れんくんとの出会いは、はっきり言っていいものではなかった。



当時小学四年生だった俺は、ある日突然両親から転校を言い渡された。
転校という言葉は聞いたことがあった。仲良くしていたクラスメイトが両親の離婚がきっかけで転校する、というイベントが学年が上がる少し前に発生していたからだ。
そういう事情で仲の良かったクラスメイトと離れ離れになることがあるんだと子どもながらに衝撃を受けはしたものの、なんとなく、自分には関係のないことだと思っていた。
だってうちはまだ家が新しめだし、両親も仕事は安定していて仲もいい。すぐに引っ越すなんて気配もないから、なんとなく、しばらくはみんなでここにいるんだろうなぁと呑気に考えていた。
だから俺は、まさか自分が転校する側になるとは思わず、本当に心の底から驚いた。

「な、なんで?引っ越しするの?それとも、父さんと母さん、離婚するの?」
「引っ越しもしないし離婚もしない。どこでそんな言葉覚えてくるんだ……」

父は呆れたようにため息をついたが、ひとつ咳払いして表情を真剣なものに戻す。

「圭太には来月から、俺と一緒に仕事をしている方の、息子さんと同じ学校に通ってもらいたい」
「父さんと、仕事してる人の……?」
「以前家に来てくれたことがあるんだが、覚えていないか?背が高くて優しそうに笑う人だ。楽しそうに遊んでもらってたぞ」
「……わかんない」

俺の中では、父の仕事関係者に会ったという記憶はない。人の顔を覚えるのは得意な方だから、その「背が高くて優しそうに笑う人」と会ったのもおそらく俺が小さい頃なんだろう。遊んでもらっていたと言うが、記憶に無いのも無理はない。
……いや、今はそんなことよりも。

「ねぇ、転校ってことは、友達とはさよならしなくちゃいけないってことだよね」
「あぁ……そうなってしまうな」
「そんなの、絶対にやだ!」

自分で言うのもなんだが、俺はかなり友達が多い。休み時間や放課後、一緒に遊ぶ子たちもたくさんいる。つまり俺の学校生活は、かなり充実したものになっているのだ。
それなのに、もはや会ったこともないと言っても過言じゃない人の息子と同じ学校に来月から通えだなんて突然言われて、納得なんかできるわけがない。

「気持ちはわかる。だがすまない、圭太にしか頼めないんだ」
「なにそれ、意味わかんない。そもそもなんで転校してまで知らない人と同じ学校に通わなくちゃならないの?」
「……息子さん、名前を蓮太郎くんと言うのだが、少し前に誘拐されかけたんだ」
「えっ……」

誘拐されかけたって、悪い人に何処かに連れ去られそうになったってこと、だよな。
時々不審者の目撃情報があるから気をつけるようにと注意喚起されるが、実際に不審者と遭遇したとか連れ去られたとかいう人は見たことがないから、あんまり現実味がなかったけど……。被害に遭ってる人って、本当にいたんだ。

「家の事情もあり少々狙われやすい子で、これまでも何度も危険な目に遭っている。そのせいで身内以外の他人を信用せず、一人で居ることが多いんだ。でも蓮太郎くんを一人にさせるのはよくない。周りの大人たちも気にしてくれているが、限界がある。……今の蓮太郎くんには、精神的な意味でもすぐそばで見守ってくれる同い年の子が必要なんだ。俺はその役割は、圭太が適任だと思っている」
「……そんなこと言われたって、わかんないよ……」

誘拐されかけたのは気の毒に思う。相当怖い思いをしただろう。
でもだからと言って、俺がその蓮太郎くんとやらのために転校するのは話が別だ。俺には俺の生活があるのに、なんで知らない子どもに振り回されなければならないのだ。

「他にも同い年の子、いるじゃん……俺じゃなくてもいいじゃん……」
「これは誰でもいいという話じゃない。あの方も、父さんの息子ならばと信用して言ってくれてるんだ。……圭太にはまだ、難しい話だろうがな」
「うん、全っ然わかんない」

俺のはっきりした返答に、父はふっと笑みをこぼした。

「とにかく、今週の土曜日に二人が家に来てくださるから、そこで少し話をしよう」
「…………」

きっと俺に拒否権はないのだろう。父はすごく強引なのだ。
それから、大人しく頷きはしたものの、俺はもやもやを抱えたまま数日を過ごした。
そして来る土曜日。
家に例の二人がやって来た。

「こんにちは、圭太くん。大きくなったね」
「こ、こんにちは……」

俺の目の前に立ったのは、すらっと背の高い男性だった。父も背が高いが、更に頭一個分くらい高いだろうか。
あと、顔が自分の目線からはだいぶ遠いところにあるけれど、それでも綺麗な顔をしているのがよくわかる。
なんか、テレビに出ている人みたいだ。
洋服も黒のスキニーのパンツにロングTシャツというシンプルな格好であるにも関わらず、とても様になっている。
えっとつまり、とてもかっこいい人、ということだ。
そして父が言っていた通り、「優しそうに笑う人」だと思った。
俺を見つめる目も、優しさとほんの少しの懐かしさが滲んでいる気がする。昔に会ったことがあると言っていたから、そのせいかもしれない。
……しかし、温厚そうな空気をまとっているが、綺麗な顔も相まってか妙にオーラがあり、ほんの少し近寄り難い雰囲気を感じる。俺自身人見知りしないタイプなのに緊張してしまって、挨拶した声が若干震えてしまった。

「しっかりとした挨拶ができて偉いね。……さて、早速で申し訳ないが、私の息子を紹介させてほしい」

ほら、出ておいで、と促され、父の上司の人の影からそろりと姿を現したのは、俺より少し背の低い少年だった。

「この子が、きみに見ていてもらいたい子――蓮太郎だ。さぁ蓮太郎、ご挨拶しなさい」

そう紹介された少年――蓮太郎くんは、俯かせていた顔をほんの少し上げる。
髪の隙間から見えた顔は、上司の人をそのまま幼くしたようなものだったので驚いた。
幼少期からこんなに似ることあるんだ。蓮太郎くんのお母さんを見たことはないが、おそらく顔の遺伝子はほとんどお父さんのものなのだろうな。
不躾にも目の前の少年を観察するようまじまじ見つめる。その視線を感じてか、蓮太郎くんはゆっくり顔を上げようやくその瞳と目が合った。
しかし、彼はすぐに目を逸らして顔を俯かせると、縋るように上司の人のズボンを掴みまた影に隠れてしまった。

「すまない、かなり人見知りな子でね。……蓮太郎、きみのために時間を割いてもらってるんだから、ちゃんとご挨拶しなさい」
「…………」

優しい声音だがしっかりした口調で諭され、おそるおそるといった感じで蓮太郎くんがまた影から出てくる。
誘拐されかけた子どものためとは言え、ほとんど会ったこともない俺をあてがおうとしているくらいだから、親はどれだけ甘やかして子どもを育てているんだと内心腹立たしく思っていたが、この様子を見るにどうやらそうでもないらしい。
そして上司の人に促されてではあるが、蓮太郎くんはもう一度俺の前に立ってぺこりとお辞儀をした。
いや、はじめましてくらい言えよ。
なんて苛立ちを覚えたけれどここはぐっと堪えて俺もお辞儀し返す。
それから俺の隣りにいた父がソファに座ることを勧めたため、両家で向かい合うよう座った。

「改めて、今日は時間を取ってくれてありがとう。私のことは気軽に誠司と呼んでくれ」

上司の人――もとい誠司さんは、穏やかに笑って言った。隣りで父が「そんな馴れ馴れしい呼び方させられません!」なんて言っているが、この会の前に母から父の様子がおかしくなっても無視して良いと言われているので、とりあえず無視して頷いておく。

「圭太くん、お父さんから今回の事情は聞いているだろうが、再度私の方からも説明させてくれ」

そうして誠司さんから説明されたことは、詳細なものではあったがまぁ概ね父から聞いたことと同じ内容だった。蓮太郎くんのために転校して、彼と同じ学校に通ってほしいというのも変わらずだ。
誠司さんが説明をしている間、俺は蓮太郎くんを盗み見て観察した。
自分のことだというのに、俺と挨拶を交わした(と言ってもお辞儀をし合っただけだが)ときと変わらず俯いて、でも時折俺を見てはさっと気まずそうに視線をそらすことを繰り返している。
はっきりとしない、中途半端な態度だ。
俺が、初対面の彼のために、自身の交友関係を全て捨てる羽目になるかもしれないことを、ちゃんとわかっているのだろうか。彼にとっては取るに足らない、他人事のようなものなのだろうか。
……気に食わない。

「――というのがだいたいの事情だ。ここまではいいだろうか、圭太くん」
「えっ、あ、はい!」

蓮太郎くんを観察しながら考え事をしており話を全く聞いていなかったが、反射で返事をしてしまった。
まぁ大して初耳な話題はないだろうから、問題ないだろう。
俺の妙に元気な返事を聞いたあと、誠司さんはひとつ頷いてから微笑みを消し、代わりに真剣な表情を浮かべた。

「本来は、大人である私たちが問題を解決するべきだ。しかし私が不甲斐ないばっかりに、きみを巻き込んでしまう形になった。本当に申し訳ない」

誠司さんが頭を下げる。それにならって、隣りにいた蓮太郎くんも慌てて頭を下げた。
俺の隣りで父が「そこまでしなくても」と頭を上げさせている。
俺も戸惑った。父と同世代の大人に頭を下げられたら誰だって戸惑うだろう。仕方ない。

「……きみが蓮太郎のために学校を移ることに納得していないのは重々承知している。ただ学校内のことは私たちではどうしようもなく、私が最も信頼している彼の息子であるきみに頼らざるを得ないんだ。不平不満があれば遠慮なく言ってくれ、これ以上の損が出ないようサポートは全力でする。だから……条件を呑んではくれないだろうか」

お願いします、と誠司さんが再び頭を下げた。
誠司さんは真剣だ。本当に真剣に息子である蓮太郎くんを心配し憂いているし、俺にこんなことを頼むのを心の底から申し訳なく思っている。
真面目で誠実な人なんだろう。父が慕うのもわかる気がする。
そして父も、そんな慕っている誠司さんの信頼と期待に応えたいのだろう。だから俺を説得しようと頑張っていたんだ。
あぁもう……こんなの、誰が断れるっていうんだ。断ったって、俺が悪者みたいになるだけじゃないか。

「……わかり、ました」

たっぷり時間をかけて発した俺の言葉に、誠司さんとそれから父もばっと顔を上げ、嬉しそうに、そして安心したように破顔した。

「ありがとう……本当にありがとう。きみばかりに苦労をかけてすまない」
「いえ……」
「要望があれば何でも言ってくれ。できる限り応える」

誠司さんは立ち上がって、俺の手を握りぶんぶん上下に振って「ありがとう」と繰り返した。
ちらりと蓮太郎くんを見れば、彼は先程よりも不安気な表情を浮かべ俺と誠司さんの様子を眺めていた。
彼ももしかしたら俺と同じように、自分の傍に誰かが付くことを半ば無理やり決められたのかもしれない。自分の意見を言うのも苦手っぽいし、親が自分を心配しての提案なので断りきれなかったというのも、あり得ない話じゃない。
そう思ったら、彼の境遇も含めてほんの少し同情してしまった。
けれど、これからよろしくとこちらから挨拶をしてあげたのに、またぺこりとお辞儀だけされて、やっぱり気に食わないと思った。


