根の下で、世絆の唇が動いた。それが僕、原田卓司を指すあだ名であることは、当然すぐに分かった。ただ、そのあだ名の響きは僕にとってあまりに懐かしくて、衝撃を受けたようにその場に立ち尽くしてしまった。
「世絆…」
乾いた唇がようやく開いた時。カシャン、と金属音がした。世絆が自転車のスタンドを上げた音だ。ぬるい風を浴びながら自転車を漕ぎ出した彼女は、すれ違いざまに一言呟いた。
「またね」
「……」
僕の返事を待つこともなく、世絆は自転車を走らせた。水面に映る影のように、ゆらゆらと遠くに消えていく彼女を、僕は瞬きもせずに見送った。
*
僕と世絆は、かつてよく一緒に遊んでいた。同じ幼稚園だった僕たちは、母親同士がいわゆるママ友で、その影響で互いの家を行き来するようになった。今思えば、原田家も佐藤家も共働きだったから、子どもたちが一人にならないよう固めておこうという、親たちの考えがあったのだろう。特に、佐藤家には深礼さんという僕たちの一個上のお姉さんがいた。だから僕の母親は良い息子の預け先が見つかったとでも思っていたのだろう。
そんな大人たちの思惑通り、小学校に上がるまで、僕と世絆と深礼さんは毎日のように三人で遊んだ。大抵はどちらかの家でゲームか、近くの公園で球技や縄跳びをした。たまに、探検と称して歩いて町まで出た。この探検では、世絆が見栄を張って知らない道をズンズン進み、やがて本格的に迷って僕が泣き出し、見かねた深礼さんが助けを呼ぶ……というのがお決まりのパターンだった。強引でワガママな世絆と、心配性で泣き虫の僕と、温和で頼りになる深礼さん。今思い返すと、絶妙にバランスが取れていた。
だけど、そんな日々も精々小学校四年くらいまでだった。きっかけは多分、僕の家が別の地区に引っ越したことよりも、僕と世絆の人間性の違いが明確になったことの方が大きかった。つまり、いつも教室の隅にいる僕と、クラスの中心に君臨する世絆とで、カーストにはっきり差が開いたのだ。当然、僕と世絆の関わりが薄まれば、そもそも学年の違う深礼さんとの繋がりもなくなる。
そうして、僕と佐藤姉妹が共に時間を過ごすことは減った。中学に上がり、思春期に入ってからは言葉も交わさなくなった。いや、正確に言うなら、言葉なんて掛けられなかった。地味で友達のいない僕からすれば、恵まれた容姿とキラキラとした仲間を持つ世絆は、どこか遠い存在になっていた。
だけど、中学三年の時、僕と世絆は同じクラスになった。そしてそこで、心が抉られるような辛い経験をした。それが原因で、僕は二度と世絆とは話せなくなった。だから、何の因果か同じ高校に入学して、また「タク」と昔のあだ名で呼ばれるなんて……
「暑い……」
夜、僕は自室のベッドの上で寝返りを打った。冷房を付けているのに、この暑さ。多分、熱いのは空気じゃなくて僕の体だ。今日、世絆とわずかでも言葉を交わしたことで、胸の奥にしまっていた激情が再燃した。
早く、この気持ちをどうにかしたい。脳裏に世絆の顔を思い浮かべるたび、そんな思いに駆られた。だけど僕は今日、衝撃的な話を聞いてしまった。世絆と、美術教師の速見が付き合っているという噂。この燃えるような感情をどうにかするには、まずはあの噂の真偽を突き止めることが先だ。

