扉を(ひら)くと、(かげ)った社内とのコントラストの差で、痛いくらいに目が(うず)いた。
 (つつ)ましくも鮮やかな花壇(かだん)と、爽やかな秋空。
 初めて眺めるその景観(けいかん)は、思ったよりも良いものだった。
 地上の喧騒(けんそう)から隔絶(かくぜつ)されたこの空中庭園は、残念なことに、社内唯一の喫煙(きつえん)スペースで、昼休みの混雑スポットだ。
 だから、俺は今日までずっと()けていた。
 だけど、しばらくは、独り占めできるかもしれない。
 そんな不謹慎(ふきんしん)な期待とともに、貸し切りの屋上を堪能(たんのう)しようと袋からパンを出す。
 お気に入りのツナマヨコーンパン。
 (きざ)み玉ねぎも混ざっていて旨い。一生食える。
 はずなのに、今日ばかりは(かじ)りつく気になれなかった。
 ただの荷物となった好物(こうぶつ)をぶら下げた手に、何かが()れる。

「こんな高いとこに……」

 紋白蝶(もんしろちょう)が二匹、ビニール袋と小さな花壇の間を、ひらひらと舞っていた。
 たぶん、屋上まで飛んで来たのではなく、幼虫の頃に(なえ)や土についてきたのだろう。
 この箱庭(はこにわ)羽化(うか)し、この箱庭しか知らない蝶。
 その蝶の片割(かたわ)れが、屋上の(はし)で咲く見慣れぬ花々に()き寄せられていく。
 心の準備が(ととの)わないまま、俺は蝶の後を追った。
 (あわ)い色合いの花束や、社内の自販機(じはんき)にある缶コーヒーが数種類、足元に広がっている。
 けれど、どれも受取人の嗜好(しこう)()った物はない。

「本当、社会道徳て偽善(ぎぜん)ばかり……」

 毒づきかけた口を、反射的に(あわ)てて閉じる。
 子供みたいなこと、いつまでも言ってんじゃねえぞ。
 そう、いつもみたいに(しか)られると思ってしまったんだ。
 そんなわけないのに。
 いつも煙臭(けむりくさ)かったあの人を思い出しながら、ビニール袋から煙草(たばこ)を取り出す。
 フィルムを()がして(ふた)を開けると、甘ったるい草の香りがした。
 一本引き抜く。
 そして先端(せんたん)をライターで燃やしたものの、()げて(くすぶ)るばかりだった。

「ん、なんで……?」

 ふと、あの人の姿が脳内に()かんだ。
 出先(でさき)で、喫煙所を見つける度に、助かったとばかりに()け込んでいく姿を。
 そして、まるで肺を焼くかのように、煙草()しに深く火を吸う姿を。
 俺は抵抗を感じつつも、フィルターに口を付け、あの人をなぞるように火を吸った。
 先端に火が宿(やど)り、赤々と嬉しそうに燃え出して、俺に毒を送り込んでくる。
 喉に異様(いよう)な刺激が走り、濃厚な煙が肺を()たして、ジリジリと俺の中に()みこんでいく。
 体内に満ちた、あの人の匂いを、一気に吐き出した。
 薄汚(うすよご)れた紫煙(しえん)が、たおやかな雲へと()かって立ち(のぼ)る。
 そして、届くことなく、かすんで消えた。

「やっぱり全然良くねぇ……。はい、あげます」

 線香(せんこう)(がわ)りに(そな)えるつもりだった煙草を床に転がすと、巻紙(まきがみ)の青い印字(いんじ)が、どこか不服(ふふく)そうに光った。
 ビニール袋から、あの人が良く飲んでいた缶コーヒーを取り出す。
 少し離れたコンビニにしか売っていない、味もデザインも独特(どくとく)な缶コーヒー。
 会社周辺で売っているコーヒーの中で一番甘いらしく、これじゃないと頭が()えないとか言って、よく買い出しに付き合わされた。
 気付けば俺は、そのプルタブに指をかけていた。
 前に一口だけ飲まされた悪趣味なほどの甘味(あまみ)が、なぜか欲しくなったから。
 だけど、やっぱり不味(まず)くて飲み切れず、献花台(けんかだい)の端にそっと、その缶を供える。
 道徳に沿()って並ぶ花束たちに、()(がら)と飲み残しの缶が(まぎ)れ込んだ。
 特徴的(とくちょうてき)なコーヒーと紫煙(しえん)の匂いが混ざり合って、なんだか、あの人を感じた。

「先輩が好きだったモノの良さ、一つもわからないな」

 そう言って気づく。
 好きなものどころか、先輩自身のことも、もうわからない。
 わかっていたのに、わからなくなってしまったのだ。
 ただ一つだけ、的確(てきかく)に彼を言い(あらわ)せるとしたら、矛盾(むじゅん)、だろうか。
 情けなくて、頼もしい。
 怖がりで、恐れ知らず。
 (きび)しくて、優しい。
 繊細(せんさい)で、豪快(ごうかい)
 この風変(ふうが)わりな匂いのする煙草も、そうだ。
 漢方薬(かんぽうやく)が含まれているというこの煙草は、彼(いわ)く、健康に良いらしい。
 健康に良い煙草なんてあるわけないでしょう!
 俺はよく、強い口調でそう突っ込んだ。いつもの説教の仕返しとばかりに。
 そうだ。
 もう昼休みの後、この匂いの中で説教されることもない。
 ずっと聞き流してきた先輩の声が、急に脳内に(よみがえ)ってくる。
 ちゃんと飯食ったか?
 野菜食ってるか? 肉食ってるか?
 運動してるか? 何か趣味とかあるのか?
 生き甲斐は、ちゃんと持っといたほうが良いぞ。

「自分は、どうなんだよ」

 本当に、あの人はどうだったのだろう。
 あの人の動機(どうき)は全くの不明であり、誰もが思いもしないことだった。
 明るくて、愛されて、尊敬される人格者の彼。
 もしかしたら、そこにも矛盾が(しょう)じていたのだろうか。
 それなら本当の先輩を、知っている人はいたのだろうか。

「先輩は、趣味とかあったんですか。最後は、何食ったんですか」

 聞けなくなった今、初めて聞いてみたくなる。
 だけど、(かす)れた声が虚空(こくう)に溶けるだけだった。
 ふいに花束を(ただよ)っていた蝶が、紫煙に(みちび)かれるようにして、屋上の(さく)()えていく。
 その紋白蝶の色合(いろあ)いが、不意に死装束(しにしょうぞく)連想(れんそう)させた。
 引き戻そうと立ち上がって腕を伸ばすが、蝶は無関心に俺の手をすり抜けて、ゆっくりと地上へ()ちて消えていく。
 きっともう、この屋上まで舞い戻ってくる事は、できないだろう。
 あの蝶にとって、それは旅立ちだろうか。
 それとも、身投(みな)げだろうか。

「こんなの、飛び込むほどの良いもんじゃないでしょう」

 柵から街を俯瞰(ふかん)する。
 (かわ)()えもしない退屈な平穏が()()っている。
 ほんの数日前の騒動(そうどう)すらも、もう日常に()み込まれてしまったのだ。

「今までありがとうございました」

 最後だけは、思いの中で一番綺麗な言葉を口にした。
 花壇では、あの紋白蝶の片割れが(うれ)わしげに舞っている。
 残されたこの蝶は、ずっと一匹でいられるのだろうか。
 それとも、いつかは後を追うのだろうか。
 飲み残しの缶と吸い殻を拾って、俺は日常へと降りていく。
 ちゃんと階段を使って。