―――


それから一ヶ月後。元の学校の友人たちからは別れを惜しまれ、突然だったにも関わらず盛大な送別会ののち俺は予定通り蓮太郎くんの通う学校に転校した。所属することになったクラスも蓮太郎くんと同じだった。
時期的に中途半端な転校であったが、生徒たちはそこまで難しいことがわからない年齢でもあったため普通に歓迎してくれた。
クラスメイトになった人たちは珍しい転校生に興味津々で、かなり質問攻めにあってはじめは鬱陶しいと思っていたけど、話してみればみんな気のいい奴らですぐに仲良くなれた。
一方、肝心の蓮太郎くんとの関係だが、まぁなんとも言えない、とても微妙なものに収まっている。
これからボディガードとして共に過ごすことが増えるんだし、仲良くしておかないとと思って俺なりに歩み寄ろうとしたのだ。けれど当の本人は相変わらず一言も喋らないし目もそんなに合わない。気を利かせて話しかけても小さく頷くだけ。
しかも俺は蓮太郎くんのボディガードだから、基本的に近くにいなければならない。放課後に遊びに誘われたとしても、家が遠いこともあるので遊べず、蓮太郎くんと一緒に送迎の車に乗るしかない。
つまらない。つまらなすぎる。
せっかく新しい友達ができたのにろくに遊びもできない。これで蓮太郎くんが面白い人だったら多少の溜飲も下がったが全くそんなこともないので彼への不満はたまる一方だ。
そんな、つまらない蓮太郎くんの傍と、新しい学校でしばらく過ごしてわかったことが三つほどある。
一つ目は、蓮太郎くんはクラスでめちゃくちゃ浮いた存在であること。
授業で自由にペアを作っていいとなったとき、俺が来るまではいつも余っていたらしい。しかもクラスの男子からは「いい気になってる」とか「スカしてる」なんて言われている始末だ。それもあってか、俺だけじゃなく他のクラスメイトと会話しているところは見たことがない。
二つ目は、蓮太郎くんは女子人気が高いということ。
男子からはよく陰口を叩かれているのを聞くが、女子はそんなことはなくむしろ優しいとか気が利くとか言って褒め称えている。話しかけてもろくに返答しなくて感じ悪い、なんて反論されても、むしろそれがクールでかっこいいんだと熱く語っている子もいるくらいだ。
確かに顔はきれいだし、性格も大人しくて落ち着いていて、まとっている雰囲気も小学生男子とは思えないくらい静かだから言いたいことはわかる。でもこちら(男子)からすると楽しい奴のほうが好感が持てるので、男子人気が低いのも頷けた。
そして三つ目は、初めて会ったときのような弱々しい雰囲気は学校では一切出さないということだ。
登校前の送迎の車内では初めて会ったときのように俯いて暗く不安気な表情をしているのに、学校に着き車を降りた瞬間なにを考えているのかわからない無表情に切り替わり、顔を上げ背筋をピンと伸ばし堂々と歩き始める。
クラスメイトから何かしら突っかかれたりしても相手にせずすんとすましているから、なるほど、だから「スカしてる」か、と納得もしてしまった。
しかしクラスメイトたちは知らない。学校を出て車に乗り込んだ途端、また表情を暗くして俯いてしまうことを。その変わり様を初めて見たときは流石に二重人格を疑った。
普段も堂々としていたらいいのにと言ってみたけれど、やっぱりなにも答えず目を逸らされたため、それ以上追求することはやめた。
とまぁこんな感じで、蓮太郎くんはいろいろと不思議なムーブをかましている。
そんなことしているから反感を買うんだぞ、もっと上手く付き合っていけよと思わなくもないが、本人に変える気はなさそうだし、俺が助言してあげる義理もないので放置だ。これで蓮太郎くんが一生ぼっちになろうが、俺には関係ないことだしね。
父にどやされるから傍を離れることはないけれども。


―――


ボディガードになったというのに蓮太郎くんと一言も言葉を交わさないまま、数ヶ月が過ぎた。
幸いクラスメイトたちとも仲良くできているので、前の学校への未練もほとんどなく楽しくすごせている。
そして今日はそんなクラスメイトたちと校外学習のため、学校から少しだけ離れた大きな公園にやって来ていた。
授業としては、ペアになって公園に生い茂っている草花や木を観察しレポートを書くという、至ってシンプルな内容だ。
しかしペア、ということは、だ。先生方は当然、俺が蓮太郎くんのために転校してきたことを把握しているので、気を回して俺と蓮太郎くんが組むことを促してくる。そのため強制的に蓮太郎くんとペアになるわけだが、つまりは一言も喋らない蓮太郎くんと数時間行動を共にしければならなくなる。
授業とは言え、普段は学校の敷地内から出ることのない時間帯に外に出ているという非日常感にわくわくしていたのに、テンションはすっかり地の底だ。
けれども俺のテンションなど関係なくペアの活動は開始され、俺と蓮太郎くんは少しだけ距離を置きながら無言で一つの花壇を観察していた。
離れたところから、楽しそうなクラスメイトの笑い声が聞こえる。
いいなぁ、俺もああやって楽しい活動がしたかった。
こんなつまらない時間早く過ぎ去ってくれと願っても、時間を早送りにすることは当然ながらできないのでゆったりとした時間が流れていく。
ひとつため息を吐いてからちらりと横の蓮太郎くんを見れば、彼は首から下げたバインダーに挟んだレポート用紙にさらさらと鉛筆を走らせていた。
一人で書けるんだから、わざわざペアでやらなくたっていいよなぁ……。
不貞腐れた気持ちでなんとなくネコ絵を紙の隅っこに描く。
すると横から視線を感じそちらを見れば、蓮太郎くんが俺の紙をじっと見つめていた。たぶん、俺が隅っこに落書きしたネコを見ている。
落書きしてないでレポートを書けとかお硬いことを言われるのだろうか。なんて身構えた。
けれど蓮太郎くんは何も言わず、むしろ僅かに口元を緩めた。
ほんとうにごくごく僅かで笑っているのかすらも怪しいものだったが、ここ最近ずっと蓮太郎くんの真顔か暗い顔しかみていなかったからわかる。あれは完全に笑みを浮かべていた。
なんだ、ちゃんと笑えるんじゃん。もっとそういう顔見せたらいいのに。
蓮太郎くんはすっかりいつもの顔に戻って花壇に視線を戻しまたサラサラと鉛筆を走らせているが、なんとなく、彼の隣りにいることに先程よりも息苦しさを感じなくなったような気がした。

「おーい、けいたー!」

そろそろ俺も書きはじめるかと思い鉛筆を握り直したときだった。少し離れたところから名前を呼ばれ、振り向くとそこにはいつも俺を遊びに誘ってくれるクラスメイト二人がいた。どうやらあの二人でペアを組んでいたらしい。

「こっちで一緒に観察しようぜ!」
「えっ」

思いがけない誘いに驚きの声を漏らす。そして反射的に蓮太郎くんの方を見れば、一瞬手の動きを止めたがまたすぐに紙に鉛筆を走らせていた。
その反応を見て小さく息を吐く。
行ったらだめだとか、あいつらに注意するとか、そういうこともしないんだな。やっぱり蓮太郎くんにとって俺はいてもいなくてもいい存在なんだ。
まぁわかってはいたけどね。
俺は立ち上がり、蓮太郎くんをその場に置いてクラスメイト二人の方に駆け寄った。
自分の役割は孤立しがちな彼が危険な目に合わないように見守ることであると、ちゃんとわかってはいた。でも、まだまだ子どもだったとはいえ、あろうことか自分の気持ちを優先し、蓮太郎くんの傍から離れてしまった。
嬉しそうに笑った二人に迎え入れられ、さっきまでいた花壇から少し離れたところにある別の花壇を三人で観察し始める。
なんだかんだ蓮太郎くんが近くにいない状態で彼らと話をするのは初めてで、蓮太郎くんという枷がない状態に、俺はちょっとスッキリとさえしていた。
そうした状態で楽しく会話をしながらレポートを書き進めていたら、他のクラスメイトの女子二人がこちらに近付き声をかけてきた。

「あれ?圭太くん、蓮太郎くんと一緒じゃないの?」
「俺たちがあいつから圭太を助け出してやったの!」

女子の問いに、一緒に花壇を観察していた男子――村田が胸を張って答える。
問いかけた女子は目を丸くして、困ったように眉を下げた。

「助け出したって……蓮太郎くん、圭太くんに嫌なことしちゃったの?」
「俺たちは遊びたいのに、あいつが金に物を言わせて圭太をドクセンしてるから、圭太はそれにうんざりしてるんだよ」

なぜか俺の代わりに村田が答える。
俺、こいつにそんなことを言ったことあっただろうか。
たしかにうんざりはしかけているが、それは独占されているからじゃなくて、俺も楽しく遊びたいなと思っているからだ。
あと、金に物を言わせているって、なんのことだ?
蓮太郎くんの家は金持ちだけど、それを笠に着て俺を従えているわけじゃない。
もしかして、どこかで認識の齟齬が生じている……?
先生方は生徒にちゃんと説明もしてないのか?

「えぇ……?そうなの、圭太くん?」

考え込んでいた俺は女子からの突然の問いかけに咄嗟に反応できず、返答を考えている間に村田が女子の前に立った。

「つーか、お前に関係ねーじゃん」
「関係あるよ、クラスメイトのことだもん」
「また真面目ぶってさぁ。いちいち首突っ込んでくんなよ!」
「村田くんが蓮太郎くんのこと仲間はずれにするのが悪いんでしょ?」
「あいつにもう話しかけるなって言われたから、言われたとおりにしてるだけだ」
「私たちが毎回ケンカしちゃうから、蓮太郎くんも困っちゃってたんだよ。蓮太郎くんが悪いわけじゃない」

なにやら二人で言い合いを始めてしまった。
というか、話しかけるなって、蓮太郎くんが言ったのか?
この人たちが毎回ケンカしてたってどういうこと?
状況が読めず困惑していれば、もう一人いた女子がすっと俺に近づいてきて耳打ちする。

「村田のやつ、あの子が蓮太郎くんの肩持つのが気に食わないのよ。あの子のこと好きだから」
「え……?」
「圭太くんが転校してくる前までは、私たちで蓮太郎くんに結構話しかけてたんだけど、その度に村田が突っかかってきてケンカになるから蓮太郎くんが気遣っちゃって……もう話しかけるなって言われてからずっとこんな感じ。蓮太郎くん、口もきいてくれなくなっちゃった」
「…………」
「でも私たち……特にあの子はずっと蓮太郎くんを気にかけてるから、村田から蓮太郎くんへの攻撃が止まないの。周りも楽しんで村田に乗ってるし」

ほんと困ったやつらよねー、と呆れたように女子がため息をつく。
そうか、村田が俺をやたら遊びに誘うのは、俺の境遇を気遣ってとかではなく、蓮太郎くんを孤立させるためだったのか。自分の好きな子が違う男ばかり見ているのが気に食わないから。
孤立させられれば、俺が蓮太郎くんの傍にいる理由がなんだっていいんだ。むしろどうだっていいまである。理由なんかいくらでもこじつけられるし。
想像よりも自分勝手で幼稚な思考と行いに俺もため息が出そうになって、のみ込んだ。
……俺も、人のこと言えない。
蓮太郎くんは自分のせいで周りがケンカしてしまうのを防ぐためわざと一人になった。それでも度々自分のせいでケンカが起こるから、なるべく周りと関わらないよう、刺激しないよう我関せずを貫いている。
俺が転校してくる前の出来事だったとは言え、俺は何も知らず、もっと上手く立ち回ればいいのにとか思って、ひとり不満を募らせていた。
まぁ、圧倒的に言葉が足りない故いろんな人の反感を買っている部分があるからそこは直すべきだと思うけど。
でも、それを差し引いても俺たちはあまりにも子どもすぎた。客観的に見てみたらよくわかる。特に俺は、蓮太郎くんの両親からも直接任されている立場だというのに……。
……戻ろう。今は村田と一緒にいるべきではない。
立ち上がって、蓮太郎くんが観察をしていた花壇のほうを振り向く。

