……相変わらず、都合の良いところで目が覚める。
無事に夢から脱せたことに安堵し、そしてすぐに、そんな自分を滑稽に思う。
現実に帰ったからって、なんだっていうんだ。
どうせ、もう何も……
洗面所へ急ぎ、蛇口を引っ掴む。
そして、込み上げてきた吐き気を押し戻すように、水道水を胃袋へ流し込んだ。
そうしながら俺は、いつも通り、鏡に映る自分に言い聞かせていく。
「俺は、変わった。俺は変われたんだ。俺は、もう、変われました」
発作が落ち着くまで、繰り返し言い聞かせる。
この日課に、俺は取り憑かれていた。
俺は、あの日々から逃げて、ひたすらに逃げて、逃げ切った。
誰も俺の事を知らない町で、俺も知らない俺に辿り着いた。
そう、自分に信じ込ませていく。
「俺は変わった。俺はもう、俺とは違う。俺はもう俺じゃない」
なのに、変わったはずの俺は、今もまだ逃げ続けている。
変わったからこそ、別の存在となった昔の自分から、俺は逃げているんだ。
きっと、今日もまたアイツの夢を見ることになる。
だけど、それはもう、俺には関係ないことなんだ。
「変わった。変われた。今の俺が、もう、俺だ。夢の中の俺は、もう別の人間だ」
自分でもよく解らない道理。
それでも不思議と、鏡の中の俺は落ち着いていった。
顔の水滴を雑に拭い、工場の夜勤へ向かうため、作業服に着替える。
仕事は好きだった。
こんな俺でも、まともたらしめてくれるから。
「え」
玄関を開けてすぐ、影にぶつかった。
声をあげる間もなく、部屋の中へと蹴り戻される。
その影はドアを閉め、土足のまま上がり込んできた。
抵抗しようと立ち上がろうとした瞬間に、視界が赤黒く爆ぜる。
頭を蹴られた。そう理解した時にはもう、倒れ伏した身体を起こせなくなっていた。
動顛した足は痺れたように力が入らず、ガタガタと震える。
逃げ出せない身体の中で、恐怖だけが増大していく。
そんな俺を見下ろしながら、影はフードを脱ぎ、その顔を剥き出した。
強打した眼球は焦点が定まらず、暗くて、はっきりと見えない。
だけど、震盪によって朦朧とした脳が、その男に、白昼夢を重ね映し始めた。
夕闇の溶けた川の音が、部屋の中に流れ込んでくる。
自分が、影ごと夜に呑まれていく。
あの夢の続きが、始まってしまう。
「みつる、優しいから好き!」
その言葉は、何よりも俺を惨めにさせた。
誰が優しいんだよ。
誰が、優しかったんだよ。
平穏な家庭にいた俺。
陸上のエースで偉ぶっていた俺。
コイツに優しく出来ていた俺。
全部、何処に行った。
親父に折られた脚、母親を殴った手、荷物以下に成り下がった自分自身。
全部、何処から来た。
今の俺は、誰だよ。
「また優しいみつると遊びたいな!」
その言葉が、以前の自分と今の俺を、冷酷に分断した。
あの頃の俺は、何処行った。
お前に優しかったみつるは、何処行った。
俺はもうお前に優しく出来ない。
無邪気なお前が腹立たしくて仕方がない。
俺は戻りたいのに、もう戻れない。
「おれ、みつる好き!」
「うるせえんだよ!」
好意に満ちた瞳、俺を好きだと言ってくれる口、愛くるしい頬。
その全てを、俺が振るった松葉杖が破壊した。
「……結月、結月ッ、……結月!」
我に返った俺は、何度も名前を呼び掛けたが、うずくまって動かなくなった結月は返事をしなかった。
自分のした事に恐れおののいた俺は、松葉杖も置いて、結月も置いて、手負いの犬のように無様に這いずりながら逃げ出した。
それからの日々、必死に、ただ必死に逃げた。
町からも、結月からも、自分からも。
「何か……」
男の声と、ボロアパートの床が軋む音で意識を取り戻す。
男は、何かを手に握って、ゆっくりと歩み寄ってきた。
髪を引っ掴まれ、壁にもたれるように身体を起こされて、その歪んだ顔と対峙する。
薄らかな月明かりに照らされたその顔を、俺は正視出来なかった。
男が、俺に問いかける。
「何か言うことはある?」
痛む腹から必死で声を絞り出す。
「あの時は……ごめんな、本と」
言葉の途中で、腹を蹴り上げられる。
「何か言うことはある?」
「……本当に、すまない事をした。その、顔も、償わせて欲」
再度、腹を蹴り上げられる。
「何か言うことはある?」
「は……がッ、……ぅぅ」
激痛と苦しさに耐えきれず、俺は這いずって、男から逃げ出した。
そんな無様な俺を男は容易く捕らえ、床に叩き伏せる。
男が、手に握っていた鈍器を振り上げた。
「変わらないね、みつる」
その言葉は、鈍器より先に、俺を崩壊させた。
結月の手が振り下ろされ、俺の顔面を破壊する。
それは心の何処かで、ずっと待ち続けていた瞬間だった。
「みつるは、どこに行きたかった?」
どこだろう。
どこだったんだろう。
わかったところで、もう答えられそうにはない。
動かなくなった身体から血液が流れ出ていく。
血液と共に、汚泥の様な心の中身も流れ出ていく気がした。
半欠けとなった景色に、結月の顔が映り込む。
床に横たわって、血溜まりに片頬を浸し、俺の顔を覗き込む結月が見える。
俺が歪めたその顔は、あの頃から何も変わっていなかった。
瞳も、口も、頬も。
「おそろいだね、みつる」
結月は、笑っていた。