「あれ……?」

しかし、いると思っていた蓮太郎くんの姿がそこにはなかった。
慌てて元いた花壇の方に駆けて行き辺りを見渡してみても、付近に蓮太郎くんはいない。
移動した……というのは考えにくい。観察するものをここに決めて、レポートを書き進めていたから。
じゃあどこに行った?
もう一度辺りを見渡したとき、花壇付近の地面に一本の鉛筆が落ちていることに気が付いた。
これ、蓮太郎くんが使ってたやつだ。
じわりと嫌な予感が胸中に湧き上がる。

「圭太くん、どうしたの?」

先程、俺にいろいろことの成り行きを教えてくれた女子がこちらに駆け寄って来て首を傾げた。

「さっきまでここに蓮太郎くんがいたはずなんだ」
「そうなの?」

反応を見るに、彼女も蓮太郎くんを見てはいないようだ。

「トイレに行ったとか?」
「……俺、見てくる」

念のために鉛筆を拾い上げ、俺はトイレの方に向かって走り出した。
本当に、ただトイレをしに行ったのならそれでいい。
でも違ったら。
もしなにかに、巻き込まれていたとしたら……。

「ッ……」

俺はできる限りの全力を出して公園の小道を駆け抜けた。
そして一番近くの人気のないトイレ施設にたどり着き、男子トイレに駆け込む。
中に人の気配はない。個室も全部空いている。
すれ違いであの花壇のある場所に蓮太郎くんが戻ってしまったというのはまずないだろう。あそこからここのトイレは一本道だから、戻るには必ずその道を通らなければならない。蓮太郎くんがトイレに行ったのならば、俺とすれ違ってるはずだ。
あてが外れた。
とりあえず外に出て、次に探す場所を考えようとしたときだった。
ガサガサッと草同士が擦れ合う音が、トイレ施設の裏から聞こえた。動きを止め、耳を澄ましてみれば、僅かに話し声もする。
誰か、いるのか?
何もないトイレの裏に?
不審に思い、俺は足音をたてないよう裏に回り込む。
そこには、こちらに背を向けて立っている横に大きい男の人がいた。妙に息が荒くて汗をかいている。街中で見かけでもしたら不審者だって通報されかねない風貌だ。
ここで見かけても不審者には変わりないが。
やばいの見ちゃったな、と思いながら、バレないようにまた足音をたてずその場を立ち去ろうとしたとき。その男の影から、ちらりと見覚えのある服が見えた。
あれは学校指定の体操着。今自分が着ているものと同じだ。
心臓が嫌な音を立て、一気に汗が吹き出した。

「こ、声を上げるなよ、あ、あげたら、痛い目にあうぞ」

男がそう言うと、影になって隠れていた子が半歩後ろに下がる。
少しだけれどずれたおかげで、その子の姿がよく見え、ふと顔を上げたその子と目が合った。
その瞬間、俺は思いっきり男の股間目掛け足を振り上げた。

「ッぅおらぁ!」

不意打ちの股間蹴りをくらった男はその場に倒れ込み悶え苦しんでいる。
そのすきに男に迫られていた子――蓮太郎くんの腕を引っ掴んでその場を逃げ出した。
男のあの様子だと俺たちを追いかける余裕もないだろうが、俺は振り返ることもせず蓮太郎くんの腕を引っ張りながら必死に走った。
しばらく走って元いた花壇付近にまで戻ってくると、ただ事じゃない様子の俺たちを見た担任の先生がこちらに駆け寄ってくる。俺はそんな先生に息を切らしながらも蓮太郎くんが不審者に迫られていたことを説明した。
先生は目を剥いて、引率として同行していた副担任に警察に連絡するよう指示を飛ばす。そして散らばっていた生徒たちに集合するよう声をかけ、担任も何処かに電話し始めた。話の内容を聞くに、学校に連絡しているのだろう。
大人たちが慌ただしく動き出し、ようやく上がっていた息が整ったので深呼吸をしたところで、ずっと蓮太郎くんの腕を掴んでいたことに気が付いた。
様子を確認するため蓮太郎くんの方を振り向くと、彼はじっと俺を見ていた。そして目が合って、何かを言いたげに口を開くが音にはならず、諦めたように視線を逸らす。
この子はずっと……こんな状況であっても何も喋らないつもりなのか。

「なんで、助けを呼ばなかった」
「…………」
「周りに人はたくさんいた。助けを呼んでたら、あんな人気のないところに連れ込まれることもなかった」
「…………」
「そりゃ、俺も傍を離れたのはよくなかったよ。でももっとちゃんと自衛もできないと、この先ひとりで生きていけないぞ」
「…………」

俺が言葉を重ねるごとに蓮太郎くんは顔を俯かせていき、もうすっかり表情は見えない。いつもの調子に戻ってしまった彼のつむじを見つめながら、俺は大きくため息をついた。

「……ほんっと腹立つ」

ぼそっと呟いて蓮太郎くんから手を離したところで、副担任が呼んだ警察がやって来た。
クラスメイトたちは副担任に連れられ学校に戻り、俺と蓮太郎くんは担任と共に残って警察から事情聴取をされた。そして担任が呼んだであろううちの両親と蓮太郎くんの両親もほどなくして合流し、主に被害を受けた蓮太郎くんがだんまりだったため、更に詳しい聴取は後日ということになり、俺と蓮太郎くんはそのまま学校を早退することとなった。


―――


「お前はなにをやっているんだ!」

蓮太郎くんの家の広いリビングに、父の怒号が響いた。
あれから俺たちはみんなで蓮太郎くんの家に移動し、蓮太郎くんは彼の母親と自室に、俺は誠司さんと俺の両親にリビングで事の経緯を説明した。だから当然、俺が蓮太郎くんをひとりにしてしまったことも正直に話した。
それを聞いてからの、俺の父の怒号である。

「今の蓮太郎くんを外でひとりにするなんて……お前は自分の与えられた役割を理解していなかったのか!?」
「落ち着きなさい。圭太くんも怖い思いをしたんだ、そう責めてやるな」
「しかし……!誠司さんが俺たちのことを信頼して任せてくださっていたのに、それを最悪な形で裏切ったのですよ!」
「二人とも無事だったんだ。私はそれで十分だよ。それに過程はどうあれ蓮太郎を助けてくれたのは圭太くんだ。私はとても感謝している」

なお激昂するする父を誠司さんが微笑みを浮かべながらまぁまぁと宥めている。
誠司さんは、俺を責めるつもりはないらしい。自分の息子を危険に晒されたのだから殴られることも覚悟していたので、俺は若干拍子抜けしてしまった。

「圭太くん、蓮太郎を見つけてくれてありがとう。きみが見つけてくれなかったら、もっと大変なことになっていた」
「……いえ……事前に防げたこと、でした」

いくら蓮太郎くんが気に食わないからと言って、自分の役割を捨てて好き勝手するべきじゃなかった。納得はしきっていなかったとはいえ自分で選んだ道なのだから。
頭を下げて「すみませんでした」と言えば、大きな手が俺の頭をさらりと撫でた。
顔を上げると困ったように微笑んでいる誠司さんと目が合い、頭を撫でたのが誠司さんの手だったと気付く。

「謝らなければならないのは私の方だ。あの子の傍にいるのは大変だろう。感情表現が下手な上に、今は声が出せないから意思の疎通も難しい。……ただあの子もちゃんと、きみには感謝しているんだ。言葉で伝えられないことを、歯がゆく思っているようだよ」
「そんなこと……――え?」

本当はかなり大変だししょっちゅう苛立っているけれども、誠司さんの手前そんなことない、と否定しようとした。
しかし、誠司さんのとある言葉が引っかかって言葉を飲み込む。
そしてぱっと顔を上げた俺を見て、誠司さんがどうしたのと首を傾げた。

「声が、出せないって……?」
「え?」

誠司さんはさっき、「今は声が出せないから意思の疎通も難しい」って言った。それは当然話の流れからしたら蓮太郎くんのことだ。
蓮太郎くんは、声が出せない……?
俺の様子を見た誠司さんが、ほんの少し困惑の色を浮かべた。

「確か以前、説明をした気がするが……あぁ、いや、あのときの圭太くんは上の空だったから、聞いてなかった可能性もあったな」
「なっ……お前、あれほど重要な話を聞いてなかったのか!?」

父は驚愕の表情で俺を見る。
あのとき、とはおそらく俺が初めて蓮太郎くんに会った日のことだ。
誠司さんが言ったように俺は蓮太郎くんを観察したり考え事をしたりして、誠司さんの話を全く聞いていなかった。
どうなんだ、と問い詰めてくる父から、気まずさで視線を逸らす。それを正しく肯定と受け取った父は、盛大なため息とともに眉間を揉み込んだ。

「……圭太くん」
「は、はい」

誠司さんに名前を呼ばれ、今度こそ怒られる、と覚悟してそろりと顔を上げる。しかし誠司さんは相変わらず、穏やかな微笑みを浮かべていた。そして目を伏せ、その微笑みを少し悲しげなものに変える。

「蓮太郎は、誘拐のショックで声がでなくなってしまったんだ」
「……!」
「原因は心因性のものだから、正しいケアをしていればいつかは以前のように声も出せるようになると、医者は言っていた。だから私と妻はできる限りあの子の心の負担を減らそうと努力してきた。……しかしそれも限界がきた。私たち大人だけじゃ、あの子の心の傷を癒やしきれないんだ」
「……なぜ、ですか?」
「あの子が本当に求めていたのは、心から信頼の置ける友達だったからだ」
「!」

そこでふと、父の言葉が蘇った。

『今の蓮太郎くんには、精神的な意味でもすぐそばで見守ってくれる同い年の子が必要なんだ』

蓮太郎くんに会う前に言われたことだ。
あれは……そういう意味だったのか。

「あの子は昔から、不思議と人を惹きつける。そのため好意を向けられることもあれば反対に、悪意を向けられることも多くあった。……私もそうだった」
「…………」
「ときには地位や金目的の人に強請られ、ときにはすり寄ってきて利用するだけして、裏切られた。そんなことがあって、自衛のために近付いてくる人を拒否していれば攻撃されたし、名声を妬んでいわれのないことをたくさん言われもした。……蓮太郎はまだ幼いのに、私の息子だというだけで、そういう経験をたくさんしてきた。そうして心をすり減らし、誰も信じられなくなって……極めつけは誘拐未遂。結果あの子は更に、心を閉ざしてしまった」

当時を思い出しているのか、誠司さんは微笑みを消して厳しい顔つきになる。父も母も、表情を険しくしていた。

「蓮太郎は、学校では暗い顔をしないだろう?」
「は、はい」
「あれは、周りに弱みを見せないためのあの子なりの自衛なんだ。『敵』に付け込まれないためには態度で見せるのが一番だと結論付けたようでね。しかしそのせいで、余計に敵を作りやすくなってしまったが」

なるほど……。
普段と学校での二面性があると思ってしまうほどのあの変化は、彼なりの身を守る方法だったのか。
背筋を伸ばして、小学生とは思えないような大人びた表情をする蓮太郎くんの横顔を思い出す。
そうやって、気を張って過ごしてきたのだろうか。
ずっと、ひとりで。

「けれどそんな中でも、さっきも言ったように蓮太郎は信頼できる友達を欲していた。私もあの子にはそういう存在が必要だと思った」

そんなことを以前にも父に言われた覚えがある。
俺は話半分で、ろくに耳に入っていなかったけど。

「だから圭太くんには、見守るだけじゃなく、蓮太郎の友達になってあげてほしかったんだ」
「っ……」

蓮太郎くんが何も話さないのは、俺のことをどうでもいいと思っているからだと思っていた。話す価値もない、ただのボディガードだって。
でも違った。話さないんじゃなく話せなかった。
今思えば、何度もこちらを伺うように見ていた気がする。でも目が合うとすぐに逸らすから、俺は感じ悪いなとしか思わなかった。
本当は、何か言いたいことがあったのだろう。しかしそれを伝える手段もなかった。
……いや、俺がちゃんと聞いてあげればよかったんだ。もっとしっかり寄り添っていれば、文字でもなんでも、会話ができたはずなのに。俺がずっとよくない態度っをとっていたから、蓮太郎くんも何も伝えられなかったんだ。
父親に自分のボディガードであると俺を紹介され、蓮太郎くんはどう思っただろう。
周りは信頼できない者ばかりだったから、きっと俺のことも信頼はしていなかっただろうが、もしかしたら、友達になれるかもしれないと、希望を持っていたかもしれない。
でもその希望を、俺は潰した。やっぱりみんな同じだって、蓮太郎くんの心をさらに閉ざす行動をしてしまった。

「私のエゴで、きみにはたくさん我慢をしいてしまったね。本当に申し訳ない」
「っ、いいえ。俺が……俺が悪いんです」
「圭太くんは悪くないよ。……蓮太郎と離れたいと思っているなら、きみを元の学校に戻すこともできる。今回ばかりは、きみの気持ちを尊重するよ」

誠司さんは安心させるように柔らかく笑った。俺のせいじゃないって心の底から言ってくれている。
でも俺を元の学校に戻すということは、俺の任を解くということ。このまま頷いたら、俺は以前の生活に戻ることができるんだ。

「…………」

彼を気の毒だと思った。かわいそうな境遇に置かれていることも理解していた。でもずっと心の何処かで、自分のほうが振り回され我慢ばかりでかわいそうだと思っていたのかもしれない。
だから俺は常に暗い表情で俯いて、一番苦労しているのは自分であると言いたげな彼の態度に苛立ちを覚えた。
ご両親しか信頼できない環境にいたのだから、仕方のないことだったのに。
いつまでもひとりでいじけて蓮太郎くんに八つ当たりして……本当にどうしようもないやつだ、俺は。
勢いよく顔を上げ、目の前の誠司さんを見つめる。

「俺、蓮太郎くんと話、したいです……。蓮太郎くんに会ってきてもいいですか……?」

俺の言葉に誠司さんは目を丸くした。
けれどそれも一瞬で、すぐに優しい笑みを浮かべ「もちろん」と言ってくれた。
俺はリビングを飛び出して階段を駆け上がる。
うちよりも広い蓮太郎くんの家の二階はドアがたくさんあったけれど、廊下の一番奥のドアに「蓮太郎のへや」と書かれたプレートがかけられていたので、迷うことはなかった。
蓮太郎くんの部屋のドアの前で大きく深呼吸する。そしてぐっと気合を入れ、俺はドアをノックした。
すぐにドアが開き、蓮太郎くんのお母さんが顔を出す。蓮太郎くんのお母さんは俺の姿を見て、誠司さんと同じような優しい笑みを浮かべた。

「蓮太郎くんと話がしたくて来ました。入ってもいいですか……?」
「えぇ、もちろんよ」

にこやかに迎え入れてくれた蓮太郎くんのお母さんにお礼を言い、薄暗い部屋に足を踏み入れる。
蓮太郎くんのお母さんは気を遣って部屋を出ていったので、今現在室内には俺と、ベッドで横になっている蓮太郎くんだけだ。
緊張しながらも、壁際にあるベッドに近付く。
彼は目を閉じていたけれど、浅い眠りだったからか俺の気配で意識を浮上させてしまったようだった。
薄っすらと目を開け、瞬きを何度か繰り返した蓮太郎くんがこちらに顔を向ける。

「あ……その……起こしてごめん」

寝ぼけているのか、若干焦点の合っていない瞳がじっと俺を見つめた。なんだかんだ長い時間を共に過ごしているのに、初めてちゃんと真正面から彼の目を見た気がする。
それくらい俺は蓮太郎くんと向き合おうとしてこなかったのだ。
変わらずじっと俺を見つめる蓮太郎くんとしばし無言で視線を交わらせていたら、彼は不意に目を見開いて慌てて上体を起こした。
きょろきょろ辺りを見渡したあと、蓮太郎くんはそわそわと気まずそうに視線を彷徨わせた。今は俺と二人きりであると、ようやく理解したようだ。

「……蓮太郎くんと話がしたくて、入れてもらったんだ」

俺の言葉に蓮太郎くんは困ったように眉を下げた。
これまでの態度や言動から、蓮太郎くんは自分の声の事情を俺が知らないことは分かっているはずだ。だから、困った顔をさせてしまった。
俺は小さく息を吐き出し、拳を握りしめそして――蓮太郎くんに向かって勢いよく頭を下げた。

「今までごめんなさい!」

思っていたより大きな声が出て、蓮太郎くんがびくっと体を震わせた気配がした。
そろりと顔を上げ蓮太郎くんを見れば彼は大きな目を瞬かせこれでもかってくらい困惑した表情を浮かべていた。
そりゃそうだ。今まで真逆の態度をとり続けてきたんだから。

「俺、自分のことしか考えてなかった。蓮太郎くんの気持ちも考えず、ずっとひどい態度とったり、ひどいこと言ったりして……最低だった。たくさん傷つけて、本当にごめんなさい」

もう一度頭を下げると、蓮太郎くんが息を呑んだのがわかった。そして、探るような視線もびしばし感じる。
俺は頭を下げているから、今蓮太郎くんがどんな顔をしているのかはわからない。でもなにか反応があるまで、この後殴られたとしても、気まずくても、上げる気はなかった。
そして数秒の沈黙のあと。衣擦れの音と共に、俺の頭に何かが触れた。小さいけれどあたたかいそれは、何度か往復して頭を撫でる。
一瞬何をされているのかわからなかったけれど、少ししてそれが蓮太郎くんの手であると気付き、俺はがばっと顔を上げた。

「い、今……」

蓮太郎くんは俺の頭を撫でていた体勢のままきょとんとしている。
……許してくれる、ってことで、いいのか?
感情を読み取ろうとじっと見つめていたら、蓮太郎くんははっとしてベッドから抜け出す。そして勉強机に置いてあったノートを開き、そこになにやら書き始めた。
何を書いているんだろう。
気になって覗き込もうとしたら蓮太郎くんがこちらを振り返ってきて、開いたノートを見せてきた。
そこには整ったきれいな文字で『俺もごめんなさい』と書かれていた。

「え……?」

驚いて蓮太郎くんに目を向ければ、彼はまたノートに何かを書きそれを見せてくる。

『俺もずっと圭太くんにひどいたいどとってた、ごめんなさい』

蓮太郎くんも、俺と同じように頭を下げた。
慌てて頭を上げさせると、またノートにペンを走らせる。

『今日、たすけてくれてありがとう』
「お礼を言われること、してない。俺が傍を離れなければ、蓮太郎くんが怖い思いすることもなかった」

俺の言葉に蓮太郎くんがかぶりを振る。

『自衛できないといけないっていうのは、圭太くんの言った通り。俺にききかんが足りてなかった』
「…………」
『めいわくかけて、ごめんなさい。圭太くんもこわいおもいしたよね』
「俺は、全然……。蓮太郎くんに、ケガがなくてよかった。……助けを呼ぶのも、今の蓮太郎くんには難しい話だったのに、デリカシーないこと言っちゃった」
『そんなことない。圭太くんの言ったことは正しいよ。俺も変な意地はって、みんなを遠ざけていたから、自業自得』
「……そういう雰囲気を作っていたのも俺たちだから」

たぶん今のクラスメイトたちは、蓮太郎くんが声を出せないことを知らない。以前村田が、「せっかく話しかけてやったのに」って騒いでいたのを覚えている。
あえて伝えていないんだろう。あのクラスの感じを見たらそういう判断をするのも頷ける。きっとそれをネタにして突っかかってくるだろうから。
そして今日の出来事も遅かれ早かれクラスメイトたちの耳に入り、蓮太郎くんのことが気に入らない男子、特に村田が何かしてくる可能性が非常に高い。ここぞとばかりに、もっとひどいことをしてくるかも。
そんなことになったら、蓮太郎くんを守れるのは事情を知っている俺だけだ。

「……蓮太郎くん」

蓮太郎くんに向き直ると、彼は首を傾げて俺を見た。

「これからちゃんとするから、俺にもう一度、チャンスをくれませんか」
「…………」
「今度こそ蓮太郎くんを守るって、約束する。だから、お願いします!」

目に気合を入れて懇願するように蓮太郎くんを見つめる。目を丸くした蓮太郎くんだったが、すぐに気を取り直してノートにペンを走らせた。

『こちらこそ、よろしくおねがいします』

そして見せてくれた新しいページには、相変わらずきれいな文字が並んでいた。
受け入れてくれたことにほっとしたのと、今度こそは間違わないとひとり「うおー!」と叫びながら気合を入れていたせいで、蓮太郎くんが笑顔を浮かべていたことに俺は気付かなかった。


―――


あれから数日、いろいろ進展があった。
まず、俺は正式に蓮太郎くんのボディガードを続けられることになった。
俺がまだ続けたいとみんなに言ったとき、主に俺の父が任を解くべきだと反対していたが、誠司さんの説得と蓮太郎くんの俺のことを信じてみたいという言葉(正確には文字だったけども)で父もとりあえずは様子見でと許してくれた。
ただし、蓮太郎くんの隣りに立っても恥ずかしくない人間になる、という条件つきで。
自分自身、人間力が足りないと今回の一見で痛感したので、内面的に成長するいい機会だと思い条件を呑んだ。
誠司さんと蓮太郎くんはそこまでしなくても……という感じだったが、俺は父と共に気合を入れた。
その後、俺と蓮太郎くんは今までできていなかったいろんな話をした。
俺も今まで感じてきたことを伝えたし、蓮太郎くんも思ってきたことを伝えてくれた。
蓮太郎くんは誠司さんが言っていたように、俺と友達になれたらと少しの期待をしていたらしい。でも自分から関わりに行って、これまでのように裏切られたり利用されたりしたらどうしようと、怖くて一歩踏み出せずにいた。それに加え俺の決して友好的とは言えない態度もあったから、あぁ無理なんだなと察して、諦めていたのだという。
けれど、心のどこかでまだ、ほんのちょっとだけ、話くらいできるかもと期待してる自分がいた、とも言った。
自分で言うのもなんだが、仲良くできるような雰囲気を作れていたとは思えない。そんな俺と話くらいはできるかもなんて、どうして思えたのだろう。

『俺のこと嫌いなはずなのに、ずっと横にいてくれたのは圭太くんが初めてだったんだ』

俺の疑問に、蓮太郎くんはそう答えてくれた。
そして、父たちに頼まれていたからだとしても、学校内や放課後も自分を放って遊びに行くこともできたはずなのに、嫌な顔をしつつも横にいてくれた。授業で組まされるペアも、嫌だと言葉にできたはずなのにしなかった。自分の思い違いでなければ、こんな自分にも優しさを向けていてくれていたのではないか。とも言った。
たしかに蓮太郎くんの言った通り、蓮太郎くんを放ったらかしにしてしまったら父にどやされるが、バレなければよくて。蓮太郎くんの性格上報告もしないだろうから、よっぽどのことがない限り父にバレることはなかったと思う。
実際、バレなきゃいいじゃん考えたときはあった。
けれどぐっと我慢して、大人たちの言うことをきいていた。
でもそれは優しさじゃない。
蓮太郎くんのせいで自分の自由はなくなってしまったが、彼も自分の関係のないところでいろいろ巻き込まれ自由に動けないかわいそうな子なんだという同情心があったからだ。
だから、彼のことは苦手だったけど、どうにも放っておけなかった。
まぁ結局自分の気持ちを優先して蓮太郎くんを危険な目に遭わせてしまったのだが……。
だから、俺は純粋な優しさを持って蓮太郎くんの横にいたわけじゃない。
そう言って蓮太郎くんの言葉を否定した。
しかし蓮太郎くんは、『それでも、少し救われていた部分もあった』と、お礼まで言った。
本当に、そこまで言われるようなことをしていないのに。
分不相応すぎて困ってしまったが、でもちょっとだけ嬉しさもこみ上げてきて、熱くなった頬を隠すように俯きながらも、今度は素直に彼の言葉を受け止めた。
他にも、互いの懺悔以外に他愛無い話もたくさんした。好きなものとか、嫌いなものとか。今更な自己紹介みたいな話を、たくさん。
俺やクラスメイトたちが思っているほど、蓮太郎くんはつまらない人じゃなかった。俺の知らないことをたくさん知っているし、反対に蓮太郎くんが知らないことを俺が話したら興味深そうに耳を傾けてくれる。
境遇が邪魔して見えていなかっただけで、本当は好奇心旺盛な普通の男の子なのだと、はじめて知った。
あと、照れ屋でちょっと素直じゃないところもあるのも知った。
俺の知らないことを、文字と身振り手振りでいろいろ説明してくれて、「蓮太郎くんは物知りですごいね」って素直に褒めたら、『別に、普通だろ』なんて言って、わたわた視線を彷徨わせながら頬を染めていた。
こういうかわいい反応をするってこと、なんで今まで知らなかったんだろう。
なんて、ちょっと悔しく思った。
それと、蓮太郎くんをトイレ裏に連れ込んで迫っていた不審者については、ちゃんと警察に捕まったと知らせがあった。
あのときは必死だったから自分がどれくらいの力で股間を蹴り上げたのかは全く覚えていないんだけど、相当強く入ったみたいで、警察がトイレ裏を見に行ったときもまだ地面に転がって悶え苦しんでいたらしい。ざまぁない。
あとあの不審者は、蓮太郎くんを変な目で見ていたただの変態だったということもわかった。
まぁ見た目的に誠司さんを恨んでいるとか競合他社の人とかではなかったので、そうなんだろうなと予想はしていた。
蓮太郎くん、見た目が中性的で小学生離れしているからああいうのも呼び寄せてしまうらしい。父や誠司さんが言っていた、「狙われやすい」とか「人を惹きつける」というのは、ああいう輩も含めてだったんだな。
より俺が守らないと、なんて使命感に燃えてしまった。



そんなこんな諸々ありつつも、少しの間学校を休んでいた俺と蓮太郎くんは、何日かぶりに登校した。
誠司さんはもう少し休んでもいいんだよと言ってくれていたけど、これ以上休むと行きたくなくなるかもしれないからと蓮太郎くんが登校を希望したため学校に行くことになった。
正直言うと、俺は結構心配している。
襲われていない俺も当時の状況を思い出してちょっと身震いしてしまうくらいだから、直接被害にあった蓮太郎くんもトラウマになっていてもおかしくない。
実際、うまく眠れていない日もあるようで、ここ最近の蓮太郎くんは寝不足気味だ。それゆえ誠司さんももう少し休んでもいいと言っていたわけなのだが、彼は結構頑固なところがあるので問題ないの一点張りだった。最終的にはその頑固さに押し切られて、とりあえず様子見でと渋々大人たちが許可した形になった。
蓮太郎くん、大人しそうに見えるけど自分の意思をしっかり伝えたり曲げなかったりするんだ。
新たな一面を見られて嬉しいと思う反面、ちゃんと話を聞いてあげられてたらいろいろ拗れずすんだんだろうなと少し落ち込んでしまった。
そんな後悔を心に仕舞いつつ、俺は蓮太郎くんと共に、登校する際のちょっとした作戦を考えた。
きっとクラスメイトたちはあの日何があったのか粗方知っていると思う。どんなに隠したって、どこからか情報は漏れるものだ。
なので、クラスメイトに余計な詮索はされたくないという蓮太郎くんの気持ちを汲み、彼に目がいかないようとりあえず俺が先に教室に入ることにした。言ってしまえば囮だ。今のクラスの雰囲気的に俺のほうが人を集めやすいからね。
そして俺がクラスメイトの注目を浴びているうちに、蓮太郎くんがこっそり教室に入るっていう算段だ。もし誰にも話しかけられなかったらそれはそれ、蓮太郎くんにもチャイムが鳴ったと同時に普通に教室に入ってもらう。単純だけど、これが一番蓮太郎くんに負担がないやり方だ。
そうしてホームルーム開始のチャイムが鳴るぎりぎりに登校して、蓮太郎くんを廊下で待たせつつ俺は先に教室に足を踏み入れた。
何も言われないのが一番楽でよかったんだけど、やっぱり、みんな俺たちになにがあったのか知っていたようで、案の定クラスメイトたちに囲まれてしまった。
でも一応これが目的だったわけで。俺はみんなを教室の真ん中辺りに誘導していき、質問攻めにあってもチャイムが鳴るまでのらりくらりと躱していった。
ほどなくしてチャイムが鳴り、蓮太郎くんもこっそり教室に入り無事に自分の席に座ったのを見届け俺はほっと息を吐く。何人かは蓮太郎くんが教室に入ってきたのに気付いていたけど、チャイムも鳴っていたしでみんな自席に戻っていった。
その後は特に何の問題も起きずホームルームとそのまま一限目の授業が終わった。
さて、問題はここからだ。
蓮太郎くんの体調は大丈夫か、様子を見るために蓮太郎くんの席の方を向こうとしたときだった。

「お前、ヘンタイに襲われたんだって?」

そんな声が教室に響き渡った。
声の方を振り向けば、そこには蓮太郎くんの席を取り囲むように立っている男子数人とニヤニヤと笑う村田がいた。
さっきの言葉は、村田が言ったんだ。

「男なのに男に襲われたんだろ?うげー、きもちわりー!」
「なぁなぁ、どんなことされたんだ?ちんこ触られちゃったのか?」
「っ、おい!」

俺は慌てて取り囲んでいた男子たちを押しのけるようにして間に入った。

「なんてこと言うんだお前らは!」
「な、なんだよ、いきなり」

止められると思っていなかったのだろう、村田は面食らった顔をして少し後ずさった。
話を聞いたクラスの男子たち、特に村田が、蓮太郎くんによくない絡み方をするんじゃないかというのが、俺が一番懸念していたことだった。そして案の定、こんな最低な絡み方をしている。
元々よくなかったけど、この絡み方は群を抜いてよくない。こんな最低なことあるか?

「言って良いことと悪いことの区別もわからないのか!?」
「べ、別に、なにされたのか聞いただけじゃん。なぁ?」

村田が周りに賛同を求め、周りの男子たちもうんうん頷く。
その反応に、言いようのない苛立ちが腹の底に溜まる。

「どうしたんだよ圭太、急にこいつのこと庇って。もしかして、またいいように使われてるのか?最低だな、お前!」
「違う。蓮太郎くんは一度も俺をいいように使ったことなんかない」

俺の後ろにいる蓮太郎くんに向かってまた攻撃しようとしたから、俺はこちらに意識を向けさせるべく村田に一歩近付いた。
ようやく俺がいつもと違う雰囲気なのを察したのか、村田は困惑して視線を彷徨わせている。
しばらく関わってみてわかったが、村田は俺に対しては強く出て来ない。なぜかいつも顔色を伺うように見てくる。理由はわからないしわかりたくもないが、いい機会だ。これ以上問題を起こさせる前にこちらが強く出て抑えつけるしかない。

「前から思ってたけど、蓮太郎くんが俺をいいように使ってるとかいう話、一体誰が言ったんだ?俺はそんなこと一度も言った覚えないけど」
「だ、だれって……み、みんな言ってるよ……」
「だから、誰が言い始めたんだって聞いてるんだよ。俺が言ったんじゃなかったら言い始めたやつがいるはずだよな」

村田は忙しなく視線を彷徨わせ、周りの男子やことの成り行きを見守っているその他のクラスメイトたちは互いに顔を見合わせていた。
もう予想はついているが、そこはハッキリさせておかないといけない。
村田が何かを答える気配がないので、村田の横に居た、校外学習のとき村田とペアを組んでいた男子に誰が言い始めたんだと問いかける。
その男子は怯えたようにびくっと肩を震わせたけど、おそるおそる、村田に目を向けた。

「ぼ、ぼくは……村田から、聞いた……」
「なっ……」

更に隣りにいた男子に聞けば、そいつも村田と答えた。教室の隅の方で傍観している別の女子に聞いたら別のやつの名前が出たが、そこも元を辿ってみたら全て村田に行き着いた。
もうこれだけで答えが出てる。
みんなの答えを聞いて、教室内は熱くも寒くもないのに村田はだらだらと汗をかいていた。

「で、お前は誰から聞いたんだ?」
「っ……」

拳を握って俯いてしまった村田の姿を見て、俺は思わずため息をつく。これ以上聞いたってこいつからはなにも出てこないだろう。もう付き合う必要もない、こちらが心をすり減らすだけだ。
蓮太郎くんの方を振り返れば、彼は少し不安気な表情で俺を見上げていた。
こんな状況で引き続き授業を受けさせるのは蓮太郎くんのメンタル的にもよくない。今日は早退させてもらおう。
そう考え、俺は「保健室に行こう」と蓮太郎くんを椅子から立ち上がるよう促し、蓮太郎くんも大人しく椅子から立ち上がった。
が、次の瞬間。蓮太郎くんが目を見開いたかと思ったら、俺をドンッと横に突き飛ばし、そのすぐあとに机や椅子が倒れる音と、周りから悲鳴が上がった。
よろめきはしたがたいした力でもなかったのですぐさま体勢を立て直し、何事かと蓮太郎くんの方を見る。
俺の目線の先には、男子に羽交い締めにされている村田と、先程まで立っていたのに、顔を手でおさえて床に尻もちをついている蓮太郎くんがいた。
すぐに、村田が蓮太郎くんを殴ったのだとわかった。
いや、違う。
俺を殴ろうとして、蓮太郎くんが庇って“俺の代わりに”殴られたのだ。
目の前が、真っ赤になった。
気が付いたら羽交い締めにされている村田の胸ぐらを掴み、腕を振り上げていた。
しかし、誰かが俺の体に抱きついてきて、その腕が村田に振り下ろされることはなくすんでのところで留まる。
抱きついてきた人に顔を向ければ、彼は目に涙をためつつも力強く鋭い瞳で俺を見ていた。

『絶対に手を出すな』

言葉はないのに、目だけでそう言っているのがわかった。
頭がクリアになり体から力が抜けていく。
――そうだ。カッとなって手を出したら、こいつと同じになる。同じところまで自分で落ちて行っちゃ、だめだ。
俺は大きく息を吐き出し、心を落ち着けてから振り上げていた腕を下ろす。そして、睨みつけながらも村田から手を離した。

「な……な、なんだよ……なんなんだよ……!圭太だって、こいつのこと笑ってたじゃないか!」

村田が必死に叫んだ。仲間を募ろうと、周りにも同調を迫っている。
俺は、蓮太郎くんのことは気に食わなかったけど、決して笑ったりなんかしてない。
……でも、結局は俺も同じだった。傷ついている蓮太郎くんを、見て見ぬ振りしていた。

「あぁ、最低だった。だからもうしない。俺はもう、蓮太郎くんを傷つけない」

それからもう一度大きく息を吐き、蓮太郎くんの手を取る。その手が少しだけ震えていて、もう一度湧き上がりそうになる怒りをなんとか抑え込む。

「今後二度と、蓮太郎くんを使ってコンプレックスの発散をするな。次したら絶対に許さない」
「ッ……!」

村田だけでなく、これまで率先して蓮太郎くんをいびっていたやつらも息を呑んだ。
これ以上は何も言うことはない。

「保健室に行く。先生には伝えておいて」

近くにいた女子にそれだけ告げて俺は蓮太郎くんを連れて教室を出た。
無言で保健室まで行き、在室していた養護教諭に事情を説明して入れてもらうと、養護教諭は俺に氷嚢だけ渡し諸々連絡してくると言って慌てて保健室を出て行った。
他に休んでいる生徒もいなかったので、蓮太郎くんにベッドに座るよう促せば大人しく従ってベッドに腰掛けてくれた。
改めて真正面から見た蓮太郎くんの左頬は、殴られたことにより赤くなっている。
蓮太郎くんの頬にそっと氷嚢を当てれば、痛かったのか、それとも冷たかったのか、少し顔を歪めた。

「……なんで、俺のこと庇ったりなんかしたの」

俺の問いかけに、蓮太郎くんは視線をこちらに向ける。

「俺なら、殴られたって平気なのに……」

本当は俺が守らなければならない立場だった。それなのに、蓮太郎くんに守られて、ケガまでさせてしまった。
しかも、痛かっただろうに、目に涙を溜めながらも怒りで我を忘れた俺をも止めてくれた。
俺は村田を逆上させただけで何もできなかったのに。
落ち込んで、思わず俯いてしまったとき。蓮太郎くんが俺の空いている方の手をすくい上げた。そして手のひらに指を添わせ、何かを書き始める。

「へ、い、き、じゃ、な、い……?」

書かれた文字をなんとなくで口に出せば蓮太郎くんはこくこく頷いて続けて文字を書く。

『なぐられたらいたい へいきじゃない』

はっと顔を上げると蓮太郎くんが俺をじっと見つめていた。
殴られたら痛い、平気じゃない、って……。

「そんなの、蓮太郎くんも同じだよ。蓮太郎くんが殴られても痛いし、平気じゃない。だったら俺が殴られた方がいい。俺のほうが丈夫だもん」

氷嚢を頬に当てているというのに、蓮太郎くんはぶんぶん顔を横に振って否定する。
大人しくしてって氷嚢を当て直そうとしたんだけど、更に俺の手を引き寄せて手のひらに指を当てた。

『いたいおもいしてほしくない』
「だからそれは、俺も同じで……」
『なぐるのもなぐられるのもぜったいだめ じぶんをたいせつにして』

ぎゅっと強く、手を握られた。
悲しさと、ちょっとの怒りを孕んだ視線が俺を射抜く。
――あぁ、そうか。
蓮太郎くんは、咎めてくれてるんだ。
自分が痛い思いをしたほうがいいともとれるような発言と行動を。
蓮太郎くんが俺を庇ってケガするくらいなら、俺が殴られたほうがいいし殴り返すこともやぶさかではないけど、蓮太郎くんには自己犠牲に見えてしまったんだな。
確かに、俺も蓮太郎くんの立場だったらそう思ってしまうかも。自分なんかのためにって。
俺また、蓮太郎くんの気持ち考えられてなかったな……。

「……ごめん。もうそんなこと言わないし、誰かを殴るようなこともしないよ」
「!」

蓮太郎くんはぱっと表情を明るくして安心したように息を吐いた。
しかし俺も譲れない部分はあるので、「そのかわり!」と蓮太郎くんの目の前に小指を差し出す。

「蓮太郎くんも俺を庇うようなことはもうしないで。俺も蓮太郎くんが痛い思いするの、嫌だから。約束ね?」

俺の言葉に彼は目を丸くし、俺の顔と差し出した小指を交互に見たあと、小さくこくりと頷いた。そしておそるおそる、といった感じで俺の小指に彼の小指が絡められる。二人で指切りをして、お互いに手を離したとき、蓮太郎くんは少し頬を染めて照れくさそうにしていた。
ずっと仲のいい子がいなかったと聞いたから、こうやって指切りするのは初めてなのかもしれない。
そう思ったら嬉しさがこみ上げてきて、自然と口元が緩んだ。
けれど蓮太郎くんはそんな俺の表情には気付かず、何かを思い出したようにはっとしたかと思ったら俺の手を取り、手のひらに指を沿わせて文字を書いていく。

『ありがとう』
「え?……なにが?」
『またたすけてくれたから』

――だから、ありがとう。
俺の手に視線を落としていた蓮太郎くんが顔を上げて、大きな瞳と目が合った。
そしてその目を細め、優しく、綺麗な笑みを俺に向けてくれた。

「っ……」

気が付いたら、俺は蓮太郎くんを力いっぱい抱きしめていた。
なぜかはわからない。
なんだか、胸の中に言いようのないあたたかいモノがぐわって広がって、そうしたらたまらなくなって、抱きしめていたんだ。
腕の中で蓮太郎くんがものすごく困惑しているのがわかる。でも許してくれ、俺もかなり動揺しているんだ。
離れなきゃと思うのに、どうしてか、服越しに伝わってくる蓮太郎くんのぬくもりが異様に心地よくて離れられない。
ヒーリング効果のあるオーラでも出ているのだろうか……?

「その……なんか、ごめん……」

離れないくせに、なんとなくで謝罪の言葉を口にすれば、蓮太郎くんがもぞもぞ動き出して俺の背中に手を当てた。そして落ち着かせるように背を撫でられ、また胸の中にあたたかななにかがじんわりと広がる。

――守らなきゃ。
少し気が強いけど、人一倍臆病で、不器用で、でも誰よりも優しくて……芯のある真っ直ぐなこの子を。
ひどいとをした俺を赦して、抱きしめてくれるこの子を。
体を張って俺を守ってくれた、この子を――。
強く、ならなきゃ……。
この子に庇われなくてもいいくらい強く。
そしてもう絶対に、誰にもこの子を傷つけさせたりしない。
他の誰でもない、この俺が。蓮太郎くんを守るんだ。
全身から伝わる彼のぬくもりを感じながら、心のなかでそう、決意した。


―――


そんな事件のあと、すぐに村田と村田の両親が蓮太郎くんの家に謝罪に来たらしい。村田は誠司さんにこってり絞られたようで大人しくなり、自然と積極的に蓮太郎くんをいびっていた男子たちは俺たちに絡んでこなくなった。
そのためか最近の蓮太郎くんはストレスもそんなになく、学校を出ても暗い顔をしなくなった。いい変化である。
ちなみに、村田から俺の家にも謝罪に行きたい旨の連絡はあったが丁重にお断りした。だって俺は村田に謝られるようなことはされていないからね。蓮太郎くんにちゃんと謝ってくれたのなら、それでいい。
あと、クラスメイトたちがちょっとずつ蓮太郎くんに話しかけるようになった。
蓮太郎くんはまだ声が出せないので俺が何かとフォローしつつではあるが、頷いたりと反応を示すようになったので以前よりは絡みやすくなったようだ。これもいい変化である。
蓮太郎くんと他の人が絡んでいるのを見ると少し、いやかなりのドス黒い感情が胸中に渦巻くが、いたって静かに見守っている。変なことするなよ、という気持ちの籠もった視線を送りながらだけれども。
俺はとても寛容なのである。
そうした緩やかな変化があった日々を過ごしていくうちに、蓮太郎くんが声を出せるようになった。
二人で蓮太郎くんの部屋で遊んでいたら、いつもは静かに肩を震わせるだけの蓮太郎くんが、声を出して笑ったのだ。驚いて彼を見たら、本人も笑い声が出たことに驚いていて大きな目をぱちくりさせていた。試しに俺の名前を呼んでみてくれと頼めば、久しぶりに喉を使ったからカスカスで小さかったけれど、でも確かに彼は、彼の声で「けいた」と言った。
そのあとはもうお祭り騒ぎだ。
俺が蓮太郎くんを抱え上げわっしょいわっしょい大喜びして、そのまま階下のリビングにいる蓮太郎くんの両親のもとまで連れて行って「しゃべりました!」と報告した。蓮太郎くんの声が出るようになったことよりも、まるで赤子が初めて言葉を発したときのような俺の興奮のしようのほうの面白さが勝り爆笑されてしまったが、ちゃんと蓮太郎くんが「おとうさん、おかあさん」と言って喜ばせていた。
言葉を交わし、心の底から嬉しそうに笑い合っている親子を見て、俺はちょっと泣きそうになってしまった。



蓮太郎くんの声が出るようになって、クラスメイトたちともちょっとだけど会話が増えた。
声をかけても頷くとか首を横にふるだけだったのが、ちゃんと受け答えしてくれるようになったのが嬉しかったのか、積極的に話しかける人が出始めたのだ。蓮太郎くんも、自分きっかけのケンカがなくなったから話しかけられても無視、ということはしなくなった。まだ警戒は解いていないので、俺と話しているような気軽な感じではないけれど。
関わる人が増えても、蓮太郎くんの中では自分は特別な位置付けのままなのだとわかって嬉しい。
……でも、他の人との会話が増えるのと比例して、俺の中に渦巻く黒い感情が肥大していくのを感じる。
その感情の正体がわからないまま、蓮太郎くんに近付く人を警戒したり牽制したりしていたら、クラスの女子から「圭太くん、過保護すぎるよ、ちょっと控えたら?」と笑われてしまった。
過保護……なつもりは全然ないんだけどな。
だって俺が蓮太郎くんを守るのは当たり前のことだし。蓮太郎くんも、迷惑してるようには見えないし。
でも本当は、迷惑と思っていたりするのかな……?

「え?迷惑?そんなこと思うわけないじゃん」

不安になって蓮太郎くん本人に聞けば、あっけらかんと言われた。むしろ、急に何言ってるんだ、って怪訝な顔をされてしまった。

「ほんと?俺、うざいとかない?」
「ない。俺のためってわかってるし」
「そっか……よかったぁ」

蓮太郎くんは、いい意味で俺に気は遣わない。うざくないっていうのも本心だろう。
ほっとして胸を撫で下ろせば、そんな俺を見て蓮太郎くんが険しい顔をした。

「もしかして誰かに何か言われたのか?」
「あー、その……クラスの子に、過保護すぎだって言われて。そんな自覚なかったんだけど、そのせいで蓮太郎くんに嫌な思いとかさせてたらいやだなと思っちゃったんだ。でもそうでないならよかった」

しかし、安心する俺とは反対に蓮太郎くんはむむむと眉間のシワを深くしていく。
なんか、怒ってる?
理由がわからず首を傾げれば、彼はむっとした表情のまま腕を組んだ。

「他人に言われたことでいちいち不安になるな。俺が嫌がっているかどうかくらい、圭太ならわかるだろ」

その言葉で、思わず目を見開く。
蓮太郎くんの声が出るようになってから、俺たちの間には前以上に会話が増えた。その会話の数と共に過ごす時間が、そのまま信頼の形になって、蓮太郎くんの中では俺は身内以外の唯一の信頼できる人間になっている。
先程の「圭太ならば」という発言も、俺を信頼しているからこそのものだ。
それが伝わってきて、俺の口角が喜びにより綻んでいく。

「うん……そうだね。いらない心配だった」

よっぽどだらしない顔をしていたのか、ニヤニヤするな、なんて言われてしまった。
でもあの、誰にも心を開かず近付けさせなかった蓮太郎くんに信頼してもらえてるんだ。ニヤニヤしないほうがおかしい。
たぶんそんなことがあってから、俺は更に蓮太郎くんを注視するようになったと思う。彼が今何を思い、何を感じているのか、言われなくてもわかるように。
ただ、本当になんでもわかっていると蓮太郎くんに知れたら警戒して隠されてしまう可能性があるので、わからないふりをするときもあるのは、本人には内緒だ。



とまぁそんなこんな、蓮太郎くんとの友情を深めていって数年。このまま何の問題もなく蓮太郎くんと友達として平和に過ごしていけると思っていたのだが、思いもよらない事件が起きた。

「蓮太郎くんに告白したんだけど……」

中学生になってしばらくたった頃。
放課後の委員会の仕事を終え、俺のことを自身のクラスで待ってくれている蓮太郎くんを迎えに行こうと早足に廊下を歩いていたときにそんな声が聞こえたので、思わず足を止める。
声がしたのは、丁度廊下を曲がった先にある階段辺りから。放課後はよく階段横で女子がたむろっているのを見たことがあるから、もしかしたらその人たちかもしれない。
しかも今、蓮太郎くんに告白した、って言った……?

「マジで?どうだった?」
「……ダメだった」
「えーうそ!?結構いい感じじゃなかった?」
「うん、そう思ってたんだけど……」

そこで言葉を切り本格的に泣き出してしまった女子を、一緒にいた女子たちが慰める声が聞こえる。
結構いい感じって、どういうことだ?
小学校では俺と蓮太郎くんは卒業するまで同じクラスだったが、中学は一年目からクラスが離れてしまった。なので蓮太郎くんの普段の学校生活を見る機会はかなり減ってしまったのだが、聞いた感じ蓮太郎くんは相変わらず友達がいないようだった。人見知りだし、話すのも得意じゃないから友達ができにくいのである。
だから、いい感じと言っている女子がいることに、ひどく驚いた。
確かに蓮太郎くんは女子から人気がある。顔がすごくきれいだからね。ただそれは表立ってじゃなく、隠れファンが多いという意味だ。主に観賞用である。
なので蓮太郎くん自身も自分が実は人気があることに気が付いていない。友達いないし、俺もあえて伝えていないから知る由もない。
そんな感じだから、まさか直接アタックする人がいることに思った以上に驚いてしまってる。
俺が知る限りじゃ、初めての告白じゃないだろうか。
まさか、オッケーしたんじゃ……っていや、今振られたって女子が言っていただろ。どうした俺、落ち着け。
なぜか焦っている心を落ち着けるため小さく息を吐く。
とりあえず聞いてませんふうを装って急いで女子たちの前を通り過ぎ、待たせている蓮太郎くんのもとへ急いだ。
合流した蓮太郎くんは、特に変わった様子もなくいつも通りだ。校門で待っていた送迎の車に乗り込んでも、話す内容もいつもと変わらない。
本当に、告白されたんだろうか。でも蓮太郎って名前、うちの学年だと一人だけだしな。
告白って、されたら少なくとも少しの間はそのことばかり考えてしまうもんじゃないのか?
俺はこう言っちゃなんだがモテる方なので、告白されようが今となっては心が揺れ動くことはないが、小学校低学年くらいは浮かれたもんだったぞ。
実はめちゃくちゃ動揺してたりする?
いやでも、この顔は動揺してる顔じゃなくて……。

「おい、さっきからなんだ」

蓮太郎くんに顔を押し返されはっとする。
じーっと凝視しすぎて、知らず知らず距離が近くなっていたらしい。
ごめんと距離をとり、けれどちらりと隣りを見れば、蓮太郎くんも俺を見ていてため息をつかれる。

「言いたいことがあるなら言え」
「う……」

そりゃなんかあるって気付くよな。
でも思春期の俺たちにとってはセンシティブなことだし、聞いてもいいのだろうか……。
とうじうじ迷っていれば強めのデコピンをされたので、大人しく先程聞いた話をすれば、蓮太郎くんは「あぁ……」と呟き小さくため息を吐いた。

「確かに告白された。なんだ、そんなこと聞くのを迷ってたのか」
「そりゃ迷うよ、センシティブなことだもん。……その、ちゃんと断ったんだよね?」
「あぁ」
「はっきりと?」
「あぁ。無理って言った」

言い方は若干強いが、それだけはっきり拒否すればまた絡んできたり再挑戦してきたりはしない、か。
よかった……。

「ていうか、告白されたんなら言ってよ」
「はぁ?なんで」
「だって、蓮太郎くんが変な輩につきまとわれないか心配だもん」
「そこは圭太が警戒してるだろ」
「事前に知っとくのも大事なの。はぁ……これからはそういうのも注視しとかないとなぁ」
「大丈夫だろ。今まで告白してきた奴はみんな俺と距離置いてるし」
「……え?」

今まで、告白してきた奴……?

「今回が初めてじゃないの!?」

ずいっと距離を縮めると、蓮太郎くんはびくっとして少しずつ離れていく。でもちゃんと「あぁ……」って頷いたから、俺はさらに距離を詰めて蓮太郎くんの肩を掴んだ。

「いつ!?誰に!?」
「いつ、かは覚えてない、けど、中学生になってからだ。……みんな、同じ小学校だった人たちだよ」
「……ま、マジで?」

同じ小学校だった人で蓮太郎くんに想いを寄せてそうだったのは何人か思い当たる。でも余計なことしないようちゃんと牽制したし大丈夫だと思っていた。まさか、俺が近くにいないのをいいことに蓮太郎くんと距離を詰めようとしたのか?

「なんで教えてくれないの!?」
「なんでって……知らない人じゃないんだし、大丈夫だよ」
「そうだけど、教えてよ!大事なことだよ!」
「別にいいだろ。なんでそこまで知りたいんだよ……」
「っ、そんなの、蓮太郎くんを――」

取られたくないからに決まってるだろ。
と、口をついて出そうになり、俺は咄嗟に口を閉じた。
取られたくないって、なに?
え、俺、なんでそんなこと言おうとしたんだ?
というか、待って、これまでの俺の思考もおかしくないか?
蓮太郎くんが告白されたって聞いて、すごく動揺した。蓮太郎くんといい雰囲気の人がいたってことも驚いて、すごく焦った。でも断ったって聞いてすごく安心した。告白した人が他にもいたって聞いて、それに異様に焦って、なんだかムカついた。言ってくれない蓮太郎くんにも、ちょっとムカついた。
なんで?
蓮太郎くんが言ったように、告白されたとか断ったっていうのは本来は言わなくていいことだ。
でも俺は知りたい、知っとかなきゃいけないと思った。
……なんで?

「お、おい……どうした?」

さっきまで騒いでいたのに急に黙り込んでしまった俺を心配して、蓮太郎くんが顔を覗き込んできた。心配げに揺れている瞳と目が合う。
こんな顔するのも、不器用でなのも、素直じゃないのも、本当は優しいのも、知っているのは俺だけでいい。蓮太郎くんを、取られたくない。
――蓮太郎くんが、好きだから

「……な、なんでも、ない」

至った結論にほうけながらも、なんとかそれだけ言って大人しく座り直す。
蓮太郎くんは目を丸くしたあと怪訝な顔をしたけど、やっぱりまだ心配げに俺を見ていた。
でもごめん、今は何も答えられない。
……俺って、蓮太郎くんのことが好きだったの?
確かに蓮太郎くんのことは好きだよ。でも蓮太郎くんだけじゃなくて自分の父や母、蓮太郎くんの両親も好きだ。
けれど……違う。身内たちに感じているのは、蓮太郎くんに感じているそれとは、明確に。
いつから?
わからない。
でも思い返せば、小学生のときに蓮太郎くんと他の人が関わっているのを見てモヤモヤしていた頃から、俺はちょっと変だった。だって他の人にそんなこと感じたことなかったもの。
じゃあ俺はずっと、あの頃から、蓮太郎くんに近付く人に嫉妬していた……?
というかもしかして、蓮太郎くんをかわいいって思ったりするのも、いろんな一面を見れて嬉しくなったりするのも、彼からの信頼を感じるだけで天にも昇る心地になるのも、彼のことなんでも知りたいって思うのも、俺が蓮太郎くんをそういう意味で好きだから?

「えー……?」

なんで今気付くんだ、さすがに遅すぎないか?
鈍すぎにもほどがある。
え、どうするの?
いろいろやばくないか、蓮太郎くんを好きって。
父も誠司さんも、俺を信頼してこれまで蓮太郎くんのボディガードを任せてくれていたのに、下心があるとばれてしまったら、その信頼を裏切ってしまうわけで。
……俺、蓮太郎くんと離れなければならないのか?

「おい、圭太……ほんとに大丈夫か?」

蓮太郎くんにぽんと肩を叩かれはっとする。
隣りを見れば蓮太郎くんは相変わらず心配げな表情でこちらを見ていて、いつの間にか入っていた体の力がすっと抜けていくのを感じた。
蓮太郎くんのために、蓮太郎くんから離れる。
俺が離れてしまったら蓮太郎くんは、どうなるのだろう。
彼は彼なりに、うまくやっていくのだろうか。
そして、俺が知らないうちに、俺の知らない誰かの傍で、俺に見せてくれているような笑顔を浮かべ、幸せになる。そんな未来が、おとずれるかもしれない。
――そんな……蓮太郎くんの隣りに俺がいないなんて、そんなの……絶対嫌だ。

「……大丈夫」

俺の肩に触れていた蓮太郎くんの手を握り、そう笑いかける。

「ねぇ蓮太郎くん。これからは、告白されたとか、その他の些細なことでも、何でも俺に報告してね」
「でも……」
「ね?約束して」
「……わ、わかったよ」

俺の圧に負けた蓮太郎くんは、ちょっと納得してなさそうな顔をしていたけど、最終的にはため息をついて頷いてくれた。
表向きはいつも通りの笑顔を浮かべながらありがとうと言えば、彼はひとつため息をつきつつも「仕方のないやつだな」なんて呆れたように笑った。
好きだと自覚してしまえば、そうやって笑ってくれるだけで俺の胸の中に広がるあたたかいものが“愛おしさ”であるとすぐにわかった。
俺にこんな感情を抱かせるのは、後にも先にも蓮太郎くんくらいだと、確信を持って言える。
そして、蓮太郎くんにいろんな顔をさせるのも、この先もずっと俺でありたい。
だから俺は……蓮太郎くんの傍に居続けたい。なにがなんでも。どんな手を、使ってでも。



俺は考えた。どうしたら蓮太郎くんの傍にずっといられるか、と。
蓮太郎くんの両親に俺の好意を悟らせないのは必須だが、他には何が必要になるだろうか。
とりあえず手始めに、俺は蓮太郎くんの行動を常に把握するべくそれらしい理由をつけて蓮太郎くんのスマホを貸してもらいGPSアプリをインストールした。あと蓮太郎くんの部屋にお邪魔させてもらい一人きりになったすきに盗聴器も設置した。これで俺がいない間の私生活も把握可能だ。
バレれば一発警察案件ではあるが、バレないよううまくやるしかない。
あとはそう、物理的な距離の話だ。
蓮太郎くんはそうそう他人に流されることはない。俺を必要ないと思えば彼はあっさりと距離を置いてしまうだろう。そうされてしまっては打つ手はなくなる。
じゃあどうするか。答えは簡単だ。
蓮太郎くんの方が俺から離れられなくしてしまえばいい。
運良く蓮太郎くんには俺しか友達がいない。
本人の境遇や周り、あらゆるものを利用して蓮太郎くんを俺にずぶずぶに依存させて、自ら俺の腕の中に堕ちてくれば、あとは優しく抱きしめて甘やかしてあげる。
逃さないよう、大事に、大事に。
そうと決まれば蓮太郎くんの周りの掃除からだ。
彼に好意を寄せている人、興味を持っている人には全員“お話”をして、間違っても手を出さないよう牽制した。面白いくらい誰も蓮太郎くんに近寄らなくなったが、元々一人になりがちだったので本人は何の違和感も抱かなかった。このときほど蓮太郎くんに友達がいないことに感謝したことはない。
ボディガードは中学までで問題ないと誠司さんからも言われたときはさすがに焦ったけど、そこは俺の執念でなんとかごり押しして続けさせてもらい、高校の進学先ももちろん同じにした。
勉強に関しては、本当は俺はそこそこできるので蓮太郎くんにちょっと手伝ってもらえれば受験も何ら問題なかった。わざわざできないふりをしているのは、蓮太郎くんに泣きつくことで「仕方ないな」って呆れ顔をしつつも満更でもないかわいい顔を見ることができるからである。そこには邪念しかない。
無事に高校に入学できたところで、俺は次のステップに移った。
これまでは友達として距離を縮めてきた。蓮太郎くんも順調に俺を特別視している。しかし俺は友達という関係におさまるつもりは毛頭ない。
蓮太郎くんにも、俺を男として見てほしいのだ。
だから俺は、蓮太郎くんに好きだと告白した。
拒否されるかどうかは、正直賭けだった。
先にも述べたように蓮太郎くんは他人に流されることはない。たぶん両親や俺に対してもそうだろう。
蓮太郎くんにとって、俺は誰よりも特別な存在だ。それは断言できる。だが、かと言って告白を受け入れられるかどうかは別問題だ。
俺に男としての魅力がなければ断固とした拒否を受けるのは間違いない。そうすれば振り出しどころかマイナスからのスタートだ。
初めての告白でいろんな意味でドキドキするとは思っていなかったが、俺の不安は意外にも杞憂に終わった。
蓮太郎くんも満更でもなかったらしい。
以前から意識させるような言動や行動を心がけてきたかいがあったというものだ。
蓮太郎くんの気持ちに寄り添い、とりあえず恋人(仮)という形におさまったが上々である。本番はここからだ。
高校は中学以上にいろんな人に出会う。
蓮太郎くんは自分に向けられる好意にはいっとう疎く聞いても意味はないので、自分なりに観察して警戒するしかない。あとなるべく、学校内で会話するのは俺だけのほうがいい。昼休みも何処かに連れ出して二人きりの状況を作らなければ。
そうして探し出したのが体育館裏だった。
絶好のたまり場なのか、はじめは人が何人かいた。体育館を使っている部活の人たちだそうだ。しかし、ちょっとの抵抗はありつつも、その人たちとも少し“お話”をして、無事に体育館裏を明け渡してもらえた。話のわかるいい人たちばかりで安心した。
こうして、蓮太郎くんとはクラスが違うので授業の合間や授業中の様子を見ることは難しいが、なんとか朝と昼と放課後は常に俺といる形を作ることができた。
恋人(仮)になってから、手を繋いだり程度ではあるが接触も増やしていった。
蓮太郎くんも順調に、俺を意識していってくれていると思う。
でも、あともう一歩先に進みたいと、俺は思った。
恋人(仮)ではなく、本当の恋人になりたい。
そしてそれは俺からでなく、蓮太郎くんの方から気持ちを伝えてほしい。俺のエゴでもあるが、蓮太郎くんが心の蓋を開けて、自分から言葉にすることに意味がある。
そうしたら俺も蓮太郎くんをこれでもかってくらい甘やかすことができるのだ。
なにか、いいきっかけはないだろうか。
そう思案していたときに、蓮太郎くんがクラスメイトの女子二人から勉強を見てほしいと頼まれた。
とんでもなく、ナイスタイミングだと思った。
蓮太郎くんが断りきれなくて、その二人に勉強を教えると予想していたら、案の定そうなった。しかも俺に報告もせずに。
俺も気付いていながら何も言わなかった。だって黙っていたほうが、隠し事をしているという罪悪感を煽ることができるから。
蓮太郎くんの部屋を盗聴しているから、いつ、どんな内容の話をしているのかは把握できているのでそこにはなんの不安もない。
蓮太郎くんが勉強を見ている二人が蓮太郎くんのかわいさに気付いてしまったのだけは大いに不満だけども。
あとは時期を見極め、俺が行動を起こす。
丁度しつこく言い寄ってきていた女子がいたから、そいつを利用しよう。
その女子も周りも、きーきーうるさくてすっごく面倒だけど、蓮太郎くんを本当の意味で手に入れるために必要なことだ。
俺が他の人間に気持ちが移っていると思わせることができれば、今の蓮太郎くんであれば自然と、こちらに堕ちてくる。
一人で出かけることを予定していた蓮太郎くんのあとをGPSを使って追い、女子もそこにわざと誘い出して鉢合わせるよう仕組んだ。
そして計画通りに俺たちを目撃した蓮太郎くんは、抱えていた気持ちをさらけ出してくれた。
全て俺の手のひらの上とも知らずに、まんまと傷ついて、不安な顔をしてる。俺の言動や行動で一喜一憂しているのがたまらなく嬉しい。
俺の予想以上の、独占欲ともとれる言葉もくれた。
――あぁこの子はなんて……なんてかわいい生き物なんだろう。
気が強くて真っ直ぐな芯を持っているくせに、不器用で、天邪鬼で、臆病で、単純で……誰よりもかわいくって、仕方がない。
こんな俺なんかに捕まって、かわいそうに。もう逃げられないね。
でもそんな不憫なところも、とってもかわいいよ。
ただ、勘違いしてほしくないのは、俺は決して蓮太郎くんを傷つけたいわけじゃない。
傷つけるのも、不安にさせるのも、もうこれっきり。
今この瞬間からは、うんと甘やかしてあげるんだ――。


―――


困惑している蓮太郎くんの腰を抱きながら、俺は彼を近くのホテルの一室に連れ込んだ。
ここがどういう場所だかよくわかっていない蓮太郎くんは、珍しい内装の部屋を興味深げに眺めている。
頭はいいのに世間知らずな部分のある愛おしい彼を、優しく、けれどもしっかりと、逃さないよう、後ろから強く抱き込む。
蓮太郎くんがびくっと身を固くした。心なしか、触れている部分の体温が上がったような気もする。
ここ最近は顔を合わせる時間がなかったから、当然ながら触れるのも久しぶりだ。
相変わらず華奢で、あとちょっと力を入れたらあっさりと折れてしまいそう。
盗聴で声だけは聞いてたけども、蓮太郎くんと会えない期間は本当にきつかった。もうあんな経験はしたくない。
久しぶりの蓮太郎くんを堪能するべく、彼の首筋に顔を埋め思いっきり息を吸い込む。いつもの甘い体臭に混じって、ほんの少し汗の匂いがした。

「あ、の、圭太……っ、くすぐ、ったい……」

ピクッと体を跳ねさせるのがかわいくて、いたずらのつもりで首筋に唇を這わせれば、「ひょわぁ!?」なんて変な声を出して俺の腕の中で暴れ出す。もう限界らしい。
初心なところも、愛おしくてたまらない。
これ以上はキャパオーバーして倒れてしまうかもと思い大人しく解放した途端、蓮太郎くんはばっと距離をとり手で首をおさえながら真っ赤な顔で俺を睨んだ。

「な、な、なにするんだ!」
「なにって……大好きな恋人との触れ合い、みたいな?」
「だっ、こっ……!」

散々好きって言ってきたのに未だに慣れない蓮太郎くんは顔を更に赤くさせ口をぱくぱくさせている。
これ以上からかったら質問に答えてくれなくなりそうだから、ここまでにしよう。こういう触れ合いも、徐々に慣れさせていけばいい。俺は我慢強い方だからね。

「ねぇれんくん。俺たち、仮の恋人じゃなくて、正式な恋人になるってことで、いいんだよね?」
「っ……」

俺の言葉に蓮太郎くんが肩を震わせ俺から視線を逸らした。
先程の自分の発言を思い出しているのか、視線を彷徨わせながら顔を青くしたり赤くしたりと忙しない。
ちょっと時間がたったから冷静になってきてるのかも。ここは俺が背中を押そう。

「もしかして、好きって言ってくれたの、嘘だったの……?」
「う、嘘じゃない!嘘じゃ、ないけど……」
「けど?」
「あ、あの子は、本当に……なんでもないのか?」

あの子……?
あぁ、さっきまで一緒にいた子か。
蓮太郎くんのことしか考えてなかったからすっかり忘れていた。
でもそうか、蓮太郎くんにとっては浮気相手と言っても過言じゃないのでどうしても気になるよね。
でも大丈夫、蓮太郎くんが不安なこと、全部話して。その全てを俺が払拭するから。

「たまたま居合わせただけで、本当になんでもない。しつこく付きまとわれて、困ってたくらい」
「……でも……あの子、たしか学校で、圭太といい感じって、言ってた子で……」
「話す機会はたしかに多かったけど、でもそれだけだよ。ただのクラスメイト。誓って何もない。俺が好きなのは、後にも先にもれんくんだけだから」
「っ……じゃあ、なんで最近、俺じゃなくてあの子のところ行ってたの?」
「周りの人たちからも話聞いてやれってしつこく言われてたんだ。本当は拒否したかったけど、したらしたで癇癪起こされて本当に面倒で……一番丸くおさまるのが気が済むまで話聞くことだったんだ」
「じゃあ、それ言ってくれればよかったじゃん。俺にはなんでも報告させようとするくせに!」
「れんくんに余計な心配かけさせたくなかったんだ」
「か、関係ないって、言った……!」
「うん……ごめん、その一件でちょっと苛ついてて、思わず言っちゃった。でも言うべきじゃなかった、ごめんなさい」

素直に頭を下げた俺を見て、蓮太郎くんが息をのむ。
そろりと顔を上げれば彼は目に涙を溜めて、でもそれをこぼさぬよう懸命に堪えていた。

「……ほんとうに、なにもない?」
「本当の本当になんにもない。俺はれんくんを裏切らない」
「このさきも……なにもない?」
「ない。俺が好きなのは、これまでもこれからも、れんくんただ一人だから」

とうとう堪えきれずこぼれた涙が、蓮太郎くんの頬を伝う。
手を伸ばし、その雫を指で優しく拭えば、彼の方から俺の胸に顔を埋めた。

「もう、どこにも行くな」
「うん」
「不安にさせるな」
「うん」
「ずっと俺のそばにいろ」
「うん」
「ずっと俺を……好きでいろ」
「うん、当たり前だよ」

蓮太郎くんの背中に腕を回し、先程よりも強く抱きしめる。
すると蓮太郎くんも俺の背に震えながらも腕をまわしてくれて、程弱い力で抱きしめ返してくれた。

「俺を、蓮太郎くんの彼氏にしてくれる?」
「……してやっても、いい」

くぐもった声でそう言われ、俺は思わず吹き出した。
相変わらず素直じゃない。
でもそれが、本当に、この上なく、かわいいんだ。

「ありがとう。……これからもよろしくね、れんくん」

愛おしい彼が、小さく、けれどもたしかに頷いた。
胸の中が、あたたかいもので満ちていく。
これからは毎日毎日、これでもかってくらいの愛を囁やこう。もういらないって言われても、お腹いっぱいになっても、たくさんの愛をあげるんだ。
蓮太郎くんからも、時々でいいから言ってほしいな。
そうやっていつまでも、おじいちゃんになっても、天国に行っても――ずっと二人で、歩いて行こうね。